ホーム



第20回 君子の和声学


「ハリス・ツイードは本来、海に乗り出してゆく漁師の海衣として、ルイス島やハリス島をはじめとするスコットランドのヘブリディズ諸島に住む女たちが作り出したものだ。、、、19世紀初頭にイギリスのスザーランド侯爵夫人がこの島へ旅行し、漁師の着ていた布地に興味を持った。、、、素朴で易しい雰囲気をを持つツイードは、生活着としてだけでなく、都会の中で着ることによって、さらに魅力が倍化される。(林勝太郎『紳士の服装(ワードローブ)』小学館サライショトルシリーズより。)

ファッションのことなど何も分からない奴が、いきなりこんな引用から始めてしまった。左の絵は、引用した本のすすめに従ってツイードジャケット(ガンクラブ・チェック柄)にコーデュロイのパンツを合わせて書いてみた。左右のバランスがちょっと取れてないなー。しょせん素人絵だ。

このツイードといい、セーターといい、もともとは地方で作られていた伝統的衣装だった。それをイギリスの上流階級がロンドンに持ち込んで、現代紳士の服装として認められるファッションに昇格したという。例えばセーターは元々実用的服装だったのが、皇太子時代のエドワード8世(エリザベス女王の伯父)がゴルフ場にフェア・アイル・セーターを着て表れてからファッションとして認められたという。エドワード8世はセーターだけでなく、ネクタイの結び方のウィンザーノットも開発した。さらに、高く盛り上げるそのタイ結びに合わせるため、シャツも襟を広く開けたワイドスレッド・カラーを登場させたのであった。イギリス国王はいちいち政治に口をはさまないが、流行には大いに口をはさむ。その意味でエドワード8世はまさに象徴的なリーダーとして働いた ― ファッションの面では。だが後に離婚歴のあるシンプソン夫人と結婚しようとしたのは、ちょっと困った。英国国教会は信徒に離婚者との再婚を禁じていた。その教会の長たる国王が率先して離婚者と再婚していいのだろうか?― それは人の模範たる君主のなすべきことではない。エドワード8世は即位したその年に退位した(1936)。

儒教を持ち出さなくとも、為政者とは人に見られてなんぼの存在なのだろう。君主たるものは、流行のリーダーでなくてはならないのだ。わが国でも院政時代の上皇たちはそれをよくわきまえていた。後白河法皇は蔑まれていた白拍子たちを呼び寄せてまで今様(いまよう)の楽を学び、『梁塵秘抄』を編纂したものだ。後鳥羽上皇は和歌の最先端文化で武家を圧倒しようと、『新古今和歌集」を公家の総力を挙げて作った。いつからだろうか。日本で人の上に立つ君子たちが流行を率先しないどころか、顧みもしなくなったのは。

英国ファッションというのは何も全く新開発のものではなくて、多くはヨーロッパの各地方にあった伝統的な服装を時々の洒落者たちが持ち込んで定番にしてしまったものだ。ダッフルコートは、ベルギーのダッフルという街の生地で作った漁師用コートが由来で、これを「モンティ」ことモントゴメリー将軍がダンケルクからの撤退時に着たことあたりから海軍の防寒着として採用され、戦後に民間で流行したものだという。フェルト製のやわらかいホンブルグ・ハットは、エドワード7世(エドワード8世の祖父)がオーストリアのチロル地方から持ち帰ったものだという。ざっくりとしたアラン・セーターは、アイルランド西部の荒涼としたアラン諸島が発祥だ。現代服と伝統服が連続しているから、このような伝統の再発見ができる。東洋ではもはやほとんど不可能なことだ。香港に行っても、漢人は日本人と全く同じような服装を着ている。

ファッションというのは、各地の文化を組み合わせることによって君子が奏でる和声学のようなものなのだろう。礼に応じた型があり、そして時にそれを打ち破る洒落者がいる。洒落者の作った新しい和音は、次の時代の基本となって伝統に組み入れられるのだ。燕尾服と並ぶ夜の正装であるタキシードも、19世紀末にグリズウォールド・ロリラードという裕福な若者があえて燕のしっぽを切った奇抜な服で夜会に登場した革命から始まったという。ファッションの歴史も調べるとなかなか面白いのだが、そもそも「着る」実践から遠い私があまり語ることではないな、、、、



≪ 今回のイチオシ ≫
林勝太郎『紳士の服装(ワードローブ)』




上のファッションの話は、ほとんどまるごとこの本を参照にしたものだ。ブリティッシュ・トラディショナルの権威であった。実は私の義理の叔父であった。残念ながら、血液癌で亡くなった。今回のイチオシは、彼のこの本を取り上げたくて書いたようなものだ。私は彼の仕事について何も語れないほど無知であったが、この本を読めば彼の目が確かなものであったことだけは、わかる。




< 前へ  「イチオシ」トップへ戻る  次へ >