私はね、実はリアルタイムで『北斗の拳』を毎週追っかけ読みしていなかったんですよ。つまんないと感じていたから。
ありゃ!(サモト)
だって、せっかくラオウとトキとの兄弟決戦で盛り上がって、さあ残るはケンシロウ×ラオウの最後の闘いだ〜!、って思ったら、何か「五車星」なんていういかにも連載をひきのばすために無理やり出した五人戦隊が出てきて、もうすでに分別ある歳だった私は編集部の浅ましさにゲンナリしてしまったんですよ。ここまでハイテンションで来たんだからきれいに終わらせてやれよ後○○喜氏よ、、、って、がっかりしてしまって。それで当時のジャンプには取り立てて面白い作品がない「端境期」だったんで、ジャンプごと読むのをやめました(後から見れば五車星編はジュウザにウサ(えっ?)という好キャラクターを生み出した点で評価できるが、全体としてやはり筋運びに無理がありすぎる)。84年〜86年頃は当時新興の勢いが感じられた「ビッグコミックスピリッツ」を中心に読んでいました。そのうち「ビッグコミックスピリッツ」もメジャーになってしまって人気取りのいやらしさが出てきたと感じて読むのをやめ、その後は「花とゆめ」でした。
私が再び(一時的に)またジャンプを追っかけ読みするようになったのは、87年に入ってからでした。「聖闘士星矢」が当時の「花とゆめ」誌上で他誌にも関わらず異常なほど引用されてヘンに感じたことをきっかけに、「JOJO」第二部の驚異の面白さを発見してハマッてからでした。ただこの頃にはもう読みたいマンガを選んで読むようになっていて、昔のように雑誌を隅から隅まで読むことはなくなっていたが。だから連載終了直前の『北斗の拳』が載っていた号も手に取っていたはずなのだが、読んだ記憶がない。
そんな私が『北斗の拳』に改めてハマッたのは、ずっと後になって愛蔵版(全15巻)が出てからのことだった。
どういうきっかけで手に取ったのかはもう忘れた。だが、やはり気にはなっていたのだ。ラオウとの対決後も長々と闘い続けたケンシロウの行く末のことが。そういうわけで愛蔵版9巻〜11巻を買った。ラオウ最終決戦の末尾から天帝編を経て、修羅の国のハン戦直後までだ。天帝編前半はつまらなかった。作者が無理して書いているのが分かった。たぶん人気があまり出なかったためだろう、当初ラスボスとなるべき巨悪として書かれていた金色のファルコが急転して諸般の事情によりケンシロウとすぐに闘うようになった。だがケンシロウ×ファルコの戦闘シーンは見ごたえがあった。個人的には、天帝編で見るべきものはほとんどこの最終決戦だけだと思う。TVアニメではアインが非常に効果的に描かれているということだが、私は見ていないのでなんとも言えない。
その後すぐに舞台は修羅の国へ。なし崩しの展開だった。だが勢いがあればプロットなどはどうでもいい。まさかのファルコの惨敗、強烈なキャラクター「砂蜘蛛」(他称)、愉快すぎる雑魚「砂時計のアルフ」と息を継がせぬ展開が始まった。この時期は追っかけ読みしていてもよかったかもしれない!
そして私個人として「修羅の国」編の頂点だと思うのは、第三の羅将ハンとケンシロウとの大勝負である。
『リングにかけろ』の竜児×剣崎戦ばりの、常人には見えない拳の交し合い。
互いに拳を当てることすら難しいぎりぎりの攻防。
地上20メートルは飛んでいるかと思われる空中戦。そこで放たれるラオウの思い出の拳、『天将奔烈』。その後はきっちり人型のクレーターを残して地面にめり込むハン様のやられ芸の美学。
最後は念力まで使った超能力戦に移行する。とどめは徐々にハンの視神経の自由を奪っていたケンシロウの仕込みが功を奏して勝負あり。
5週分に渡る死闘はまさしく『北斗の拳』全体で見ても屈指の名勝負であり、『北斗』世界の住人であったならば金を払ってでも観戦したかった勝負の一つである(「ぷちっ!!」と崩れた石像につぶされて死ぬ可能性大だが、、)。ケンシロウ×ラオウの最終決戦なんか、最後はただのノーガード殴り合いで横で見ていてつまらなそうだしね。
あえて言うならば、ハン戦以降の「修羅の国」編は、大きく広げた伏線をつなぎ合わせるのに汲々としたグロテスクなパッチワークであって、面白さは大きく落ちる。人気も落ちたに違いない。それでも『北斗の拳』は「修羅の国」以降もケンシロウの後継者育成からバットとリンの行く末まで書き切ることが許された。これはジャンプ長期連載マンガでは稀有なことであって、最も幸福な作品の一つである。(最後まで書けなかった『聖闘士星矢』、いきなりトーナメントを中断させられた『魁!男塾』、逆に不自然なほど無理やり引き伸ばされた『DRAGONBALL』などに比べれば、、)
本当は「北斗の拳」はラオウの死で終わらせるのが最も美しかった。ラオウの死以降の後期『北斗の拳』の最大の罪は、あれほど印象深かったキャラのトキの位置付けをぼろぼろに壊してしまったことだ。だから後期『北斗の拳』は蛇足である。だが蛇足は蛇足なりに見どころを随所に残し、全てを解決させてきれいに終わった。だからこのマンガについてはキャラクターについて多くを語りたくなるのである。「修羅の国編」終了後のリュウ編やボルゲ編なんか意外と長い。(かつては)人気が出なければ有名作家の新作でも10週で打ち切る非情の競争主義雑誌ジャンプでよくこんな外伝っぽいストーリーを続けられたものだ。だがもし人気を無理に維持しようとして新展開を始めていたならば、おそらく「聖闘士星矢」みたいにストーリーの途中で突然死させられていたであろう。きれいに終わらせることを許した当時の編集部にしては珍しい我慢に、「北斗の拳」は救われた。
リハク「四千年前に邪悪の拳として北斗宗家によって北落師門(フォマルハウト)と南極老人(カノープス)に封印された拳、「北門霊拳」と「南極蒙拳」が解き放たれた!南極蒙拳の蒙王はユリア様の兄!」ケンシロウ「そして北門霊拳の霊王はラオウの父!」、、、なんてことにならなくて、本当によかった。
そんな後期『北斗の拳』の中で、ハン×ケンシロウ戦は私にとって後期最大のヤマ場である。最後「伝達の赤水」によって赤く染まった河に流されて、ハンの遺体は下流のヒョウの居城に流れ着いた。
ヒョウの部下「羅将ハン様のご遺体が流れ着きました!」
ヒョウ「称えよ!」
おそらく最後の力によって破壊を体の内部だけに留めたハン様のご遺体は、生前そのままの安らかな死に顔であった。城中にまで引き込まれた運河に流れ着いたご遺体を称えるために、左右に参列したヒョウの部下たちは各々手に持った白い旗を赤水にざんぶと浸からせて、水で真っ赤に染め上げた旗を掲げて迎える。『北斗の拳』でこれほどゴシック的な様式美に満ちたシーンが他にあるだろうか。ラオウ来襲を国中に伝えるために放たれた「伝達の赤水」はまるでこのハンの最後を称えるために作られた仕掛けであったかのようだ。死に汚くもなく天に帰り、ケンシロウの「強敵」(とも)の記憶にも出てこないハンは、何も残さずに笑って去っていった北斗史上最高のニヒリストであった。
赤水濤濤夜下河 赤水濤濤、夜河を下る
襤褸蜂起襲修羅 襤褸(ボロ)は蜂起し、修羅を襲えり
流着者洪御遺體 流着するは、洪(ハン)の御遺体
左右驍將唱挽歌 左右の驍将(ぎょうしょう)、挽歌を唱す
「第三の羅将」ハンとは何者だったのだろうか。
彼はその後うっとうしいほど展開される「北斗宗家」の因縁話に一切絡まってこない。
ジュウケイの弟子であり、ヒョウが義兄弟と思う男であることは描かれているが、カイオウとの関係は全く不明である。
だが、ジュウケイが自分の弟子たちについて語るとき、「ハン、ヒョウ、カイオウ」の順番で列挙しているので、おそらくヒョウ、カイオウの兄弟子であったのだろう。ケンシロウが赤子であったことを回想しているので、ラオウ少年が修羅の国を出港したときにはすでに少なくとも年齢は少年以上、当時の事情を詳しく知っているのでカイオウ・ラオウよりかなり年上であったのではないか。ジュウケイが三人の弟子に北斗琉拳を教え始めたのはラオウ少年を送り出した以降であるので、ジュウケイがラオウ少年たちの出港以降に「この地でも乱世を力で制する拳が必要だ」と決意して「北斗琉拳道場」を開設し、まずハンが入門してその後にヒョウ、カイオウを入門させたと考えられる。ラオウ・ケンシロウの出港を見送っているので、おそらくハンはジュウケイ近辺の人物だったのであろう。それ以上のことはわからない。
ハンは孤高の拳士である。
彼は側近からは恐怖され、周囲に侍らせている女たちからは毒を盛られるほど嫌われていた。
女から嫌われるほど、彼は周囲に対する人間的な感情が乏しかったのであろう。
あえて非情を装っているのであれば、女は男よりもよっぽどそれに気付くものなのである。トウがラオウの情に気付き、リンがシャチの情に気付いたように。それすらない、ということは本当に情が枯れ果てていたのであろう。見かけと違って、彼はダンディーでは決してない。
だがただの人間嫌いの独裁者ならば、毒見のために愛犬を平気で殺したりするだろうか。意外と独裁者という者は、人間を信じない代わりに動物を溺愛したりするものなのである。ヒトラーが犬を溺愛したように。それが人間というものである。毒見のために愛犬を殺すという、狗法眼ガルフなら卒倒しそうな所業を平然と行うハンは、性格異常者であるか、あるいは情を何か強烈な意志で殺しているかのどちらかであるに違いない。そしてどうしようもない甘ちゃんであるがそれゆえ情は奥底に残っているヒョウに兄と思われているところから、ハンは少なくとも性格異常者ではなかったと私は思いたいのであるが、、
つまり、彼は思想家である。思想を最優先に置くが故に、情を殺してそしてそれを完全に正しいと確信しているのである。
カイオウは結局のところ母の死に傷ついて憎悪の心を太らせ、弟ラオウへの思いを逆立ちさせてラオウへの闘争心に転化させようとした、マザコンでブラコンの男にすぎなかった。真に暴力を信奉し、弱肉強食が正義だと確信する悪魔ではなかったのである。だがハンは悪魔たろうとした。真に「修羅の国」を理想郷だと思っていたのはカイオウよりもハンであっただろう。
ハンにとっては拳の強さだけが価値観であった。情を知らないのではおそらくなくて、情というものが人が弱いことを正当化する言い訳になることが耐えられなかったのであろう。それならばなぜこの俺にはこれほどの拳の力が天から与えられているのか、人を殺めることにしか役に立たない能力が天から与えられているのか、、、?そうハンは思った。殺人者としての才しか天より与えられていない自分の存在を正しいものとするためには、人の弱さを肯定する情は一切捨てなければならない。これがハンの結論であった。
死の間際にハンがケンシロウに「お前は強い、、、だがお前では第二の羅将ヒョウは倒せぬ!」と申し渡した意味は、ケンシロウが情を持つ男であって、実の兄を殺すことができないであろう、という意味であった。結局ケンシロウは「倒すことが愛」という倫理観(?)でそれを乗り越えたのであるが。
情などを最後まで否定して果てた、「殺人だけの才を持った男」羅将ハンにとって、情の男ケンシロウの記憶に残らなかったことなどは、むしろ本望であったろう。
それにしても。ラオウを倒したケンシロウに「きさまとは実戦の鍛え方が違うわ!」と豪語したハン様は、おそらくヒョウやカイオウなどとは比較にならないほどの実戦の場数を経験してきたのであろう。「天将奔烈」を知っているところから見て、おそらく駆け出しの頃のラオウとも闘ったことがある。実は南斗六星拳の何人かや元斗の者とも拳を交えたことがあるのかもしれない。そうやって死のぎりぎりの間際をあえて突っ切ってきた経験からの自信を持っていた男であるに違いない。流れる血筋だけで脆弱のくせに常人を超えた強さを得ることができる北斗宗家のヒョウなどは、彼からみれば貴族エリート、またはキャリア組にすぎないと見えたのであろう。その弟のケンシロウもまた。ハン様はおそらく大したことない出自から強大な拳力を持つに至った、『北斗の拳』世界のノンキャリア組の出世頭であり、バットやバランの大先輩である。
だが、やはり実戦の経験は産まれの高貴さが保証する能力を超えることができなかった。努力は産まれに如かず。バブル時代以降の政界芸能界でも次第に優勢となっていったこの掟が、『北斗の拳』の世界の掟なのである。
『北斗の拳』とは、たいていの人は知っていると思うが、1980年代週間少年ジャンプに長期連載されていたバイオレンス・アクション・勧善懲悪・友情・コメディー漫画のこと(原作・武論尊、画・原哲夫)。アニメ化もされて人気があったが、あまりにも描写が残虐無比なので最近は再放送されないようだ。だがそんなバイオレンス描写よりも、悪がストーリーの後で善として賞賛されるといういかにも日本的な話運びの方が、ちっちゃなお子様に無条件で読ませるのには困った要素だと思うが?