ホーム



列伝の一 諸葛亮孔明 ― 一期一会の男


一、はじめに
二、諸葛一族のバックグラウンド ― 琅邪の地
三、典型でない人物
四、「管仲・楽毅」の理想像
五、「応変の将略はその長ずるところにあらず」
六、おわりに ― 前出師の表


一、はじめに

まず初っ端は、今となっては若い世代で知らない人のほうが少なくなった、諸葛孔明(AD181 - 234)である。

姓は諸葛、名は亮、字(あざな)が孔明。中国では司馬、欧陽などと並ぶ極めて珍しい二字姓の人である。
琅邪(ろうや)陽都(山東省沂水(ぎすい)県)の人。諸葛家は土地の名士であったようだが、孔明は若い頃に叔父と共に襄陽(湖北省襄樊市)に移住する。この襄陽は後漢末群雄の一人劉表の根拠地で、やがてこの地の社交界で『臥龍』(未だ寝ている龍)と例えられる逸材との評判を得る。曹操に(またも)散々に破られて劉表の元に寄宿することになった劉備(AD 161 - 223)は司馬徽からその評判を聞いて、建安十二年(AD207)に孔明をその居住地隆中に三度尋ね(『三顧之礼』)、孔明は答えて劉備に天下三分の策を披露(『隆中対』)、以降劉備の幕僚として活躍することになる。自ら示した天下三分のプログラムに従って劉備は荊州(けいしゅう、ほぼ現在の湖北省・湖南省)を取り益州(えきしゅう、現在の四川省)に入り、孔明もまた従う。後漢滅亡後に劉備は漢の大統を嗣ぐと称して成都(四川省成都市)で即位、国号を「漢」とする(いわゆる「蜀漢」)。孔明は蜀漢の丞相となり、劉備没後には後継者劉禅を補佐して魏と数度に渡って戦うも成功せず、最後は対魏遠征の途上に五丈原で病没した。まさに劉備の知遇を得た青年時代から陣没するまでの間「鞠躬尽瘁(きっきゅうじんすい)し、死して後に已(や)」んだ生涯であった。

「鞠躬尽瘁、死而後巳。」は諸葛亮「後出師表」の末尾近くの言葉。意味は「身をかがめて疲れ果てるまで働き、死んではじめてそれをやめる。」戦前の軍国宣伝でよく使われた決り文句である。

それにしても孔明を始め『三国志』の登場人物は有名になったものだ。今から二十年余り前、NHKで人形劇『三国志』が放映されていた頃は、劉備・曹操・関羽・趙雲・そして諸葛孔明などという歴史上の人物の名前は一部のマニアを除いて誰も知らなかった。いや本当に。その一部のマニアが漢文の授業でたまに三国志の登場人物の名前なんかが出てくると一人でニヤニヤ北叟笑(ほくそえ)んでいたものだ。、、、誰のことだよ。ハイ、私のことです。ちなみに北叟(ほくそ)というのは『塞翁が馬』の故事に出てくるおじいさんのことで、おじいさんが結局事がうまく行ったために思わず含み笑いをした事に由来しています。

[上へ]


二、諸葛一族のバックグラウンド ― 琅邪の地

諸葛家の本貫(一族の出身地)が山東半島の琅邪であるというのは大変に面白いことだ。

琅邪というのは春秋後期〜戦国前期に存在した越国が一時都を置いたところである。
最盛期の越国は故地の越(浙江省)を大きく越えて呉(江蘇省南部)を併合し、北の方淮河下流地域を併せて斉(山東省)に接していた。つまり当時の中国東方沿岸部の広大な領域を支配していたのである。琅邪はこの越の版図の最北端に位置している。
広大な海岸部を掌握していた越は、当時の重要産業である製塩業を手にしていたであろうし、また海運水運の流通も盛んな商人気質おう盛な人々であったろう。そのことは越王句践(こうせん、? - BC465)の家臣で大功ありながら身を引き、海に乗って北の斉に落ち着いて大商人となったという、あの范蠡(はんれい)の伝説にも現れている。越に滅ぼされた呉は春秋時代にすでに長江と淮河をつなぐ運河の開削まで行っていたというから、水運に対する熱の入れ方は大きかったはずだ。

琅邪を含む山東半島は、また古代神仙術の中心でもあった。
琅邪の南にある徐福村出身の方士(当時の魔術師)徐福は、この琅邪の地を訪れた秦始皇帝(BC259 - 210)に不老長寿の法を知る神仙の住む島の存在を吹き込み、探検のためにしつらえた船に自ら乗り込んで東の海へ去った。
それから約四百年後のまさに後漢末時代には、琅邪出身の于吉(うきつ)なる人物が生ける神仙としてあがめられ、『三国演義』(羅貫中作。日本では『三国志演義』と呼ばれるのがふつう)にも登場している。呉の孫策の元に現れて彼の頓死の原因を作った、あのエピソードだ。
さらに時代が下って東晋(AD317 - 420)時代には葛洪(かっこう)という神仙家が道教関係の重要なテキストを著したが、彼もまた一族はもともと琅邪の出身であり、後漢初期に南の江南地方へ移住した末裔であった。

同じ『三国演義』で話を膨らまされて神出鬼没の活躍をする伝説の名医、華陀(かだ)。彼が若い頃遊学して医術を学んだのは徐州(江蘇省)であったと書かれている。徐州は淮河下流域の中心地で、琅邪と長江の中間点に位置する。医術は経験知の集積であり、それがこの地にあったのである。

このように琅邪から淮河下流域を経て呉越の地に至る中国東海岸部には、内陸部の中央権力によって把捉しきれていなかった南北方向の商業ネットワークと知の集積がかつてあったと思われるのである。
やがて琅邪最大の豪族である王氏から出た王導(AD276 - 339)が、司馬氏の西晋王朝の一族琅邪王司馬睿(しばえい)を連れて江南に逃れ、匈奴に滅ぼされた西晋の後を継がせて東晋を起こす。司馬睿は皇帝元帝(在位 AD317 - 322)となり、王導をはじめとする王氏一族は東晋王朝第一級の貴族となった。こうして琅邪は昔からつながりの深かった江南地方に洛陽・長安の内陸部とは違う、もう一つの中原(ちゅうげん)を大陸に誕生させる弾みを作った地となるのであった。ちなみにあの書聖・王羲之(おうぎし)は王導のいとこの甥であり、琅邪王氏の最重要の一族である。

もともと中国東海岸部は、山東半島付近に東夷、淮河下流地域に淮夷、そして揚子江以南に越と中華にまつろわぬ異民族が居住していた地域である。これらの地の民が中華文明を摂取しながらも、後世まで独自の文化圏を維持して海運水運でつながっていたことは大いに考えられることなのではないか。そしてその海のネットワークは朝鮮南部や日本にまで達して、おそらく紀元前からこの辺の文化形成に少なからぬ影響を及ぼしていたはずである。山東半島と新羅のつながりや、呉・越地方と古代日本の強い関係を考えればよい。

よく知られているように、諸葛一族は孔明が劉備の幕僚となった以外にも、ちゃっかり呉・魏の二国の重臣となっている。呉では孔明の兄、諸葛瑾(きん)。魏では孔明のいとこの諸葛誕(たん)。いずれも国の元勲レベルまでのしあがった。三国で一族が二股かけていた例は他にもあるが、これほどまで成功したケースはない。まるでユダヤ人のような一族だ。ここにかれら琅邪出身の一族の、盲目的に権威に隷従せず、政治の動きを冷徹に見極める自立した商人的感覚を感じ取るのは、それほど的外れな意見ではないと思うのだが。

[上へ]


三、典型でない人物

さて、今や日本で一番知られている中国の物語の一つであろう『三国演義』であるが、これほど日本人に愛好されている中国の物語もないにもかかわらず、これほど日本人に中国人を誤解させる物語もないのではないか、と思ったりする。なぜならば、この物語には、後の中国史の人物たちの典型から外れたタイプの人物が二人も主人公クラスで出てくるからである。

― 一人は曹操孟徳。もう一人は、諸葛孔明。

曹操がなぜ後の中国史で現れないのかは、また別の機会に意見するとしよう。今ここで簡単に述べるならば、「大政治家であってかつ文化の開拓者でもあった人物は、後の中国史にいない」ということだ。文化の愛好家(ディレッタント)はいくらでもいるが。曹操は乱世を駆け抜けた大政治家であると同時に鋭敏な文化的嗅覚を持っており、自らが「個人作の漢詩」のジャンルの開拓者でもあった。そのような時代の先端を行こうと志す人物であったから、わが国の織田信長に似て退歩的で因循姑息(いんじゅんこそく)な側面がほとんどなく、要は近代人的だ。このような人物は、後の中国各王朝の歴史では残念ながらまるで見られなくなってしまう。有能な官僚は多く出ても、時代を革新しようとする人物はなかなか出てこない。出てきても外国人だ。前秦の符堅や、元のフビライ・ハーンなど、、、

*符堅(AD338 - 385)前秦(4C後半)の皇帝。いやゆる「五胡十六国」の時代の支配者の一人。チベット系氐族の長(ていぞく。「てい」は「氏」の下に一本の線)。華北を統一し、天下統一のために南の東晋を討つ大遠征軍を送る。だが無残に敗北し(ひすい(淝水)の戦い、AD383年。「ひ」はさんずいへんに「肥」)、鮮卑族に背かれて帝国は瓦解し、後に殺された。その覇権は一時のあだ花で終わってしまったが、自分の民族だけにこだわらない「中華」をいちはやく構想した人物である。
*フビライ(AD1214 - 95)モンゴル帝国大ハーン、元の初代皇帝。北の遊牧民、南の農耕民、西の商人を綜合したユーラシア帝国の大構想の精髄が、彼が築かせた「大都」である。現在の北京は当時の「大都」の縮小版であり、後の明清帝国もまた元帝国の理念の矮小化したものにすぎない。

曹操についてはこのぐらいにして、諸葛孔明のタイプが中国人の典型でない理由、それは、彼の並外れた「清貧さ」である。

いったいにして、中国では、政治家が清貧であることなどは別段評価されるものではない。

北条時頼とか上杉鷹山みたいに、人の上に立つ者は質素倹約を志さなくてはならない、などという徳目は儒教にはない。『貧しくて道を楽しみ、富みて礼を好む』(論語、学而編)のが理想像だ。富そのものに美徳を求めたりはしないが、否定もしない。逆に貧しさを恥とはしないが、「清貧を尊し」などとは考えない。大切なことは富貴に目がくらんで君子の心がけを忘れたりせず、富貴を我がだけのものにせずに君子の心意気で皆と楽しむことだ。そんなとき上に立つ者がただただ質素であったならば、むしろひとりよがりのケチに見えてしまいはしないか?「相応の収入がなければ、親に孝養もできないし付き合いもできないじゃないか」と答えるに違いない。北条時頼のように酒の肴にちょっとの味噌だけ(『徒然草』第二一五段のエピソード)では、ただのしみったれで人は寄ってこない。「仙人の修行でもなさってるのか?」と思われて終わりだろう。一方日本ではその方が清潔だとして人気が出る。
私は別のところで『孟子』を読んでいてそこでいずれ論じるつもりであるが、日本人と中国人は同じく他人の目を気にして他人に配慮するのが「善」と思っているが、その他人の目として勘定に入れる範囲の広がり方に少々違いがあるようだ。中国人は身内など目に見えるまわりの世間にうんと厚く、日本人は中国人に比べて身内や友達にかなり冷たい反面、(従業員何万人の巨大組織でも)自分の所属する会社とか、一生会うこともない自社の製品の買い手とか、時として単なる「日本」とか「世界」まで勘定に入れてしまうほど遠くまで薄く広がる。

そういった中国の官僚たちは、月並みな人材ならば役得でがっぽり儲けてせっせと交際に励み、家族親族のために一財産築いたら悠々と引退する。これでおしまい。「邯鄲の夢」の故事はどうだったか。盧生が老師から借りた枕で見た夢は栄光と挫折の連続、いったんは司直の手が伸びて自殺まで決意し、それでも最後は多くの妻妾子孫にかしずかれて富貴の絶頂で静かに最後の息をひきとった。これが普通の夢と野望を持った男の望みである。
そして一流の人材は、自分も儲けるがついでに天下のことも憂う。明の張居正や清の李鴻章などは、国のためなのか己のためなのかが定かならず混沌としている怪物である。これが官僚の典型的な姿なのだ。

*張居正(AD1525 - 82)明末期の政治家。時のナンバーワン官僚たちのもとで隠忍自重し続け、ついに盟友を蹴落として最大実力者となる。神宗万暦帝若年時代の「帝師」で、万暦帝初期の10年間強権政治を行った。軍事費節減・検地の実施・租税の銀納化などが効を奏して巨額の余剰が国に残る。ただしその金は全部彼の死後、まじめぶるのにすっかり飽きた万暦帝の浪費によって何もかも消えてしまった。
*李鴻章(AD1823 - 1901)清末期の政治家。太平天国以降実力を失った清王朝の中で李鴻章の軍閥は国家内国家の観を呈する。清の建造した北洋艦隊は、事実上彼の私兵。日本は日清戦争で李鴻章の私兵と戦ったのが実情である。日清戦争終結の下関条約では全権となって、日本人テロリストに狙撃されながらも応急治療だけ受けて交渉の場に立ちつづけた。義和団の変の前後で老体にムチ打って国の維持のために奔走した後に死亡。

それら歴代の士大夫政治家たちに比べると、諸葛孔明の清潔さ無欲さは異常である。劉備という評判以外に何も持っていない落ちぶれ軍閥の軍師となって粉骨砕身、蜀漢の丞相となっても財産はわずかの田畑だけ、一回目の北伐失敗時には自らを罰するとして一時丞相を退いてもいる。最後は過労死のごとく五丈原の陣中に死亡した。これほど無欲な大政治家は、他に前漢の張良ぐらいしかないのではないか。ただし張良は老荘思想に凝っていて無欲になって長生きすることを目標としていたので、壮絶に陣中で倒れた諸葛孔明とはまた違う。これほどあくせく働いて、働きづめて死んだ歴代の政治家は、諸葛孔明の他には清の雍正帝ぐらいであろうか。だが雍正帝はあくまでの帝国の最高責任者、人臣とは違う。その上、彼は日本人とも気質的に似通ったところがある東夷の満州族であって、漢人ではない。(あと秦始皇帝も激務をこなした上に西に東に気候風土の全然違う各地を休まず巡幸し続けた上で死亡したから、彼もその例に入れていいかもしれない。だが彼もまた帝国の最高責任者だ。)

*張良(? - BC186)秦末動乱期から前漢成立時の人物。前漢創立者劉邦に天下を取らせた大軍師。秦撃滅、鴻門の会、垓下の戦いから戦後の論功行賞まで、劉邦の節目の作戦は全て彼が立てている。
*雍正帝(AD1678 - 1735)清王朝の太祖ヌルハチから数えて第五代皇帝。シュ批諭旨(しゅひゆし、「シュ」は石へんに朱)という正規の官僚組織を通さない上奏決裁システムを常用して地方政治を中抜きで監督。軍機処を置いて戦争を直接指揮する大本営制度も始める。反清思想弾圧のために自ら筆を取って反駁書『大義覚迷録』を著す。己の兄弟たちにも冷酷だった。まちがいなく有能であったが、民衆の人気は低いようである。

長々と書いたが、諸葛孔明が日本人にはわかりやすいが中国史的にはいかにも浮いた特殊な人物であることを言いたかった。彼は常に後世の士大夫官僚たちからあるべき姿として畏敬されたものの、それは臣として忠義の道を進んだからであって、清貧だったからでは別にない。むしろ先ほどの范蠡のように、家臣として主君に功業を成さしめるだけ成さしめ、勝った主君がおごり高ぶって自分を軽んじる気配を感じたならばスッパリと去り、その後は才覚で大金持ちとなり幸せな余生を送った、といった物語が好まれたりする。日本人には何か打算的でイヤな感じがする話だ。司馬遼太郎はこの范蠡伝説について、まるでわが大石内藏助が敵討ちを果たした後に商売に転じて大成功し、愛人のお軽をつれて野尻湖あたりの別荘で悠悠自適の余生を送ったような話ではないか、などと評している。中国では主君への忠義よりも両親への孝行のほうが倫理として優先するとされるので、身の危険があるのに盲目的に主君に仕える家臣は、必ずしも美談とされないのである。諸葛孔明は日本では立派な大人物として評価されているが、『三国演義』での描き方など見ると中国の民衆にはむしろ仙人みたいな超人に写っていたのではないだろうか?

[上へ]


四、「管仲・楽毅」の理想像

孔明は自らを「管仲・楽毅」になぞらえていたという。管仲は春秋時代、斉の桓公に仕えた宰相であり、楽毅は戦国時代、燕の昭王に仕えた臣である。両者ともに国を大ならしめた功臣として後世に伝わっている。
だが、管仲は政治家で、楽毅は武将。両者の功績には質の違いがある。
歴史上他に多くいる功臣・忠臣をさしおいて、なぜ「管仲・楽毅」だったのか。
この二人に共通しているもの、それは、主君から絶対的な信頼を与えられ、それに感激して犬馬の労を惜しまず働いたことにあった。つまり、君と臣との「一期一会」である。

管仲はもともと桓公の即位前には、桓公と斉公の座を争う公子糾の家臣であった。そのためかつて即位前の桓公を弓で射殺しようとして失敗したことがある。桓公の即位後、公子糾は殺され管仲は捕えられた。当初桓公は管仲を殺して自らの師である鮑叔牙を宰相にしようとしたが、若い頃から管仲と盟友であり彼の才を知っていた鮑叔牙は、「公が斉国だけに臨もうとなさるならば臣でも補佐の責は勤まりましょう。ですが、天下に臨もうと欲されるならば、公の下には必ず管仲が侍らなければなりません!」と強く推薦した。桓公はこれを受け入れて、旧讐を捨てて管仲を重く登用した。管仲は感激して、生涯桓公のために見事働いたのである。

楽毅はもともと魏の人であった。当時燕の昭王が身を低くして賢者を招こうとしていたので、楽毅は燕に赴いた(燕の昭王は、「先ず隗より始めよ」の故事の人物である)。昭王はやってきた楽毅に予想外の高位をオファーした。楽毅は驚いて、以降王の下で仕えるのである。
昭王の宿願は隣の強国斉に復讐することであった。
以前、燕は家臣の子之(しし)が国を乗っ取るお家騒動が勃発し、その混乱に乗じて斉が燕に介入した。斉は不義を討つという名目で燕を占領して子之を追い、財宝を略奪した。時の斉王・宣王が燕の併合を画策して孟子に反対されたいきさつが『孟子』に載っている。結局各国の介入で斉は撤退したのであるが、混乱後に国人に推されて即位した昭王はこのことを恨みとして斉に報復することを自らの悲願としていたのである。腰を低くして賢者を招こうと努めたのもこのためであった。
さてそんな楽毅は見事王の期待に応えることができた。燕は斉の強盛をおそれる周辺各国に働きかけて対斉連合軍をまとめあげ、楽毅は連合軍の上将軍に就いた。楽毅率いる軍は斉の首都を陥落させて斉王・湣王(びんおう、「びん」はさんずいへんの右に民+日)を亡命させ、王は後に殺された。首都の財宝を奪い返し、さらに進んで斉の領土のほとんどを占領したのである。

平セ隆郎氏の考証によると、『史記』で言う斉の宣王と次代の湣王(びんおう)は同一人物の湣宣王(びんせんおう)である。詳細は同氏著「『史記』二〇〇〇年の虚実』(講談社)を参照。

だが、その戦役の途上で昭王が死に、後を継いだ子の恵王は楽毅を信用せず讒言に惑わされて将の役目を解任した。楽毅は誅罰されるのを恐れて趙に亡命した。その後斉は再び勢いを取り戻し、結局斉に押し返されてしまった。
しかし後に恵王は楽毅を疑った非を悔いた。そして亡命先の楽毅に対して今度は趙軍を率いて燕に弓を引くつもりかと責め、同時に前非を悔いて謝罪する使を送った。楽毅はそれに対して自らが先王から受けた恩をるると説いて、今になって先王の事跡を辱めるような不義は絶対に取らないと答えて、王と和解したのである。

孔明が劉備に会う前の時代からすでに自らを「管仲・楽毅」になぞらえていたことは、何を示唆するか。
彼の中にはこれらの人物に見られるような君臣関係の理想像がしかと存在して、自分も彼らのように明主にめぐり合って出処進退を行いたいと願っていたのではないだろうか。その意味で彼は理想主義者であった。理想主義者であったからこそ、清潔で無欲であり続けることができた。

後漢末期の時代は、人々が儒教道徳の手本となり国の支えとなるべき清廉で立派な人物を探し求めることに熱中した「道徳の時代」だった。
どこどこの誰がどのように立派な人物であるとかいうような人物評が盛んに行われ、曹操を「乱世の姦雄」と評した許劭(きょしょう)が月に一度行う人物鑑定会は「月旦」と呼ばれて評判となった。
官吏や学生たちは廉潔有徳な人物の知遇を受けようと奔走した。李膺(りよう、AD110 - 169)は硬骨の官吏で豪族や宦官の不正を厳しく摘発し、「十常侍」の一人張譲(ちょうじょう)の弟を捕らえて処刑したくらいであった。彼の元には首都洛陽の学生や官吏たちが群がって知遇を求め、彼の面識を得ることは「鯉が黄河の難所竜門(りゅうもん)を登って竜と化したようなものだ」として、名づけて「登竜門」(とうりゅうもん)と言った。こうした李膺のような人気の有る人物の下に集まった学生・官吏たちには結局、国家騒擾の原因となると決めつけられて弾圧が下されることになる(「党錮の禁」、第一回AD166、第二回AD169)。

もちろん、官吏・学生たちの道徳ブームがどれだけ本心からのものだったかはかなり疑問であるが。
後漢時代はまだ科挙が存在しなかったから、儒教的国家観に従って「志操徳義がどれだけ高いか」の評判が出世の最大の要件だったからだ。
加えて、宮中にのさばる宦官どもをこき下ろすために、自分らの集団の清潔さをアピールするネタとした面も、間違いなくあった。ずっと後の明代でも、官僚たちが皇帝の寵愛深い宦官どもをひきずり下ろすために自分らを「清流」と呼んで正当性をアピールしたものだ。しかしその実体は、一部の例外を除いて官僚たちもやっぱり欲得の亡者ばかり。「清流」などという言葉は試験に高得点で受かった秀才たちのエリート根性の現れに過ぎなかった。

それでも、後の時代に比べて道徳への「純心さ」は後世よりもずっとあったのではないか。何しろ史上初めて儒教を国家の根本にすえつけた漢帝国である。それが王朝として当たり前とされた後世とは違って、国に携わる人々の思想への真剣さは比較にならなかっただろうし、だからこそ道徳の本来の姿をもっと追求していかなくてはならない、という意欲も段違いにあったと思われるのだ。次回取り上げたいと思っている司馬遷は儒家の徒ではなくどちらかといえば道家思想に傾斜していたが、厭世的な気分などみじんも持たず、人間が君臣の義を守ろうとする倫理への真剣さには強く共感していた。前漢・後漢の変わり目には王莽という儒教マニアさえ現れたのである。

諸葛孔明とは、そういった道徳の理想主義にわきかえっていた時代の、残り火の人だったのではないか。
彼の一生は、国家の安定と人間の道徳的完成を同時に実現すべきであるという儒教の大理想を、彼なりに真剣に追求しようとした一生として見たいのだが。

彼は一面で「法家」的であった。こんなエピソードがある。
劉備陣営が蜀入りを果たしたとき、孔明は厳格な法律を制定した。
蜀出身の法正が「こんなに多くの法を課してどうする。漢の高祖が『法は三章のみ』と宣言して人心を捉えたことを思い出しませい」と苦言を呈したとき、孔明は答えた。「それは時と状況をわきまえない物言いだ。漢の高祖は秦の法があまりに厳格だったからああしたのだ。以前にここを治めていた劉璋は法が散漫で規律ゆるく、役人はほしいままで人民はそのために苦しんだ。だから今は逆に法を制定して権威を示し、賞罰を明らかにすべき時なのだ。」

このエピソードから見られるように、孔明は民生安定の策として「法家」的方法も取った。一般的な「法家」とは、絶対君主の意志を整然と上意下達させるための方法論にすぎず、倫理的側面は何もない。君主が考えたことを完全に実施するためには「どうなすべきか」を問題にして、君主が「何をなすべきか」には答えないのである。それゆえに彼は「法家」的方法を嫌わず、大目的のために手段として採用したのであった。ここには孔明の教条主義的でない柔軟さが見て取れる。孔明の「法」への傾斜と君臣の「倫理」の真剣さは、後の時代と違って並立するものだったようだ。

だが理想の時代はすでに終わりかけていた。孔明の生きたすぐ後の時代には社会への絶望、現世からの逃避の時代がやってくる。阮籍ら「竹林の七賢」の時代はもうすぐそこまで迫っていた。やがて更に時代が下ると、中華帝国の組織はますます膨大おおげさとなって誰にも見通しがつかないほど非人間的な怪物となっていき、政治の中で君臣の人間的な理想関係を追い求めることなどはおとぎ話同然となっていくのである。このことを民衆はよく察知して、民衆は理想の人間関係を政界ではなくて『水滸伝』のように体制からはみ出した者たちの任侠の世界に求めるようになる。

*阮籍(AD210 - 263)は曹操・曹植父子に続く魏の大詩人。司馬氏が着々と進める王朝乗っ取りを横目に見ながら、理想も何もない時代への絶望が彼の詩のテーマとなる。当時老荘思想を論じた「竹林の七賢」の一人に数えられるが、阮籍は超俗というよりねじれたシニシズムである。

劉備は孔明の理想像にかなった明主だったのだろうか?
いろいろと言われているが、よくは分からない。少なくとも曹操や孫権にはない何かを持っている人物だったとは言えるだろう。 それにしても将来的展望ゼロの落ちぶれ軍閥によくついていったものだ。大きな賭けだったろう。
そしてこんな賭けができたのも、諸葛一族の時局を見据える情報収集力があればこそで、同時に真摯な儒教の徒として人物の持てる実力ではなくて人徳を見ようとする目を意識して持とうとしたがらではないだろうか?


以下はただの想像である。

孔明は、兄から孫権の呉について詳しく国情を聞いていた。一族への情報提供であると同時に、弟に対して将来の仕官にとって参考とすべしというはからいでもある。
兄の見るところによると、「呉は統率力高い主君を推戴して兵は強く、華北とは異質の水軍の守りを持っている。すでに呉は長江中流の軍閥黄祖を討って甘寧などの土地に詳しい者どもを取り立てた。これによって長江の防御は今や強固なものとなっている。曹操といえども制圧は難しいだろう、、、」
孔明は分析した。ならば天下は南北で割れる。古来、北から長江を渡って南の勢力を制圧できた例はない。秦が楚を併合できたのは蜀を経由したからであり、漢が項羽を平定できたのは項羽が長江を渡る前に戦意を喪失して投げ出したからだ。
だが兄は主君孫権の人となりについて、気になることを言ってよこした。「孫権は孫一族の血に違わず英邁で決断力に富む人物。だがしかし、やはり孫一族の先達者たちと同じく、独断専行的で臣下に冷酷な面がある、、、」つまり、自信過剰な人間が往々にして持つ特質を、孫権は持っている。
これは違う。私とは違う。兄には悪いが私は遠慮したい。、、、
そうだ、この荊州から誰かが立てば、第三勢力を築けるのではないか。そして新野の城にはそれをしたいと願っている「群雄になりそこねた男」がいるではないか。どんな人物だろうか、、、?


ずっと前から孔明は劉備を気にしていたのでないだろうか。一説に「三顧之礼」の真実は、孔明が劉備に先に会いに行ったという。君臣の理想を追い求める若き孔明にとって、意外とありえたことかもしれない。だが、どちらが先に探りを入れたのであれ、会見した青年孔明に対して歴戦を戦い抜いた二十歳上の劉備が最大限の誠意を示したことは十分に推測できる。孟子は、「大きなことを行おうとする君主には必ず呼びつけになどせずに丁重に扱う家臣があり、何か相談しようとするときには君主か臣の下に出向いていくものだ」(『孟子』公孫丑章句下、二)と言っている。つまりこれが人を誠意から動かす道であり、君主といえどもそうだということだ。孔明が劉備の何に感激したかは、わかるではないか。

[上へ]


五、「応変の将略はその長ずるところにあらず」

魏・呉・蜀の三国鼎立時代は、魏を乗っ取った司馬氏の晋によって一旦は統一される(AD280、呉滅亡)。しかし統一はわずか三十年ほどしか続かず、晋は匈奴の建てた中華風帝国「漢」によってあえなく倒される(AD317、西晋滅亡)。以降華北は諸民族入り乱れる分裂状態となり、長江流域は北から逃れた東晋とそれに続く漢族諸王朝が支配、中国は南北に分裂する。
華北は気候的にモンゴル高原や西域と連続しているので、それらの地域に住む諸民族にとって移住しやすい土地だった。それが後漢末以降の中国の混乱によって、その侵入が加速された。一方長江流域は湿潤で稲作に適した地域であり、孫権の呉や司馬氏の東晋がいざ国を建ててみると、この地域が王朝を維持するのに十分なほど肥沃であることを発見した。加えて「南船北馬」という言葉があるように、華北を縦横に駆け回ることができる遊牧民たちも長江流域では水に阻まれて思うように軍事行動が取れない。北からの侵入を防衛できる条件が十分に揃っていた。
こうして南北はいったん別の道を進むようになった。南北の対立は北の隋王朝が南の陳王朝を滅ぼす(AD589)まで二百七十年間も続いたのである。

その後の歴史を考えるならば、三国時代は南北分裂時代のさきがけであったといえるだろう。
だが魏と呉はよいとして、蜀漢だけはどうしてこんな王朝が存在しえたのか歴史的必然性がまことに乏しい。蜀漢王朝は率直に言えば、別に「なくてもよかった」。

この王朝は劉備の軍閥がリクルートしたスタッフが核となって建国された政権である。孫氏の呉のような地元の豪族たちが推戴した地方政権というわけではない。つまり曹氏の魏と同質の政権であって、両者は不倶戴天の敵として優劣を賭けてどちらかが滅びるまで闘わなければならなかった。その意味で蜀漢とは、乱世における軍閥たちの天下を競う争いの最終ラウンドがたまたま四十年ほど続く長期戦となったために「王朝」と言われているだけの、本質的には袁紹や袁術と変わらないただの一軍閥にすぎない。

華北を掌握した魏と荊州を呉に奪われて今や益州だけを確保しているに過ぎない蜀漢では、戦力差があまりにもありすぎる。
小が大に勝つには1対1のの正攻法だけではだめだ。
自分を太らせるためにまず別のさほど強くない諸勢力を併合するか、あるいは前述した楽毅の時代の燕のように外交で包囲網を作って、他人の力を借りて討つか。
前者は劉備自らが呉を併合しようと試みて失敗し(夷陵の戦い)、二度と再びできなかった。後者も呉や周辺民族を使って何度も試みただろうが成功しなかった。孔明の数度の北伐は結局何の成果もあげることができず、「戦略的行き詰まりは戦場での戦いによって打開することはできない」という例の一つを示したにすぎなかった。

孔明のすぐ後の時代の人で蜀漢の遺臣でもあった陳寿は、蜀漢滅亡後に西晋に仕えて魏・呉・蜀漢の歴史書『三国志』を著した。その中で陳寿は孔明の戦場での将としての才について、

「応変の将略はその長ずるところにあらず。」
(臨機応変の将としての軍略は彼の得意とするところではない)

と評した。

まさしくそう言われてもしようがなかっただろう。大状況がもはや行き詰まっていた。後から眺めた結果論だが、諸葛孔明と蜀漢に勝ち目は皆無だったといわざるをえない。現実の管仲・楽毅がいたとしてもできたかどうか。ましてや魏将張郃(ちょうこう、「こう」は「合」の右におおざと)にあっけなく敗れる程度の孔明の戦争指揮ではなおさらである。彼は司馬仲達も感嘆したように兵站・統率の才は卓越していたようだが、残念ながら韓信・曹操といった「戦争で政局を変える」ことを成した歴史上の大家たちの才には到底及ばない。というよりも前漢を興した高祖・劉邦の配下たちで喩えるならば、孔明が韓信・張良・蕭何(しょうか)の三人分の働きをしなければならなかったようなものだ。これはとても無理だ。韓信のように戦場で大胆で、張良のように策略に想像力を雄飛させ、蕭何のように事務に堅実なことなど、聖人孔子でもできはしないだろう。

*張郃(ちょうこう、? - AD231)魏の武将。第1回北伐で蜀漢の攻撃を斥ける。だが『三国演義』では司馬仲達の業績にされてしまっている。
*韓信(? - BC197)秦末動乱期から前漢成立時の人物。劉邦軍の別働隊として北方で転戦し、奇計を連発して大成功する。気付いたころには華北の半独立諸侯をあらかた倒して項羽・劉邦と並ぶ第三勢力の支配権を握るところまで成長する。だが結局劉邦に誘われるままに項羽つぶしの手伝いをして、三国鼎立のチャンスを逃がしてしまう。項羽滅亡後間もなく劉邦の詐術によって権力を奪われ、その後謀反を企てて処刑。「狡兎死して走狗煮らる」の言葉を残す。
*蕭何(? - BC193)同じく秦末動乱期から前漢成立時の人物。高祖・劉邦の同郷人で、劉邦の旗揚げ時から付き従う。事務マニアで、法律を読むのが大好きな官僚の中の官僚。劉邦が項羽に押されっぱなしだったが常にしばらくすれば回復できたのは、蕭何が漢の大組織を運営する事務を慌てず騒がず的確にこなしていたからである。天下統一後、「相国」(しょうこく)の位を授けられる。「相国」とは「丞相」、「宰相」、「首相」などとだいたい同じ意味。

それでも、漢の正統な後継者を自称して、中原の回復を悲願としている以上は、中原進出をあきらめるわけにはいかなかった。それが実現不可能なことがわかっていたとしても。

その意味で蜀漢は、20世紀後半以降の中華民国 ― つまり台湾と似ていないだろうか。

蒋介石率いる中華民国国民政府もまた、台湾島に逃れながらも大陸反攻を国是とし続けた。蜀漢どころではない。島から大陸を本気で望んだのだ。何しろ80年代まで全土に戒厳令が引かれていたぐらいである。つまり戦時体制だった。
だが大陸反攻の現実性は、1970年代にニクソン・キッシンジャーが中共政府に支持を変えたことによって完全に消滅した。蜀漢の中原復帰がもはや不可能であったのと同じく、この時国民政府の中原復帰も不可能となったのである。
大陸反攻が不可能となった70年代以降に李登輝総統が行った決定的な方針転換などにも書きたいことはいろいろあるが、ここではやめておこう。ここで書くべきなのは、蜀漢は方針転換など最後までできずに滅んだということである。孔明も去り、もはや負けが決まっている中で空しく大義のお題目を言いつづけなければならない、言い続けることだけにしか国の存在意義がない ― 後継者劉禅の退廃も、この国の在り方じたいのばかばかしさを彼なりに感じ取って、投げてしまった結果だったと言えば、彼を擁護しすぎだろうか?

だから今台湾は「天下は一つでなくてもよい」という、始皇帝以来二千有余年このかた全力で否定してきたタブー破りに挑戦しているのかもしれない?


[上へ]


六、おわりに ― 前出師の表

孔明が北伐の前に時の皇帝・後主劉禅に奉ったとされる『前出師表』。その読み下し文と拙訳を挙げます。
なお、『出師表』という題は後世に編纂された文集『文選』で付けられたものだが、ここでは陳寿『三国志』諸葛亮伝に引用された文を掲げる。

《読み下し文》

臣亮、言(もう)す。
先帝、創業未(いま)だ半ばならずして、中道に崩(ほうそ)す。
今、天下三分し、益州疲弊す。此れ、誠に危急存亡の秋(とき)なり。
然れども侍衛の臣、内に懈(おこた)らず、忠志の士、身を外に忘るるは、蓋(けだ)し先帝の殊遇を追いて之を陛下に報ぜんと欲すればなり。
誠に宜しく聖聴を開張し、以て先帝の遣徳を光(かがや)かし、志士の気を恢弘(かいこう)すべし。


《訳》

臣諸葛亮が申し上げます。
先帝(劉備)は、創業がいまだ半ばにも至らないうちに、途上でに崩御なされました。
今、天下は三分して、益州は疲弊しています。まことに今は存亡の危機であります。
だが、陛下の下に侍る臣は国内の守りにおさおさ怠らず、忠義志操の高い士人たちは外に攻めれば命も捨てる所存であります。
思うにこれは先帝から受けた厚遇を慕い、陛下に報いんと欲しているからなのです。
まことにお耳を立てて臣下の言葉を拾い、先帝の遺徳を輝かせて、有志の者どもの士気を高めてください。

冒頭から、「なぜ魏を攻めなければならないのか」という疑問に対して、先帝の創業の意志を持ち出し、天下が三分し蜀漢の益州は疲弊しており、だが臣の士気は先帝の遺徳で高いことを持ち出している。
先帝が創業半ばにして倒れ、何としてでも先帝の志を継がなければならないこと、これは主観的動機である。
今、周囲に敵を抱えている上に後がないこと、しかし先帝の恩に報いようと臣の士気が高いこと、これらは客観的状況である。
孔明は、まずこれらを列挙して、今こそ戦わなければならないことをピシャリと指摘することから論を始める。



《読み下し文》

宣しく妄(みだ)りに自ら菲薄(ひはく)し、喩(たとえ)を引いて義を失い、以て忠諌(ちゅうかん)の路を塞ぐべからず。
宮中府中は倶(とも)に一体爲(た)り。
臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、宜(よろ)しく異同あるべからず。
若(も)し奸(かん)を作(な)し、科(とが)を犯し、及び忠善を爲す者有らば、宣しく有司に付して其の刑賞を論じ、以て陛下平明の理を昭(あきらか)にすべし。
宜しく偏私(へんし)して、内外をして法を異(こと)にせしむべからず。


《訳》

(いにしえの殷の紂王のように)やたらにご自身をつまらないものにおとしめて、たとえ話なんかを持ち出して不義を正当化したりして、臣下の忠心からの諌めの言葉をさえぎったりしてはいけません。
宮中と府中は一体のものです。
功績・過失に対して賞罰を行うのに、両者に差別をしないでください。
もし悪事をなし、犯罪を犯し、あるいは忠善をなす者がいたならば、役人に付して刑罰褒賞を論じさせて、陛下の公平正明な政治を明らかにしてください。
えこひいきして、身内と外とで別のルールを適用したりしてはいけません。

宮中は皇帝の家庭の内の私的な領域。府中は帝国の公的な領域で、官僚たちの勤める朝廷。
帝政では皇帝は原理上法の上に立ち、思うがままのことができる。一方で皇帝は官僚たちとは別に自らの家庭に附属する召使いを多数抱え、ややもすれば甘言を弄する取り巻きの意見を官僚より優先することがあまりに多い。帝政が持つ愚劣さであるが、デモクラシーなど想定の外であったこの時代、こうして皇帝の自覚をお願いするより他に方法が無いのである。



《読み下し文》

侍中侍郎郭攸之(かくゆうし)、費(ひい)、董允(とういん)等は、これ皆な良実にして、志慮は忠純なり。
是(ここ)を以て、先帝は簡抜して以て陛下に遣(のこ)せり。
愚以爲(ぐおも)えらく、宮中の事は事大小と無く、悉(ことごと)く以て之に諮(はか)り、然る後に施行せば、必ず能く闕漏(けつろう)を稗補(ひほ)し、広益する所有らん。
将軍向寵(しょうちょう)は、性行淑均(しゅくきん)、軍事に暁暢(ぎょうちょう)す。
昔日に試用せられて、先帝之を称して能(のう)と曰(い)えり。
是(こ)れを以て衆議は寵を挙げて督(とく)と爲す。
愚以爲えらく、営中の事は悉く以って之に諮れば、必ずや能く行陣をして和睦し、優劣をして所を得しめん。


《訳》

侍中・侍郎の郭攸之、費、董允。これらの者どもは皆良き人材で、忠義純正な心の持ち主です。
だから、先帝は抜擢して陛下にお遺しになられたのです。
思いますに、宮中の事は大小となく、何もかもこれらの者に諮った上で実施すれば、必ず彼らは大過なく行い、利益ある結果を残すでしょう。
将軍の向寵は、その性格行動はつつしみ深く、軍事に通暁しています。
昔、試しに用いられて、先帝は彼のことを有能だとお認めになられました。
だから、皆の意見を受けて、向寵は都督に抜擢されました。
思いますに、軍の事は何もかもこの者に諮った上で実施すれば、必ず軍隊の和を保ち、優れたもの劣ったものを適所に配置できるでしょう。

出陣に当たり、成都に残り宮中と軍を担当する人員たちについて言及する。
ここで言及されている良臣たちは、全て先帝が能力を認めて選んだ臣である。孔明個人が見込んだ良臣だとは少なくとも言葉の上では主張していない。ここには孔明の、慎重な政治的配慮も見て取れる。例え文面の上でも自分の気に入りの臣を残留組に配置したなどと受け取られれば、必ず「主君を押し込めてやがて己の飼い犬で宮中府中を独占し、簒奪を狙う心積もりだ」と、どこからか猜疑が飛んでくることはわかりきっているからである。



《読み下し文》

賢臣に親しみ、小人を遠ざくる、此れ先漢の興隆せし所以なり。
小人に親しみ、賢臣を遠ざくる、此れ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。
先帝在(あ)りし時、臣と此の事を論ずる毎(ごと)に、未だ嘗(かつ)て桓霊に歎息痛恨せずんばあらざりしなり。
侍中、尚書、長史、参軍は、此れ悉く貞亮(ていりょう)にして死節の臣なり。
願わくば陛下之に親しみ之を信ぜば、則ち漢室の隆(さかん)なること、日を計りて待つべきなり。


《訳》

賢明な家臣に親しんでつまらない人物を遠ざけたことが、前漢の興隆した理由であります。
逆につまらない人物に親しみ、賢明な家臣を遠ざけたことが、後漢が傾いた理由であります。
先帝がおわしました時には、わたくしとこのことを論ずるたびに、いつも桓帝・霊帝に嘆息して痛恨したものでした。
ところでわが侍中、尚書、長史、参軍には、みな廉潔であって死をもって節度を守る臣が揃っています。
もし陛下がこの者どもに親しんでこの者どもを信用するならば、わが漢が盛んになるのも時間の問題でしょう。

桓帝(在位AD146 - 167)・霊帝(同AD167 - 189)は後漢の第十一代・第一二代皇帝。両帝ともに幼帝続きの後漢王朝の中では長く統治した方である。この二代は外戚の力が衰えて代わりに宦官が増長を極めた時代であった。ために宦官をののしる官吏・学生たちを「党錮の禁」によって弾圧し、以降王朝から人心は離れていった。孔明はここでこの歴史を踏まえて、劉禅皇帝に内々のお気に入りの寵臣ではなくて先帝時代以来の忠臣に親しむように釘を刺しているのである。



《読み下し文》

臣は本布衣(ほい)、南陽に躬(みずから)ら耕す。
荀(いやしく)も性命を乱世に全うせんとして、聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。
先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、猥(みだり)に自ら枉屈(おうくつ)し、臣を草廬の中に三顧し、臣に諮(はか)るに当世の事を以てす。
是(ここ)に由りて感激し、遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。
後、傾覆に値(あ)い、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。
爾来、二十有一年なり。
先帝、臣の謹慎を知る。
故に崩ずるに臨みて臣に寄するに大事を以てせしなり。
命を受けて以来、夙夜(しゅくや)憂歎(ゆうたん)し、付託の効あらずして、以て先帝の明を傷(そこな)わんことを恐る。
故に五月、瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入れり。
今、南方は已に定まり、甲兵は已に足る。
当(まさ)に三軍を奨率し、北のかた中原を定むべし。
庶(こいねが)わくば駑鈍(どどん)を竭(つく)し、奸凶を壤除(じょうじょ)し、漢室を興復し、旧都に還さん。
此れ臣が先帝に報いて、陛下に忠なる所以の職分なり。


《訳》

臣諸葛亮はもともと無位無官の庶人であり、南陽(注)の地において田畑など耕しておりました。
何とかして生命を乱世に全うできればそれでよいとして、諸侯に自分の名が聞こえることも望みませんでした。
だが先帝は臣が名もない田舎者であることなどものともなさらず、わざわざご自分で腰を低うして臣の草ぶかい廬(いおり)にまで三度おいでになられ、当世の天下の事を臣にご諮問なさいました。
ここに至って臣は感激し、ついに先帝の元に駆け馳せることを決意しました。
その後、時勢は暗転し、敗軍となった際に任務を預けられ、危難の間に主命を奉じることとなりました。
それ以来、二十一年になります。
先帝は、臣の主命を守る慎み深さをよくご存知でありました。
それゆえに、崩御なさるに臨んで、臣に今後の大事を託されたのです。
主命を受けて以来、朝から晩まであるいは憂いあるいは嘆き、先帝より付託された命を実現できずに先帝のご威光を損ないはしないかと恐れてきました。
それゆえ、この五月に南の瀘水(ろすい)を渡り、深く不毛の地に入りました。
今や、南方はすでに平定され、甲兵はすでに足りております。
今こそ三軍を統率し、北に向って中原の地を平定すべき時だと考えます。
願わくばこの臣の足りない力を尽くして凶賊を追い払い、漢帝国を復興して旧都洛陽に還都奉りましょう。
これぞ臣が先帝に報いて、陛下に忠なるゆえんの職分であります。

(注)「南陽」といえば南陽郡(河南省)のこと。南陽郡の南に襄陽が接しているので、ここでは漠然と河南省・湖北省境付近を「南陽」と言っていたのであろうか。劉備と孔明が会った時期には南陽郡は曹操の支配下にあったので、そう考えないとおかしい。

ここからは孔明個人の先帝との関わりに移る。本当は上奏文にこのような部分はなくてもよかったのかもしれない。だが孔明は書いた。先帝劉備との君臣の「一期一会」の交わりにかけて、書かざるをえなかった。ここには抽象的な忠義のお題目ではない、孔明じしんが具体的に人との間で経験した主観的な動機が吐露されている。最も気合の入った部分である。それゆえ醒めた政治家的視点がなく、危うい。



《読み下し文》

損益を斟酌し、進んで忠言を尽すに至りては、則ち攸之、、允の任なり。
願わくば陛下、臣に託するに賊を討ち、興復するの効を以てせよ。
効あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告げよ。
若し徳を興すの言無くんば、則ち攸之、、允等の咎を責め、以て其の慢を彰(あらわ)せ。
陛下も亦(また)宣しく自ら謀り、以て善道を諮諏(ししゅ)し、雅言を察納して、深く先帝の遣詔を追うべし。
臣、恩を受くるの感激に勝(た)えず。
今、遠く離るるに当り、表に臨みて涕(なみだ)零(お)ち、言う所を知らず。


《訳》

陛下のお側で損益を斟酌し、進んで忠言を尽くす役目は、侍中・侍郎の郭攸之、費、董允が行います。
どうか陛下、臣諸葛亮には賊を討ち興復を成す事業をお命じください。
興復を成すことできなければその時は臣の罪を責め、その旨先帝の霊にお告げください。
もし郭攸之、費、董允がよき助言を与えなければ、彼らの罪を責め、その怠慢をはっきりさせてください。
陛下もまた自らご思慮なさって、よき道を下問しては選択し、よき意見には聞き耳を立ててこれを受け入れ、きっと先帝の遺された詔(みことのり)を追われるようなさってください。
臣諸葛亮は、恩を受けた感激にたえません。
今、遠く離れるにあたりまして、この表の前で涙を流し、何も言う言葉がみつかりません。

以上、この表は形式上もちろん劉禅皇帝に向けて言上しているが、実際には先帝劉備と行った共同事業を自らの手で継続することを宣言した、自分自身と地下の先帝に向けた文章であると言ってよいだろう。だから孔明は皇帝を成都に残して自ら出陣した。
皇帝の下に残した費、董允は蜀漢一級の人材。両者は孔明の死後蜀漢を支え、彼らの死と共に蜀漢の命運は尽きた。だから、孔明は国全体を引き連れてこの出師(すいし)を行ったというよりは、この北伐は地下の劉備と自分の二人の事業であると位置付けて、国自体の運営からは一応切り離した体制を取ったのではないか、と想像する。



落日の中で輝きを見せた人物として、彼は南宋の文天祥(ぶんてんしょう)、明の袁崇煥(えんすうかん)、清の譚嗣同(たんしどう)と並ぶだろう。
だが、これはという君に会うことができて、自ら立てた構想を精いっぱいまで追求することができた諸葛孔明は、後の時代の彼らよりもずっとずっとましな星の下に生を受けていた。後の時代の中華帝国は巨大な怪物となって人間性を失い、君臣の理想を政治で追求することなどできなくなっていったのである。

*文天祥(AD1230 - 82)南宋滅亡時の人。科挙を首席で及第した秀才であるが、元の侵攻さかんで国家存亡の時期に義勇軍を指揮、後に宰相となる。元に捕らえられたが脱出し、首都が陥落してからも南方で転戦するが最後はまた捕らえられ、直後に南宋は滅亡した。フビライからの誘降もはねのけて処刑される。
*袁崇煥(? - AD1630)明最末期の人。遼東方面の防衛を担当して、それまで無敵不敗だった満州族の皇帝ヌルハチを寧遠城の戦いで破る。勝因はポルトガル製の新式大砲の活用、東に遠く突出した寧遠城一城に防衛資源を集中させた袁崇煥の戦略眼と、高い統率力であった。後に兵部尚書(国防大臣)となる。だがヌルハチの後を受けたホンタイジの離間策に皇帝崇禎帝がはまって袁崇煥は解任、処刑される。明の滅亡は彼の処刑で決定的となった。
*譚嗣同(AD1865 - 98)清末期の人。康有為らと共に光緒帝の下で維新変法に着手する(戊戌(ぼじゅつ)変法)。だが西太后を頂点とする保守派に阻まれてたった百日あまりで挫折。康有為らは亡命したが、譚嗣同は自らがこれからも続く変法のための流血のさきがけとなると言って亡命せず斬首される。

[上へ]



「東洋史列伝」トップへ戻る