孔明は自らを「管仲・楽毅」になぞらえていたという。管仲は春秋時代、斉の桓公に仕えた宰相であり、楽毅は戦国時代、燕の昭王に仕えた臣である。両者ともに国を大ならしめた功臣として後世に伝わっている。
だが、管仲は政治家で、楽毅は武将。両者の功績には質の違いがある。
歴史上他に多くいる功臣・忠臣をさしおいて、なぜ「管仲・楽毅」だったのか。
この二人に共通しているもの、それは、主君から絶対的な信頼を与えられ、それに感激して犬馬の労を惜しまず働いたことにあった。つまり、君と臣との「一期一会」である。
管仲はもともと桓公の即位前には、桓公と斉公の座を争う公子糾の家臣であった。そのためかつて即位前の桓公を弓で射殺しようとして失敗したことがある。桓公の即位後、公子糾は殺され管仲は捕えられた。当初桓公は管仲を殺して自らの師である鮑叔牙を宰相にしようとしたが、若い頃から管仲と盟友であり彼の才を知っていた鮑叔牙は、「公が斉国だけに臨もうとなさるならば臣でも補佐の責は勤まりましょう。ですが、天下に臨もうと欲されるならば、公の下には必ず管仲が侍らなければなりません!」と強く推薦した。桓公はこれを受け入れて、旧讐を捨てて管仲を重く登用した。管仲は感激して、生涯桓公のために見事働いたのである。
楽毅はもともと魏の人であった。当時燕の昭王が身を低くして賢者を招こうとしていたので、楽毅は燕に赴いた(燕の昭王は、「先ず隗より始めよ」の故事の人物である)。昭王はやってきた楽毅に予想外の高位をオファーした。楽毅は驚いて、以降王の下で仕えるのである。
昭王の宿願は隣の強国斉に復讐することであった。
以前、燕は家臣の子之(しし)が国を乗っ取るお家騒動が勃発し、その混乱に乗じて斉が燕に介入した。斉は不義を討つという名目で燕を占領して子之を追い、財宝を略奪した。時の斉王・宣王が燕の併合を画策して孟子に反対されたいきさつが『孟子』に載っている。結局各国の介入で斉は撤退したのであるが、混乱後に国人に推されて即位した昭王はこのことを恨みとして斉に報復することを自らの悲願としていたのである。腰を低くして賢者を招こうと努めたのもこのためであった。
さてそんな楽毅は見事王の期待に応えることができた。燕は斉の強盛をおそれる周辺各国に働きかけて対斉連合軍をまとめあげ、楽毅は連合軍の上将軍に就いた。楽毅率いる軍は斉の首都を陥落させて斉王・湣王(びんおう、「びん」はさんずいへんの右に民+日)を亡命させ、王は後に殺された。首都の財宝を奪い返し、さらに進んで斉の領土のほとんどを占領したのである。
平セ隆郎氏の考証によると、『史記』で言う斉の宣王と次代の湣王(びんおう)は同一人物の湣宣王(びんせんおう)である。詳細は同氏著「『史記』二〇〇〇年の虚実』(講談社)を参照。
だが、その戦役の途上で昭王が死に、後を継いだ子の恵王は楽毅を信用せず讒言に惑わされて将の役目を解任した。楽毅は誅罰されるのを恐れて趙に亡命した。その後斉は再び勢いを取り戻し、結局斉に押し返されてしまった。
しかし後に恵王は楽毅を疑った非を悔いた。そして亡命先の楽毅に対して今度は趙軍を率いて燕に弓を引くつもりかと責め、同時に前非を悔いて謝罪する使を送った。楽毅はそれに対して自らが先王から受けた恩をるると説いて、今になって先王の事跡を辱めるような不義は絶対に取らないと答えて、王と和解したのである。
孔明が劉備に会う前の時代からすでに自らを「管仲・楽毅」になぞらえていたことは、何を示唆するか。
彼の中にはこれらの人物に見られるような君臣関係の理想像がしかと存在して、自分も彼らのように明主にめぐり合って出処進退を行いたいと願っていたのではないだろうか。その意味で彼は理想主義者であった。理想主義者であったからこそ、清潔で無欲であり続けることができた。
後漢末期の時代は、人々が儒教道徳の手本となり国の支えとなるべき清廉で立派な人物を探し求めることに熱中した「道徳の時代」だった。
どこどこの誰がどのように立派な人物であるとかいうような人物評が盛んに行われ、曹操を「乱世の姦雄」と評した許劭(きょしょう)が月に一度行う人物鑑定会は「月旦」と呼ばれて評判となった。
官吏や学生たちは廉潔有徳な人物の知遇を受けようと奔走した。李膺(りよう、AD110 - 169)は硬骨の官吏で豪族や宦官の不正を厳しく摘発し、「十常侍」の一人張譲(ちょうじょう)の弟を捕らえて処刑したくらいであった。彼の元には首都洛陽の学生や官吏たちが群がって知遇を求め、彼の面識を得ることは「鯉が黄河の難所竜門(りゅうもん)を登って竜と化したようなものだ」として、名づけて「登竜門」(とうりゅうもん)と言った。こうした李膺のような人気の有る人物の下に集まった学生・官吏たちには結局、国家騒擾の原因となると決めつけられて弾圧が下されることになる(「党錮の禁」、第一回AD166、第二回AD169)。
もちろん、官吏・学生たちの道徳ブームがどれだけ本心からのものだったかはかなり疑問であるが。
後漢時代はまだ科挙が存在しなかったから、儒教的国家観に従って「志操徳義がどれだけ高いか」の評判が出世の最大の要件だったからだ。
加えて、宮中にのさばる宦官どもをこき下ろすために、自分らの集団の清潔さをアピールするネタとした面も、間違いなくあった。ずっと後の明代でも、官僚たちが皇帝の寵愛深い宦官どもをひきずり下ろすために自分らを「清流」と呼んで正当性をアピールしたものだ。しかしその実体は、一部の例外を除いて官僚たちもやっぱり欲得の亡者ばかり。「清流」などという言葉は試験に高得点で受かった秀才たちのエリート根性の現れに過ぎなかった。
それでも、後の時代に比べて道徳への「純心さ」は後世よりもずっとあったのではないか。何しろ史上初めて儒教を国家の根本にすえつけた漢帝国である。それが王朝として当たり前とされた後世とは違って、国に携わる人々の思想への真剣さは比較にならなかっただろうし、だからこそ道徳の本来の姿をもっと追求していかなくてはならない、という意欲も段違いにあったと思われるのだ。次回取り上げたいと思っている司馬遷は儒家の徒ではなくどちらかといえば道家思想に傾斜していたが、厭世的な気分などみじんも持たず、人間が君臣の義を守ろうとする倫理への真剣さには強く共感していた。前漢・後漢の変わり目には王莽という儒教マニアさえ現れたのである。
諸葛孔明とは、そういった道徳の理想主義にわきかえっていた時代の、残り火の人だったのではないか。
彼の一生は、国家の安定と人間の道徳的完成を同時に実現すべきであるという儒教の大理想を、彼なりに真剣に追求しようとした一生として見たいのだが。
彼は一面で「法家」的であった。こんなエピソードがある。
劉備陣営が蜀入りを果たしたとき、孔明は厳格な法律を制定した。
蜀出身の法正が「こんなに多くの法を課してどうする。漢の高祖が『法は三章のみ』と宣言して人心を捉えたことを思い出しませい」と苦言を呈したとき、孔明は答えた。「それは時と状況をわきまえない物言いだ。漢の高祖は秦の法があまりに厳格だったからああしたのだ。以前にここを治めていた劉璋は法が散漫で規律ゆるく、役人はほしいままで人民はそのために苦しんだ。だから今は逆に法を制定して権威を示し、賞罰を明らかにすべき時なのだ。」
このエピソードから見られるように、孔明は民生安定の策として「法家」的方法も取った。一般的な「法家」とは、絶対君主の意志を整然と上意下達させるための方法論にすぎず、倫理的側面は何もない。君主が考えたことを完全に実施するためには「どうなすべきか」を問題にして、君主が「何をなすべきか」には答えないのである。それゆえに彼は「法家」的方法を嫌わず、大目的のために手段として採用したのであった。ここには孔明の教条主義的でない柔軟さが見て取れる。孔明の「法」への傾斜と君臣の「倫理」の真剣さは、後の時代と違って並立するものだったようだ。
だが理想の時代はすでに終わりかけていた。孔明の生きたすぐ後の時代には社会への絶望、現世からの逃避の時代がやってくる。阮籍ら「竹林の七賢」の時代はもうすぐそこまで迫っていた。やがて更に時代が下ると、中華帝国の組織はますます膨大おおげさとなって誰にも見通しがつかないほど非人間的な怪物となっていき、政治の中で君臣の人間的な理想関係を追い求めることなどはおとぎ話同然となっていくのである。このことを民衆はよく察知して、民衆は理想の人間関係を政界ではなくて『水滸伝』のように体制からはみ出した者たちの任侠の世界に求めるようになる。
*阮籍(AD210 - 263)は曹操・曹植父子に続く魏の大詩人。司馬氏が着々と進める王朝乗っ取りを横目に見ながら、理想も何もない時代への絶望が彼の詩のテーマとなる。当時老荘思想を論じた「竹林の七賢」の一人に数えられるが、阮籍は超俗というよりねじれたシニシズムである。
劉備は孔明の理想像にかなった明主だったのだろうか?
いろいろと言われているが、よくは分からない。少なくとも曹操や孫権にはない何かを持っている人物だったとは言えるだろう。
それにしても将来的展望ゼロの落ちぶれ軍閥によくついていったものだ。大きな賭けだったろう。
そしてこんな賭けができたのも、諸葛一族の時局を見据える情報収集力があればこそで、同時に真摯な儒教の徒として人物の持てる実力ではなくて人徳を見ようとする目を意識して持とうとしたがらではないだろうか?
以下はただの想像である。
孔明は、兄から孫権の呉について詳しく国情を聞いていた。一族への情報提供であると同時に、弟に対して将来の仕官にとって参考とすべしというはからいでもある。
兄の見るところによると、「呉は統率力高い主君を推戴して兵は強く、華北とは異質の水軍の守りを持っている。すでに呉は長江中流の軍閥黄祖を討って甘寧などの土地に詳しい者どもを取り立てた。これによって長江の防御は今や強固なものとなっている。曹操といえども制圧は難しいだろう、、、」
孔明は分析した。ならば天下は南北で割れる。古来、北から長江を渡って南の勢力を制圧できた例はない。秦が楚を併合できたのは蜀を経由したからであり、漢が項羽を平定できたのは項羽が長江を渡る前に戦意を喪失して投げ出したからだ。
だが兄は主君孫権の人となりについて、気になることを言ってよこした。「孫権は孫一族の血に違わず英邁で決断力に富む人物。だがしかし、やはり孫一族の先達者たちと同じく、独断専行的で臣下に冷酷な面がある、、、」つまり、自信過剰な人間が往々にして持つ特質を、孫権は持っている。
これは違う。私とは違う。兄には悪いが私は遠慮したい。、、、
そうだ、この荊州から誰かが立てば、第三勢力を築けるのではないか。そして新野の城にはそれをしたいと願っている「群雄になりそこねた男」がいるではないか。どんな人物だろうか、、、?
ずっと前から孔明は劉備を気にしていたのでないだろうか。一説に「三顧之礼」の真実は、孔明が劉備に先に会いに行ったという。君臣の理想を追い求める若き孔明にとって、意外とありえたことかもしれない。だが、どちらが先に探りを入れたのであれ、会見した青年孔明に対して歴戦を戦い抜いた二十歳上の劉備が最大限の誠意を示したことは十分に推測できる。孟子は、「大きなことを行おうとする君主には必ず呼びつけになどせずに丁重に扱う家臣があり、何か相談しようとするときには君主か臣の下に出向いていくものだ」(『孟子』公孫丑章句下、二)と言っている。つまりこれが人を誠意から動かす道であり、君主といえどもそうだということだ。孔明が劉備の何に感激したかは、わかるではないか。