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公孫丑章句上



二(その四)




宰我・子貢、善爲説辭、冉牛・閔子・顏淵、善言徳行、孔子兼之、曰、我於辭命則不能也、然則夫子既聖矣乎、曰、惡、是何言也、昔者子貢問於孔子曰、夫子聖矣乎、孔子曰、聖則吾不能、我學不厭而教不倦也、子貢曰、學不厭智也、教不倦盡也、仁且智、夫子既聖矣、夫聖孔子不居、是何言也、昔者竊聞之、子夏・子游・子張、皆有聖人之一體、冉牛・閔子・顏淵、則且體而微、敢問所安、曰、姑舎是、曰、伯夷、伊尹何如、曰不同道、非其君不事、非其民不使、治則進、亂則退、伯夷也、何事非君、何使非民、治亦進、亂亦進、伊尹也、可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速、孔子也、皆古聖人也、吾未能有行焉、乃所願、則學孔子也、

公孫丑「孔子の弟子の宰我(さいが。フルネームは宰予子我。以下同じ)・子貢(しこう。端木賜子貢)は、弁論に優れていました。また冉牛(ぜんぎゅう。冉耕伯牛)・閔子(びんし。閔損子騫)・顏淵(がんえん。顏回子淵)は徳行に優れていました。そして孔子は弁論・徳行いずれも優れていましたが、自らは『余は討論は得意でない』と言いました。すると、先生はもはや聖人なのですね!」
孟子「こらっ!何ということを言うか!いいか、子貢と孔子のこの問答を心にとめろ、

子貢「先生は聖人ですか?」
孔子「いや。余は学んで厭わず、教えて倦まないだけだ。」
子貢「学んで厭わないのはすなわち『智』、教えて倦まないのはすなわち『仁』、仁で智ならば、やはり先生はすでに聖ですよ。」
(『論語』述而篇に孔子と公西華との問答でほぼ似たものがある。だが、そこでは孔子は「聖」と「仁」はできないと謙遜した内容になっている)

孔子ですら聖の状態にいると自認などしなかったのだ。余を聖と言うその言葉は、なんという傲慢だ。」
公孫丑「、、、では、わたくし昔にこのようなことを密かに聞きました。子夏(しか。卜商子夏)・子游(しゆう。言偃子游)・子張(しちょう。顓孫師子張)は、みなそれぞれ聖人の一徳を持っていた。冉牛・閔子・顏淵は、聖人の資質はあったが人間が小さかったと。あえて質問します。先生はこれらの人たちと比べて、どのへんにおられるのでしょうか?」
孟子「だから、そういった話は置いとけと言うのだ!」
公孫丑「うー、、、、では、伯夷と伊尹はどのへんにいたのでしょうか?」
孟子「この二人は行く道が違った。伯夷とは、自分の理想に合った君主でなければ仕えず、自分の理想とする人民でなければ統治しようとせず、治世ならば仕事を行い、乱世ならば身を退ける。そういう出処進退だ。伊尹とは、仕えた以上はみな君主であるとし、統治する以上はすべて人民であるとして、治世でも仕事を行い、乱世でもまた仕事を行う。そういう出処進退だ。ところで孔子とは、仕えるべきと判断したならば仕え、退くべきと判断したならば退き、長くいるべきだと判断したならば止まり、すぐに去るべきだと判断したならば躊躇しない。そういう出処進退だ。この三人はいずれもいにしえの聖人といってよい。余はとても彼らのようにはいかないが、願わくば孔子の出処進退を学びたいものだ。」

このくだりは大変微妙な問題をはらんでいる。

公孫丑が言いたいことは明らかだ。「聖」の徳は儒教の徒が本来目標とすべき人間の完成目標だ。そこで目の前の師匠が「聖」の徳のどのへんにまで到達しているのかをしつこく聞きたがる。現代の生きた人間で基準を教えてほしいのだ。

孟子はそれに対して必死で戒める。その意図も明らかだ。公孫丑のような現代の人を崇拝しようとする考え方は、必ず折りかえって自分自身を崇拝する考えに結びつく。そこで、孟子は孔子と子貢の問答(『論語』には似た内容の問答はあるが、この二人の問答として収録されていない)を引き合いに出して、孔子ですら自らを聖人と自認していなかったことを挙げる。聖人とは、「学んで厭わず、教えて倦まない」ことを不断に行う、いつも現在進行形の存在だ。それを見て他人が聖人と認定するものだ。孔子は同時代の弟子により「聖」の徳を持つと認定されたかもしれないが、後世の我々はゆめゆめ現代人を「聖」だと認定などしてはならない。ましてや自分自身が「聖」の徳に達したなどと思ってはならない。それは儒教の目指すいつも現在進行形で努力する人間形成のあり方をだめにする傲慢な思考なのである。『論語』で孔子はこうも言っている。

子曰、聖人吾不得而見之矣、得見君子者斯可矣、子曰、善人吾不得而見之矣、得見有恒者斯可矣、亡而為有、虚而為 、約而為泰、難乎有恒矣。(述而篇より)

孔子は言った。「余は聖人といえる人を見たことがない。せいぜい君子といえそうな人を見れたら上等だ。余は善人といえる人を見たことがない。せいぜい心変わりしない人を見れたら上等だ。」

孔子もまた同時代人を容易に聖人認定などしなかった。「人間は天上の父なる神の被造物である」という発想から遠い古代中国で、自分自身や現代の有名人に神性を認める思考に対して歯止めを掛けるためには厳しく自制させて不断の努力を促すしかない。道教で見られるように、もともと中国は日本のように有名人をぽんぽん生き神様に認定する風土である。それからなるたけ離れようとする姿勢が読み取れる。


台北・孔廟の東・西廡(ぶ。回廊)に祀られている、孟子の弟子の公孫丑と公都子の位牌。その右には公明儀、孔子の弟子の秦冉開(しんぜんかい)、孔子と同時代の賢者左丘明(さきゅうめい)。左には宋代儒者の張横渠(ちょうおうきょ)、同じく宋代儒者の程頤(ていい)が並んでいる。



ここで、いったん一歩引いて「聖」とは何かという問題を挙げておきたい。

荻生徂徠の定義は、明確である。

聖なる者は作者の称なり。(『弁名』より)

これまでも言ったように、徂徠にとって聖人とは人間に対して制度礼法を打ち立ててやったゆえに聖人である。常人は決して到達することのできない、超越的存在だ。

周礼の六徳に、智と曰ひ、聖と曰ふ。これ聖人の徳を岐(わか)ちてこれを二つにし、以て君子の徳となす。けだし人の性は同じからず。故にその智は、能く政治の道に通ずる者あり。これに命(なず)けて智と曰ふ。能く礼楽鬼神に通ずる者あり。これに命けて聖と曰ふ。故にそのいはゆる聖も、また聖人の徳のごときに非ず。(同)

『周礼』(しゅらい。戦国時代から漢代ごろに編纂された、古代の政治制度便覧)の中に、六官に対応する六徳として「知・仁・聖・義・忠・和」とある。そこで徂徠は六つの官庁に分掌された徳の一つとして「聖」があるとして、「礼楽鬼神に通ずる者」を任じたというのである。つまり、「聖」は宗教・文化政策についての知識であり、「智」(知)が政治一般についての知識であるのと併せて聖人の持つ卓越した知能知識の一側面を言った用語にすぎないとなる。そして聖人とは、持てる知能知識を使ってそれらの制度を打ち立てたから聖人だと言うのである。

では、なぜ王でもなんでもない孔子は聖人なのか?これに徂徠は答える。

古の聖人の道は、孔子に藉(よ)りて以て伝る。孔子なからしめば、すなはち道の亡ぶること久しかりしならん。千歳の下、道つひにこれを先王に属せずして、これを孔子に属するときは、すなはち我もまたその尭舜より賢れるを見るのみ。けだし孔子の前に孔子なく、孔子の後に孔子なし。吾は聖人に非ざれば、何を以て能くその名を定めんや。故に且(しばら)くこれを古の作者に比して、聖人を以てこれに命(なず)くるのみ。(同)

《訳》
いにしえの聖人の道は、孔子の残した文献を通じて伝わっている。孔子がいなければ、いにしえの道は永久に亡んでいたであろう。孔子からも幾千年を経て、いにしえの道をもはやいにしえの聖王に属させず、孔子に属させるときには、私もまた孔子が尭舜より優れていると見るしかなくなる。結局孔子の前には孔子のような事業を行った者がおらず、孔子の後に孔子の事業に何か付け加えることのできた者もいない。私は聖人ではない。だから孔子が何者であるかを認定できる能力がない。したがって彼をいにしえの制度の制作者(の代弁者)にとりあえず比定して、彼を聖人としておくしかない。

これだけである。そして、徂徠は孟子がこの章で例えば伯夷・伊尹などを聖人認定したことは、孔子を持ち上げようとした一時の口のすべりが後世に誤解を招くもとであったというのである。

ここにおいてか旁(ひろ)く古の賢人の徳行の高き者を引き、これを孔子に比し、以て孔子の盛んなるを見(あらわ)すなり。これその夷(伯夷のこと:引用者)・恵(柳下恵のこと。盡心章句下、十五などで聖人と言及される:引用者)を以て聖人となすは、古のなき所にして、孟子これをその臆に取りて、以て一時の弁を済(な)し、またその後災あるを顧みざる者は、その罪に非ずといへども、またその過ちなるのみ。(同)

つまり、孟子のこの章でのもの言いは彼の本意から外れた口のすべりであって、後世の人間は聖人には決してなれない。後世の人間のなすべきことは、孔子の残した文献を通じて先王の制度を学び、現代の制度に応用するだけなのだ。伯夷・伊尹・柳下恵は徳の高い人だったかもしれないが、孟子の言うこととは違って聖人ではない。彼らに学ぶのは自由だが、それが儒教にとって本筋ではないことになる。同じく『論語』に見える孔子の人格形成についての箴言も、儒教の本質にとってはあまり大事ではないということになるであろう。

一方、伊藤仁斎はこのように言う。

孟子伯夷・伊尹・柳下恵をもってみな聖人として、智をもって射の巧に譬え、聖を射の力に譬う。しこうして三子の孔子に及ばざるゆえんの者は、便ち智の足らざるに在り。すなわち聖とは又その極に造(いた)るの称なり。しこうして欲するべきの善よりしてこれを充てて、大にしてこれを化するを聖人とするに至る。
(『語孟古義』より)

伯夷・伊尹・柳下恵は智徳の人だったから聖人である。その上で彼らと孔子の差を智の差に置き、人民を教化する力の差に置く。仁斎は朱子学の他人に向けた活動を軽視する禅まがいの修行主義を批判した。だが、宋代儒教以来の伝統である、いにしえの制度の保存継承よりも四書(大学・中庸・論語・孟子)の人間形成思想に重点を置いた読みを堅持している。

相対立する見解だが、私はこう思う。繰り返しになるが、孟子じしんは主観的には徂徠の言ったとおり具体的な「規矩」としてはいにしえの聖人の伝承に頼るべきだ考えていたかもしれない。つまり、「尭の服を着て、尭の言葉を暗誦し、尭の行動をなぞれば、それがまさに尭なのだ」(告子章句下、二)。その意味で孟子は昔ながらの儀式重視論者である。だが一方で、「四端(惻隠、羞悪、辞譲、是非)があるのに、仁義礼智の道を行えないと言う者は、自分の価値を貶める者だ」(公孫丑章句上、六)というように内面の倫理性重視の言葉を出す。そこには儀式伝承の奥に倫理性を求めようとする、素朴な敬虔さから離陸した思考が明らかに働いていると見えるのである。それが宋代儒教や伊藤仁斎に抽出された倫理体系なのではないか。それは何も彼らの思い込みからの捏造ではなく、孟子じしんの思考のわく組みからにじみ出たものだったのではないだろうか。告子章句下、二の孟子と曹交との問答でも、孟子は上のように言っているものの「あなたがお国に帰って求めれば、師はたくさんいますよ」と言って帰らせている。この章は徂徠によって孟子が「規矩」をいにしえの具体的な制度だけに求めた証拠として取り上げられているが、それならば孟子は「道とは大路のようなものです。知るのが難しいわけないのですよ」などと言うだろうか。この当時、いにしえの制度などは曹交のまわりを見回しても、ほとんど滅んでいたはずなのだ。それをあえて復活普及させようとしたのが、儒教教団の布教活動だったのだから。ここではむしろ孟子はいにしえの制度よりもその精神について曹交に説いていたと考えたほうがよいのかもしれない。(『孟子』がただの読み物ならば、これは「ははん、こう言って孟子は部屋住みの厄介者を追っ払ったんだな」と推理もできようが、これは思想書だから、そのような推理は不可である。)

戦国時代も中期になって実力第一の世の中がやってきた。この時代になると素朴な敬虔さは人間から後退して、あるいは老荘思想のような思弁哲学に昇華し、あるいは墨子のような後世の社会主義に極めて近い脱伝統的思想が現れ、またあるいは韓非子のような神秘性のないシステム理論までいずれ現れるに至る。このような時代にあって、ひとり儒家たちだけがいにしえへの素朴な敬虔さを保持していたとはとても思えない。おそらく公孫丑章句に見られるような心の分析を行い、人間の究極目標を社会的人徳の向上とみなす考えが教団の中でも主流となっていったのであろう。そして孟子もその考えの外にいたわけではなかった。だから伯夷・伊尹・柳下恵まで「高度な賢者」という意味で聖人と言い切ってしまった。それはもう聖なる者への敬虔さが大きく後退している当時の儒家の思想状況から出た言葉なのではないか。ライバルに対して「なぜ礼楽詩書なのか、なぜ仁義忠孝なのか」を理論的に主張する言葉は、そのまま自分たちの教団の中での内省的な問いに跳ね返ってくる。それは理論による自分たちの主義の合理化を要望させたはずである。

だが、孟子は思想が素朴敬虔さを失っていくにつれて門徒たちに傲慢さが出てくるのを恐れたのであろう。もし大事なのは思想だけであって、礼楽詩書などいらないとなってしまえば、もはや儒教教団は解体である。それに聖人がただのちょっと偉いだけの人間的存在であるならば、公孫丑が思っているように誰でも聖人の一徳を持つぐらいそうたやすくないという考えに至ってしまうだろう。それでは現在進行形で不断に努力すべしという儒教の強い教えがゆらぐことになる。本章のこの部分は孟子の弟子に対する必死の戒めである。そして結局は、これから続く部分で孔子を無謬至上の聖人に認定して弟子たちの手に届かない仰ぎ見るだけの高みに持っていった。それは外に向けて儒教の至上性を宣伝するための策としてであると同時に、内に向けて傲慢さを戒める方便としてでもあったに違いないと想像する。自分の能力を信頼して、無限の努力を求める教えでありながら、一方で決して自分に満足させてはならない。これは難しい課題だ。

最後に、本章のこの部分の最後に出てくる伯夷・伊尹・孔子の三者の出処進退への評価は、公孫丑章句の別の章では伯夷・柳下恵・孔子の対比で詳細に語られ、萬章章句では四者の評価が再びなされる。これらの章には自由な出処進退こそ賢者のなすべき道であると確信する孟子の考えがはっきりと現れている。賢者の心は、後世の忠孝の重い車輪の下に打ちひしがれてあえぐ人間たちとは全く違う、心のすべてを広々と展開して最高の仕事をする用意のあるものとして理想化される。それは身分の高い者や年齢が上の者ですら頭を下げるべき「徳」を持つ、忠孝のシステムから外れた「特権的例外者」なのである。その姿は、いずれ明らかになるだろう。


(2005.10.13)




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