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2009年06月 アーカイブ

2009年06月09日

「386世代」の原点

1987年6月10日のことは、韓国で「6.10」と呼ばれる。
日本ではバブル景気がとめどもなく拡大していた時代で、当時東京の大学に入りたての私は、週末になればコンパだ飲み会だとのスケジュールが入って、新宿のライブハウスでバカ騒ぎしていた群衆を見ていた。
ひねくれ者の私は、若い集団のパワーに圧倒されたというよりは、こいつら何が楽しくてこんなに浮かれているのか?と、わざとのように理性を捨てようとしていた姿に、底意地の悪い冷ややかな視線を送っていたものだ。日本では、もう学生運動は一部の好き者が続けている、悪趣味の一つに堕落していた。いっぱんの学生は、飲んで騒いでサークル巡りするばかりであった。校則が厳しい高校を卒業して上京した私は、都立高校出身の同級たちから、彼らがすでに高校時代から合コンとか飲み会とかやりまくっていたという話を聞かされて、驚いた。酒飲んでいいのか?というレベルの驚きではなくて、そんなに早くから浮かれていていいのか?という、私のくそ真面目な性分から出た、驚きだった。

この時期、韓国はソウルオリンピックを翌年に控えていた。
そして、学生運動が爆発していた。
日本では1960年の安保闘争以来見られなくなった、民主化を目指して政府と衝突する熱い大衆運動が、ここではまだ現在進行中であった。当局による大衆への大殺傷事件である光州事件は、じつに80年代初頭に起こった。韓国は、まだ民主化を勝ち取る過程の真っ最中であった。

Daumの議論コーナー「アゴラ」に、今日投稿された記事があった。
Exciteを使えば、大略は分かる。
訳してみたいが、まだそれだけの韓国語の力量が、まだ私にはない。
22年経って、そろそろ民主化運動の記憶も、風化する寸前と見たほうが、よいのであろうか。日本では、60年安保から22年後には、もう労働運動も学生運動も、どこかに消え去っていた。今年5月のノ・ムヒョン前大統領の急死では、「386世代」たちの声がにわかに高まって、韓国中を覆った。「6.10」の頃に学生だった人々が今や韓国社会の中堅となっているから、彼らの声が現在の韓国でいちばん大きく聞こえるのは、当然というべきであろう。しかし、今の下の世代は、「386世代」とはまた別の現実に直面しているように見える。現在の現実を、どのように解決していくべきかを提案するのは、誰なのであろうか。


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2009年06月11日

美しい韓国の川だけは、守ってほしい

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私が韓国の慶尚道を旅行して、いちばん感銘を受けた景色。
世界遺産の、仏国寺では、ありません。
海印寺でも、釜山タワーでも、ありません。
洛東江(ナットンガン)の、まるで水墨画をこの世に再現したかのような、美しい流れであった。

いま、韓国理財部は、低迷する国家経済に刺激を与えるために、数十兆の資金を投入して四大河川改造事業を行う計画であるという。
河川の間に運河を掘り進めるという現大統領の抱負を聞き知ったときには仰天したが、現在の計画では、今のところ運河事業は盛り込まれていないようで、私は一安心した。

Daumの討論コーナーであるアゴラでは、「四大河事業」に対する賛否の意見が、激しく戦わされている。
ある論客は、韓国が日本の土建国家への道を進もうとしている、と反対している。
その懸念は、当然であろう。
韓国でも、日本の壊れた海や川を再現してほしくはない。
金と仕事を回す経済は、人間の生活のためである。
しかし、美しい水と景観を後世の国民に残すことも、また人間の生活のためである。
日本の無残な姿を反面教師として、よく学んでほしい。
そしてできれば、日本の(システムとしては腐っているかもしれないが、技術としては優秀な)力を、役に立ててほしい。

「理財部の四大河河川保護事業は、結局国土を壊す売国政策であることを知るとき、これをのうのうと見逃している者は、売国奴李完用とその末裔である親日派縁戚以外には、ないであろう」(アゴラの一投稿者の言葉)というような言葉が、韓国の川の美しさを知る日本人の私として、痛い。

2009年06月14日

大阪・生野・コリアンタウン

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大阪環状線から300メートルほど東側に沿って、バス通りがある。
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。
この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。
当時、この近辺は工場の密集地であった。
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。
「疎開道路」の、始まりである。
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。

その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。


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大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。
正式名称、御幸通商店街。
これが通称、コリアンタウン。

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店先には、韓国語が並ぶ。
韓国の食材が、売られている。
おなじみのキムチ、チジミ。
店頭売りの、ホルモン。
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。


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チマチョゴリを売る、服屋。
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。
この街には、漢字もひらがなも、混在している。
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。

この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。

6月14日、ワンコリアフェスティヴァルの催しを、当初からかれこれ25年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。


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コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫(しゅんせつ)工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」

背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。

「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。

「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」


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もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。
かつての日本が、現在の中国の姿であった。
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」
に聞いた。
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。
「鳥が、戻りますかね?」
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。


会長の話に、戻る。
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」

戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であると、聞いたことがある。

ネットからの乏しい資料を拾い出すと、大阪商船(現・大阪商船三井)が大阪釜山線
を開いたのが、明治23年。以降、大阪商船は大阪仁川線、朝鮮沿岸線を就航させた。
大阪と済州島を結ぶ「君が代丸」は、大正12(1923)年に始まった。

こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。

とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来たと聞いている。
そういえば、鶴橋から御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、ところどころに店の看板として飾られているのを、見かける。
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。
由来はよく分からないが、石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑(チェジュウプ)の四隅に、配置されていた。
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。
(下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。)


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この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。

「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。


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東大阪朝鮮第四初級学校。
会長の、母校でもある。
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」


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このパネルは、(年度は失念したが)ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」


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御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。

現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」

私は、今年慶州の国立博物館に行った。
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。
新羅でもまた、勾玉(まがたま)がアクセサリーとして流行していた。
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。
日本の正倉院からペルシャの製品(あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品)と、同時代性を感じる。

チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました-」

彼らのことを、帰化人と言う。
近年、渡来人と呼ばれるようになった。
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。

「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」


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(クリックすると、拡大します。)


今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津(なにわつ)。
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇(5世紀)と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。

古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。
難波の堀江(なにわのほりえ、運河)、茨田堤(まんだのつつみ、堤防)、猪甘津の小橋(いかいつのおばし、橋)といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった(日本書紀に、「難波高津宮(なにわたかつのみや)」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない)。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。

かつて、百済郡(くだらぐん)と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。
現在では、百済駅(くだらえき)という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。
これらの地名は全て、かつて百済(ペッチェ)人のコロニーと、関わりがあった。

「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」

半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏(はたうじ)は、半島からやって来た集団であった。
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか?
新羅の都である慶州(キョンジュ)は、盆地の中央を兄山江(ヒョンサンガン)が、南北に流れている。
百済の都であった扶余(プヨ)もまた、同様であった。白馬江(ペンマガン)が、内陸盆地の都を、貫いている。
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。
平安京に都を移したのは、桓武天皇(8世紀)。
この天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済移民の子孫であった。
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか?

会長は、最後に言った。
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」


わずか1時間足らずの、ツアーであった。
夏の日差しが、暑い。
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。

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Koreanの色は、緑。
私が、旅行で感じた、とおりだ。


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彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。
この緑への好みは、どこから来たんだろうか?


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、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか?

それとも、川面の水の、色なのだろうか。

そんなことを、思ったりする。

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ワンコリアフェスティバル http://hana.wwonekorea.com/

2009年06月16日

李榮薫『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』

本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏。
だが、原書の発行年と、原書の題が書かれていない。(末尾に英語の題だけが、書かれている。)

著者の李榮薫(イ・ヨンフン)氏は、末尾に置かれている略歴によれば、1951年生まれで、現在ソウル大学経済学部教授。著作に、『朝鮮後期社会経済史』(1988)、『朝鮮土地調査事業の研究』(共著、1997)、『数量経済史で捉え直す朝鮮後期』(2005)など。

著者の情報を得ようと、韓国語版Wikipediaを開く。
「이 영훈」で検索する。
ない。
今度は、ポータルサイトのDaumで、検索する。
教授の写真付きで、出てきた。
教授について書かれたカフェ文(카페글)の表題を、見る。

「ニューライトのアン・ビョンジク、イ・ヨンフン教授、日本の金を受け取って研究!」
「イ・ヨンフンは、学生をだめにする教育を、即刻やめろ!」
「イ・ヨンフン教授、挺身隊は自発的参加と妄言」

えげつない言葉が、並んでいる。
カフェ文の表題では李教授を「ニューライト」と称しているが、本書の訳者永島氏の言葉をここで引用すれば、「李榮薫氏は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、また『ニューライト』の名で呼ばれるかつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画す保守論客であり」、「しばしばいわれのない『親日派』の称号(?)を冠せられようとも、その学風は常に是々非々の追求であり、しかも決して日本に阿諛迎合することも」ない。永島氏は李教授のことを「熱き憂国の士」と呼び、「実証を伴わない観念的な思考を極度に拝する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しくも透徹して」いると、評価する。その意味で、日本にとって最も手強い相手の一人であるかもしれない、と訳者は評しているのである。

本書は、三部に分かれている。

第一部 歴史への視線
第二部 文明史の大転換
第三部 くに作り

第一部は、本書の前置きとして、本書の問題認識を明らかにする。その批判の標的は、『解放前後史の認識』(ハンギル社、1979-1989)という書物である。

第二部は、解放前史を描く。焦点は、李朝が滅んだ原因、日本植民地時代の評価、そして「挺身隊」と「従軍慰安婦」の実相分析に、当てられている。いずれの内容も、きわめて論争的である。

第三部は、李承晩(イ・スンマン)政権までの、解放後史を描く。こちらの内容もまた、きわめて論争的である。

本日読み終えたばかりであって、検討をするのは今後でなくてはならない。

とりあえず読後の感想として、本書の視点は、以前に読んだ韓洪九氏の『韓国現代史』の歴史評価と、鋭く対立している。

あえて申すならば、戦後の大韓民国を、「親日派」の清算がなされずに「親日派」が国の中枢に陣取って作られたいかがわしい歴史であったと評価する韓洪九氏の視点は、金大中氏・故盧武鉉氏の両政権時代に見られた「民族ナショナリズム」(本書の序言を書いた鄭大均氏の言葉)に近づいている。
それに比べれば、李承晩時代を「『くに作り』の政治」と呼び、自由主義も民主主義もなかった国におけるやむないプロセスであったとしてプラス面の評価を下し、自由主義国家である大韓民国の建国を正統なものであるとみなす李教授の視点は、批判者からニューライトだと呼ばれる側面を、持っていないとは言えない。

李教授の日本支配時代に対する分析は、永島氏も評価しているように、是々非々である。通説を検討して、誤りを排したその後に、日本支配を批判しようと試みる立場である。韓国国内で上記のように一部から罵声を浴びている論客であることをわきまえた上で、本書の内容をよく検討していきたい。

2009年06月17日

文京沫『済州島四・三事件』

2008年4月、平凡社より発行。

四・三は、(光州事件などの)韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政(単独選挙・単独政府)反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。(pp.213)

2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇~三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。

本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局(大統領・李承晩)による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。
大正十二年(1923)、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」(pp36)。
本書内に引用されている1934年(昭和九年)の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4%で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」(「おわりに」より)
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地(済州島人にとって、半島)から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」(実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが)に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。

「四・三」という名称は、誤解を招く。
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。

いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。

・1948~49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。

・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた(1946年秋の「10月人民抗争」)。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順(ヨスン)事件」が起こった。全羅南道の麗水(ヨス)で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」(pp121)、順天(スンチョン)を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。

・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。


四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。

しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア(=難問)」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。

四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。

2009年06月21日

多文化交流会 at Tsuruhashi

6月20日、鶴橋本通にある韓国伝統茶店「ハナ」で、多文化交流会がありました。
「ハナ」とは、韓国語で「ひとつ」という意味です。
私は、先週あった「ワンコリアフェスティヴァル」の集会の席でもらったチラシをつてに、JR鶴橋駅から歩いていきました。

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この日は、夏至の前日。
厨房以外の明かりを消し、冷房も消して、再利用の廃キャンドルを点しての交流会。
かつての時代の夜を再現した、エコナイトでした。
主催した手塚さんと山中さんの、アイディアです。


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「ハナ」は、普段は韓国伝統茶のお店です。
壁には、著名なイラストレーター、黒田征太郎氏の絵が、いっぱいに描かれています。


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キャンドルライトの下、集まった皆さんと、楽しく会話しました。
喫茶店ですが、今夜はマッコリをメニューに出していただきました。これがなくっちゃ。
アンジュ(つまみ)として、駅前でチヂミとチョッパル(豚足)を買ってきました。
持ち込みOKのパーティーでしたので。
マッコリといえばチヂミかな~と、思ったので。
聞けば、チヂミの焼ける音は、雨の音だとか。
その音を聞きながら、雨の日にチヂミをアンジュに、マッコリを楽しむ。それが、韓国の風流というものなのかな?

-この日は梅雨の最中で蒸し暑かったものの、雨は降りませんでしたけれど。


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手塚さんは、韓国語の講師もやっています。
韓国に留学までして、韓国語をマスターした、すごい人です。
山中さんは、オーストラリア留学中に韓国人と知り合ったことを通じて、隣国に興味を持たれたと聞きました。
今夜集まった人々は、いろいろなきっかけで、多文化交流の集いに集まったみなさんでした。

私が隣国に興味を持ったきっかけは、今年2月に行った、韓国旅行からでした。
私は、自分が感動した三つの点を、皆さんに説明しようとしました。


하나 - 한국의 길이 아주 아름다웠어요.
ひとつ-韓国の道は、きれいだったです。

둘 - 음식이 다 싸고, 그리고 맛있었어요.
ふたつ-料理がみな安くて、そして美味かったです。

셋 - 사람의 인정에 감동했어요.
みっつ-ひとびとの人情に、感動しました。


実際には、こんなにすらすら言っていません。
私の韓国語は、まだまだです。
私は、「道がゴミもなくてきれいだった」と言おうとして、

아름다웠어요. アルムダウォッソヨ。

の言葉を使ったら、手塚さんから、「その場合はむしろ、『ケックタダ』(清い、清潔だ)のほうがいいですね。」と教えられた。
私が「ケックタダ」のハングルを書けないでいると、彼女はすらすらと「깨끗하다」とカードに書いてくれた。
「『アルムダプタ』は、『わあ、素敵できれい!』といった感じの、言葉です。」
「あと、『コップタ(곱다)』っていう言葉もありますよね。その違いは?」
「たとえば、年配の方が綺麗なチマチョゴリを着ていたりしたとき、『コップタ』ですね。」
日本語ならば「清楚だ」って、感じだろうか。
さすが、上手に指摘なさる。


韓国語で「趣(おもむき)」は、モッ(멋)といいます。

멋이 있어요. モシ イッソヨ。

と言えば、「趣があります」=「すばらしい」と言う意味になります。
今晩は、まことに、モシ イッソッソヨ。(すばらしかったです)


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