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文京沫『済州島四・三事件』

(カテゴリ:東北アジア研究

2008年4月、平凡社より発行。

四・三は、(光州事件などの)韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政(単独選挙・単独政府)反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。(pp.213)

2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇~三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。

本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局(大統領・李承晩)による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。
大正十二年(1923)、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」(pp36)。
本書内に引用されている1934年(昭和九年)の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4%で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」(「おわりに」より)
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地(済州島人にとって、半島)から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」(実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが)に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。

「四・三」という名称は、誤解を招く。
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。

いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。

・1948~49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。

・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた(1946年秋の「10月人民抗争」)。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順(ヨスン)事件」が起こった。全羅南道の麗水(ヨス)で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」(pp121)、順天(スンチョン)を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。

・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。


四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。

しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア(=難問)」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。

四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。

コメント (2)

ぷさんのたかし:

なかなか難しい内容ですね。でも良く韓国の歴史を勉強されたのですね。私も韓国語を勉強すると同時に韓国の歴史や文化を勉強しようとしました。いづれも中途半端ですが、ここを読んで勉強になります。
四・三が有ることを知りませんでした。三・一が抗日独立運動記念日ぐらいしか知りません。

Suzumoto Jin:

ぷさんのたかしさん。

私は、最近現在の半島の言論を読むたんびに、思わずにはいられないのです。

いったい、あなたたちは、今後どのような国を、作りたいのか。

今の国の、何に怒りを感じているのか。

それを思うと、調べれば調べるほどに、「清算されていない過去」の問題に、行き着くのです。

きっと、現状に納得していないのだろう。

だから、事あるごとに、問題が噴出する。時には、「親日派」清算の問題が、出てくる。この問題は、日本人にとっては痛烈です。

私は、韓国で言えば、「386」世代です。
この世代は、全大統領時代にすら、学生への弾圧事件を経験していたことを、最近読んで知りました。

こういったことを知っておかないと、今後相手と話すら噛み合わないのかもしれない。同世代なのに。

私は、未来を見たいので、現在の半島を知りたいと思っているのです。それで、わだかまりの元である過去を、調べずにはいられません。

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