政治・経済 アーカイブ

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首相官邸に投書 --->2009年03月29日

首相官邸からのメール --->2009年03月31日

サイト探訪-『日本を守るのに右も左もない』 --->2009年04月06日

『俳句の可能性について』-類ネットへの投稿文 --->2009年04月08日

日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(1)-類ネットへの投稿 --->2009年04月10日

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日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(3)-類ネットへの投稿 --->2009年04月10日

跡田直澄『NPOの経済学』を読む --->2009年04月14日

跡田直澄『NPOの経済学』を読む(2) --->2009年04月14日

跡田直澄『NPOの経済学』を読む(3) --->2009年04月15日

崔吉城『「親日」と「反日」の文化人類学』 --->2009年04月16日

崔吉城『「親日」と「反日」の文化人類学』(2) --->2009年04月17日

韓洪九『韓国現代史』 --->2009年04月18日

韓洪九『韓国現代史』(2) --->2009年04月19日

韓洪九『韓国現代史』(3) --->2009年04月20日

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大変な誤解を、していました。 --->2009年05月02日

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悲鳴を上げる中国農業 - 日経オンライン記事 --->2009年05月14日

傷に塩を塗るのか(Salt in their wounds)-The Economist記事 --->2009年05月16日

「間」と「情」 --->2009年05月16日

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「386世代」の原点 --->2009年06月09日

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大阪・生野・コリアンタウン --->2009年06月14日

李榮薫『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』 --->2009年06月16日

文京沫『済州島四・三事件』 --->2009年06月17日



2009年03月16日

Korea!2009/03/16

阪急電鉄に続いて、JR西日本からも回答があった。
以下に、その全文を掲示する。


鈴元 仁様

いつもJR西日本をご利用いただきまして、ありがとうございます。
また、ご連絡が遅くなりまして申し訳ございませんでした。

関係部署からの報告に基づき、頂戴いたしましたご意見についてご回答させていただきます。
ご指摘の英字でのご案内についてですが、路線図式の運賃標への表記については、英字だけでなく、漢字やひらがな等を含めた全体の見やすさと分かりやすさを確保するため、情報の内容、表現方式(表示方法、デザイン、色彩等)、掲出位置(高さや配置間隔など)を考慮して体系的に配置しており、英字については主要駅の表示としております。
関西空港駅を含め、海外のお客様も多数ご利用になる主な駅については、路線図式の運賃標とは別に表形式の英字運賃標を設置しておりますので、きっぷをお買い求め頂く際に、併せてご利用頂いております。

みどりの券売機につきましては、一部業務以外は「ENGLISH」ボタンを押すことで英語案内が可能です。
また、一部の近距離券売機でも同じく「ENGLISH」ボタンを押すことで英語案内が可能です。
なお、券売機の老朽取替に伴い、英語対応可能な券売機を増やしているところです。
中国語と韓国語については、現在のところ表示する予定はございませんが、今後の参考とさせて頂きます。ご理解の程よろしくお願いいたします。

今後ともJR西日本をご利用いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

阪急の前例に引き続き、私からのJR西日本への回答のメールを、ここに公開する。

私の意見へのご回答、誠にありがとうございました。

しかし、ご回答の内容でございますが、残念ながら私にとって満足のいくものでは、ございませんでした。
主要駅には表形式の英字運賃標が置かれていると、おっしゃる。
どうして、全駅に設置しないのでしょうか。
貴社の現在の対応では、外国人がマイナーな駅から乗り、マイナーな駅で降りることは、できません。
日本語は、トルコ語のようなローマ字表記では、ないのです。私が韓国に行ったとき感じたように、外国人にとって日本語の漢字とかなは、ミミズがはいずり回っているような呪文にしか、見えません。ガイドと引き比べて参照を試みるだけでも、うんざりしてくる代物なのです。その事情が、いま一つお分かりになっておられないように、見受けられます。貴社の皆様は、アラブ文字を読む気力がありますか?カルナータカ州で公用されるカンナダ文字を、旅先で解読してやろうという、殊勝さがありますか?日本の漢字とかなは、これらの文字よりも、ずっとずっと数が多くて、外国人が覚えることが事実上不可能なほどに難しいのですよ。

もしや、外国人にはそのような用事などあるはずなく、あるいは外国人は隠れた名所を観光しようという興味がない鈍物揃いであるとでも、思われているのでしょうか。
もしそうであるならば、貴社は外国人を侮っているのであり、そして日本のことを積極的に見せようとしない、日本の観光立国化を妨げる鉄道会社だということになってしまいます。
いま一度、申し上げます。
果たして、主要駅からバス・タクシーを使って、外国人が目的地に行くことが、果たして今の日本で容易でしょうか。
かつての国鉄から鉄道路線を受け継ぎ、西日本の各地に網の目のように鉄道を保有しておられる貴社は、異国の人を日本国内の好きな所に送り届けてあげる社会的責任があると、私は思います。
どうせ貴社の社員・駅員の皆様方といえども、日本人です。現在の日本人が、英語を習得できるわけが、ありません。よって、社員・駅員の方々に、口頭によるサービスを外国人に用意することは、おそらく非能率かつ効果薄です。
これは、阪急電鉄にも申し上げたことです。
どうして、日本の企業であるならば、券売機や掲示板にテクノロジーを用いて、各国語で読めるように、工夫をこらさないのでしょうか。
社員や駅員は外国語が話せなくても、機械は話すことができます。
英語、韓国語、漢語(中国語)といわず、全世界の言語をもって乗り降り・運賃をガイドできるような券売機を、今後よろしく開発したまえ。
デザイン上、路線図の全ての駅に英語標記ができないとおっしゃるのならば、路線図に光学的工夫を行なって、ある地点から見れば路線図が英語標記に映って見えるような仕組みを、よろしく企画したまえ。日本のテクノロジーならば、おそらくどこかの企業が、すでに開発しているはずです。
異国の民に日本の隅々までを知らしめ、加えて日本のテクノロジーの優秀さを示して、日本の誇りとなりたまえ。

もとより、私の申しているのは、全てホラ話です。
しかし、イノベーションはホラ話から始まることを、できれば理解してください。

貴社の今後のご発展を、心よりお祈り申し上げます。

おそらく、私の意見は、通らないだろう。
それが、大企業だ。官僚組織だ。
JR西日本一社の、罪ではない。
今の日本企業は、おしなべてこうなのだ。狭い池の中の、錦鯉。見てくれは綺麗であるが、何一つ自由に動くことができない。そして、自分たちが狭い池の中に住んでいることですら、もう忘れてしまっているのだ。そのうち、病気になって鱗がはがれて行きますよ。そうなったらもう、鯉の味噌汁にも値しなくなるであろう。

2009年03月17日

Korea!2009/03/17

ところが八五年四月に日清間の天津条約が成立して日清両軍は完全に朝鮮から撤退したが、守旧派政権が復活して開化アレルギーが政府内部に蔓延し、日清戦争に至るまでの一〇年間は、開化運動のきびしい雌伏期となった。ところが朝鮮をめぐる日清間の対立のほかに、一八八五年四月イギリス極東艦隊が巨文島を不法占領したため(八七年三月に撤退)、朝鮮をめぐる英露の対立が露呈した。この一八八五年にアメリカから帰国して軟禁状態にあった兪吉濬および、ドイツ総領事代理バッドラー(H.Budler)によって中立化論が提起されたことは注目に値する。両者間には「バッドラーは朝鮮中立化のモデルをスイス(蕊斯国)に求めているのにたいし、兪吉濬はそれをベルギー(比利時)とブルガリア(発佳利亜)に求めている」差はあるが、この中立化論はいずれも世論を形成するまでには至らなかった。
(姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.229)

兪吉濬(ユ・キリョ)およびバッドラーが提案した半島中立化案は、姜尚中東大教授が現在提唱している半島永世中立化案と、平仄を合わせている。
スイス同様周囲を列強に取り囲まれている中堅国であるコリア半島の地政学的位置付けから、中立化論は論じられている。すなわち非同盟の道であり、どの国とも偏することを行なわないことによって、国家と周辺地域に平和をもたらそうという、アイデアである。
まことに、説得力がある。
コリア半島は、かつての二千年の歴史において、三度日中の軍事衝突の場となった。
七世紀、新羅(シルラ)を巡った、唐と日本の争い。
十六世紀、李氏朝鮮を巡った、豊臣秀吉の侵略軍と明との争い。
十九世紀、再び李氏朝鮮を巡った、明治政府と清との争い。
その上に、二十世紀初頭の日露戦争と、二十世紀中葉のKorean Warがある。半島は、日本、ロシア、中国の三大列強に取り囲まれている、東北アジアの火薬庫なのだ。
これを繰り返してはならないゆえの、永世中立化案である。
この意見は、重く受け止めなければならない。
ただ、永世中立化案は、スタティック static なモデルである。現状は維持されるが、動的な経済と社会の発展は、回避される。
全て、半島の民しだいであろう。
永世中立化して周辺諸国から距離を置き、東方の隠者に戻るか。
それとも、ダイナミック dynamic な東北アジアの同盟を目指して、民族の歴史を揺さぶり動かすか-
ただ、永世中立化案では、日本との和解は残念ながら無理である。日本は国益を賭けてまで、中立国に肩入れすることは、できない。

Korea!2009/03/17

朝鮮日報(チョソンイルボ、조선일보)への投書を、以下に公開する。
朝鮮日報は、東亜日報、中央日報と並ぶ、韓国三大紙の一である。
各紙を比較検討しながら同時に投書を送りつけるのは、先方への侮辱となる。ゆえに、今は一社だけに絞って、投書した。
どうして朝鮮日報を選んだのかの理由は、ただ一つ。
三紙ともに、オンラインの日本語版がある。
朝鮮日報の訳が、最も本当の日本語を用いている。他二紙は、残念ながらわずかに日本語がおかしい。他二紙とも記事の意味は読み取れるのであるが、文脈にふさわしい語彙の用い方や、ひらがなで表記するべき用語か漢字で表記するべき用語かの「呼吸」とも言えるニュアンスが、日本語から多少離れている。
日本人の書いたものの趣意を、誤解することなく完全に読解している新聞社は、よって朝鮮日報であろうと、判断した。
日本語版Wikipediaなどには各紙の主張・傾向などが印象批評されているが、はっきり言って聞く耳持たない。
先進国の大新聞ならば、一方的に偏った記事が、書けるわけがない。右か左か保守か革新かなどの傾向は、程度の差にすぎない。朝鮮日報は聞くところによると保守系らしいが、保守主義者だから他人の意見を聞かないなどと決め付けるのは、どこかの左翼小児病者だけである。
よって、私や、他の日本人が書いた日本語をもっとも正しく解読できるであろうという印象を受けた、朝鮮日報に今回投書することとした。
日本語は、極めて難しい言葉なのである。まず日本語の文書や書物は、海外で誤解されていると、思ったほうがよい。

P.S.
残念ながら下のメールは、受信されなかった。
日本語版でだめ、英語版を経由しても、だめであった。
スパムメール対策でも、しているのであろうか。だったら、サイトに明記するべきである。
残念ながら、当社は日本人の意見を(そして、外国人の意見を)積極的に聞こうとしていない姿勢であると、見受けられる。よって、他二紙に投稿する。


前略。

私は、一介の日本人です。
貴社におかれましては、充実したオンライン日本語版を置かれ、その日本語もこなれて表現が適正であると判断いたしますので、日本語で投書をさせていただきます。もしこの投書の日本語で不明な箇所がございましたら、私にお問い合わせいただければ、日本語ないし英語にて、ご返答申し上げます。ただし、私は韓国語がほとんどできませんので、韓国語でのお問い合わせにお答えすることは、残念ながらできかねます。ご了承のほどを。

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2009年03月18日

Korea!2009/03/18

「三、東西の長所を打って一丸とした日本の文化を、そのまま何の労苦もなく、韓国に取り入れるのは極めて有利であるが、それには、日本の言葉を知るのが捷径で、教科書の如きも、日本仮名の所を諺文に改めると、直ぐにそのまま韓国のものとなる。」

一九〇四年、韓国政府の学部参与官として学制改正に着手した幣原坦の「五つの方針」の一、「漸次日本語を普及せしめる」である。姜在彦『朝鮮の開化思想』から引用した(pp.354)。
韓国語を少し学習すれば理解できるように、日本語と韓国語は語彙と文法が、酷似している。
この事実を発見した日本人が、小躍りして幣原のように結論付けることは、最もありえることである。
一九〇四年八月の日韓協約以降の日本人は、幣原のごとき錯覚に反省を加えることなく、日本人≧半島人の図式を頭から信じきった。世界五列強の一に成り上がった日本の勢威が、その錯覚を通らせてしまった。

もとより、日本語と韓国語は、別の言語である。
スペイン語とイタリア語のような、真の兄弟言語ではない。外部からの文化的影響によって結果的に酷似することなった、同窓生といってよい言語である。日本語の母音の響き、花の色を愛でる感性、情に流される情緒性。韓国語の子音の響き、石と水の簡素を愛する感性、主張を凛として保つ固執性。何もかも、違う。
一九〇四年以降四〇年余続けた日本の勝手な思い込みによる暴挙的併合政策は、一〇〇年後の現在においても、日本人の心中で反省されることもなく、保たれている。何という、怠惰な精神であろうか?

Korea!2009/03/18

内田はつぎのように書いている。「著者が斯くの如く日韓併合を急いだ所以は、支那革命の機運既に熟し、数年を待たずして勃発すべき形勢にあるを以って、支那革命に先立ち合邦せざるに於いては、韓国の人心支那革命の影響を被り、如何なる変化を生ずべきか測るべからざるものあるのみならず、満蒙独立の経綸も行ふ可からざることとなるべき憂ひがあった。」 (姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.382)

又引きが続くが、読書ノートなので原典を探らず引用する。
上は、国粋主義団体黒竜会の創設者、内田良平(1874-1937)が、1932年に出した『日本之亜細亜』からの引用である。内田は、韓国の合併促進団体一進会と提携し、日韓併合に奔走した策士であった。
なぜ日露戦争後に日本が日韓「併合」を - 日本が「併合」の言葉を用いた理由は、「韓国ガ全然廃滅ニ帰シテ帝国ノ領土ノ一部」とする本意であるにも関わらず、過激な表現を避けただけであった(上書pp.421) - 急いだのかの理由は、内田の回想の言葉が、最もよくそれを表している。日本は韓国を帝国主義戦争の果実として断固確保するスケベ心を丸出しにしたのみならず、すでに「併合」時点で後の時代の満蒙侵略が、国家のビジョンとして見えていたのである。そのための足がかりとしての、コリア半島領有であった。
司馬遼太郎は昭和戦前の日本を「鬼胎」として日本史からの逸脱であったと見たが、あれが「鬼胎」であったのならば、内田のビジョンを実行に移した伊藤博文や山県有朋といった、明治国家の元勲たちがすでに日本史の「鬼胎」であったということになる。残念ながら、司馬遼氏の明治・昭和史観は、重大な修正を必要とすると、私は評価せざるをえない。日韓併合以降の日本は、まず半島を策源地として工業化し、進んで中華民国を分割占領する国策に、ほぼ一貫していた。満州事変以降の日本は、それまでの日本史からの逸脱でも何でもない。伊藤が、山県が、敷いた路線の上であった。戦前に学生であり一庶民であった司馬遼氏は大日本帝国によって散々な目に合わされたが、彼にのしかかった大日本帝国という存在自体が、明治からの着実な積み上げの結果であった。東北アジアの文明から生まれ出て、にわかに十九世紀の西洋帝国主義の礼儀作法を学んで東洋の猿真似国家となった大日本帝国じたいが、「鬼胎」であった。そう評価しては、いけないのであろうか?

鮮人が最近数年間、所謂国家の岌業(きゅうぎょう。大きな事業)に際会するや、其開化の迅速なること、恐くは明治二十年間に吸収したる文明を、鮮人は僅々数年間に会得せるもの如く、現今の鮮人を六、七年前の鮮人と比するに全然形貌を一変し、京城市街の面目が毫も旧慣を止めざるに至りたる変化よりも、遙かに速かなるものあることは之を公言するに躊躇せず、、、

輓近鮮人思想の急変を見ては、真に寒心に堪えざるものありと存す。蓋し鮮人を統ぶるの方策は、秋霜烈日一毫も仮借する処なく、先ず其初めは討伐にあり、討伐して而して後に威圧あり、威圧して而して後に綏撫あり、綏撫して而して後に鮮土初めて平安なるべし。

朝鮮総督府警視国友尚謙の『不逞事件ニ依ッテ観タル朝鮮人』からの引用である。なお、読みやすいようにカタカナをひらがなに直した。
国友が「寒心に堪えず」と言っているように、半島人は日本人が侮っていたほど、魯鈍な民ではなかった。単に、李朝五百年の積弊が、民衆の力を抑圧していただけであった。焦った国友は、そして日本当局は、ただ討伐、威圧を持って望んだ。日本の半島支配は、その当初から失敗していた。
日本は、十五年前に棚ぼたで台湾を領有して、ここを土匪の住まう土地のように討伐と威圧をもって制圧し、かなりの成功を収めた。日本の韓国支配は、明らかに台湾での経験を半島に当てはめたものであったに、違いない。しかし、半島は台湾とは、全く違った世界であった。台湾の住民に蔓延していた阿片中毒の弊も、アナーキーな村同士の私闘(械闘という)も、韓国には存在しなかった。韓国は、出遅れはしたが日本と潜在的に同水準の文明を、持っていたのであった。

大勢より察するに、今日は既に暴徒蜂起(義兵運動)の時期を経過せり。勿論再び蜂起することなきを保し難しと雖も、予の察する所に於て将来の危険は、人民の文明に進むに随って起るべき無政府主義、社会主義等に類する危険なりとす・・・

一九一〇年七月に警務総長を兼任した韓国駐箚憲兵隊司令官明石元次郎(1864-1919)の、就任早々の訓示であるという。
明石は、いっぱんに日本では、日露戦争時にストックホルムにあって第五列を利用し、ロシア帝国内に騒擾をもたらしてロシアの挫折に手を貸した英雄として、描かれる。
しかし、戦争の後に彼がその辣腕を買われて、韓国併合時点の警務総長として半島人への弾圧を指揮した事実は、日本人のとんと知るところではない。
明石は、安重根(アン・チュンクン)の従弟で独立運動を画策していたという(事実は不明)安明根(アン・ミョンクン)を、カトリック教会の密告をネタにして逮捕・拷問し、それを皮切りとして半島において愛国啓蒙運動の活動家一六〇人余を一網打尽にして、拷問・起訴・徒刑に処した。
この一九一〇年十二月の「安岳事件」は、一年後の一九一一年に、民族振興を目的に結成された秘密結社「新民会」を対象に一大弾圧を加えた、「百五人事件」のさきがけとなる日本武断当局の行動であった。すなわち、一九一〇年末に企画されていたという(事実は不明)寺内朝鮮総督暗殺未遂の嫌疑をもとにして、一九一一年九月の平安北道在住の李範允なる青年を逮捕・拷問した後、翌年三月にかけて六〇〇余名の逮捕が断行された。拷問による死亡者四名、発狂者三名を出した後、一二八名が起訴、うち一〇五名が有罪判決を受けて刑に処された。ゆえに、百五人事件という。明石や、国友は、日本の機能的な警察力を活用して、半島人の地下独立運動に鉄槌を加えたのである。
「新民会」は秘密結社であったが、その活動は(もとより秘密結社だから不明であろうが、)テロリズムというよりは愛国教育事業の振興や、民族産業の育成にあったと想われる。そういった半島人の自律的活動力までを、日本当局は敵視して、窒息させようとした。日本は、併合当初から、半島人の活動力を恐れていたのである。これでも、「半島の植民地化には恩恵があった」などと、日本人は胸を張って言う勇気があるか。
こんな野蛮を隣国にしなければならなかった「明治という国家」は、司馬遼が追慕するようなよいとこずくめの結果を、後世のわが日本民族に残したのであろうか。
日露戦争の英雄、明石元次郎は、戦争後も生きて、仕事に精を出していたのである。そして、彼が忠勤した大日本帝国は、「坂の上の雲」を通り過ぎた後、打ち負かしたロシアに成り変わって、凶暴な民族の牢獄と化していったのであった。

2009年03月20日

Korea!2009/03/20

朝鮮日報へのメール送信が拒否されたので、別紙に送ることにする。先方から拒否された以上、別紙に鞍替えしたところで、礼を失することにはなるまい。
中央日報(チュンアニルボ、중안일보)は韓国三大紙の一。日本語サイトもある。日本語サイトの特徴は、日本語での投稿が公開されていること。産経新聞のiza!に通じるものがある。
それにしても。
投稿された内容が、判で押したように、嫌韓である。
これに投稿している阿呆どもは、気づかないのか。
この新聞がこうして諸君らの投稿を公開しているのは、日本人が野蛮人であることを宣伝するための、素材にしているのだ。
これに嫌韓の投稿をしている者は、新聞の策略に踊らされている低能か、あるいはわざと投稿して日本を貶めようとしている、売国奴である。きっと、投稿のうち何割かは、売国奴が投稿している。中央日報のウェブマスターは、嫌韓の投稿を削除しなければならない。

とにかく、中央日報にメールを送付した。内容は、以下のとおり。前回の朝鮮日報宛ての内容を、中央日報に送るために添削しただけで、主文は変わらない。


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Korea!2009/03/20

本日、夕映舎氏と祇園のコーヒー屋で、談怒。
談笑と書くよりも、韓国を語るときには、こう書きたい。
私が、「秀吉については、これを悪人として歴史を再定義しなければならない」と言った言葉を、夕映舎氏は斥けた。
「一方的な謝罪なんざ、やってたまるか。秀吉は、日本史の誇りの一つや。それをまるまる否定するなど、日本を否定することや。伊藤博文も、吉田松陰も同じ。日本史にとっては、大事な英雄や。フランスがナポレオンを否定したり、中国がフビライを否定するか?もっと、客観的な歴史的評価を双方で持てるところに導いていくのが、互いが誇りを持って認め合うことやないのか?」
私は、これまでそれができなかったから、まずこちらから頭を下げて、動き出させる必要があるのではないか、と反論した。
「たとえば、ドイツのビリー・ブラントが謝罪したように、、、ドイツでナチスを肯定する言葉を、自ら封殺したように。」
夕映舎氏は、言い返す。
「ドイツは、ナチスだけに罪をなすりつけることができる、歴史やった。日本史は、そうやない。誰にでも罪があるように、なってしまう。どこまでも遡って、収拾がつかない。」
この部分は、微妙である。ありていに言えば、ナチスだけに罪が本当にあったのかどうかは、歴史が評価するべき問題である。切り返して言えば、ドイツ史より責任の所在があいまいな日本史であっても、あえて誰かを最終的な責任者として断罪し、象徴的に過去を反省させる歴史評価の道を取ることも、できるはずなのだ。
しかし、夕映舎氏は、言った。
「そうなったら、天皇になる。」
これは、急所である。私たちの論議は、それ以上先に進めなかった。
この急所を回避せざるをえないために、これまでの政治は日韓を、さらに日本が侵略した諸国とを和解させることに、失敗したと言えるのであるか。
だが、このままでは、将来もまた日本は周辺諸国から、孤立したままだ。そしてそれは、日本の没落への道を、きっと開いていく。
夕映舎氏は、私に言った。
「政治と同じ言葉を、使ってはいかん。同じ言い合いの、繰り返しや。だが民の意見は、もっと別のところにあるはずや。そこから、搦め手で盛り上げて行く。それが、お前のするべきことではないか?」
彼は、秀吉を祀った神社なども、必ず韓国人に見てもらうべきだと、主張した。
秀吉を英雄として祀るのが日本史である以上は、隠してはならない。見てもらわなければ、こちらの誇りを保つことができない。譲歩するのは、我らが日本海を東海(トンヘ)と言わされる道へと、繋がって行く。
確かに、そうなのだ。
釜山の龍頭山(ヨンドサン)は、かつて対馬藩倭館があった土地なのだが、徳川時代の友好外交の拠点であったにも関わらず、韓国の歴史から抹殺されている。現在龍頭山に行ったとしても、ここがかつての倭館であった説明を、見つけることができない。彼らは日韓史のポジティブな面を隠している点が、確かにある。
しかし、日本もまた、安土桃山時代の日本製の陶磁器が明朝や李朝の優品に比べ物にならない粗末品であり、それが徳川時代初期に突然質が上がったのは李朝から拉致して返さなかった陶工たちの技術のたまものであったという事実、日本は確かに鉄砲の採用では隣国に先んじていたが、大砲の製造技術では明朝や李朝に大きく見劣りしていたという事実、さらには李朝の亀甲船(コブッソン)と日本水軍の和船では、原子力空母と日露戦争の戦艦三笠の差にたとえてよいぐらいの、テクノロジーの質というべき戦力差があった事実などを、戦国ロマンを過大評価する癖によって見逃している。日本は北朝鮮の拉致問題を悪魔の所業のように糾弾し、確かに現代社会においては非難されてしかるべきであるが、日本もかつて半島から拉致して返さなかった人々がいた日韓史を拉致の糾弾者たちが知らないならば、それは一種の犯罪である。

双方ともに、歴史を正しく認識していない。
これを歩み寄らせることは、確かに相互が誇りを保ったままで、冷静に相手を評価できる道になるに、違いない ― 極めて、難しいが。

彼は、私に任意団体を設立し、国際関係のための非営利の事業の器を、作るべきことを薦めた。
その言葉、ありがたく受け取ることにしよう。

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WinXPは、コントロールパネルを操作することによって、韓国語入力機能を追加することができる。
これで、ハングルをワープロ打ちができるようになった。八千万人の使う言葉だ。覚えて、損はあるまい。

2009年03月21日

Korea!2009/03/21

戦争中の日本軍の暴虐を考えれば、私は「謝罪する」という言葉を使いたかったが、私は彼らの真情を知りたかったので、できるだけ倫理的な判断から距離を置くために謝るとか、お詫びするという言葉を一回として使わなかった。私の思想も心情も彼らに通じ、彼らによって受け入れられたと私は今でも考えている。というのは、私は翌日の学生の出席者の数は減るのではないかと予想していたが、それは増えこそすれ減ることはなかったからである。最後の二日間は南開大学の元学長も続けて出席してくれたのである。
しかしそれは学生との意志の疎通である。日本軍に苦しめられた一般民衆や、日本軍と戦った軍人たちも代表する江主席は、日本人の歴史理解を曖昧にしたままで両国の関係を先に進ませることができないのは当然である。
(森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』(岩波書店)第7章 ただ一つの解決策より。)

今この本を改めて読み返してみると、森嶋氏の構想といま私が抱いている構想は、力点の置きところが少しずれている。
森嶋氏と私が共有している点は、日本・コリア半島・中国文化圏の三者を「東北アジア」と定義して、これを「歴史的文化的にも近く、人種的にも近い隣国だから共同作業が出来る」(pp.155)と考えている点である。森嶋氏は、文化的つながりを共同体の基盤に置いている。ゆえに、宗教が違うベトナム以南の東南アジア諸国は、含まれない。ましてや、インド、ロシア、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドは、少なくとも経済共同体としての「東北アジア共同体」の枠組みの、外に置かれる。森嶋氏のこの域内における最終構想は、EUと同じ域内共通通貨である。この構想に、私は全面的に賛同する。

私と森嶋氏が違う点は、日本にイノベーションをもたらしうる隣国への焦点の当て方であり、ゆえに真っ先にアプローチするべき隣国の選び方である。森嶋氏は戦前に海軍に徴集された戦争経験者であり、あの戦争が中国への日本侵略から始まったことを、骨身にしみて知っていた。だから、彼の構想が、日本の社会経済を復活させるフロンティアを中国に他ならないと位置付けているのは、経験から導かれたものであると批評したい。
しかし私の意見は、真っ先に日本が求めるべきフロンティアは、コリア半島である。それは、私の経験から来る直感であり、そして二十一世紀初頭における両国の経済と民度の発展度合の近さ、それから両国の行き詰まった現状に対する最も効き目のある薬であると判断できる展望から、導かれたものである。いずれ両国は中国に向かって開かなければならないが、日本とコリア半島との差と、両国と中国文化圏との差は、いささか開きがある。
段階的な構想を持った方が、よいと私は考えている。政治的枠組みとしてまず三国共同体を作り、経済のすり合わせが必要な市場統合と通貨統合については、まず日韓で行い、中国は条件が整い次第、拡大するのがよいであろう。もちろん、中国にも大きなメリットがあることを実をもって示さなければ、かの国は乗ってこない。関税及び非関税障壁の撤廃、域内投資活動の自由化、域内雇用の自由化をスケジュールとして示しながら、日韓にとって懸案である食料品他の品質管理、雇用条件の向上、国際的犯罪防止システムの構築を、中国側に求めなければならない。その先には、かの体制に政治プロセスの民主化と、民衆に対する法の支配の貫徹と、広大な国内に住まうマイノリティー民族文化の真摯なる尊重とを、人類のために我々は促していかなくてはならない。

上の引用は、森嶋氏が中国国内の大学で講義した際の、経験である。森嶋氏は、中国学生の真意を聞きたくて、あえて謝罪の意を控えた。むしろ、「民族もまた発狂しうる」(pp.151)という説明を用いて、かの国の文化大革命と類比させ、倫理的判断を避けた。そうして、これからは過去と違って相互協力し合わなければならないことを、学生に向けて語ったのであった。「中国学生を一応納得させることに成功」したと、森嶋氏は講義の結果を判断している。
森嶋氏は、上の引用のとおり、日本が謝罪しなくてもよいと言っているのではない。
日本人の歴史理解を曖昧にしたままで、日中両国の関係を先に進めることはできない。「アジアへの侵略は弁解の余地がない。謝るべきです。それも心から謝れば、将来に向かって話し合えるようになる。」(1998.11.21付東京新聞夕刊における談話の引用。pp.157)
彼もまた私同様に、悪事については謝罪して、その悪事の原因を日本国が二度と起こさないように反省しなければ、将来の共同体建設を進めることができないと、考えていた。コリア半島について言えば、二度と秀吉のような侵略を起こさないことを誓い(私の友人の夕映舎氏は、秀吉の侵略を耄碌ゆえの誇大妄想だったろうと批評していた。だがその点については、私は別の意見を持っている。私見では、秀吉の海外征服事業は、元来信長のプランであったと、推理している。)、大切な隣国を植民地化した過去に痛恨を感じて詫びる必要があるだろう。2002年9月、当時の小泉首相はピョンヤンにおいて、「植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛をあたえたという歴史的事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」した。

では、2002年9月以降、日本の隣国に対する姿勢に、何が足りないのか?

答えは一つ。
将来に向けた、具体的なプランである。
日本の持てる力を、地域の繁栄と、民の幸福と、戦争と圧制の恐怖から和らげる救済に向けて、ひたむきに汗をかく努力である。この努力が日本政府と日本社会に何一つ見えないことが、韓国も、中国も、いまだに批判の手を休めない、口実となっているのだ。結局、口だけかよ。そうだ、口だけなのだ。あんたらとは、関わり合いたくないの。私は、米(アメ)さんに恋して、頼って、尽くしてるの。あんたらなんか、嫌い。
小泉首相の日朝宣言後の北朝鮮や韓中に対する強硬姿勢、その後を継いだ安倍首相の輪をかけた強硬姿勢。これは、明らかにアメさんへの色目であり、そして己の選挙基盤の反アジア的意見に、引っ張られたものである。自民党外交のこの方十年は、東北アジア構想を大きく後退させてしまった。インド、ASEANと提携、、、?そんな迂遠な外交が、日本社会を救う特効薬になるとでも、思っているのか。北朝鮮核協議を踏み台にした、六国共同体、、、?それは安全保障であって、安全保障ももちろん大事であるが、経済と社会の行き詰まりは、安全保障では解決されない。日本人をもっと幸福にするプランを、どうして考えないのだろうか。考えない政治家は、政治家とはいえない。政治屋。いやさ、テクニックで顧客の無理難題をゴリ押しして通す、「政治師」とでも呼ぶべきであろう。


2009年03月24日

Korea!2009/03/24

3月23日、JR西日本から、さいぜんに送ったメールに対して、以下の返答があった。
以下に、公開する。

鈴元 仁様
いつもJR西日本をご利用いただきまして、ありがとうございます。
また、ご連絡が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
関係部署からの報告に基づき、再度頂戴いたしましたご意見についてご回答させていただきます。
全世界の言語に対応した券売機をご要望とのことですが、多様な国際化に対応するという観点で今後検討してまいりたいと思います。
貴重なご意見をありがとうございました。
今後ともJR西日本をご利用いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

テンプレート、だな。
文面を見るだけで、分かる。
残念ながら、このような慇懃無礼な文書をもらったところで、私は嬉しくもなんともない。
私は、役所時代に、こういうテンプレートの文書を、死ぬほど書かされた。
市民からの苦情に対して、言葉だけ謝るための文書を、送り返すために。
その実態は、何一つ反省していないのだ。それが、大組織というものだ。
JR西日本が、私が知っている大組織と同様でないことを、祈る。たぶん、期待できないだろうが、、、

2009年03月29日

首相官邸に投書

夕映舎氏から、日韓トンネルを推進する最大手のNPOが、某新興宗教がらみであるとの情報を、受けた。
日本語版Wikipediaで、調べてみる。
確かに、その旨が書かれていた。
真相は、私の知るところではない。
Wikiの情報で、主に九州地方選出の国会議員によって結成された、「日韓海底トンネル推進議員連盟」なる超党派組織が存在していることも、知った。同時に、民主党内にも「日韓議員交流会」(最高顧問、羽田孜)という委員会が2003年に結成されていたことも、知った。

くだんの民主党内委員会に、私が手紙を差し上げた山田正彦衆院議員(長崎三区選出)は、加入していない。
じつは私は、他に前原誠司衆院議員(京都二区選出)にも、メールであるが意見を申し上げた。
最近、長らく放置していたソーシャルネットワークサービスのmixiを再開したところ、どういうわけか「足あと」に前原議員自身が開設したプロフィールの名前が、残っていた。
本人が私のプロフィールを訪れたとはとても思えないが、それでも何か申し上げるのが礼儀であろうと思って、私の持論をメールによって返した。
前原議員も、日韓議員交流会のメンバーではない。
本日現在、彼(というよりも、彼のスタッフだろうが)から返事を、もらっていない。

私は、民主党に全幅の期待を、寄せているわけではない。
私は、あの政党のもう一つの顔が、労働組合政党であることを、知っている。
そして、労働組合なる組織が、およそ外部の意見を真摯に受け止めて大局観を持った将来像を作る能力と意欲に著しく欠けている集団であることも、深く知っている。
だから、縁がないならば、今は遠ざける。
羽田議員にも、鳩山由起夫議員にも、私は手紙を書かない。
彼らには、今の私にとって、人間として共感できるところまで、至っていない。

私は、現在の日本国総理大臣のサイトを、開いた。
だが投書する項目が、見当たらない。
メルマガ購読すれば投書できるのであろうが、私は政治家のメルマガごときを読むほどに、退屈してはいない。
それで、首相官邸のサイトを開いた。
「ご意見募集」の項目が、ある。
しかし-

ご意見・ご要望は、全角2,000文字以内(改行・スペースを含む)でお願いします。

なぜ、制限するのか。
人民からの投書に文字数を制限するなど、北条泰時がやったか。徳川吉宗が、目安箱に文字制限を設けたか。
私は官邸の傲慢に腹を立てて、以下の投書を送った。

(題)あなたたちは、人民の知恵を活用する意欲が、おありなのですか。

文字数が少ないので、挨拶なしで書きます。
2009年3月29日現在で総理大臣である方のHPに投書欄がないので、ここに書きます。
国政への意見について詳しく書きたいが、詳細は私のブログ内の韓国旅行記に、書いております。
2000文字で、何の提案ができますか。
あなたたちは、国民をバカにしている。
ドイツ語で、"Bierbankpolitiker"と言います。
ビール飲んで政治のホラを語る、スカのことです。
あなたたちは、日本人はしょせん"Bierbankpolitiker"だと、思っている。
だから、意見を受け付ける用意を、こんなに怠っているのです。
それで、日本国が、我らの美し(かった)国が、21世紀もまたよい国であると、思っておられるのですか。
あなたがたの今の姿勢を見て、分かりました。
あなたがたは、もう日本の将来を、あきらめておられる。
もう、日本人は衆愚であって、このまま腐れカボチャと果てるべきだと、見切っておられる。
だめです。
改めなさい。
希望を持って、先覚者となりなさい。
明日から。
それを、願うばかりです。

以下のブログの稿が、私の意見です。

http://suzumoto.s217.xrea.com/2009/02/korea20090221_7.html

現在の首相は、福岡県のご出身で、日韓トンネルの構想に一定のご尽力をなされていると、伺っております。
外国人を知らなすぎる日本人にとって、韓国は最良の薬です。
日韓トンネル、そして韓国との統一市場。
その先に見据えることができる、東北アジア経済共同体。
それは必ず日本人を地球人に変えて、この国をより強く、より気高く、より賢く、より豊かにすることができる、秘薬になるに違いありません。
よろしく、ご推進のほどを。
リニアよりも、オリンピックよりも、はるかにはるかに日本の子供たち、学生たち、社会人たち、主婦たち、経営者たち、引退者たち、そして悲しんでいる独りものたちのために、なることでしょう。

2009年03月31日

首相官邸からのメール

今朝、官邸からメールが届いた。公開する。

ご意見等を受領し、拝見しました。
  首相官邸ホームページ「ご意見募集」コーナー担当

以上である。
テンプレなのだから、長かろうが短かかろうが、私は一向に気にしない。
官邸が、意見を受け取ってくれれば、それでよい。
そして、できれば結果の見える行動に出てくれれば、こんなありがたいことはない。
私は、民間企業のように、だらだらと長いテンプレのメールを首相官邸が返して来なかったことを、むしろ好意的に思っている。私に対する言葉なんぞ、いらん。不言実行で、動いてほしい。それだけだ。
しかし、このメールがもし彼らが人民ごときに言葉をケチっただけの、傲慢なる返事にすぎなかったとしたならば、日本の国家体制は重症である。

2009年04月06日

サイト探訪-『日本を守るのに右も左もない』

ブログサイト:http://blog.trend-review.net/blog/

最近知った「類ネット」グループのブログサイトから遡って、上記のサイトを訪問した。
私は、いくつかのコメントを、これまでにその記事内で残した。
しかし、いまだ読んでいる最中である。

以下は、一記事からの引用。

では、人々の意識は次は、どこに向かうのか?
大多数の意識潮流は今見た通りだが、先進層の意識は本源的活動(←社会の役に立ちたい)に向かっている。
1.まず農業志向
2.政府の補助金削減→低賃金政策で今は低迷しているが介護・福祉志向。真っ当な賃金さえ払えば拡大に向かう。
3.ピアノやバレエ・スポーツクラブといった習い事は衰弱する一方で、おっさんが近所の子供の草野球を指導するといった事例は増えている。

私は、この記事が言っていることが、「鎖国のススメ」に読めてならない。
競争原理が生存的困窮の消滅した70年代以降に説得力を失い、代わって今後ますます加速する意識潮流は、「本源的活動」、すなわち、他者に認められ、共に認め合う場をこしらえあげ、参加する、人間としての活動欲求である。おおかたそのように当ブログは展望していると、私は現在解釈している。
そのトレンド分析には、うなずけるものがある。

しかし。
だったら、このままでいったら、鎖国ではないか。

文化を同じくするサークルの中ならば、「本源的活動」は、おそらくたやすい。
だから、自給自活、地域への食料供給を軸とした農業指向であり、あるいは介護・福祉や、草野球の指導のごとく、自分ができる範囲内での対人奉仕活動といった社会・経済活動が膨らんでいくというトレンドが増えているし、これからも増えていくであろう。

しかし、文化は、人間の第二の皮膚である。
第二の皮膚が違う人間との交流は、自然な欲求のままに任せた活動では、難しいのではないか。
私は、徳川時代の対馬藩において、享保年代に真文役として李氏朝鮮との折衝活動に尽力した雨森芳洲の著作を、自分で読んだことがあった。
彼は、その『交隣提醒』において、朝鮮人(誤解なきように付け加えておくが、芳洲が李氏朝鮮の臣民という意味で、この言葉を用いているのである。現代に「朝鮮人」という場合のニュアンスとは、全く違う)と日本人との文化の違いが多くの行き違いを起こしている事例を、詳しく述べている。日本人は日本人の勝手な思い込みで朝鮮人と応対し、その逆もまたしかりである。芳洲は、両国の事情を深く知りながら、著作を献上する相手であった対馬藩主に対して、外交で相手に侮られないためによく朝鮮の事情を学び、義にもとる要求がもしあったとしたならば、毅然とした対応を取るべしと、薦めているのである。
異なる文化を持っている外国との応対は、これほどに難しい。私はかの地を訪問して、韓国人と韓国文化が世界で最も日本人と共有するものを持っているに違いないということを、ほとんど確信して帰ってきた。それでも、やはり異文化である。日本の常識は、そのままでは通用しない。本気で付き合うにはおそらく想像力、忍耐力、そして正道をもって説く倫理観が、必要である。

競争原理が失墜し、「本源的活動」に人間が向かう傾向が強まるとき、その射程が異なる文化の民にまで、行き届くことができるのであろうか?
もし、民が勝手の違う連中との接触を嫌がったならば、もう取るべき道は、ただ一つ。
鎖国しか、ない。

私の友人の夕映舎氏は、「鎖国もまた、一つの見識や。」と、批評したことがある。
「鎖国して、農業自給を完全なものにしようと決意したならば、農村が復活する。過疎問題が、解消される。これもまた、明るい展望かもしれん。鎖国のメンタリティーを持って、北朝鮮滅ぼすべしなんぞと絶叫するくせに、それでいて国際経済を捨てたくないごとき輩。それは、論外のプーや。だが、そうではなくて、鎖国ならば、首尾一貫しとる。」

価値観で、ある。
ゆえに、今の私の価値観だけは、申し上げておかなくてはならない。
私は、鎖国は嫌だ。
あまりにも、人間として淋しすぎる。
私は、たとえ自分の第二の皮膚がひりひり痛んだとしても、異なる文化との間に、異なることを互いに認めながら、共存協力していく未来を、望む。
上のブログの別の記事でも書いているように、確かに現在の大陸中国と、まともに経済統合することは無謀である。彼らは、国家の展望として、日本の技術を食らうことを、おそらく考えている。中華帝国とは、そういうものだ。周辺のおいしそうな文化圏を領土化して、自己を活性化して来た歴史を、かの地の文明の開闢時代からずっと続けているのだ。

日本のひしゃげた現在の政治では、中国にやられるかもしれない。
だがそれは、日本に本当の政治が、ないからなのだ。
まともな政治があれば、私は日本が中国と対等に渡り合い、いずれ共存する経済圏に移行する展望を、二十一世紀のうちに打ち立てることができるだろうと、信じている。
だから、中国は、努力目標である。対等の関係となって、仁義の正道をもってギブアンドテイクができるようになってはじめて、共存もできるだろう。それができると私は思いたいが、今すぐには無理だ。

今すぐできるはずなのは、-これは私の持論の繰り返しであるが-隣国である韓国との、同盟である。
この一週間、北朝鮮問題で日本国内は大騒ぎであった。
より正確に申せば、大騒ぎであったようだ。
私は、何の興味もなく、ヤフージャパンの記事を読んでいた。
ミサイルが発射された日の晩には、へらへらと夜桜を楽しんでいた。
北の体制は、韓国と日本を個別に脅し、東北アジアの裁定者としてのアメリカの、ご出馬を願っているのだ。両国は、見透かされている。現状は、北朝鮮にとってというよりは、アメリカにとっての思う壷なのだ。
ここ一週間の事件一つを取っても、今となって私は、残念でならない。
日本・韓国の両国ともに、もともと鎖国を愛するメンタリティーを持っているうえに、21世紀以降はそのメンタリティーが、互いの国で深化している。私は、これを両国が現在かかっている「内向き症候群」と、名付けたい。「内向き症候群」をそのままにして、鎖国につながるしか、両国の未来はないのであろうか。やがて崩壊するであろう北朝鮮を、どの国の金が復興するのであろうか。北朝鮮が復興の枠組みもないままに崩壊したならば、東北アジアには巨大な緊張が走る。歴史は、教えるのだ。Korea半島に激震が走るとき、決まって東北アジアに大戦争が起こって来た。この地域のメインプレーヤーたちの間には、相互不信が常態としてある。だから、軍事衝突という結果に、導かれて来たのであった。このままでは、歴史が繰り返される。Korea半島に激震が走っても、日本は鎖国するのか。できるのか。

それを救い、平和を買うために、私は日本が韓国と同盟する道を模索することを、現在望んでいる。両者が一致した姿勢を北朝鮮に対して取り、かつ今後の速やかなる復興のプランを具体的に示したならば、金正日の後継者(だれになるのかは、知らない)がそれに乗らないなどという道が、果たしてありえるだろうか。もしありえるとしたらそれは中国かその他のどこかの国が裏で操るからであろうが、日韓が協同して第三国に当たることができれば、介入をはねつける国際政治が、できるのではないか?

まだ、私は今後の日本及び東北アジアの将来について、勉強中である。
しかし、私は鎖国など、まっぴらごめんだ。日本が鎖国したら、きっと日本という国を怨んで死ぬ日を、迎えることであろう。

2009年04月08日

『俳句の可能性について』-類ネットへの投稿文

これが、初投稿です。
私は、西洋芸術が好きです。
以前、京都の国立美術館で、ムンクの版画を見たときに、衝撃を受けた。
自分自身や身近な女を、ここまで生体解剖するように、描いてよいのか。
鬼気迫る、生命としての人間の力を、彼の版画からありありと感じた。
東洋の絵画は数千年の歴史があるが、いまだかつてムンクの境地に達したことは、ない。これまでの歴史で創り上げられて来た個々の芸術作品の水準から見れば、東洋の芸術は西洋芸術に、はるかに及ばない。私は、そう批評せざるを得ない。

では、東洋の(私は、あえて「日本の」と、言いたくはない。私は、自分の経験から、中国文化圏にも、韓国にも、日本の創作風土と似通った底流が静かに流れているであろうことを感じ取っているからだ)創作姿勢において、優れた点とはなんだろうか。もしそれがあるならば、これからの時代の人間の創作活動に、ヒントを与えるものが、あるだろうか。

ぐだぐだ生煮えの理論を書き記すよりも、私の実践を紹介したほうが、よかろう。

私は、さる4月5日午後から6日朝にかけて、京都円山の「吉水」で遊んだ。
その間、同行の友人と、俳句を詠み続けた。
巷の花見の情景に触れるごとに、「いっせーのー」で、詠んだのだ。
まことに、爽快な試みであった。
季語を入れて、なるたけ五七五のリズムを、守るように心がける。
縛りはこれだけだから、沸くように言葉を出すことができた。
後で私が写真、散文と漢詩を継ぎ足して、一文にした。

http://suzumoto.s217.xrea.com/2009/04/post_213.html

これは、よい試みであった。
これからも、同人を誘って、やろうと思う。
今回試してみたのは俳句であったが、日本の創作活動には、上の五七五を発句人が詠んで、それに対して下の七七を次の同人が詠んでいく、連歌の形式もある。連歌となれば、これは全ての句が協同製作となる。

面白くない この世の中を 面白く

私の示唆に対して、同行の友人が例として出した、上の句である。
もとより、高杉晋作の句であるが、歩いている際に思い出した言葉であるので、原句とは異なっている。
私は、とっさに下の句を付けた。

おもろないのは おまえの顔だ

ははは。
これもまた、一景だ。
連歌をするには、一人だけでもある程度教養を持った人がいた方が、面白くなると思う。そして、その人は、広い心を持たなければならない。同人が発する言葉を、先入主なしで評価して、全員の創作を高める心がけが。

俳句や連歌は、各人がきっちりと個性を出しながら、全員の創作でよいものを作ることができる力がある。西洋の芸術も、時代を遡れば無名人が車座になって創作していた時代があったはずなのだが、いつしか時代とともにいじけて萎びていった。西洋では、個人が所有権を持った作品を創作して、市場にて貨幣に評価するという原理が、絶対化した。

私は西洋芸術を素直に大芸術である(あった)と認めるがゆえに、個人が所有権を持って市場に立ち向かう西洋芸術の原理が、偉大なものをかつて生み出したことから、目を背けることができない。しかし、その原理が、これからの時代にも、通用するかどうかと問われれば、分からない。分からないが、いまだに出版会社と音楽会社は、個人・所有権・市場の原理で、動いている。それは、このブログサイトでも散々言われているように、未来がないのかもしれない。少なくとも私個人の経験から言えば、俳句や連歌による協同創作には、確かに可能性があると感じる。だが俳句や短歌の世界ですら、一人で作って投稿する態度が、今の日本人には蔓延しているのが、残念な現状なのだ。


私は、このネットの探索を続けている最中であるが、いまだに心中の疑念が尽きないでいる。
これは、鎖国集団なのではないか。
日本人の惰性的観念が無反省であることの如実な現れとして、投稿者が注目している対象の地域は、

日本-みんなの国、本源的欲求(他人とつながり、他人のために働き、他人に認められたい欲求)を満たすべき場

欧米-反面教師、個人原理によってこれまで成功して、今や個人原理を突破しようとする人類史からみて、脱落しようとしている文化圏

中国-ただの野蛮な発展途上国、「みんな」の社会である日本を汚し脅かす、敵

こういった構図に、おおむね括られると思われる。
あえて乱暴にまとめたが、私は投稿者が東北アジアに対してほとんど何のポジティブな意見も印象も持っていない世界に踏み入って、読むたんびに不足感を覚えてならない。
現在の日本人の平均的な脳中にあるのは、日本しかない。
ちょっとものを分かろうとして努力する者は、欧米と中国に思いを馳せようとする-たいていは、ネガティブな対象として。
そして、韓国、台湾については、はなから意識にすら上らない。

「内向き症候群」である。

これが、「内向き症候群」である。

日本人の鎖国根性を、無反省なままに肯定して、明るい未来を語ってよいのですか。
私は、まだこのネットに、信頼が置けない。
日本人の現実への認識が、おおむねまっとうであるゆえに、なおさら参加者の集団認識が描く未来像に、危険を感じる。

2009年04月10日

日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(1)-類ネットへの投稿

この投稿は、私の主張の枠組みを、分かっていただきたいと思い、書きしたためました。
おそらく、ここに集っている皆様のご主張とは、毛色が違います。しかし、私は外部からここに立ち寄った者として、この稿ではあえてトリックスターとして、冷や水を浴びせる役割に徹したいと思います。

私は、この類塾ネットをごく最近知りました。
そうして、興味のある箇所から、順々に読んでいます。
読めば読むほどに、私の心中に、二つの理解が高まって来ます。
一つは、「共認」というスタンスで開かれた議論を積み重ねていくこのコミュニティーの討論の結果として構築されつつある現代日本社会の現状認識に関して、確かに私の言いたかったことと一致している、ということです。私は、現在TV、新聞、週刊誌を見捨てています。最も必要なはずの情報を、何も取り上げないからです。それらのメディアよりも、SNSなどで知り合って、礼を尽くして幸運にも仲良くなれた方々と会話することによって得られる様々な情報の方が、はるかに貴重なものを得られます。このコミュニティーにおいても、この私が一角を占めることが、許されんことを。

しかし、このコミュニティーの内容を読み進むにつれて、私の中にはもう一つの理解が、深まるばかりです。
私は、このコミュニティーの「共認」している未来像に、全く共感できません。
なぜか。
現状の、このコミュニティーは、「共認」は試みていても、「共存」について、何も考えていないように、見受けられるからです。
私がただいま用いた「共存」とは、「共生」「共棲」という言葉を用いても、よいかもしれません。
生物学の用語で、比喩的に語ります。
生物学ならば、「共生」あるいは「共棲」は、異なる種の間で優勝劣敗原則が働くのとは違って、それぞれの種がそれぞれの適応したテリトリーで生活しながら、エコシステム総体として調和した循環系を成立させている状態、と申すべきでありましょう。
これを、いま私は人類に対して、比喩します。
人類は、もとより全てが、同じホモ・サピエンス・サピエンスです。
どの人種間でも生殖が可能であり、生まれてすぐにある社会環境に置かれれば、その個体は育った社会環境の一員となります。民族的に日本人であっても、幼少の頃より大陸中国で育てられれば、完全に中国人となります。その逆も、そうです。いちいち事例を挙げるまでも、ありません。
そのように民族間、文化間で種が異なるはずがないのが事実ですが、いざ人類の社会を見ると、異なる民族間、文化間で融通無碍に交流交通がなされているようには、とても見えません。

文化は、人間の第二の皮膚といってよいものです。
人類は、文化が異なると、相互に直感で理解し合える範囲が、ぐっと狭まります。
言葉が、最大の壁です。いま日本人の平均値を取ったとき、文字情報を通じて他人を理解することができる範囲は、純粋に日本列島に留まります。漢語(中国語)の文章はいまやネット世界で最大勢力ですが、漢語ならば日本人はある程度読むことができます。私個人の経験から申し上げれば、私は漢語を知らない状態から始まって、読んでみようと思い立ったとき、二週間でほぼ解読できることに成功しました。文章が読めたからといって漢語文化圏の人々を理解できるかどうかは別問題ですが、少なくとも日本人は試みることに対する壁は、それほど大きなものではありません。
その他の文化圏については、平均的日本人は、ほとんど理解できません。
隣国の韓国は、現在漢字(ハンジャ)を、事実上放棄しています。ネット上にも、出版物にも、漢字は出てきません。当地の人々は、もう漢字がほとんど読めなくなっています。ハングルオンリーで読み書きしているのですが、よって日本人には、一字たりとも読めません。
世界で最も広範囲に使われている言語である英語もまた、日本人は読めません。
これまでどんなに政府が英語学習を推進する掛け声を掛けたとしても、ここ数十年で日本人の英語力が平均値として向上したという証拠を、私は知りません。理由は、明白です。日本列島に住んでいれば、英語なぞ必要ないからです。日本語は歴史のある自己完結した言語なので、外国語を必要としないのです。
こうして日本人は言語の壁があって、外国を知ることが難しくなっています。
唯一わりかし容易な努力をもって知ることができるはずの漢語文化圏についてさえ、真の理解というよりは偏見、誤解、見落とし、針小棒大がまかり通っているように、見えます。
どうして、こんな現状なのでしょうか。

日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(2)-類ネットへの投稿

我らが国の日本が属している東北アジア文化圏を西ヨーロッパ文化圏と比較したとき、重大な相違点があります。

西暦476年、西ローマ帝国が滅亡した後、エルベ川以西の西ヨーロッパにおいては、統一権力が消滅しました。一時的に再統一を果たしたカール大帝の帝国が短期間で空しくなった後には、西ヨーロッパはまったくバラバラの地域になってしまいました。
このとき、宗教とラテン語によって、文化的な連携を地域間で育て上げる役割を担ったのが、他ならぬローマカトリック教会でした。
以降、ルネサンスまでの中世を通じて、聖職者、学生、そして巡礼者たちの国際的移動は、頻繁でした。パリ大学が外国人に満ち溢れ、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼がまるでわが国のお伊勢参りのように西ヨーロッパ各国からの観光客でにぎわい、教皇のお膝元のローマでは巡礼者、傭兵、商人、はたまたならず者たちといった異邦人がごった返していた事実は、西ヨーロッパ文化圏というものが、たとえ近代に至って国民国家が成立したとしても、文化の根本では融通無碍な交流が正常であったし、国民国家の皮をめくってしまえば共通の文化圏を容易に再発見できる地域であったことを、示しています。

いっぽう、わが日本が属している、東北アジア文化圏。
この文化圏の、国家としての基本スタイルは、紀元前3世紀末の秦帝国が打ち立てた中華帝国システムです。
始皇帝の事業により始まった秦帝国のシステムは、よく知られているように、郡県制を採用した中央集権制です。
すなわち、征服した版図の全てに対して、首都から送りつけた官僚を送り込み、皇帝の手足として、上意下達の組織を作り上げる。
地方に赴任した官僚が自立してしまわないように、皇帝の目と耳である監察官(秦代には、御史と呼んだ)を派遣して勤務評定を行い、かつ厳格な法刑を全国一律に公布して、違背者には父母・祖父母・兄弟・子・孫までを殺す族誅(ぞくちゅう)を極刑とした体刑をもって、非情の運営を行う。これが、法家思想家の韓非に学んで始皇帝に丞相として仕えた、李斯の採用したシステムでした。
秦帝国のシステムは、後を襲った漢帝国によって全面的に受け継がれ、中華帝国の行政組織は、以降2000余年にわたって変化しなかったといっても、過言ではありません。
後世の重大な追加は、漢代に始まった儒教の国教化と、隋唐代に始まり宋代に完成した科挙の制度です。この稿では詳しく書きませんが、儒教の国教化は皇帝と官吏による統治に正当性を与えて、イデオロギーの補強に成功しました。科挙は、超難関であるが(原則)誰にでも開かれた、政府高官への受験制度でした。この受験制度を全国一律に開いたことによって、各地の父兄の側から、子弟を政府へ送り込むために猛勉強をさせることに熱中させることに、成功しました。中華帝国の政府高官とは、日本の官僚とは違います。それは金儲けの手段であり、一族の誰かが政府高官になれば、周囲に巨大な余沢が得られるものでした。

こうした中華帝国システムは、広域な版図を中央集権的に統治するために、極めて有効なものであったことが、後世の長い長い歴史によって、証明されることとなりました。そして、このシステムが、文化の遅れた周辺諸国にも、移植されたのです。すなわち、朝鮮半島、日本、ヴェトナムです。

今、この稿で焦点としたいと思っているのは日本とそれを取り巻く東北アジアなので、日本の歴史とほとんど相互影響を及ぼすことのなかったヴェトナムは、いったん脇に置くことにします。
日本にとって最も相互影響を及ぼした隣国とは、朝鮮半島の諸王朝と、中華帝国に他なりません。
この三地域が、揃って中華帝国の中央集権システムを、採用しました。
朝鮮半島は最も忠実に(といいながらも、かなり本場とは違った点がありました)中華帝国のシステムを導入しました。中央集権制度、儒教、科挙の三点セットは、李氏朝鮮王朝500年の間、しっかりと根を下ろしていました。
日本は、ご存知のとおり、七世紀の大化の改新以降、隋唐にならって中華帝国のシステムを導入しました。教科書で、律令(りつりょう)制度と呼ばれているやつです。ただし、李氏朝鮮のように、システムの導入が貫徹しませんでした。科挙は行われず、中央の朝廷は藤原氏ばかりが高官を独占し、地方官である国司もまた世襲になってしまいました。平安時代は、中華帝国の原則から見れば、ひどく腐敗堕落した体制でした。
日本は、結局中華帝国のシステムを、放棄しました。
源頼朝の文治革命以降、日本は地方分権的な領主システムを、独自に構築していきました。
それ以降、日本社会は隣国と毛色の違った社会となったのですが、そのために日本社会は隣国とつながりをもたず、孤立した社会となってしまいました。そして、隣国の中華帝国と朝鮮半島は秦帝国以来の中央集権システムを堅持したために、システムの外部への関心が極度に小さくなってしまいました。こうして、東北アジアの三国は、それぞれが内に閉じこもったテリトリーを持って、互いにほとんど没交渉な国際関係を、作り上げてしまったのです。文化的には、共通のものを多く抱えているにも、関わらず。書物の上では、ずっと後世に至るまで、隣国の学問芸術に対する関心が強かったにも、関わらず。

日本が含まれる東北アジア社会は、こういった過去の歴史的経過を、現代にひきずっています。
日本、韓国、中国は、互いの国が、互いの事情をよく知りません。
三国の政治は、それぞれで協調が取れず、めいめいが勝手な方向を向いて動いています。
この三国は、文化圏の外にある欧米やインドよりも、じつはずっと共有しているものがあります。
三国ともに、儒教を体で知っています。長幼の序は、西洋人には理解しがたい感覚です。礼儀を重んじる倫理観は、西洋では二十世紀に極度に衰えましたが、東北アジアでは残っています。
また、漢字を共有しています。韓国は、ごく薄く。日本と中国は、濃厚に。
私は、自分の足で21世紀以降に香港、台湾、韓国を回って、これらの地域が日本の文化と明らかに異なりながらも、共有するものが西洋よりもずっと多いことを痛感して、帰って来ました。
その詳細は私のブログ内で語っていますので、ここで書くことはしません。とにかく、私の主張の根本にあるものは、この目と耳と足を通じて知った、三国の文化の実態です。三国は、長い歴史において政府レベルでも民間レベルでも西ヨーロッパとは比較にならないぐらい没交渉であったにも関わらず、それでも手を打って感嘆するほどに多くのものを共有していると、私は思っています。
この三国が現状のように互いに孤立しているのは、政治・経済・社会の将来のために、大変な損失です。私は、大きな展望として、そのことを疑いません。ゆえに、わが日本もまた属している東北アジア文化圏が過去の歴史から背負い込んで来た、互いの国で孤立しがちなメンタリティーを、なんとかして21世紀のうちに打破できないものかと、思案を続けています。

日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(3)-類ネットへの投稿

毛色の違う文化でありながら、互いを尊重して相互利益を図るのが、人間文化の「共存」というべきだと、私は思います。そのためには、ツーカーで「共認」できる、同じ文化内のプレーヤーだけと付き合うのとは違って、多少は自分の皮膚がひりひりと痛む体験を、通じなければなりません。日本人の常識が韓国人や中国文化圏の人々とそのままで「共認」できると思うのは、おそらく日本人の傲慢です。おそらく、理性による反省のフィルターを一段階通じた、相手への呼びかけと相手のメッセージの解釈が、必要となるでしょう。

それを、厭いますか。
厭って、所詮日本はS.ハンチントンが『文明の衝突』で枠付けしたがごとく、他のどの地域とも共有するところがない孤立した文明圏であると思い込んで、鎖国への道を突っ走りますか。
日本列島は、大海の中にただ一つだけ島として浮いているとでも、思っておられるのですか。
いずれ崩壊する北朝鮮の体制を、安定的かつ急速な復興に向けて尽力する政策を周到に用意しておかずに突然死するに任せたら、東北アジアはどうなるでしょうか。
過去の歴史を、見てほしいと思います。
コリア半島に激震が走るとき、過去の歴史は例外なく、大戦争となりました。
七世紀、新羅の統一戦争。
十三世紀、モンゴルの高麗侵略。
十六世紀、豊臣秀吉の李氏朝鮮侵略。
十九世紀、第一次日中戦争(日清戦争)。
二十世紀、日露戦争。6.25戦争(朝鮮戦争)。
コリア半島を取り巻く、この地域のメインプレーヤーの間には、歴史的にずっと相互不信があります。
だから、この半島がこじれると、相互不信が爆発して、大戦争となって来たのです。
防ぐ道は、きっとあります。
日本と韓国が連合して、両国の資本とマンパワーで北朝鮮を復興させるのが、最良の策であると、私は思っています。もちろん、別の枠組みも、ありえるでしょう。しかし、何よりも戦争を避けなければなりません。戦争が起こってしまえば、鎖国幻想も江戸時代回帰も、元の木阿弥と吹っ飛んでしまいます。最大の技術力とマンパワーを持った日本が、自分の属している文化圏の危機に対して、鼻毛をひねりながら昼寝をしようと試みるのは、人類史的恥辱ではないでしょうか。後世、日本はどのような謗りを受けるでしょうか。そんな国ならば、日本はカルタゴのごとく、もっと政治力のある他国に技術ごと吸収されてしまったほうが人類のためだと、私は思います。

私は、「共認」のさらに先に一歩進んで、皆様に「共存」の道を考えていただきたいと、痛切に願っています。ツーカーで分かり合えない相手にまで、付き合う道を真剣に考えなければならないのです。想像力と、忍耐力と、そして正道をもって説く普遍的な倫理観が、必要です。倫理観としては、儒教があります。仁・義・礼・智、それに信を加えた「五常」の美徳を、東北アジアの人々が分からないはずがありません。仁を私が英訳すれば、”Love”です。義は、同じく”Justice”です。礼は、”Beautiful Style”です。智は、”Knowledge”です。そして信は、”Trust”です。いずれ、別の稿でこれらの「五常」の美徳の相互関係と、その人類的普遍性について、私の意見を述べたいと思います。

「共認」によって現状の政治とマスコミの虚妄から抜け出し、真理を探究する。
それは、もちろん私も全面的に共感します。現在に生きる我々は、それをせざるをえない地点に、行き当たっています。
しかし、無反省になってほしくないです。
日本という社会を自分の視点から見出し、しかしそうして得られた認識の土台を、日本人の置かれた環境を反省することもなく肯定するところで終わってしまうならば、日本人は世界の最先端どころか、同じ文化圏に属しているにも関わらず国民だの民族だのと叫んで隣国と大戦争を二度に渡って繰り返した、二十世紀前半の欧州諸国の認識水準から、何も進歩していません。

冷や水を、掛けてしまいました。
愛をもって、そうしたのです。
よろしく、お受け取りのほどを。ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。

2009年04月14日

跡田直澄『NPOの経済学』を読む

同一のマーケットで、一般企業と対等に競い合うようなNPOは、ビジネスセンスをもたなくてはならない。さらに、NPOの維持と拡充という目的のためには「自前の稼ぎ(営業収入)」、「補助金・助成金」そして「寄付」という三つの要素が欠かせない。理想をいえば、この三つがいわば三位一体となってこそ、NPOは長く存続できるのだ。(pp.43)

このように、本著では開陳されている。
しかし、そうであろうか。
私は、今の日本を見回したとき、正直申して補助金・助成金を三本足の一つとして前提にするNPOビジネスは、きわめて危険であると見る。
この財政状況、この腐れきった政治状況で、中央・地方の政府の資金を、信用してよいのか。
私は、もと役人であるから、政府が信用できないという直感を、持っている。
もし理解ある役人がたまたま担当の部署にいたとしても、そんな人は遠からず全く関係のない部署に、配置転換される。そうして、腰掛けにしか考えていない後任者が、やって来るのだ。それが、役所の掟なのだ。この掟が、根本から変わっているようには、私には見えない。
役所は、もらえるものはもらっとけ程度に、話半分で付き合ったほうがよい。
決して、ビジネスの柱として、期待してはならない。

だから、私は思う。
NPOというビジネスモデルが根本に据えるべき、三本柱は-

・自前の稼ぎ(営業収入)
・寄付金
・参加者の、自発的活動

この三つでは、ないだろうか。
Wikipediaは、定期的にドネーションを募って、多額を得ることに成功している。
それは、あの財団の事業が、全ての人に役に立っていることが、明らかに分かるからだ。
私だって、大きな恩恵を受けている。
ただ(が理想的だ。)でサービスを提供して、しかも参加者に巨大な恩恵を与えている。
ならば、mixiのようなソーシャルネットワークサービスと、Wikipediaはどう違うのであろうか。
答えは、一つ。
mixiは、開かれているが、公益性がない。
自分が参加していることが、コミュニティー全体の水準を高めていることに対する、実感が沸かない。
ゆえに、公のために寄付してくれと言われたって、「はあ?」という回答となる。
いっぽう、Wikipediaは、自分の参加が公に開かれて、利用されていることに対する実感が沸く。
私が直感するに、この両者の差の部分に、きっとNPOのための秘訣があるに違いない。

その直感が、私が第三の柱として想定したい、「参加者の、自発的活動」と連動している。
現代人は、無償の苦役を望まない。
たとえば、ボランティアの参加者に、とびきりの低賃金で長時間介護サーヴィスを割り振るようなNPOビジネスは、きっと破綻する。
そんな苦役としてのボランティアに期待する者は、甘ちゃんだ。
そうではなくて、余暇を割り振っても参加したくなるような仕組みを、提供する。
そうすれば、経済学用語でいう「効用(utility)」を活動によって得られるわけだから、参加者は「労働者」と「消費者」の合い間に立つ、あやふやな存在となる。
参加者をその状況に誘致することができれば、参加報酬はとびきり安いか、あるいは無料でも可能となるであろう。
介護サービスでも、工夫すればきっとできる。
私が考えている、外国人へのサービスならば、なおさらだ。
この国には、金を払っても語学を学びたい人間が、わんさかいる。
外国をよく知らないが、外国に興味があって、余暇を割いて接触したいと思っている人間もまた、わんさかいる。
参加した者が、"fun"を得る仕組みさえ作れば、必ずビジネスになるに、違いない。
頼るべきは、政府じゃないよ。
目の前を歩く、人々だ。
日本人は、知識過剰なのだ。いろいろ知っているが、それを活用して"fun"を得る術を、とんと知らない。
巨大な、鉱脈がありそうじゃないか?
そして、その楽しんで参加している活動が、公益につながっているという実感を持つことが、できたならば-
私は、NPOの活動を、国家の外交活動と結び付ける要素がないかどうか、思案している最中である。
自分の参加が、日本国と外国を動かすという実感を、この国の民は必ずや欲している。
そしてそれは、不可能ではないのではないか?



食事は若年だろうと高齢であろうと、人である限り毎日摂取もので、そこでは必ずお金が必要となる。食のサービスは高い経済効果が期待できる数少ない分野の一つといえるのだ。(pp.97)

著作では、NPOが入りやすいニッチとして、「安全な食材」「低カロリー」を求めるのが相場であるという高齢者への配食サービスを、例として挙げている。

食に本当に興味があって、やりたい人は、試みればよいだろう。

しかし、私は、NPOをやるとしても、絶対に食に手を着けない。

危なすぎる。
日本人の、食に対する神経質さは、近年毎月のように起こる騒動を見れば、明らかだ。
その潔癖さは、はっきり言って、病気である。
集団的病人に対してサーヴィスを行うのは、私は危険と見る。
ゆえに、私は食に手を出したくない。そこまで、思い入れが残念ながら持てないのだ。
日本人は、騒音や美観破壊行為に対しては「なんで?」と叫びたくなるほどに、鷹揚である。
そのくせ、食に関しては、風評で決め付けたり、知りもしない外国の食事に対して、平気で偏見を持って拒否している。この傾向に棹差すことは、荒波を渡るようなものだ。

跡田直澄『NPOの経済学』を読む(2)

現在の私たちにとって「寄付」という行為が、なじみのあるものとは到底いいがたい。むしろ日本人の生活に寄付という習慣は定着していないと断言してもいいのではないか。(pp139)

本書の第3章「寄付市場を創り出す」は、本当ならばこの著作の要として、爆発的な提案がなくてはならない。
しかし、実のあるアイディアは、書かれていない。
肝心かなめの論点である「NPOの事業にとって急所である、市民大衆からの寄付を、いかにして集める状況をつくるべきか?」といった点になるやいなや、上記のような慨嘆と、「企業側には社会貢献に対する意識改革を求めたい」(pp.169)のような、精神論である。言葉は悪いが、精神論で世の中が動くようならば、今ごろ日本は宣教師の熱心な努力のかいあって、キリスト教社会になっていたに違いない。

この著作では、NPOがドネーションの営業を行うために、ハーバードがやっているようにプロの営業マンを雇うべし、と言っている。

しかし、それがアピールにベストであろうか。

それよりも、寄付した人を、高知に招待したほうがよい。
高知でしか使えない、マネーを寄付者に発給するのだ。そして、そのマネーを持っていたら、よそものには味わえないマル秘サービスを、受けることができる。
同時に、高知検定をする。
検定のランクが高ければ高く、ディープであればあるほど、秘密のサービスが開ける。

せっかく、本章には地域通貨(エコマネー)のことまで言及されているのに、具体的なビジョンがないのが、残念だ。
NPOが発行する地域通貨を、国際的に交付しても、よいのではないか?
韓国人や中国人、タイ人でも、その通貨を持っていれば、日本で買い物ができるようにする。
買い物ができるのは、協賛店だ。まずは国内で協賛者どうしで流通を可能にして、いずれは海外の協賛者たちとの間でも流通できるようにする。そうすれば、いつのまにかアジアで通貨の壁が、なくなってしまう道すら、開けるかもしれない。

私は本気で思っているのですが、日本と韓国は、地球上でミドルクラスがいちばん過ごしやすい国では、ないだろうか。
安くて、質の良いサービスが得られる社会は、この両国だけだ。
たとえば香港では、どうか。あるのは、高くて質の良いサービスと、安いが悪質なサービスだけ。
欧米も、そうなのだ。
日韓両国が、世界にぜひともアッピールすべき美点は、そこそこの収入でも、豊かな暮らしができる社会。これじゃないかと、思う。
それは、市井のひとがちゃんと動いてくれて、他の土地では金を払わないと得られないサービスが、この両国では空気のようにタダでもらえる。だから、貧しくても豊かなのだ。
MBA修士とか、プロの営業マンとか、リサーチの権威なんぞ、いらない。
市井のひとびとのおもてなしの心を、活用する道を考えようではないか。

2009年04月15日

跡田直澄『NPOの経済学』を読む(3)

仮に企業や篤志家にとって、寄付を出しやすい制度があれば、寄付市場は育つはずである。ここでいう制度とは、国の政策の一環を指す。 日本社会において、寄付を出しやすい制度を作るのは国の仕事であって、NPO業界の力がそこを動かしていくまでにはまだ至っていない。何せ日本人は、過去において一度たりとも真の意味で民主的な手段によって自らの制度を獲得した経験がない。(pp.202)

本書が出版されたのは、奥付によると、2005年9月30日。
まだ、小泉幻想が、日本国内に蔓延していた時期であった。
それから、三年半経った。
残念ながら、日本の政治は、もうだめだ。
自民党と制服組が仕組んだテポドン偽騒動に、国民は見事に踊らされてしまった。
そして、これも自民党がハメたことが明らかな小沢氏秘書逮捕騒動に、国民は乗せられて知事選で民主党を負かしてしまった。小沢を取り除いた後の民主党は、自民党にとって怖くない。これから自民党は、国民に対外的危機感をあおりたてて、有事の政党として自らをアッピールする戦略を立てるに違いない。腐った政党の自己保存作戦に、国民はずるずると引きずられている。もう、政治に未来はない。

韓国で会って、日本で再開する予定であったのが、残念ながら来日することができなかった一人物が、私に対して言った。

「日本は、これから十年の間に、レボリューションを起こさなければならない。起こさなければ、沈没するよ。」

まさに、その通りだ。
だが、永田町は、レボリューションの拠点となり損なっている。
2009年のいま、国民は政治に期待して、活動してはならない。
絶望から始めたほうが、後でひどい目算違いを味わわずに済む。残念ながら、それが2009年の現状だ。

よって、政府に寄付市場を作ってもらうなどと、期待してはならない。
腰抜けの日本大企業に、何ができるものか。
少なくとも私は、聖書か論語を読んでいない経営者を、信用できない。MBAの学位を持とうが、企業組織の表も裏も知っていようが、これらの倫理書を心に留めていない輩は、志としてムラの倫理を抜け出して、公について義務を果たす感覚を、持ち合わせているべくもない。

また、政府が民活を進めてPFI(Public Finance Initiative)の範囲を革命的に拡充し、篤志の民間団体に活動資金を下ろしてくれるとかの期待を、持ってはならない。今の役所を、自民党政府が、解体できるものか。

むしろ政府から逃げて、政府の裏をかき、政府を公然とだます戦略が、我々には必要だ。



奈良まちづくりセンター(NMC)は、現在の日本のNPO業界の中でも着々と活動を拡充させている最も活動的なNPOの一つである。(pp.222)

このように、本書で明るい事例として称えられているNMCは、現在も活動中である。
私は、NMCのホムペを、googleで検索して、年度事業報告書を読んだ。
ひとことで言って、停滞している。
たぶん、このままではこのNPOに未来はない。
「笛吹けど踊らず」で、企画したイベントに対する、市民の食い付きが悪い。
私は、NPOの活動などを見て、いつも思うのだ。
「企画して市民を集めたはいいが、この人たちは十年後に、こんなことを覚えていてくれるのだろうか?」
NPOが公益のために、公共の場を改善するためのミッションであるならば、市民の心になんにも残らないイベントや企画をいくら立ち上げたって、真夏の線香花火ではないか。
何か重要なものが、足りない。
各事業を貫く、強靭なコンセプトが足りないように、見えてならない。

目的とすべきミッションには、猛毒が含まれているべきではないか。
たとえ、具体的な活動が、明るいものであったとしても。
だから、日本の宗教法人は成功し、日本のNPOは失敗する。
宗教をやれとは言わないが、ミッションのための主要敵を想定して、それを正すことを究極の目的としたほうが、会員のインセンティブとして、よいのではなかろうか。
このNMCは、奈良をどうしたいのか。
奈良の何に、不満なのか。
魯鈍なくせに口を出す行政や、目先の営利しか見ようとしない企業や商店街組合は、敵ではないのか。だったら、どうして戦わないのか。愛を持つことと、馴れ合いは違う。日本社会のぬるま湯が、NPOから戦闘力を失わせているのでは、なかろうか?

本著作は、NPOに対して、企業たれ、ビジネスたれ、と呼びかけている。
ならば、戦えと、呼びかけるべきであった。
戦って、日本政府を滅ぼせ。大企業を、滅ぼせ。
滅ぼす希望は、NPOにしかない。
言い過ぎで、あろうか?

2009年04月16日

崔吉城『「親日」と「反日」の文化人類学』

反日の的は日本ではなく、あくまでも韓国人の親日である。解放後、独立国家として韓国は国造りに尽力し、反日を利用したといえる。、、、国民国家を作るには反日的民族主義が必要であった。(pp.49)

著者は日本で教鞭を取り、1945年8月のサハリン朝鮮人虐殺事件の研究などの仕事を行っている、大学教授である。
さすがに、「文化人類学」を著作の表題として掲げただけの、ことはある(著者の専門は、韓国民俗学)。
上の引用の箇所は、現代韓国の「反日」へのこだわりの、根本的心理要因を、ずばりと突いている。

しかし最近の若者は植民地の体験や経験もないのに反日感情が強いのはなぜであろうか。巨文島のとなり村に住んだ人たちは巨文島の人たちを植民地の手先だといってそこに住んだ韓国人を憎み、反日感情を持つようになったのか。それは特に戦後のナショナリズムが強い学校教育やマスコミなどによって植民地をより悪く認識するようになったからであろう。(pp123)

崔氏が行った、巨文島(コムンド)における植民地時代の経験者たちに対する聞き取り調査を報告した章の中の、一文である。
もちろん、限られた人間に対する聞き取り調査であるから、その内容だけで戦前の韓国人の対日感情の実情を推測することなんぞ、できはしない。
だが、調査者である崔氏の目には、戦前の巨文島(この島は、とりわけ日本人が多く住み着き、戦前には日本式の漁業によって大いに繁栄していた)での日本人と韓国人との関係は、善悪の衝突であるかのような徹底的対立の構図からは程遠いものであったようだと、写ったようである。おそらく、もっとニュアンスに富んだ、複雑な両国民の関係であった。
それが、善悪対決の構図にまで神話化されたのは、戦後の教育宣伝が寄与した面が大きい。
ゆえに、崔氏はむしろ戦後の若者たちのほうが、ずっと反日的であると指摘せざるをえなくなった。
他国を貶めて自国を称揚するナショナリズムは、国民の創生段階においては、致し方のない偏向である。げんに、日本もそうであった。
反日を神話として信奉している戦後生まれの世代がすでにほぼ全人口を占めている現代の韓国において、彼らの信念が変わるのは、結構難しい。韓国もまた、今や少子高齢化なのだ。一番人口が多い中高年世代は、容易に己が親しんだ常識を変えられないだろう。何か従来の外交とは違ったアプローチが、両国間の関係改善には必要なはずだ。それを考えて、実行に移さなければならない。

2009年04月17日

崔吉城『「親日」と「反日」の文化人類学』(2)

日本人が風水を積極的に利用したという見方には、日本政府が朝鮮人に、偉い人物が出ないように風水上の龍脈を切ったのであるという言説が常に存在する。(pp146)

本書第4章は、金泳三政権が1995年に行った、旧朝鮮総督府破壊政策についての考究に割かれている。
風水(プンス)は、韓国人からなかなか消えない、しぶとい迷信である。
中国から、輸入された。
韓国では、高麗(コリョ)時代に、大流行した。
李朝は儒教一尊の国是として、儒教とは何の関係もない風水に対して、警戒した。しかし、民間の習俗の間では、衰えもせずに隆盛を続けた。「風水は明堂という所に先祖の墓や住宅を建てるとその地気により幸福になるという信仰であり、、、たとえば甲が風水にある吉地を乙の墓地で探して乙に秘密でその墓地に闇葬したのが乙に発覚し闘争が起こる。これを『山訴』という。」(pp142)

迷信といえども民族文化であるから、外国人が韓国人の風水信仰に対して、とやかく口を出すいわれはない。
しかし、本章で問題とされているのは、金泳三政権下で反日世論を煽るために登場した言説の中に、日本が風水を悪用してわざと龍脈を断つ意図で総督府を建てた、というものがあった点である。
これは、著者も疑問を持っているように、明らかにおかしい。
日本人には、風水思想はない。
この騒動の中で浮かび上がった韓国人の意識を見ると、どうやら彼らは日本という外国のことを、外国として突き放して理解しきれていない、という事情があぶり出されてくる。
彼らは、「韓国人の常識、外国では非常識」の点を、十分に理解できていないようだ。だから、日本人が風水を知って利用したという、見当違いの主張が堂々と現れる。彼らは日本人と同様の、病気にかかっている。

私個人の意見としては、旧総督府破壊などの日帝時代残渣の破壊行為については、賢明な政策であるとは言いたくないが、それで鬱憤が晴れるならば、人が傷つかない限りご随意にどうぞ、と言いたい。戦争よりは、はるかにましではないか。(ただし、今も行われている「親日派」狩りは、関係者を傷つけるものである。私は、これに関しては旧総督府と同じスタンスを取ることができない。)

麗水会は植民地時代に韓国全羅南道麗水市地域に住んでいて引き揚げた人びとの組織団体である。、、、会員は千七百人である。(pp248)

日本には、麗水会のような、旧植民地から引き揚げてきた人々の親睦団体が、いくつか存在している。敗戦から、すでに六十五年。当時尋常小学校卒業時点の年齢ですら、皆さんは今や八十前である。間もなく、戦前の引揚者たちの記憶は、地上から消滅する運命にある。
本書終章の末尾に、「橋渡し役の引揚者たち」という項目で、例として戦前に麗水(ヨス)で暮らしていた人々の集まりが、言及されている。「彼らは朝鮮半島や韓国とは直接的な関係はなくてもよい。懐かしさと自己アイデンティティのために集まるのだといえる」(pp252)と評しながらも、「しかし国際化時代になり、彼らも韓国との関係をより近く感じるようになった、、、引揚者は日韓関係の橋渡し役、日韓関係のよきアドバイザーとして存在しているのではないかと考えられる」(pp252-253)と、しめくくっている。

戦後長らく冷え込んでいた日韓関係の前には、植民地時代があった。
本書にも言及されているように、巨文島への日本人の最初の殖民活動は、日露戦争時に行われた日韓協約に基づいて、連合艦隊の戦艦の後に着いて行ったところから始まった。当初は、現地人の襲撃を恐れて、家が完成するまでは穴ぐらで隠れて寝泊りしていたという。
これからちょうど十年前に、植民地となった台湾に乗り込んでいった日本人教育者たちが、士林(シーリン)の現地村民たちの襲撃を受けて皆殺しに会った状況と、そっくり同じである。これら「六氏先生」は、後に神として祀られ、台湾住民の子弟に参拝が義務付けられた。
韓国でも台湾でも、大状況は日本の植民地化であった。たとえ日本人と現地人との関係が、後世の神話によって宣伝されたものとは裏腹に、それほど対立的ではなかったとしても、日本人が勝者として植民活動を行った点には、変わりがない。その総仕上げが、韓国人や台湾人を日本人に解消してしまおうとした、皇民化政策であった。

皇民化政策は結局敗れ、大日本帝国は清算された。
覆水、盆に返らず。
済んでしまった現在では、いくら皇民化政策が植民地の民を同胞に格上げするための善意から出た政策であったとわが側が強弁しても、始まらない。韓国も台湾も、今は外国である。外国でなかった時代の記憶は、間もなく消えてしまう。今目の前にあるのは、植民地政策に対する後進の者たちが抱く憤りと、戦後に積み上げられた神話が作り上げた、対立のわだかまりだ。
我々の世代は、ノスタルジーから始められない。
結局、引揚者たちはかつて持っていた韓国人とのつながりを、時の流れとともに完全に失ってしまった。
内向き指向の、両国民だ。
こうなるのが、民族性であった。
しかし、これから先の時代は、両国民の「内向き症候群」に立ち向かって、パイプを広げていかなければならない。
それが、後進の者たちの、義務ではないか?

2009年04月18日

韓洪九『韓国現代史』

私が読んでいるのは平凡社から発行された訳書であるが、原著の『大韓民国史-壇君から金斗漢まで』は、2003年2月7日にハンギョレ新聞社から出版されて、ベストセラーとなったということだ。ただし、3万5000部でベストセラーと、監訳者は言っている。日本の常識から言えば、ずいぶんに少ない。この著作が、大衆的にどれだけ評判を獲得したのかは、よくわからない。本書は、韓国で猛威を揮っているネチズンの言動にまで、影響を及ぼしえたのか?そもそも、韓国のネチズンたちは、本書のようなしっかりした歴史書を、どれだけ読んでいるのだろうか?

韓国に来て、あるいは韓国に来る前に移住労働者らが最初に覚える韓国語は、「テリジマセヨ・ヨッカジマセヨ・ウリドサラミエヨ(ぶたないでください。怒鳴らないでください。私たちだって人間なんです)」だといいます。さらに「ウォルグブン・ウェー・アンチュウォヨ(給料は、どうしてもらえないのですか)」のような会話を、実際に彼らの使う韓国語教材に載せざるを得ないことが、単一民族国家韓国の現状なのです。(pp.74)

檀君神話を批判的に書いた一章の中から、引用した。
檀君祖父様(タングンハラボジ)は、紀元前2333年に即位したとされる、韓民族の始祖である。彼らが全て壇君祖父様を始祖としているという神話が、彼らの中に日常レベルで存在している。
その、単一民族であるという自己イメージが強い彼らは、余所者に対してどれだけ寛容であるか?
上の引用が、どれだけ真実を写しているのかは、知らない。
しかし、「때리지마세요、욕하지마세요、우리도 사람이에요」「월급은 왜 안줘요?」という言葉は、ただごとではない。もしこれが実態ならば、彼らは国際社会に生きる資格は、いまだない。韓国人が、ロシアや中東で活躍し、アメリカで大きなコロニーを作っているにも関わらず、国内でこんなありさまでよいのか。
同じである。日本と、全く同じ病気が、かの国をむしばんでいるに、違いない。


解放直後には、日帝残滓の清算が必ずなされるべきだという民族的合意が確かに存在しました。朝鮮民族の歴史が、日帝残滓の清算ができなかったからねじれてしまったのか、それとも民族史の展開過程がねじれてしまったために日帝残滓が生き残って再生産されたのかについては、見方によって意見が分かれるかもしれません。しかし、韓国社会に親日派が生き残ったことは明らかなことです。しかも、単に生き残っただけでなく、自分たちの恥ずべき過去を徹底的に隠蔽できる権力を握って、たくさんの民間人虐殺の墓の上に生き残っています。(pp.104)

韓洪九氏は、現代韓国における、「日帝残滓」「親日残滓」の清算について、「韓国社会で生じたすべての問題を親日派のせいにするのは行きすぎだと言わざるをえません」(pp108)と評しているものの、かといって親日残滓の清算が韓国に不必要であるなどというスタンスでは、全くない。「親日病はしかるべきときに完全な治療ができなかったために重くなり続けました、、、親日派は権力を握り、親日という恥ずべき過去への反省が行われないままに徹底的に隠蔽されました。」(pp107)

韓国では、建国時点で親日残滓が完全清算されず、権力の中枢に居残り、独裁政権を打ち立てて民衆を虐殺した。あまつさえ、李承晩を追放した後に独裁者のイスに座った朴正煕は、かつての通名が高木正雄であり、陸軍士官学校を卒業して陸軍少尉に昇った過去があった。彼は李承晩政権の反日政策を180度転換させ、日本と国交を回復し、日本資本の導入による経済成長時代をスタートさせた。彼の国内政策のモデルは、「池田内閣の所得倍増政策であったともいわれる」(崔吉城『親日と反日の文化人類学』pp68)。

崔吉城氏の指摘と、韓洪九氏のスタンスが、平仄を合わせている。
日帝問題、親日派問題とは、じつは国内問題なのだ。
自らの国の過去と、現在の権力の正当性を問い直すとき、「清算」がなされなかったし、今もなされずに大手を振ってまかり通っている、という筋道の論理が取られる。
だから、韓国では、良心をもって体制を批判しようと試みると、「日帝残滓」「親日残滓」を叩きのめす、というスタンスとなってしまう。

ヨーロッパで、ナチスの亡霊を叩く風潮が、いまだにある。
現ローマ法王がかつてヒトラーユーゲントに加入していた事実が報道されて、いっとき大騒ぎとなったことがあった。結局のところドイツ人の子供であるかぎり、当時を生きていれば強制加入なのであったから、冷静に議論されて落ち着いたのであるが。

そのナチスの亡霊叩きと、親日残滓叩きは、どこに相違点があるか。
違いは、ヨーロッパにおいてはナチス・ドイツと現在のドイツ連邦共和国とは別の存在であるということが共通認識として確立されているのに対して、韓国では過去の日本と現在の日本が、ややもすればはっきりと区別されていない点にある。

彼らは、現在の日本に対してもまた、警戒する。
靖国問題や、在日韓国・朝鮮人に対する迫害など、警戒されてしかるべき点もまた存在することを、私は否定しない。
しかし、現在の日本の文化にまで不信の目を向ける姿勢は、どうしたことであろうか。
韓国マクドナルドのパッケージには、世界各国の言葉で"I'm lovin' it"のキャッチフレーズが書かれているにも関わらず、いちばん重要な隣国であるはずの日本語が、ない。
国内問題として「親日残滓」を糾弾することは、姿勢としては分かる。(具体的にそれがレッテルを貼られた人々への集団的リンチとなっていないかどうかが、心配である。)
しかし、現在の日本国に目を向けようとしない彼らは、大きな損失をこうむっているのではないか?
日本人にとって韓国・台湾・中国の文化ほど、わかりやすい文化はない。
同じように、韓国人にとって、日本文化ほど、わかりやすい文化はないはずなのだ。
もっと互いの国が、隣国をよく見てほしいものだ。私は、それを願う。

2009年04月19日

韓洪九『韓国現代史』(2)

民間人虐殺の事実と同じくらい酷いのは、全国津々浦々で一〇〇万人余りの犠牲者が発生したにもかかわらず、われわれがこの虐殺に対して知らないふりをするか、本当に知らないまま半世紀をすごしてきた点です。同じ空のもと、このような酷い出来事が埋もれたままになっている事実に背を向け、あるいはまったく知らずに、われわれは食べて飲んで寝るという日常生活をしてきました。数十万人の死に五〇年間も背を向けてきた韓国社会の構成員全員が、虐殺それ自体ではなくとも虐殺隠蔽の協力者になったことで、人間としての道理をはたすことはできなかったのです。虐殺の嵐が広く全土を覆ったこの地で、被害者も加害者も、遺族はもちろんのこと、韓国社会のすべての構成員は皆まともな人間ではあり得なかったのです。虐殺とはまさにこのような問題であり、われわれが再びこの地で虐殺が起きないように努力しなければならない理由もそこにあるのです。(pp129)

済州島(チェジュド)の四・三事件、麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件、保導連盟員や獄中左翼の当局による虐殺、KoreanWar勃発直後に起こった米軍による老斤里(ノグンリ)虐殺事件、、、
戦後の韓国史を、著者は「熱いフライパンから出たら、火のなかだった」(pp140)という言葉で表す。熱いフライパンとは、日本による支配。火の中とは、その後に起こった虐殺、戦争、独裁の連続の歴史である。

「義を見てせざるは、勇なきなり」(論語・為政篇)という、言葉がある。

これまでの歴史で隠蔽という悲惨を受けて来た残虐な過去を、あえて明るみに出して戦後史を問い直す。
それは、人間の権利を愛し、多くの遺族に同情の意を持つ者ならば、当然湧き上がる正義感であろう。著者もまた、そうである。だから、韓国人と韓国政府に対して、過去を隠蔽するな、問い直せと、本書は呼びかけているのである。
日本では、戦前からうやむやのままに引き継がれた戦後体制への問い直しの運動は、六十年安保の敗北とともに、国民レベルでは消滅した。その後の学生による反体制運動もまた、七十年代にはほとんど鎮火してしまった。忘却によって日本人が得られたものは、高度成長の結果としての日本史上未曾有の物質的繁栄であった。
韓国もまた、高度成長を経験した。今や、先進国レベルの生活水準に、近づいている。
それとともに、80年代まではいまだ盛んであった市民・学生の異議申し立ての運動もまた、沈静化しているのであろうか。現在の韓国では自分の口に入る牛肉輸入問題については狂熱的となるものの、韓国史の問い直しについて燃え上がるような気運があるようには、どうも見えない。

韓国人も、日本人同様に、過去を忘れ去る時代が来るのだろうか。
それとも、身を切るような作業となるに違いない自国の恥ずべき歴史への斬り込みに躊躇した結果、批判しやすい対象として親日派や日本社会への批判の動きを、ますます強めていくのであろうか。
後者よりは、前者の方が日本人にとってまだしも憂鬱でないことは、明らかだ。
本書の著者の訴えはまことにもっともであるが、現実の韓国社会に呼びかけが通じるかどうかは、私にはわからない。

ところで、ささいなこと。
本書の中で、「弱者や少数者の人権を尊重しなければならないというのは、孔子の言葉でもあります」(pp145)と書かれてある。
いったい、これは孔子の何の言葉について、言及しているのであろうか。
確かに孔子や、それを受け継いだ孟子の思想には、社会的弱者を為政者はまっさきに保護しなければならない、という仁政思想がある。「鰥寡孤独」、すなわち男女のやもめと身よりなき老人と親なき孤児は、仁政者がまず政治により保護する対象なのである(『孟子』梁恵王章句下)。
しかし、「少数者の人権を尊重する」と著者が言及するとき、いったい孔子・孟子のどこの思想のことを、言っているのであろうか?
孔子は、「異端を攻(おさ)むるは、これ害あるのみ」(『論語』為政篇)と言っている。また、「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(同、泰伯篇)と言っている。
孔子の後継者である孟子は、絶対自由至上主義というべき思想家である楊朱、四民平等主義である農家、兼愛思想による社会改造を標榜する墨家などの論客を、儒教のドグマに対立する異端として、片っ端から叩きのめした。そこには、異なった思想であっても尊重するなどといった姿勢は、ほんのかけらすらも見られない。

もし、著者が「少数者の人権を尊重する」と言うときに、近代社会的な各人の自由を尊重すべしという人権思想のことを想定しているのであれば、孔子や孟子の思想が、自由主義的な要素があるはずがない。儒教とは、決まったドグマが存在していて、それからの逸脱を厳しく排斥する思想なのだ。たとえそのドグマが、主観的には善意に満ち溢れた仁政思想であっても。

孔子や孟子を自由主義的人権思想家などと、考えることは私にはできない。筆者は歴史学者であるのに、少し疑問に思う、本書における孔子評価である。

2009年04月20日

韓洪九『韓国現代史』(3)

姜教授は、韓国の数少ない北朝鮮研究者の一人であり、私も金日成の抗日武装闘争の研究で博士号を取り、大学で「北韓[北朝鮮]社会の理解」という科目を教えています。(pp162)

作家の井沢元彦は、「日本は国際平和の実現が国是であるというのならば、どうして日本の大学には戦争研究の学部がないのか?」と言った。言霊のごとく平和がいいねと唱えるばかりで、ではどうやれば国際平和が実現できるのかという真摯な分析と提案を何もしようとしない空想的平和主義者たちへの、揶揄的批評である。平和を実現するために戦争の原因とその防止策を研究せよ、という主張は、残念ながら今の日本ですら主流となっているとは言い難い。

著者や姜禎求(カン・ジョング)東国大教授が、韓国で数少ない北朝鮮研究者であると、著者は書く。
異様な、ことでなかろうか。
今後統一までもプログラムとして書かなければならないことは、韓国として分かりきったことだ。
なのに、韓国では北朝鮮を研究する学者が、数少ないという。
将来の自国に対して、それでは目隠しをして走っていくようなものではないか。韓国は、統一が国是となっている北の片割れに対して、冷静に分析する視点を、現在においてすら何も持っていないのではないか。
これでは、空想的平和主義ならぬ、空想的統一主義ではないか。


連邦制とは、南北相互がすでに確立された体制をそのまま認めながら統一を模索しようという案です。事実、武力によって一方が他方を征伐する戦争による方式を除けば、そして東欧で見たように体制が自滅の道を選ばなければ、われわれに残された選択肢は永久分断の道か、それとも相互の体制を認めた基盤の上で統一を追及する道しかありません。(pp167)

北朝鮮をよく研究している著者ゆえに、上のように主張するより他はない。
吸収併合の道は、北の体制がすなわち消滅するということである。著者は、それが非現実的であると考える。ゆえに、連邦制の将来となる。それは、北朝鮮がすでに提案しているプランである。韓国政府もまた、受け入れるべきであると、著者は言うのだ。現在韓国政府は、いまだに連邦制の選択を取るにまで至っていない。韓洪九氏の将来案は、姜尚中(カン・サンジュン)東大教授の案と、だいたい同じである。姜教授はさらに国際関係も視野に入れて、半島の永世中立化のプランを、併せて提案しているところである。

私は、韓洪九氏の考えは、少々甘いのではなかろうかと、考えている。
南北の人たちは、別民族でも何でもない。
北の平安道や咸鏡道が先祖の故地である韓国人は、いっぱいいる。KoreanWarで南に逃れた、人たちだ。親子や親戚が北と南で別れて暮らしている家族も、無数にいる。両国は血でつながっていて、政治だけが人の流れを押し止めている。
もし、将来に向けて南北が統一されるという展望が、具体的に見えた日が、来たならば。
私は、その次の日に、ハンガリー・オーストリア国境が開かれた89年の事件が繰り返され、ベルリンの壁崩壊に相当するであろう板門店消滅が続いてすぐに起こるのではないか、と危惧する。
それが、人民という正直な生き物の、自然な動きではなかろうか。
それが準備なしに起こったら、どうなるか。
恐ろしい混乱が、半島で始まるのは、目に見えている。
一時の興奮が収まったとき、韓国は二千万人の極貧でビジネスを全く知らない民を、背負い込むという悪夢が現実となったことを、知るだろう。
それに、半島は耐えられるのか?
耐えられなかったら、どうするのか。
そのとき、日本が鎖国して、知らんぷりしていたら、どうするのか。その可能性は、今のままでは高いのでありますぞ。
私は、連邦制には反対である。
結局絵に描いた餅となるに違いない、と予測する。速やかな吸収合併に追い込まれるしか、道はない。
それに、東北アジアは備えていない。
私の憂慮が杞憂であるということを、南北半島問題を扱う研究者の皆様は、どうか示してほしい。
あまりにも、今の韓国は将来に対して、観念的な統一幻想ばかりに終始して、具体的に頭と心を鍛える努力を怠っているように、見えてならないのだが。

2009年04月23日

韓洪九『韓国現代史』(4)

しかし、過去数年間、安保、安保と叫んで国家予算を湯水のように使っておいて、また、経済力において北朝鮮の二五倍の規模になった今日でも、駐韓米軍がいないとすぐ戦争になるかのように大げさに言うことはとうてい理解できません。(pp281)

本日、いちおう読了。
私は、まだ現代韓国人の対外国観について、十分に理解できたとはいえない。
著者が「反米感情くらい持ってはどうですか」と題した一章を割いて、軍を駐留させ続ける米国に対する学生たちの時に死をもった抗議行動を称揚して書き付ける筆致には、わが沖縄における反米闘争と同じ、基地の現場から来る熱さがある。韓国における米国は、日本の自民党に対する生暖かい援助とは違い、韓国では露骨な独裁政権の権力の後ろ盾として結果的に結託していたという、歴史がある。

ゆえに、筆者は「反米感情ぐらい持ってはどうですか」と示唆し、反米デモを行う若い世代たちを頼もしげに評価するのであるが-

上の引用に見られるような筆者の国際政治に対するセンスは、残念ながら私をうなずかせるものではない。
韓国は、周囲を取り巻く四大列強-米国、日本、中国、ロシア-と、どのように付き合うべきだと、言うのであろうか。
米国が退けば、その後に中国が押し出してくるまでだ。それは、力の原理というべきものだ。いくら韓国が軍事的に増強したといっても、軍事の相手とすべきはもう、北朝鮮ごときではない。米国と綱引きを望んでいる、中国なのだ。ロシアなのだ。これら列強に、韓国が単独で立ち向かえるとでも、いうのであろうか。
本当に半島を中立化したいのならば、上の四大列強の間を取り持って、時には手玉に取るほどの辣腕をもった外交家が、韓国に現れなければならない。
著者は、歴史家として檀君から高麗、李朝を経て日帝強占期まで韓国の歴史を縦横に引き合いに出すのに、不思議なことに本書では新羅(シルラ)の歴史について、言及されてない。
韓国が自国の歴史に学ぶべきは、烈士たちではなくて、むしろ新羅の太宗、金春秋(キム・チュンチュ)なのではないか。
太宗は、百済・高句麗に圧迫されていた自国の運命を、即位すると当時おそろしい勢いで超大国化していた大唐帝国の臣下となることによって、逆転させようとした。そのためには独自の国制を捨てて唐を模倣するなど、なりふりかまわなかった。
太宗の目論見は見事に当たり、百済は手もなく唐によって滅ぼされた。百済の同盟国であった日本も、唐と新羅の連合軍によって白村江の戦で惨敗し、以降日本は半島政治から手を引くことになった。
高句麗までも滅ぼした後、新羅は一転して半島から唐軍を叩き出すための戦に、打って出た。すでに太宗は死に、後継者の時代となっていたが、彼らは対唐戦争を戦い抜いて、半島の独立をついに勝ち取ったのであった。

韓国は、太宗と新羅の統一史からこそ、学ぶべきなのではないか。
少なくとも彼らは、自国がまだ弱いことを知っていた。そして、外国の力を使うためには、面子すら一時的に捨てることも、やってのけた。現実の力関係を見抜いて、それを自国にプラスに持っていくための、冷静かつ大胆な外交戦略であった。
ハートが熱いのはよいが、ヘッドは冷たくなければならないと、私は隣国に思うのであるが-

2009年05月02日

大変な誤解を、していました。

告白いたします。
私は、今日の今まで、現在「朝鮮人」と一般に日本社会で呼称されている人たちは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)国籍の方々だと、思い込んでいました。

今日、この「隣の国の話」のサイトを読み通して、自分が誤っていたことを、教えられました。

日本と北朝鮮との間に、国交はありません。
したがって、日本国が北朝鮮籍の外国人の登録を、認めるわけがありません。
真相は、上のサイトの中の、このエッセイにまとめられています。
日本がサンフランシスコ平和条約を連合国と締結して独立を回復したとき、日本に残留していた半島の人々は、一律で「朝鮮籍」とされました。
その後、大韓民国の要請を受けて、「朝鮮籍」の人たちは「韓国籍」に移ることが、認められました。すなわち、現在の「朝鮮籍」「韓国籍」の区別は、母国の区別とは、関係ありません。上のエッセイにも書かれているとおり、あえて「韓国籍」に移さなかった以上は、「朝鮮籍」の方々に在日本朝鮮人総聯合会(総聯)に所属しているケースが多いことは、事実らしい。しかし、必ずしも「朝鮮籍」=「総聯」では、ない。だいたいが、在日のコリアン(エッセイでは、「朝鮮人」を提案している。しかし、私はこの提案に、いまはまだ従わない。それで、ぼやかして半島の人々とか、コリアンとかの称号を、適宜使います。)は圧倒的に半島最南部の慶尚両道・全羅南道(現在の済州道を含む)からの移民である。その彼らが北部の体制を支持する総聯に所属している理由は、さまざまであろう。一番痛切なのは、おそらく戦後に日本から北朝鮮に帰国した親類が、いるケースであろう。

そして、エッセイにも書いているが、「韓国籍」で在日本大韓民国民団(民団)の所属であっても、「朝鮮人」とあえて名乗る人もまた、いるということだ。かつて「チョーセンジン」という言葉が日本の中で軽蔑語であったことを捉え直して、誇りをもって日本の中で自称してやろう、という意気込みだと、いうのである。

私は、大変な無知でした。自分が、恥ずかしい。

しかし、あえて申せば、このような初歩的な事実ですら、日本ではほとんど知れ渡っていない。
在日問題が、タブー視されている証拠だ。
私は、今こそ包み隠すこの国の空気に、挑戦したい。
明らかに示されない事実は、誰も議論しようと立ち止まったりしない。

酒井敏雄『日本統治下の朝鮮 北鎮の歴史』

著者は一九二〇年北鎮で生まれ、この土地の日本人小学校を卒業し、平壌の商業学校に学んだ。ここの生徒は半数が朝鮮人で、著者はいまも彼らと親交を結んでいる。北鎮の歴史を書くことができる残り少ない一人である。(表ブックカバー折込みより)

本書は、草思社から2003年に発行。

本書の大半は、かって植民地時代に平安北道雲山郡北鎮面と呼ばれた金鉱都市の、歴史である。
叙述は詳細で、これもそれなりに面白い。
だが、山間の一都市だけの記録であって、戦前の朝鮮半島の全体像がここから理解できるかと言えば、私はそれには無理があるだろう、と思った。

むしろ、本書の冒頭に当たる、第一部「数字が語る日本の朝鮮統治」が、意見として重大である、と感じ取った。
この第一部は、『朝鮮総督府統計年報 明治四十三~昭和四十七年度』を一次資料として、植民地時代朝鮮の経済動向を、分析しようとする試みである。
その、結論。


、、、朝鮮の近代化計画は約二〇年余りで達成されたのである(昭和五年頃)。
近代化のために日本は、朝鮮の人々を誘導するため、時には軍事力を行使したこともあり、後にはこれが朝鮮における日本の失政といわれる大きな原因となった。
しかし世界の植民地で、このような短期間に繁栄をもたらした国が果たしてあったであろうか。これには日本の決断と実行がなくては進まなかったであろう。
当然のことながら、これは多くの朝鮮人の絶大な協調と理解があってはじめて達成されたことである。
このような輝かしい成果が、どのようにして醸成されたかは多くの日本および韓国の学者や研究者たちが『朝鮮総督府統計年報』の解析に携わり、その結果を次々と公表することになれば、やがて日朝の近現代史が新たに解明され、これにより日韓両国とその国民には必ずや明るい二十一世紀が開かれてゆくものと確信される。(pp20-21)

朝鮮の近代化が達成され、経済水準が李朝時代より向上した傍証として、著者は人口と歳入の増加を挙げる。
朝鮮民族の人口は、
1910 13,128,780人
1941 23,913,063人(+182%)
朝鮮総督府特別会計の歳入は、
1911  52,284,464円
1930 218,210,352円(+417%)
であった。著者は1942年と比較しているが、戦時中では税収体系に大幅な変更が起こっていただろうし、満州事変以降の円ブロックの経済は、インフレーションがあったはずだ。だから、満州事変直前の大恐慌時代、1930年と比較してみた。
人口と財政収入が期間を通じて激増していることが、このデータから読み取ることができる。
これが著者の言うように、単純に朝鮮民族の生活向上を意味していたのかどうかは、私には即断できかねる。
たとえば著者は、「従来畑作が主で穀類はムギ・アワ・ヒエ・キビ・トウモロコシなどで、栄養に乏しかった朝鮮人は、米の飛躍的な増産で彼らの食生活は栄養的に改善され、、、これは人口が急激に増加したことで明らかとなった」(pp39)と、書いている。
しかし、この説明は、どうも李朝時代に農村を旅行したイザベラ・バードの観察と、食い違っているように思われる。バードが見た農村は確かにとびきり裕福とは言えなかったが、食事は現在の韓国人のパンチャンと同じく、米のごはんといくつもの小皿が供される食事で、味もよく栄養にも富んでいた。ひょっとしたら、著者は自らが生活していた北部地方の事情について、一般化して述べているのかもしれない。戦前に日本に渡って来た人々は、困窮した小作人が多かった。平均値はどうであれ、困窮した階層が植民地時代に発生していたことは、私にとっては確からしいと思われる。それは、現在の在日の方々がアボジやオモニの労苦を思い出して語る言葉に、よく表れている。

しかし、他方で、植民地時代の朝鮮が日本の経済的収奪によって、全般的に困窮化したと主張するならば、たぶんそれも誤っているのでは、なかろうか。
私は、経済史の研究家ではない。
ゆえに、これまで半島について書かれた著作を私が読んだ限りで、自分としてイメージで語るより他はない。
戦前の巨文島(コムンド)は、漁業で繁栄していた。
本書にも書かれているように、北鎮は日本資本によって活況を呈していた。
以前読んだ朴景利の小説『金薬局の娘たち』は、統営が物語の舞台であったが、日本による併合は人々にとって痛恨事であったと、書かれていた。しかし、二十年の歳月が過ぎた後の統営の街は、日本式の漁業が導入されて、繁栄を加えていたと叙述されていた。
もちろん、経済的繁栄と、人の心の憤りは、別次元のものだ。
『金薬局の娘たち』でも、併合から20年後の若者たちの中には、独立運動に向けて突き進もうとする群像が、現れて来る。
かつての日本史でも、貧農史観が猛威を振るっていた。今でも、有力なのかもしれない。
植民地時代の朝鮮史も、経済的収奪史観だけでは、歴史の実像に迫ることはできないのではないだろうか。
両国のわだかまりは、もはや経済ではない。
プライドを傷つけられた、人の心の憤りに関する、点なのだ。

2009年05月11日

最も遠い国

昨日、韓国語講座仲間と飲んで、その時出た会話。
「北朝鮮は、韓国にとっていちばん遠い国ですよ。何考えてるか、まったく分からない。」
ソウルの人が、言った。
日本人がいっぱいいるソウルに生活していた彼女にとって、日本はよほどに近い。北朝鮮は、もうそうでない。若い世代は、正直そう思っているのだろう。統一という韓国の国是は、残念ながら若い世代から、崩れ始めていると予感した。ちなみに、いま韓国で「八道」といったら、韓国の行政区画である八道のことを言うようだ。現在は、済州道が新設されて、九道になっている。私は歴史的な八道(京畿・慶尚・全羅・忠清・江原・黄海・平安・咸鏡)を想定して話をしたら、彼女と言っている内容が、食い違ってしまった。

「『同志』(たしか、「同胞」の意の「トンポ」と言っておられたと思う)なんて言葉、知らないよ。北の人は、学校でこれを使うんだな。」
日本に住んでいる韓国籍の人が、言った。
聞いてみると、朝鮮籍の人は、やっぱり韓国に渡航できないという。
渡航したければ、韓国籍に変えるしかない。
しかし、韓国籍でも、北朝鮮に渡航は可能だという。
「金、出しゃあね。結局、金だよ。」
じっさい、渡航しているという。
現在、新潟の港は閉ざされているが、北朝鮮に渡ることができないかといえば、そうではない。
中国を経由すれば、行くことができる。
だから、日本の制裁政策は、中国と調整をしなければ、何の実効もないことになる。
これじゃあ、バカにされますよ。
本当に日本は、人権を大事にせよと、胸を張って言えますか?
抑圧されている人、国家の犠牲となっている人に対して、「私たちはあなた方の味方だ」と、言うことができますか?していますか?
拉致被害者について怒るならば、どうして法輪功弾圧に対して、怒らないのか。ミャンマー軍政を、どう思っているのか。ロシアのファシズムと言ってもよいプーチン政権を、どう思うのか。
日本人の悲しみだけ主張していれば、外国が聞いてくれると思ったら、大間違いですよ。
日本は、経済が繁栄して、その何万倍も、高笑いの声が外国に聞こえているではありませんか?

2009年05月14日

悲鳴を上げる中国農業 - 日経オンライン記事

ある教授が農村で目にした“悲惨な病理"

話し手は、愛知大学の高橋五郎教授。まず自ら、「中国専門家」ではなく、「農業の専門家、食料の専門家」であると、断ってからの、インタビューである。ゆえに、教授は農業・食料の専門家として中国農業の実態について、語る。

日本でもさみだれ的に報道されている中国農業の恐るべき汚染実態を、高橋教授もまた述べる。


―― そう考えると、土作りや水の管理、肥料の使い方、循環の手法などについて、国や企業がもっとコミットすべきなのでしょうね。

 高橋 何らかのルートでコミットすべきでしょう。ただね、農民に教えることは大切だけど、何せ数が多い。日本の場合、農協などに農家を集めて研修や講習会を開くことができる。ところが、中国の農村では、どこを見ても農民を集める施設がないんですよ。従って、一人ひとり相対で教えていくしかない。これはものすごい時間がかかる作業です。

中国には、技術指導などを担う農業専業協会という農協のような団体があります。ここの指導員を教育するという方法はありますが、先ほど述べた理由で、指導員が農民に指導していくのもえらく手間がかかる。コミットするとしても、相当に大変だと思いますよ。

高橋教授は、農業の技術が立ち遅れている原因として、土地の公有制度を挙げる。これは、さきほど政府が、農民に対して土地の一定の使用権を認めて、資産として活用することを認めた立法を通した、と聞いていた。いったい、いまだに実行化されていないのだろうか。農村の購買力を上げる、という中央政府のスローガンは、いつになったら末端にまで政策が行き渡るのであろうか。

それにしても、上の引用などからも垣間見えるように、地方政府の無能と非能率さは、ひどいもののようだ。農村を貧窮させ、汚染への関心を失わせている最大の障壁は、中央と地方の政府なのではないか。いまだに、首都が作った法を広大な天下に一律に当てはめて、地方には中央にしか目が向いていない、金権まみれで直近上位の役人の監視の目しか気にしていない、非能率な役人ばかりしかいない。帝国時代から、進歩していないではないか。もっと、人民の幸福を願う有志の者が、法によって処罰されることを恐れずに、自発的な力を発揮できるような社会に作り変えることを、望む。もういいかげん『韓非子』流の統治政策は、捨てなさいよ。

2009年05月16日

傷に塩を塗るのか(Salt in their wounds)-The Economist記事

今週号記事を、訳す。

犯罪者扱いされる、遺族の親たち(Bereaved parents treated like criminals)

「災害地域の市民は、新しい生活に向けて行進中であります」と、胡主席は宣言した。
五月十二日。四川省での地震が、8万6000人以上の死者及び行方不明者を出し、数百万人の家を奪った、一周年のことであった。
しかし、主席がいう中国の巨大な救助活動が納めた勝利宣言にもかかわらず、生き残った人々の中には非常に不満が残っている。

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「間」と「情」

今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。
忘れないうちに、メモしておく。

-関西在住、三羽烏。

これは、姜在彦、金達寿、尹学準の三氏のことである。
幸いに、私は三氏の書物を、読んだことがある。
だから、彼らを韓国で出迎えに行った、という本日会った方の話を、適当でなく聞くことができた。
いずれも、司馬遼の『街道をゆく』に出てくる。

『韓のくに紀行』。
『壱岐・対馬のみち』。
『耽羅紀行』。

金氏は、壱岐・対馬への旅行に、司馬遼と共に行った。
姜氏は、耽羅すなわち済州島への旅行に、同行した。
「司馬氏はお弟子さんがいなくてね、資料集めを人に振るんだ。彼は、人づかいがうまかった。耽羅紀行の資料は、姜先生に振った。その資料集めが、当事学生だった、僕に振られたのさ。」
私は、本日会った三羽烏の後継者の方の話を今日聞いたから、三世かな?
その方は、現在日韓の貿易のお仕事をしておられるが、学生時代は上田正昭京大教授の謦咳に触れられて、日本の大阪生野出身の在日韓国人でありながら、韓国ソウルの大学に留学された。当事まだ注目されていなかった、野史(ヤサ)の研究をなされた。野史は、韓国史で中世と呼ばれる、李朝時代の民間の記録である。現代の韓国文化の原点は、中世の李朝にある。

この方が、ソウルに留学なされていたとき。
「よう!」
教室の学生数は十八人なので、すぐに顔見知りになる。
胸には、当時いちばんポピュラーだった、「コブッソン」のたばこ。
ぐいと、取られて、
三本を、引っこ抜いて、
彼は、残りを返すのかと、思った。
ところが-
彼のポケットに返したのは、その三本だった!

大学試験に、受かった日。
下宿のオーナーに、なぐられた。
「よく受かったな!」と、祝福の、しるしとして。
下宿に、戻ったら。

冬。
漢江は、氷点下18度の気候で、凍る。
酔っ払いが、川のそばで、寝ていた。
-日本人だったら?
通り過ぎる。
しかし、彼は韓国流儀に従って、背負った。
背負って、警察に連れて行った。
警官は、彼をほめたという。
「お前ら学生は、政府に楯突いてばかりするが、たまにはよいことするじゃないか!」

相手に、このぐらいはやる。やらなければならない。
そのお返しに、自分にもやってくれる。
トータルで、つりあっている。
それが、韓国なのだろう。私は、お話を笑いながら聞いた。

-日本は「間」の文化で、韓国は「情」の文化。

これは、もう一人のお方が日韓の文化を総括された、言葉である。
このお方も、代表取締役。
くしくも一国一城の代表三人が、同じテーブルに集まっていた。
私の城は、ちゃんとビジネスを成り立たせておられるお二人とは違い、ただのにわか仕立てのあばら家であるが。

その方が言った。
-仕切るんだなあ。人と人とを、互いに干渉しないように。それが、日本の文化。しかし、韓国人は、相手のテリトリーに、ぐいと入っていく。島国と、半島との違いだよ。島国のムラだと、いちど失敗したら、逃げられない。だから、明日また同じ人と顔をあわせることを、先に考えた行動になる。しかし、韓国は陸つづきだから、やばくなったら逃げればいいんだ、って考えるんだ。中国に逃げればいい。ロシアに逃げればいい。アメリカだって、日本だってある。だから、いまこの時を遠慮せずに、自分の思ったままの姿をさらけ出したほうがいい。そう、思うんだよ。韓国と日本の違いを、何と表せばいいか長らく分からなかった。香川に行って、話を聞いたとき、分かったんだ-「間」の日本と、「情」の韓国さ。

2009年05月18日

四寸・八寸・十六寸

韓国語に、サチョン(사촌)という言葉がある。
「四寸」と漢字で書く。
これは、四等親という意味である。
自分から見て、一寸が両親。
二寸が、祖父母。
三寸が、おじおば。
その子が、四寸となる。つまり、いとこのこと。
イウッサチョン(이웃사촌)という言葉が、しばしば使われるという。
直訳すれば、「隣のいとこ」という意味。
これは、血のつながりはないが、いとこ同然に親しい間柄を指す言葉だ。
人の関係についても言うし、国の関係についても言う。
「ハングッハゴ イルボヌン イウッサチョニダゴ センガカムニダ。」
-韓国と日本は隣のいとこだと、思います。
こんな言い方が、できる。

韓国語の親族を表す言葉は、日本語よりもはるかに多い。
日本語なら「おじ、おば、祖父、祖母」で終わってしまう言葉が、韓国語では複雑に分かれている。父方については、何番目の兄・姉であるか、あるいは子がいるかいないかで、言い方が変えられる。
言葉は、その文化が大事だと思っている対象について、豊富な表現方法を持つという。
アラブ語がラクダについて豊富な語彙を持っていたり、漢語が料理方法について細かい用語を誇っていたりするのは、それぞれの文化が大事に思ってきた対象をよく表しているといえよう。
日本でも、あったね。

 津軽には七つの雪があるとか
 粉雪、つぶ雪、綿雪、ざらめ雪、水雪、かた雪、春待つ氷雪

新沼健二の、『津軽恋女』。
雪の津軽だから、雪にいろいろ言う。
日本語全般では、雨の語彙がとても多い。雨の国なのだ、日本は。
さて韓国では、父方は十六寸、母方は八寸までが、親戚とされる。
ものすごい、広がりだ。
数えてみれば、自分の八代前の父方の祖先の子孫が、親戚となる。父方だから、必ず自分と同姓同本貫のはずだ。もし一世三十年と考えれば、二百四十年前の祖先から分かれた同姓の人が、ぜんぶ親戚となる。
親類というよりは、社会集団と言うべきであろう。
ここが、日本と全く違う。
韓国の歴史で、特定の一族がまたたく間に権勢を独占するケースが見られるが、これは韓国社会の親類の結束の強さが、背景となっているはずだ。日本では、一族による権勢の独占は平氏や北条氏の頃まで見られたが、室町時代以降は目立たなくなった。親類よりも組織集団の結束のほうが、日本人の集団意識として重視されるようになったからであろう。
韓国に旅行すれば、同姓同本貫の人たちの組合事務所が、都市にある。
金海金氏、密陽朴氏、全州李氏、晋州姜氏、、、
外国人の目にはよく見えないが、韓国社会にはこのネットワークがある。政治すら、このネットワークで動いている面がある、と洩れ伝わってくる。

韓国語では、母の姉妹、すなわち母方のおばを表す特定用語として、イモ(이모)がある。イモは、面白いことに他人の女性に対しても、使う。店などに行って、その店のママさんに対して親しく問いかける言葉が、「イモ!」である。

それと、韓国語では男性と女性で、親しい目上の人に問いかける言葉が違う。
男性は、親しい目上の男性に対して、「ヒョン」と呼びかける。目上の女性には、「ヌナ」を使う。
女性は、親しい目上の男性に対して、「オッパ」と呼びかける。目上の女性には、「オンニ」を使う。
ところが、ここからが面白くて、男性もまた、女性に対して「オンニ」を使うことがある。ちょっとふざけたニュアンスを持った、親しい彼女への呼びかけである。年上・年下は、関係ない。日本語にあえて訳せば、「オネーサマ!」といったところだろうか。
だから、男と女が、互いに「オンニ!」「オッパ!」と呼び合っていれば、二人がとても親しい間柄だということが、すぐに分かるのだ。そうして結婚した後も、「オッパ!」と呼び続ける。やがて子供が生まれると、「オッパ!」が「アッパ!」になる。「アッパ」は、お父ちゃんのこと。たぶん漢語からの、輸入語だろう。

ちなみに女性が男性に「ヒョン」と呼びかけることは、普通ない。あるとすれば、学生時代に女性が気合を付けて、先輩などを呼ぶ場合だけ。日本語にあえて訳せば、だから「センパイ!」あたりなのだろう。

2009年05月23日

いまどきの学生は、天安門事件なんて気にしない(Tiananmen Now Seems Distant to China’s Students)-NYTimes記事

http://www.nytimes.com/2009/05/22/world/asia/22tiananmen.html?_r=2&ref=world

4月30日、北京大学の32630名生徒全員の携帯が、大学当局からの文字メッセージを伝達して、鳴り響いた。北京大学は、中国最高学府のひとつとして、世間に穏やかな大学と見られている。メッセージの内容は、「特別に複雑な」状況ゆえ、青年節には「諸君の発言と行動に注意するように」というものであった。

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2009年06月09日

「386世代」の原点

1987年6月10日のことは、韓国で「6.10」と呼ばれる。
日本ではバブル景気がとめどもなく拡大していた時代で、当時東京の大学に入りたての私は、週末になればコンパだ飲み会だとのスケジュールが入って、新宿のライブハウスでバカ騒ぎしていた群衆を見ていた。
ひねくれ者の私は、若い集団のパワーに圧倒されたというよりは、こいつら何が楽しくてこんなに浮かれているのか?と、わざとのように理性を捨てようとしていた姿に、底意地の悪い冷ややかな視線を送っていたものだ。日本では、もう学生運動は一部の好き者が続けている、悪趣味の一つに堕落していた。いっぱんの学生は、飲んで騒いでサークル巡りするばかりであった。校則が厳しい高校を卒業して上京した私は、都立高校出身の同級たちから、彼らがすでに高校時代から合コンとか飲み会とかやりまくっていたという話を聞かされて、驚いた。酒飲んでいいのか?というレベルの驚きではなくて、そんなに早くから浮かれていていいのか?という、私のくそ真面目な性分から出た、驚きだった。

この時期、韓国はソウルオリンピックを翌年に控えていた。
そして、学生運動が爆発していた。
日本では1960年の安保闘争以来見られなくなった、民主化を目指して政府と衝突する熱い大衆運動が、ここではまだ現在進行中であった。当局による大衆への大殺傷事件である光州事件は、じつに80年代初頭に起こった。韓国は、まだ民主化を勝ち取る過程の真っ最中であった。

Daumの議論コーナー「アゴラ」に、今日投稿された記事があった。
Exciteを使えば、大略は分かる。
訳してみたいが、まだそれだけの韓国語の力量が、まだ私にはない。
22年経って、そろそろ民主化運動の記憶も、風化する寸前と見たほうが、よいのであろうか。日本では、60年安保から22年後には、もう労働運動も学生運動も、どこかに消え去っていた。今年5月のノ・ムヒョン前大統領の急死では、「386世代」たちの声がにわかに高まって、韓国中を覆った。「6.10」の頃に学生だった人々が今や韓国社会の中堅となっているから、彼らの声が現在の韓国でいちばん大きく聞こえるのは、当然というべきであろう。しかし、今の下の世代は、「386世代」とはまた別の現実に直面しているように見える。現在の現実を、どのように解決していくべきかを提案するのは、誰なのであろうか。


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2009年06月11日

美しい韓国の川だけは、守ってほしい

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私が韓国の慶尚道を旅行して、いちばん感銘を受けた景色。
世界遺産の、仏国寺では、ありません。
海印寺でも、釜山タワーでも、ありません。
洛東江(ナットンガン)の、まるで水墨画をこの世に再現したかのような、美しい流れであった。

いま、韓国理財部は、低迷する国家経済に刺激を与えるために、数十兆の資金を投入して四大河川改造事業を行う計画であるという。
河川の間に運河を掘り進めるという現大統領の抱負を聞き知ったときには仰天したが、現在の計画では、今のところ運河事業は盛り込まれていないようで、私は一安心した。

Daumの討論コーナーであるアゴラでは、「四大河事業」に対する賛否の意見が、激しく戦わされている。
ある論客は、韓国が日本の土建国家への道を進もうとしている、と反対している。
その懸念は、当然であろう。
韓国でも、日本の壊れた海や川を再現してほしくはない。
金と仕事を回す経済は、人間の生活のためである。
しかし、美しい水と景観を後世の国民に残すことも、また人間の生活のためである。
日本の無残な姿を反面教師として、よく学んでほしい。
そしてできれば、日本の(システムとしては腐っているかもしれないが、技術としては優秀な)力を、役に立ててほしい。

「理財部の四大河河川保護事業は、結局国土を壊す売国政策であることを知るとき、これをのうのうと見逃している者は、売国奴李完用とその末裔である親日派縁戚以外には、ないであろう」(アゴラの一投稿者の言葉)というような言葉が、韓国の川の美しさを知る日本人の私として、痛い。

2009年06月14日

大阪・生野・コリアンタウン

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大阪環状線から300メートルほど東側に沿って、バス通りがある。
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。
この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。
当時、この近辺は工場の密集地であった。
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。
「疎開道路」の、始まりである。
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。

その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。


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大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。
正式名称、御幸通商店街。
これが通称、コリアンタウン。

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店先には、韓国語が並ぶ。
韓国の食材が、売られている。
おなじみのキムチ、チジミ。
店頭売りの、ホルモン。
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。


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チマチョゴリを売る、服屋。
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。
この街には、漢字もひらがなも、混在している。
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。

この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。

6月14日、ワンコリアフェスティヴァルの催しを、当初からかれこれ25年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。


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コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫(しゅんせつ)工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」

背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。

「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。

「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」


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もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。
かつての日本が、現在の中国の姿であった。
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」
に聞いた。
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。
「鳥が、戻りますかね?」
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。


会長の話に、戻る。
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」

戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であると、聞いたことがある。

ネットからの乏しい資料を拾い出すと、大阪商船(現・大阪商船三井)が大阪釜山線
を開いたのが、明治23年。以降、大阪商船は大阪仁川線、朝鮮沿岸線を就航させた。
大阪と済州島を結ぶ「君が代丸」は、大正12(1923)年に始まった。

こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。

とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来たと聞いている。
そういえば、鶴橋から御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、ところどころに店の看板として飾られているのを、見かける。
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。
由来はよく分からないが、石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑(チェジュウプ)の四隅に、配置されていた。
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。
(下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。)


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この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。

「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。


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東大阪朝鮮第四初級学校。
会長の、母校でもある。
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」


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このパネルは、(年度は失念したが)ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」


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御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。

現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」

私は、今年慶州の国立博物館に行った。
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。
新羅でもまた、勾玉(まがたま)がアクセサリーとして流行していた。
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。
日本の正倉院からペルシャの製品(あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品)と、同時代性を感じる。

チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました-」

彼らのことを、帰化人と言う。
近年、渡来人と呼ばれるようになった。
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。

「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」


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(クリックすると、拡大します。)


今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津(なにわつ)。
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇(5世紀)と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。

古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。
難波の堀江(なにわのほりえ、運河)、茨田堤(まんだのつつみ、堤防)、猪甘津の小橋(いかいつのおばし、橋)といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった(日本書紀に、「難波高津宮(なにわたかつのみや)」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない)。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。

かつて、百済郡(くだらぐん)と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。
現在では、百済駅(くだらえき)という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。
これらの地名は全て、かつて百済(ペッチェ)人のコロニーと、関わりがあった。

「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」

半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏(はたうじ)は、半島からやって来た集団であった。
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか?
新羅の都である慶州(キョンジュ)は、盆地の中央を兄山江(ヒョンサンガン)が、南北に流れている。
百済の都であった扶余(プヨ)もまた、同様であった。白馬江(ペンマガン)が、内陸盆地の都を、貫いている。
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。
平安京に都を移したのは、桓武天皇(8世紀)。
この天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済移民の子孫であった。
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか?

会長は、最後に言った。
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」


わずか1時間足らずの、ツアーであった。
夏の日差しが、暑い。
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。

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Koreanの色は、緑。
私が、旅行で感じた、とおりだ。


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彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。
この緑への好みは、どこから来たんだろうか?


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、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか?

それとも、川面の水の、色なのだろうか。

そんなことを、思ったりする。

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ワンコリアフェスティバル http://hana.wwonekorea.com/

2009年06月16日

李榮薫『大韓民国の物語 韓国の「国史」教科書を書き換えよ』

本書は、2009年3月に日本語訳が、文芸春秋社から発行された。訳者は、永島広紀氏。
だが、原書の発行年と、原書の題が書かれていない。(末尾に英語の題だけが、書かれている。)

著者の李榮薫(イ・ヨンフン)氏は、末尾に置かれている略歴によれば、1951年生まれで、現在ソウル大学経済学部教授。著作に、『朝鮮後期社会経済史』(1988)、『朝鮮土地調査事業の研究』(共著、1997)、『数量経済史で捉え直す朝鮮後期』(2005)など。

著者の情報を得ようと、韓国語版Wikipediaを開く。
「이 영훈」で検索する。
ない。
今度は、ポータルサイトのDaumで、検索する。
教授の写真付きで、出てきた。
教授について書かれたカフェ文(카페글)の表題を、見る。

「ニューライトのアン・ビョンジク、イ・ヨンフン教授、日本の金を受け取って研究!」
「イ・ヨンフンは、学生をだめにする教育を、即刻やめろ!」
「イ・ヨンフン教授、挺身隊は自発的参加と妄言」

えげつない言葉が、並んでいる。
カフェ文の表題では李教授を「ニューライト」と称しているが、本書の訳者永島氏の言葉をここで引用すれば、「李榮薫氏は韓国近代経済史研究におけるトップランナーの一人であり、また『ニューライト』の名で呼ばれるかつての民族至上主義的な右派とは明確に一線を画す保守論客であり」、「しばしばいわれのない『親日派』の称号(?)を冠せられようとも、その学風は常に是々非々の追求であり、しかも決して日本に阿諛迎合することも」ない。永島氏は李教授のことを「熱き憂国の士」と呼び、「実証を伴わない観念的な思考を極度に拝する態度を崩すことなく、それでいてかつての『日帝』の所業に対する筆致は厳しくも透徹して」いると、評価する。その意味で、日本にとって最も手強い相手の一人であるかもしれない、と訳者は評しているのである。

本書は、三部に分かれている。

第一部 歴史への視線
第二部 文明史の大転換
第三部 くに作り

第一部は、本書の前置きとして、本書の問題認識を明らかにする。その批判の標的は、『解放前後史の認識』(ハンギル社、1979-1989)という書物である。

第二部は、解放前史を描く。焦点は、李朝が滅んだ原因、日本植民地時代の評価、そして「挺身隊」と「従軍慰安婦」の実相分析に、当てられている。いずれの内容も、きわめて論争的である。

第三部は、李承晩(イ・スンマン)政権までの、解放後史を描く。こちらの内容もまた、きわめて論争的である。

本日読み終えたばかりであって、検討をするのは今後でなくてはならない。

とりあえず読後の感想として、本書の視点は、以前に読んだ韓洪九氏の『韓国現代史』の歴史評価と、鋭く対立している。

あえて申すならば、戦後の大韓民国を、「親日派」の清算がなされずに「親日派」が国の中枢に陣取って作られたいかがわしい歴史であったと評価する韓洪九氏の視点は、金大中氏・故盧武鉉氏の両政権時代に見られた「民族ナショナリズム」(本書の序言を書いた鄭大均氏の言葉)に近づいている。
それに比べれば、李承晩時代を「『くに作り』の政治」と呼び、自由主義も民主主義もなかった国におけるやむないプロセスであったとしてプラス面の評価を下し、自由主義国家である大韓民国の建国を正統なものであるとみなす李教授の視点は、批判者からニューライトだと呼ばれる側面を、持っていないとは言えない。

李教授の日本支配時代に対する分析は、永島氏も評価しているように、是々非々である。通説を検討して、誤りを排したその後に、日本支配を批判しようと試みる立場である。韓国国内で上記のように一部から罵声を浴びている論客であることをわきまえた上で、本書の内容をよく検討していきたい。

2009年06月17日

文京沫『済州島四・三事件』

2008年4月、平凡社より発行。

四・三は、(光州事件などの)韓国の過去清算の先行的なモデルとしてあるだけではなく、その歴史的な性格からして、過去清算をめぐるアポリアとも言うべき難題を抱え込んでいることも忘れてはならない。このアポリアは、四・三事件が一九四八年の「単選・単政(単独選挙・単独政府)反対」をスローガンにした武装蜂起であり、現在の韓国が、まさにその「単選」による「単政」として生まれた国家であるという紛れもない歴史的事実に発している。(pp.213)

2003年3月の金大中政権末期に完成した『四・三事件真相調査報告書』は、済州島での事件の犠牲者の数を「二万五〇〇〇~三万人」と推定している。この報告書の確定を受けて、後を承けた盧武鉉大統領は、同年10月31日に済州島を訪れて、政府として正式に謝罪を行った。

本書は1948年から翌年にかけて済州島で執拗に続けられた、48年8月13日に成立したばかりの大韓民国当局(大統領・李承晩)による反共討伐作戦についての、概略を示した書物である。著者の文氏は東京出身の在日二世であり、「あとがき」に書かれているとおり、両親は済州島のご出身である。
「おわりに」によると、文氏の父は、戦前に大阪で働いていた、活字拾いの職工であった。
かつて植民地朝鮮から日本にやって来た在日朝鮮人の最も太いルートの一つが、済州島→大阪の航路であった。
大正十二年(1923)、尼崎汽船会社により、「君が代丸」が大阪・済州島間に就航する。その後、他社も航路に新規参入して、1933年のピーク時には「年に三万人近い済州島人を大阪へと運んだ」(pp36)。
本書内に引用されている1934年(昭和九年)の報告によれば、当時「第二君が代丸」は毎月一と六の日の月六回、大阪から済州島に向けて出航していたという。
1930年当時大阪は人口245万人で東京を上回る日本最大都市であったが、本書引用の統計によると、そのうち内地以外の出身者は八万三千人、総人口の3.4%で、神戸や横浜よりも高い比率であった。その大多数が、当時絶頂を極めていた大阪の町工場の雇用に引き寄せられた在日朝鮮人であり、そしてその大きな割合が済州島出身であったはずである。
文氏の父も、こうして大阪にやって来た一人であったに違いない。その父は、戦後いったん解放と共に郷里の済州島に帰ったらしい。しかし、はやくも1946年には日本に戻ってしまう。文氏は、「おわりに」ではっきりと「密航」と呼んでいる。大日本帝国の解体とともに、朝鮮半島の民がいったん帰国した以上、許可なく戻って来るのは「密航」であった。そして、「この父から、、、私は四・三については全く聞かされていない。」(「おわりに」より)
文氏の父の帰国に象徴されるように、解放直後の済州島は、左右の対立が日増しに先鋭化していく、不穏な土地となっていた。そこに、陸地(済州島人にとって、半島)から乗り込んできた統治者や右翼集団たちが島民をまるごと敵視するに及び、虐殺への道が開けていった。政府によって送り込まれた右翼集団には、「西北青年団」といった北から逃亡してきた上層階級の子弟たちもまた、編入されていたという。彼らは、歴史的に差別視されて来た島民の、しかも「アカ」(実態は、「単選・単政」に反対する島出身の知識人たちと言うべきであったようだが)に対して、シンパシーが少しもなかったであろう。

「四・三」という名称は、誤解を招く。
1948年4月3日は、島で左派による蜂起が勃発した年月日であった。
だが、犠牲者が積みあがったのは、それから翌年にかけて、秋から冬を越して、49年4月の李大統領の済州島訪問の前後に至る、長い時期であった。報告された虐殺の非情さは、まるでナチスのユダヤ人狩りさながらである。そして、続いた期間は沖縄戦よりも長い。住民の恐怖は、想像を絶するものであっただろう。

いったいどうして、三万人にも至る犠牲者を出す虐殺が、行われなければならなかったのだろうか。
これは、本書を読んだ私にとっても、オープンクエスチョンである。

・1948~49年時点の、トルーマン政権の極東戦略。アメリカは48年8月13日に南半分だけで成立した大韓民国政府を支持しながら、在韓米軍を撤退させる政策に出ていた。反共の軍事前線を日本列島・沖縄に設定して、その外にある韓国については代理の現地政権を早々と安定させたいという意図が、あったのであろうか。そのために、李政権の反共強行姿勢を、抑制しようとしなかった面があったか。しかし半島を反共防衛の前線と位置づけなかったトルーマン政権の方針は、翌年の金日成の侵攻計略に、賭けへの自信を与えたという、大失敗に終わることとなった。

・影響力が広がっていた、左派勢力。日本ではついに空振りに終わった左派勢力のゼネストや農民蜂起が、半島では見られた(1946年秋の「10月人民抗争」)。済州島での蜂起が始まっていた1948年10月には、「麗順(ヨスン)事件」が起こった。全羅南道の麗水(ヨス)で勃発した韓国軍将兵の反乱は、「民間左翼や学生が合流して」(pp121)、順天(スンチョン)を始めとする近隣各地に広がっていた。日本よりも、左派との対立は、韓国でより存亡を賭けた脅威であった。何よりもすぐ北に、着々と体制を整備しつつあった金日成政権があった。

・自治の経験がない、成立したばかりの政府。日本植民地当局の朝鮮統治は、法の支配とインフラの整備を半島にもたらしたが、自治を認めるまでにとうとう至らなかった。日本が半島人の国政参加への展望として導入したのは、結局半島人を「日本人」に解消してしまうべき、「皇民化政策」であった。そして、その試みは大した成果も挙げないままに、自治も参政権も空手形のまま、大日本帝国は崩壊した。後に残ったのは、いまだ国家のシステムとして政治を運営した経験のない、半島の国民であった。国政における妥協のノウハウがなく、地方政治と中央とを調整するパイプも、はっきり見えなかった。米ソ軍政の下で集まった政治家の群像は、海外の亡命者あり、ソ連・満州でのパルチザン派あり、国内での地下独立運動派あり、キリスト教勢力ありと、まるで呉越同舟の中でいきなり建国問題に直面しなければならなかった。その中で力を得た李政権は、いきおい力による政治を解決手段として、選んだのではなかったろうか。


四・三事件は、忌まわしい国家の犯罪であった。この事件を反省し、国民と政府のあり方を改めて問い直す作業は、民主国家として当然の動きであっただろう。

しかし、私によく分からないのは、冒頭の引用が言うごとく、四・三事件の清算が「過去清算をめぐるアポリア(=難問)」に、どうしてなるのであろうか。外国人の私から見れば、過去には確かに強権独裁であって、銃剣のもとに成立した国家であったとしても、今や韓国は民主化を経た民主国家である。その成立の基盤に今さら疑問を持つ必要が、どこにあるのであろうか。

四・三の過ちを認めることは、共産主義側の主張を、認めるからであろうか。それが、北の存在を認めることに、つながるからであろうか。