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「間」と「情」

(カテゴリ:東北アジア研究

今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。
忘れないうちに、メモしておく。

-関西在住、三羽烏。

これは、姜在彦、金達寿、尹学準の三氏のことである。
幸いに、私は三氏の書物を、読んだことがある。
だから、彼らを韓国で出迎えに行った、という本日会った方の話を、適当でなく聞くことができた。
いずれも、司馬遼の『街道をゆく』に出てくる。

『韓のくに紀行』。
『壱岐・対馬のみち』。
『耽羅紀行』。

金氏は、壱岐・対馬への旅行に、司馬遼と共に行った。
姜氏は、耽羅すなわち済州島への旅行に、同行した。
「司馬氏はお弟子さんがいなくてね、資料集めを人に振るんだ。彼は、人づかいがうまかった。耽羅紀行の資料は、姜先生に振った。その資料集めが、当事学生だった、僕に振られたのさ。」
私は、本日会った三羽烏の後継者の方の話を今日聞いたから、三世かな?
その方は、現在日韓の貿易のお仕事をしておられるが、学生時代は上田正昭京大教授の謦咳に触れられて、日本の大阪生野出身の在日韓国人でありながら、韓国ソウルの大学に留学された。当事まだ注目されていなかった、野史(ヤサ)の研究をなされた。野史は、韓国史で中世と呼ばれる、李朝時代の民間の記録である。現代の韓国文化の原点は、中世の李朝にある。

この方が、ソウルに留学なされていたとき。
「よう!」
教室の学生数は十八人なので、すぐに顔見知りになる。
胸には、当時いちばんポピュラーだった、「コブッソン」のたばこ。
ぐいと、取られて、
三本を、引っこ抜いて、
彼は、残りを返すのかと、思った。
ところが-
彼のポケットに返したのは、その三本だった!

大学試験に、受かった日。
下宿のオーナーに、なぐられた。
「よく受かったな!」と、祝福の、しるしとして。
下宿に、戻ったら。

冬。
漢江は、氷点下18度の気候で、凍る。
酔っ払いが、川のそばで、寝ていた。
-日本人だったら?
通り過ぎる。
しかし、彼は韓国流儀に従って、背負った。
背負って、警察に連れて行った。
警官は、彼をほめたという。
「お前ら学生は、政府に楯突いてばかりするが、たまにはよいことするじゃないか!」

相手に、このぐらいはやる。やらなければならない。
そのお返しに、自分にもやってくれる。
トータルで、つりあっている。
それが、韓国なのだろう。私は、お話を笑いながら聞いた。

-日本は「間」の文化で、韓国は「情」の文化。

これは、もう一人のお方が日韓の文化を総括された、言葉である。
このお方も、代表取締役。
くしくも一国一城の代表三人が、同じテーブルに集まっていた。
私の城は、ちゃんとビジネスを成り立たせておられるお二人とは違い、ただのにわか仕立てのあばら家であるが。

その方が言った。
-仕切るんだなあ。人と人とを、互いに干渉しないように。それが、日本の文化。しかし、韓国人は、相手のテリトリーに、ぐいと入っていく。島国と、半島との違いだよ。島国のムラだと、いちど失敗したら、逃げられない。だから、明日また同じ人と顔をあわせることを、先に考えた行動になる。しかし、韓国は陸つづきだから、やばくなったら逃げればいいんだ、って考えるんだ。中国に逃げればいい。ロシアに逃げればいい。アメリカだって、日本だってある。だから、いまこの時を遠慮せずに、自分の思ったままの姿をさらけ出したほうがいい。そう、思うんだよ。韓国と日本の違いを、何と表せばいいか長らく分からなかった。香川に行って、話を聞いたとき、分かったんだ-「間」の日本と、「情」の韓国さ。