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2009年03月 アーカイブ

2009年03月01日

Korea!2009/02/22~エピローグその二

以下のテンプレートを、作った。

前略。

私は、海外旅行の帰途で、貴社の鉄道に乗った者です。
詳細は、私のブログに、書いてあります。以下が、そうです。

http://suzumoto.s217.xrea.com/2009/02/korea20020222.html

痛感したことを、申し上げます。
なぜ、貴社の路線図や券売機には、外国語がこんなにも、少ないのですか。
外国人が来日したとき、こんな表記では貴社に悪印象を持って帰国することが、どうして分からないのですか。
今すぐ、改めなさい。
上の記事の中で指摘した、路線図ないし券売機の表示に、せめて英語を加えなさい。余力があるならば、漢語(中国語)と韓国語も、加えなさい。
2009年4月、すなわち今年の、美しい桜の季節が、来るまでに。
できるはずです。少しだけ汗をかけば、何てことはないはずです。予算も、ほとんど要らないはずです。
異文化の人を、気持ちよく本国に返して、貴社の評判を高める努力を、行ないなさい。
もし貴社から私に返答が来れば、それを全て上のブログで公開致します。貴社に、公共心があるかどうか、そして関西を、日本国を、愛する心があるのかどうか、万人に見て頂くために。

頑張ってください。とにかく、頑張ってください。貴方がたが頑張れば、私が愛する関西が、そして愛する日本国が、立ち直るきっかけとなるのです。

草々。

月が変わった、三月一日の、深夜。
まず、阪急電鉄のサイトに、意見した。
次は、JR西日本。
だが、意見を投書する、項目が見当たらない。
その時は怒り心頭に達したが、もう一度読み返してみると、「2月27日(金)13:00頃~3月2日(月)9:00頃まで、システムメンテナンスのため『メールでのお問い合わせ』のサービスを停止させていただきます。」とあった。ゆえに、明日送る。

それから、大阪市交通局のサイトにも、同一の意見を出した。

帰国した日の夜、私は憂憤を共に飲んだ夕映舎氏に、ぶっつけた。
彼は、私の同士だ。私の主張を、分かってくれた。
私は、彼に薦めた。
「お前も、一句詠め。」
日本の詩の魂を、曇りなき心で吐露してほしい。
全ての日本人に、してほしい。
そうすれば、外国人は分かってくれる。
英語混じりのチャラチャラした歌の歌詞よりも、分かってくれるはずだ。
夕映舎氏は、一考して、私が持ち帰ったノートの末尾近くに、書いた。


冬の雨
酒を朋にと
問うたそがれ

飲みに飲み
いつ晴れるのか
冬の朝


柔らかな、響きである。
泥酔であったが、だからこそ、彼の心の底の詩心が、伝わって来る。
私は、今回の旅行で得たものを、生涯心から忘れまいと、思った。


- いちおう、完 -

2009年03月02日

Korea!2009/03/02

JR西日本にメールを送った後、Park君にもメールを送りたいと思った。
まず、英文を作った。

Dear,
Now I'm in Japan.
I hope, hope, and hope you to come to my country, and love these beautiful islands.
I hope splendid youths like you to know and love Japan.
This is my blog, I wrote about you.

http://suzumoto.s217.xrea.com/

Maybe now you can't read it, but, at least, I can say that I told Japanese people how beautiful heart you have, and your home country's people have.
Still I can't read the letter what you gave me fully, but I can understand you gave me a warm goodbye.
I hope you also try to read my haiku I gave you.

それを、まず日本文に、直した。

前略。
今、私は日本にいます。
私は、君が我が祖国を訪ねてくれることを、心から望んでいます。心から。
私は、君のような素晴らしい若者たちに、日本を知って、そして、愛して欲しい。
これが、私のブログです。私は、君について、書いた。

http://suzumoto.s217.xrea.com/

たぶん、今は読めないだろう。
だが、これだけは言える。
私は、日本人に対して、いかに君と、君の祖国の民が、美しい心を持っているかを、書いたつもりだ。
まだ、私は君からもらった手紙を、十分解読できないでいる。
だが、私は君が心のこもった別れの挨拶を私にくれたことだけは、読み取ることができた。
君もまた、私が贈った俳句を、読むことに挑戦しておくれよ。
草々

Exciteの自動翻訳機に、かけた。
その結果を拾って、今度は韓文和訳マシーンに、かけてみた。

一見しただけで、自動翻訳の結果が、文章になっていないことが、知れた。
サイトの記事を拾い読みするぐらいならば自動翻訳でもよいが、手紙に自動翻訳は、使ってはならない。
残念ながら、Exciteの訳は、その程度だ。
私は、手持ちの日韓・韓日辞書を、取り出した。
この辞書は、初心者にとって極めて使いにくい。
2002年のワールドカップ時代に発行された辞書の古本を、amazonで安く手に入れたものだ。
カバーに「W杯観戦必携」などと、書かれている。
しかし、この辞書は、残念ながら一つのメッセージを、私に発していた。
-日韓は、しょせん分かり合えないよ。
日韓辞書の各項目の地の文に、韓国語が出て来る。

「紀念」으로도 썼지만 「記念」이 일반적임。

こんな説明をされても、初心者は読めない。
この日韓辞書は、韓国語の文法をマスターしている日本人だけにしか、使えない。そして、そんな日本人は、百人に一人も、いるだろうか?

私は、自分の手で、翻訳を始めた。
自動翻訳機では、「民」が「백성」になっていた。
「백성」を、辞書で引く。
漢字(ハンジャ)が、分かる。
-「百姓」。
これでも韓国語ではよいのかもしれないが、もし日本語とニュアンスが近いのであるのならば、この語はだめだ。私は、「사람」を使った。
訳していくうちに、韓国語は日本語とまことに文法が似ていることに、ますます気づいてくる。
直訳の感覚で、文章を組み立てることができる。
韓国語と日本語は、同窓生のようなものだ。
スペイン語とイタリア語のような、兄弟ではない。日韓の民族の血は交じり合っていても、日韓の言葉は、遡ればおそらく別系統の言葉だったのであろう。この二つの言語は、原始から持っていたであろう単語については、共通性が見られない。たぶん韓国語は北の大地から南下して来た言葉で、日本語は昔からこの島にいたか、あるいは南の海を渡って北上して来た言葉だ。
同じ時期に、同じ隣にいるチャイナ先生から、文明と漢語を学んだ。
互いの国が疎遠となってからも、文献により間接的に、チャイナ先生から文物を輸入し続けた。
だから、同窓生なのだ。
漢語の圧倒的な影響を受けながら、文法の構造に漢語の単語を組み込む、膠着語となった。
だから、21世紀の現代になっても、驚くほどに文法が似ている。これは進化論の言葉で言えば、互いに種として関係がないのに外見や生活活動が似通っている、収斂進化"convergence"というべきものであろう。たぶん。
そして、ともに儒教の影響を受けて、人間のつながりを社会の根本に置く。
韓国では家族の結合で、日本では組織の結合の点であることが、ちょっと違うが。
だが、両方ともに、中国の引き写しではない。
楽天的な中国人と違って、両国民は清貧を愛し、やせ我慢を愛する。
そして、清潔を愛する心が、強烈に強い。
「ウマミ」を嗅ぎ分ける舌を、持っている。中華料理はやたらに料理を飾り立ててみたり、野菜に細かい細工を施したりする。彼らはそれをよしとしてやっているのだろうが、私は率直な意見を言わせてもらえば、そんなことにかかるお金が、もったいない。美味いものを食わせてくれれば、それでよい。そう、思ってしまう。華やかとは決して言えない韓国料理を食べている韓国人も、同意見ではないかと思っている。
さらに、これは悪い面であるが、集団の多数意見が時に熱狂的世論を作り、しばしば少数者を「空気」で圧迫する。
これらは、おそらく血の影響であろう。同じジャポニカの米を太古から食ってきたことと、同じく。

ワープロで、翻訳を続ける。
まだこの言葉をマスターしていないので、自分で十分理解できない言い回しは、避けることにした。「私」には、「나」を使った。「君」には、「자네」を使った。私の方が、彼より年長である。それで、日本語の感覚で、これらを使うことに決めた。間違いかもしれないが、ここに私の学習の記録を残すために、今回はこれで通す。

思いの他早く、できあがった。
以下の文章をもう一度Exciteにかければ、文法的にはだいたい合っているであろうことが、推測できた。


전략.
지금, 나는 일본에 있습니다.
나는, 자네가 내 조국을 방문하는 것을, 진심으로 바라고 있습니다.진심으로.
나는, 자네와 같은 훌륭한 젊은이들가, 일본을 알고, 그리고, 사랑하는 일을 바란다.
이것이, 내 브로그입니다.나는, 자네에 관해서, 썼다.

http://suzumoto.s217.xrea.com/

아마, 지금은 읽을 수 없을 것이다.
하지만, 이것만은 말할 수 있다.
나는, 일본인에 대해서, 얼마 자네와, 자네의 조국의 사람들이, 아름다운 마음을 가지고 있을까를, 쓴 셈치다.
아직, 나는 자네에게 받은 편지를, 충분 해독할 수 없다.
하지만, 나는 자네가 정성 어린 이별의 인사를 나에게 준 것 만은, 읽고 이해할 수 있었다.
자네도, 내가 준 하이쿠를, 읽는 일에 도전하는 일을 바란다.

이만 줄이겠습니다


私が生まれて始めて書いた、韓国語の手紙である。ここに、記録する。
おそらく、この訳はへんてこな、ものであろう。
だが、それでいいのだ。
人の労苦を借りるよりも、私は自分でやる。そうしなければ、身につかない。

英文の下に、韓国語訳を貼り付けて、メールを作る。
教えてもらったアドレスに、送った。
だが、届かなかった。

昨日、夕映氏が、酔いながら私に、忠告をした。
-あんまり、舞い上がるなよ。
彼は、私よりももっと沢山、挫折を経験している。
挫折を経験しながらも、それでも精一杯前を向いて、生き続けている。
そんな彼だから、私を危ぶんだのであろう。
私はついその時、電話口の彼に、反論してしまった。
だが、日が明けた今は、彼の忠告の意味が、よく分かる。

その後、ちょっとだけ機転を利かせて、教えてもらったメアドをもう一度よく見た。
メアドの先頭部分は、よく見ると気の利いたしゃれになっていた。
それで、たぶんこう書きたかったんだろうと類推して、もう一度送ってみた。
今度は、届いたようだ。
ひょっとして、違う誰かに送ってしまったかも、しれないけれどね。ハハハ。

2009年03月03日

総入歯寸前

私の歯は、芸術的なまでの、乱杭歯だ。
親から受け継いだのだから致し方もないことであるが、これまでは気にも止めず、生きてきた。
だが、今後はこの歯ではいけない、と思った。
それで、本日梅田にまで足を運んで、矯正歯科で事前診察を、してもらった。
結果。
私の歯は、もうほとんど手遅れであった。
歯周病が、治癒不可能なほどに、進んでいる。
「たぶん上は、総入れ歯でしょうね。下も、残るのはわずか。」
これまで、放置して来たのだ。
もはや、致し方あるまい。
「最低、一年は覚悟しなさい。二年、かかるかもしれません。それでも、よいですか?」
もう決心するしか、あるまい。

2009年03月08日

Korea!2009/03/08

京都市内で、韓国人を連れて行くための、Best&Worst Places(?)。

第一カテゴリー 日本では神格化、韓国では悪人
・豊国神社(東山区、秀吉が神として祀られている)
・高台寺(東山区、秀吉の正妻の寺)
・方広寺(東山区、秀吉が建てた寺)
・本圀寺(山科区、清正が帰依した寺)
・伏見桃山城(伏見区、秀吉が建てた城)
・明治天皇・皇后陵(伏見区、日韓併合時点の天皇)

清正(チョンジョン)はただの指令官であり、悪の張本人は秀吉(スギル)その人なのだが、韓国での伝承では両方とも極悪人となっているので、現状では致し方なかろう。

第二カテゴリー 日本では微笑ましいエピソード、韓国では侵略者の政治的エピソード
・北野天満宮(上京区、秀吉の茶会)
・醍醐寺(伏見区、秀吉の花見)
・円山公園(園内の洋館、長楽館は、伊藤博文の命名)
博文が韓国でどのような評価をされているか、今さら言うまでもなかろう。

第三カテゴリー 日本人はあまり知らない、韓国関係の歴史上人物
・知恩院(東山区、家康が帰依した寺)
・金戒光明寺(左京区、家康の保護を受けた寺。儒者山崎闇斎の墓もある)
・二条城(中京区、家康が建てた城)
・平安神宮(左京区、祭神の桓武天皇の母が、韓国系)
家康(キガン)は秀吉の家を成敗し、李朝と友好を回復した偉人である。角倉了以に命じて高瀬川を開削し、京都が流通の拠点となる基礎を築いた。家康は、京都のまち作りにおいても、桓武天皇、秀吉、北垣国道と並ぶ功績を打ち立てたのだ。韓国人には、あまり知られていないかもしれないけれど。
桓武天皇の母、高野新笠の出生には異説もあるのだが、まあ通説に従おう。

・相国寺(上京区、大儒者李退渓(イ・テゲ)の業績を日本に初めて紹介した、藤原惺窩が学んだ寺)
・建仁寺(東山区、藤原惺窩から朱子学を学んだ林羅山が学んだ寺)
徳川時代の儒教は、はじめ李朝朱子学を模倣するところから始まったことは、日本人として覚えておきたいものだ。時代が進むにつれて、伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台らの独創的儒者が、日本にも現れ出てくる。伊藤、荻生らの名前と業績は、李朝の学者たちもまた知るところであった。朱子学から逸脱した彼らの業績への評価は、複雑なものであったようだが。
ただし藤原惺窩は李朝の儒者に面会したとき、「明と朝鮮が結んで日本を征服してほしい」と望みを述べたという、売国的思想家でもある。日本人として、そこだけはわきまえておきたい。


李進煕氏が引用する、朝鮮通信史に対する幕府の接待料理覚書が、たいへん面白い。
それによると、肉と魚は、基本的にオーケー。エビ、タコ、ハマグリでもよい。一番の好物は、牛肉。
生魚すなわち刺身も、オーケー。
だが、塩魚は、あまり好きでない。
野菜、海藻、油揚げ、全てオーケー。
果物は、全部オーケー。
にゅうめん、そば、オーケー。
和菓子は、たいていオーケー。
酒は、古酒。焼酎。酒類は、たいていオーケー。
もちろん、個人により好みはある。
料理は、「あつき物を嫌、大概ぬるき物を好」むとか。

以前夕映舎氏が、慶州の高級酒を「日本の古酒のようだ」と批評したが、なんと幕府もまた、彼らの好物の酒として、筆頭に古酒を挙げているでは、ないか。

この書を読むと、いかに徳川幕府が、朝鮮通信使の接待に丹念に心をくばり、彼らの好物を徹底的に調べ上げていたかが、分かる。日本のサービス業の精神が早くも十八世紀の時点で満開していたことが、ありありと見て取ることができる。そして、幕府が持っていたおもてなしの心を忘れ去ってしまったのが、明治政府の外交であった。

『海游録』を著した申維翰(シン・ユハン)は、1719年通信使の製述官であったが、彼は日本で味わった味についても、書き残している。
-諸白を、上品となす。
諸白とは、要するに日本酒のこと。いっぱんに、李朝の使者は、日本酒のうまさを絶賛している。
他に、梅酒、桑酒、忍冬(すいかずら)酒などのリキュール類も、味がよいとしている。
とか言いながら、一行が道中で一番好んだのは、道中で作った白酒、つまりマッコルリだったりする。
本国からも持参していて、それは焼酎(ソジュ)と秋露酒(チュロジュ)であった。秋露酒とは、どんなものかまだわからない。
思うに、彼らにとって日本酒は、「うまいけれど、飽きる」味なのかもしれないな。
通信使たちの酒の記録を見て、そんな印象を持った。

他に、マクワウリやスイカが、甘くて味がよいと言っている。
申維翰は、食物については、
-粕漬をもって美食とす。
と、言っている。サワラの西京漬けみたいなやつだ。私も、好物である。
また、鰹節に興味を示している。鯨の肉については、柔らかくて油っこくて珍味と思えないと、評価が低い。また、すき焼きにも注目している。

Korea!2009/03/08

崔貞煕『静寂一瞬』と鮮于煇『テロリスト』の二編の短編小説を、読んだ。

いずれも、舞台は1950年代、6.25戦争の最中と直後を描いた、物語である。

読後の感想-

歴史が、ない。
両者ともに二千年の都ソウルが舞台であるにも関わらず、歴史が舞台装置として、使われない。

風景が、ない。
あるのは、空気だけといってもよい。夏の暑さか、ひりつく冬の冷たさか。風景が、描かれない。

モノが、ない。
建築や、家の品物に対する、愛惜を通じた描写が、ない。

両者の小説ともに、戯曲の台本を読んでいるような感がある。あるのは、人物同士の激しい対立。それが、熱い。北と南で民族家族が相別れるという劇的な悲惨をエネルギーとして、人間だけが、描かれている。このまま小説を舞台にすることが、簡単にできる。なるほど、韓国映画にエネルギーがあるわけだ。
唯一、小説らしい描写としては、食い物に関する執着。これだけが、読み物独特の世界として、描かれる。日本人の私としては、食い物の描写に行き当たると、ほっとしてしまう。

韓国小説は、日本小説のような、歴史、風景、建築にたいする愛惜的な描写とは、無縁であった。逆に日本小説には、韓国小説のような対立も会話も、ほとんど存在しない。

読後に、ふと思った。
日本人が物語を思い浮かべるとき、その登場人物たちは、おそらく全て最初から和解しているのではないか。和解しているから、そのままでは物語とならず、ゆえに歴史や風景や建築を描写して、寄り道だらけの文章を書き上げる。
いっぽう韓国人の登場人物は、対立して和解できない。ゆえに、えんえんと人間を描写しなければならない。描写しても、描写しても、対立は終わらない。風景や歴史を楽しむ瞬間は、物語がぶっつ切れるまで、とうとうやってこないのか、、、

できれば韓国人の書き手には、この言葉過剰の国に赴いて、人の対立を抉り出して風穴を開けてほしいものだ。
私は、韓国の山河に赴いて、そこで静かに歴史と風景と建築を愛でる言葉を、紡ぎ出そう。

2009年03月10日

korea!2009/03/10

雨森芳洲の『交隣提醒』を、読んでいる。
これは、全訳して日本人に読ませるべき古典だと、思う。
雨森芳洲(1668 - 1755)は儒者で朝鮮語を会得して、その技能をもって徳川時代の対馬藩に招かれて、真文役として李朝の釜山東莱府と往来し、両国の外交事務に生涯を捧げた。
彼の著作を読むと、昔から半島と関係を持ち、かの国の民には慣れているはずの対馬藩士ですら、隣国の常識に往々にして無知であったことが、見て取れる。何かにつけて日本の常識を持ち出して隣国を嘲る武士たちを諌めて反省を促す厳しくも切々と語る調子が、両国民を知り尽した芳洲の、両国の友好を願う心からの祈りを、鮮やかに描き出している。

古文書なのですらすらと訳すことが、難しい。
興味深いと思った箇所だけ、試しに訳出しよう。


日本では、歴々の車夫が寒天にも尻をまくり、槍持ちとか挟箱(きょうばこ)持ちなどは、顔にヒゲを描いて足拍子なぞ取ります。定めし、朝鮮人の心にも男意気立派だと写るだろうと、思うでしょう。ところが、朝鮮人の心にとっては、尻をまくるなんぞは無礼と見なし、顔にヒゲを描くなんぞは異様に見えるし、足拍子なぞ取るのは単に疲れるだけで無駄なことをしていると、内心で笑っているのです。また、朝鮮人の心には、身内の喪において務めとして哭泣(こっきゅう。霊前で大泣きすること)することは、日本人が見たらきっと感動するに違いないと考えているのですが、実は日本人は嘲笑しているのです。このように、日本と朝鮮とでは食い違いがあることを、お察しなさいますように。

ふんどし一丁でオケツをからげた姿は、日本人にとっては男意気だ(最近はそうでもないが、、、)。また、風呂で裸の付き合いも、結構なことだ。しかし半島の常識では、野蛮な習俗でしかない。一方半島の人は、親類の喪に服したとき、大声を挙げて泣きわめく。これは儒教に定められている葬礼にのっとったもので、大声で泣き悲しめば、周囲の人は遺族がどれだけ故人を大事にしていたかがよく感じ取られて、もらい泣きするのが人情だと、彼らは思っているのである。しかし、金日成の喪に服したピョンヤン市民の身をよじらせて号泣する映像を見て、たぶんほとんどの日本人が不気味に思って嘲笑したように、彼らの喪礼が日本人を感動させることは、たぶんない。

朝鮮人は日本人と言葉の上でも相争ったりしないようにしているのですが、それを彼らの主意だと早合点するがゆえに、彼らは毎度に自国のことを謙遜している一方で、日本人はかえって自国のことを常に自慢ばかりしています。たとえば、酒の一事などにしても、「日本の酒は、三国一ですぞ。だから朝鮮の皆様も、そのように思われるでしょう?」などと誇ります。朝鮮人が、「なるほど、そうですな。」と返答すれば、やっぱりそうであったかと得心します。ところが彼らは内心では、「了見の狭い奴だ!」と嘲って、何の評価もしていないのです。日本の酒が三国一だと朝鮮人が思っているのならば、会合があったりした際に、日本酒が飲みたいと申し出るはずです。ところが、そんなことはありません。それは、日本人の口には日本酒がよいのであって、朝鮮人には朝鮮酒、唐(中国)人には唐酒、紅毛(オランダ)人には阿利吉(アラキ。蒸留酒)がよいのです。これは、自然の道理です。以前、訳官たちの会合で、真意を申していただきたいと彼らに促した際に、我ら朝鮮人にとっては食べ慣れているものがよいのです、と言われました。また、日本酒は確かに結構であるが、胃につかえます。多く飲むには、朝鮮酒がよいです、とも言われました。お国(対馬藩)のうちに酒豪がいたとしても、京酒(つまり、清酒)を好まずかえってお国の薄にごり酒を好む者がいるのと、同様の心持ちなのです。

うまいまずいの思い込みは、主観的なもの。そして、民族の文化に、包まれているものだ。
彼らが清酒(せいしゅ)を好まなくても、それは仕様がない。日本人の私が清酒(チョンジュ)を全く受け付けないのと、同じなのだ。肝要は、互いが違うことを認め合って、嘘をつかないことだ。上の芳洲の観察から300年後の現在、攻守所が変わって韓国人が自国の文化を日本人に誇って、日本人が「なるほど、そうですな。」と心ならずもうなずいているような、気がする。しかし、日本人にとって、それはかえって不誠実ではないだろうか?裏で嘲らず、これはまずい、これは面白くない、と愛をもって言い返す勇気が、日本人に欲しいものだ。そして、私にも。

2009年03月11日

Korea!09/03/11

鄭漢淑『旧家』

現代の訪れを描いた、短編である。
伝統ある両班の宗家が、因習にまみれた家父長制の家が、嫡孫である主人公の成長と共に、崩れ去って行く。しみじみとした悲しい語り方は、日本人にとっても親しみやすい一篇となっている。

それにしても、韓国の書き手にとって、日帝と6.25は、重たい。この二つの事件によって、半島は強姦されるように、現代の市民社会に突入させられた。彼らの市民社会化は、司馬遼太郎が日本について描いたような「明治よいとこ節」(批評家、高橋敏夫氏の表現)の調子によって、明るく描くことができない。現代の韓国人が自らの市民社会化の歴史を冷静に評価することが難しく、かえっていまの現代と前近代の時代を両方とも絶対肯定するような、日本人にとって奇妙な歴史感覚を選ばざるをえないのは、彼らの歴史がそうさせているのである。あたかも現代のロシア人が、忌まわしいながらも間違いなく現代社会を作り上げたソビエト時代を冷静に評価することができず、いまのロシアと帝政時代を両方とも称える歴史感覚の欠如に追い込まれているのと、相同していると思われる。

Korea!2009/03/11

釜山港!関釜連絡線!そこは朝鮮人にとてどんなところであり、どんなものであっただろうか。

(金達寿『玄界灘』より)

在日朝鮮人作家、金達寿(キム・タルス)氏の代表作、『玄界灘』を読んだ。
前半は、文句なしに面白い。
この作品もまた、人間同士のぶつかり合いである。和解できないバックグラウンドが、ある。日本。朝鮮。征服者。被征服者。和解できない背景を背負わされた登場人物たちが、ギリシャ悲劇のように葛藤し、意識の上ではなかったことにしていた根本的な対立が、意識に上せざるをえない状況に追い込まれて、登場人物を切り裂いて行く。

後半は、つまらない。
作者の思想的立場から言って致し方のない、ことではある。
私は、全篇を義務として読んだ。
だが、読み物としては、残念ながら前半で終わっている。
後半は、コミュニズムに目覚め、反日独立運動に立ち上がるレールに、全ての登場人物が乗せられてしまっている。書かなければならなかったことは、分かる。しかし、それはもう物語ではない。
逸脱する個性があれば、もっと分厚い物語になったであろう。
日帝の人を人とも思わぬ暴虐な抑圧の下で、逸脱など許されない、許したくない心情は、痛いほどに分かる。
だが、最後に種明かしされる特高の「李元」のつぶやきなどは、もっと深刻な問題を、本当は示唆しているはずなのである。
そこを書かなかったのは、思想的制約であったか。
いまだ統一が成されていない悲惨の前に、描く筆先が震えたか。
残念な、小説である。そして、残念な、半島の現状である。

Korea!2009/03/11

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。


さらに、信使(朝鮮通信使)を大仏(かつて東山方広寺にあった、京都大仏)に立ち寄らせる件ですが、これまで朝鮮へもご通知されたりしておりますが、あれは廃絶するべきです。そのわけの仔細は、享保年間の信使(すなわち、1719年の第九回通信使。正使洪致中、製述官申維翰)の記録に書かれております。明暦年間(すなわち、1655年の第六回通信使)に、日光に参詣させるようにと仰せ出されたことは、御廟の華美なるを使者に拝見させようとする意図であったと、聞きました。そして大仏に立ち寄らせた件についても、一つは日本に珍しい巨大な仏があることを見せるためであって、もう一つは耳塚(東山区)をお見せになって、日本の武威を見せ付けてやろうとする意図であったとか、聞いています。しかし、これはまた何と奇怪なご見識でございましょうか。
廟制は節倹を主といたすところであって、よって柱に丹(に)塗り、垂木(たるき。やねばしら)に彫刻するような事は、『春秋』(儒教の経典。乱世の諸侯の行いを批判した、歴史書)においてては謗(そし)られることです。ゆえに、御廟の華美は、朝鮮人の感心するところでは、ございません。仏の功徳とは、形の大小によるものではありません。ゆえに、有用の材を費やし、無用の大仏を作るような事は、これまた嘲りの一因となるものです。耳塚なんぞは、豊臣家が無名の師(いくさ)を起こし、両国の無数の人民を殺害した記念碑でございますので、その暴悪を重ねて相手に示すことになるのです。これらいずれも、わが国の繁栄のためになりません。かえって、我が国の無学無見識を暴露するだけなのです。正徳年間(すなわち、1711年の第八回通信使)には、大仏に信使が立ち寄った際には、耳塚を囲って隠しました。享保年間にも、その前例に従って、朝鮮人には見えないように配慮しました。これらは、まことに盛徳のご政治であらせられたことです。

mimi.JPG

日本人がよかれと思って見せたものも、外国人には変なものに見えることがあるのは、しごく当たり前のことだ。上に書かれている韓国人の美意識は、たぶん基本的に今でも変わっていない。彼らのことを、派手を好む中国人の仲間だと思い込むと、たぶん大誤解を招くだろう。彼らから見れば、むしろ日本人のほうが、よっぽどに派手好きなのだ。耳塚は、方広寺の門前にある塚で、文禄慶長の役の際に日本軍人たちが功名のしるしとして死体からそぎとった耳・鼻を集めて、現在ここに供養塔が建っている。幕府は通信使の目から隠したが、いずれこれは日本がきちんと謝罪した後に、韓国人にも見てもらわなくてはならない。アウシュビッツと同じ、戦争の負の遺跡なのだ。


天和の年(すなわち1682年、第七回通信使)、日本の道中の列樹がいずれも古木で枝葉を損傷していない姿を見て、法令が厳粛ゆえにこうであるのかと、三使者がことのほかに感心したとか。日光とか大仏をもって栄華を見せたとこちらが思っていても、彼らはそれらには感心もしませんでした。かえって、日本人の気の付かない列樹のようすに、感心していたのです。ここにも、朝鮮と日本の違いがあることを、知るべきなのです。

華麗な建築よりも、樹木の姿に感銘する。それで、よいではないか。
第九回の通信使で雨森芳洲と道中を共にした申維翰は、近江摺針峠の「望湖亭」という茶屋の光景を、激賞した。

結構は新浄にして、一点の塵もなく、後ろには石泉を引いて方池となし、游魚はキキ(さんずい+癸)として鱗さえも数えられる。徘徊すること久しくして、みずから人生を歎き、「この一畝区を得れば、すなわち、老死するまでそれに安んじ、紅塵を踏まざるべし。莱州以北の好山水、なんぞ我が数間を容れざるか」と。
(『海游録』より)

第九回通信使の製述官、申維翰は、妾腹の庶子であったという。嫡庶の区別を厳しくする儒教国家の李朝においては、庶子の栄達の道は、閉ざされていた。申維翰は、そんな己の境遇を嘆いて、故国から遠く離れた近江の琵琶湖を見下ろす茶屋において、できればこんな絶景の地に一畝の田を得て、生涯を隠れ住んでみたいものだと、詠嘆したのであった。
韓国の河は、日本以上に澄み渡っていて、しかも広い。彼らが日本人以上に水景を愛したとしても、何の不思議があるだろう。幸いに、日本にも美しい水を湛えた風景は、まだ残されている。彼らならば、きっと喜ぶであろう。そして、川と湖と海をこれまで無残に痛め付けて省みなかった、日本人は彼らの美意識に触れて、よくよく反省せよ。もう、瀬戸内海も有明海も、我らは無残な姿に汚してしまった。そんなもの誰が、喜ぶというのであるか?

-知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。(雍也篇)

彼らはもうかつてのように『論語』を読めないであろうが、孔子のこの言葉が今でもきっと心に染み渡っているはずではなかろうか?

2009年03月12日

Korea!2009/03/12

阪急電鉄から、回答があった。以下に、全文を添付する。ただし、文中に私の本名があるので、その箇所については私のペンネーム「鈴元仁」に変える。

阪急電鉄広報部の**(注:社員名)と申します。
平素は阪急電鉄をご愛顧賜りまして誠にありがとうございます。
先日はメールをありがとうございました。
いただきましたご意見につきまして担当部署より以下のとおりご回答申し上げます。今後とも阪急電鉄をご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

平素は阪急電鉄をご利用いただきましてありがとうございます。
早速でございますが、いただきましたご要望につきましてご回答申し上げます。
弊社では、外国のお客様にも快適にご利用いただくため、各駅に掲出しているすべての路線図に英語表記を記載している他、時刻表表題部(行先方面含む)や、時刻表に併設している停車駅案内にも英文字を表記しております。
しかしながら、鈴元仁様よりご指摘いただきました券売機の画面表示に関しましては、現在、英字表記がされておりません。
また、英字を表記するためには券売機のシステムを改造することになりますが、再度改造することになりますと、膨大な費用が必要となりますので、現時点では実施は困難でございます。
今回鈴元仁様にご指摘いただきました点を踏まえ、今後もすべてのお客様に快適にご利用いただけるよう、外国語表記等について検討を進めてまいります。
なお、券売機の操作方法につきましては、弊社のホームページ上に掲載している、英語・中国語・韓国語の阪急沿線ガイドの中でご説明しております。
また、同内容の小冊子が各駅にございますので、ご案内申し上げます。
鈴元仁様には事情ご賢察の上、今後とも阪急電鉄をご愛顧賜りますようお願い申し上げます。

運輸部

そこで私は、以下のl回答のメールを、阪急電鉄に送付した。

前略。

Hotmailが自動的に迷惑メールに放り込んでいたため、3月9日付けで回答があったのを、本日まで見逃していました。貴社には、我が不明をお詫びします。

仰せのとおり、貴社の駅表示には、英語・漢語・韓国語が書かれています。
ホームページ上で券売機の操作方法が記載されていること、そして同様の内容の小冊子も配布されていること、それも分かります。
迅速なご回答ともども、少なくとも貴社は決して異質な客、異質な意見を無視しているわけではないこと、それもよく分かりました。

しかし。
それでも、私は申し上げなければ、なりません。
異質な文化を背負った客にとって、第一印象はまことにその後の貴社への先入主を形作る、決定的な要因となります。
ホームページに記載してあったり、小冊子を配られたりするご努力は、残念ながら異質な客が貴社のサービスを受けようとする際に真っ先に駆け付けるであろう自動券売機が日本語オンリーであることによって、全て台無しです。
どうして、世界第二位の経済大国の、第二の都市をリードする私鉄である貴社ともあろうものが、外国人でも易々と操作できる自動券売機に英語表示を付けず、調べなければならないホームページや駅員に聞かなければならない小冊子を揃えて満足しているのか、私には分かりません。
貴社につきましては、よく社員をご教育なされて、きっと外国人が迷っても応対できるようにご配慮しておられるかと、存じます。
しかし、この日本全体では、そうでありません。日本人である私は、知っています。
異国の人が困っていても、コミュニケーションが恐ろしいので足早に通り過ぎる。
それが、日本人です。自分だけの世界に閉じこもって、異邦の民への応対は誰かがやってくれるだろうと、高をくくって知らん顔。それが、日本人です。そしてそんな日本人は、自分たちの薄情さ、世界の人々に対する想像力の不足が、己の国を傾けていることに、全く気づいていません。
日本人の性がいまだに対人恐怖症である以上は、ぜひとも冷たいながらも正確な機械に対応させる手段を取った方が、親切と申すべきでは、ないでしょうか。
日本の機械工業は世界一であることを、地球人は皆知っています。
ロボットの自動券売機に、英・漢・韓のみならず、世界中の言語を網羅するガイドをやらせたならば、さすが日本である、さすが日本の鉄道であると、彼らが驚嘆して感心すること、請け合いです。
貴社も、そして我々日本人も、自分たちの長所を生かさず、そして短所に気づいていない。
病根は、深いのです。

貴社が日本の鉄道の先覚者たらんとご自負なさるならば、まず率先してなしたまえ。
貴社と、関西と、そして日本国が、万国の言葉に対応する券売システムを持っていることを、よろしく誇りたまえ。
そうして発券された切符の券面に、その国の言葉をもって簡潔なガイドを印刷する。そうすれば、自分の言葉で語りかけられた異邦の客は、きっと感動して、世界の裏側まで貴社の評判を、流すことでしょう。
それが、企業にとって百年の礎となるべきことを、どうか察したまえ。

勝手な意見を並べて、申し訳ございませんでした。
貴社が、関西と日本国のためにますます輝くことを、お祈り申し上げます。

草々。

私は、かつて官僚の組織の中にいた。
だから、官僚の組織が、外部のサービス使用者からの意見に対して、典型的にどのような対応を取るのかを、知っている。
彼らは、外部から主張を持って怒鳴り込んで来た者に対して、はいはいはいとうなずきながら、ひたすら応対に時間を過ごして、時の過ぎるのを待つ。
そのようなしつこい意見者のことを、組織内の者たちは、「クレーマー」と名付けて、嘲笑っているのだ。
官僚の組織は、上意下達である。下が外部から取り込んだ意見は、決して政策に生かされることはない。組織が動くのは、上から命令が振り下ろされた時だけ。官庁ならば、議会の議員から、要請があった時。その時だけ、官僚の組織は目の色を変えて、巻いたゼンマイを解き放したがごとく、迅速に動くのだ。それが、硬直した組織の姿なのだ。
阪急電鉄のユーザーへの回答は、少なくとも迅速であった。
この企業が、私が知っている官僚の病気に蝕まれていないことを、祈らずにはいられない。

2009年03月13日

Korea!2009/03/13

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。


古館(訳者注:1678年まで使われた、豆毛浦倭館)の時分までは、朝鮮の乱後の余威がありましたので、朝鮮人に無理をもって押し付ける式で、訳官たちは己の身の難儀の余り、中間(ちゅうげん。下僕)に都の首尾をよろしく取り繕って、成り難いことも成るように運ぶことも、できました。これゆえ、「強根ヲ以ッテ勝ヲ取ル」道を、朝鮮を制御する良策であると、人々は心得たものでした。
新館(訳者注:1678年に開かれた、草梁倭館)ができて以降は、余威もだんだん薄くなって、無体に勝を取ることが難しい勢いになったのですが、余威が薄くなったのだという点を(日本側は)理解することができず、こっち側のやり方がまずかったから(交渉がうまくいかないのだ)とばかり、思い込みました。
竹嶋一件(すなわち、1693年に始まる、鬱陵島紛争のこと)までは、威力恐喝をもって勝を取るべしとの趣きでございましたが、七年を経ても目的を達することができず、かえってご外聞に傷が付くように、相成りました。それゆえ、ここ三十年来は、上のような風をやめて、その結果以降は平穏無事となっているのでございます。しかし、朝鮮人の才知たるもの、日本人の及ぶところではありませんので、今後ご対策が不十分でございますと、「世話になった誰それの木刀」(訳者注:木刀を振り回しても実戦には役に立たない、という意味であろうか?)という次第で、あちらこちらでやり込められる恐れがございますので、この点をよくよく心を用いるべきでございます。
四、五十年前には、日本人が刀を抜けば、朝鮮人は恐懼逃奔いたしました。ところがここ十四、五年には、(倭館から)こちら側が炭薪を取りに参っただけの者どもを、朝鮮の軍官の一人が刀を抜いて追い散らしたこともあったほどでした。「霜ヲ履(ふ)ンデ氷ノ堅キニ至ル」と申すように、今や有智の人は渡海を考え直すべきという風にまで、なっております。

訳中にある「竹嶋一件」でいう「竹嶋」とは、当時の地名においては現在のリアンクール・ロックス(日本名竹島、韓国名独島)ではない。これは、鬱陵島(ウルルンド)のことだ。李朝の漁民安龍福(アン・ヨンブッ、生没年不詳)の活躍(?)の結果として、日本は李朝との紛争の結果、鬱陵島への日本漁民の渡海を禁止した。以降、鬱陵島は李朝領として確定している。だがこのとき、リアンクール・ロックス(当時日本はこの島を「松嶋」と呼んでいた)の李朝領有まで幕府が認めていたのかどうかは、極めて微妙な問題である。
現在に至るまでの紛争の種をまいた張本人、安龍福は一介の漁民であった。農本主義の李朝においては、漁民は賤民(チョンミン)である。彼はどうやら日本語が理解できたようであるが、日本語も朝鮮語も、書くことができなかったという。もっとも、この場合彼が書けなかったのは漢字(ハンジャ)であるはずで、民衆のための文字である諺文すなわちハングルが書けなかったかどうかは、よくわからない。
ともかく、目に一丁字もない男でありながら、彼は大した冒険者であった。二度目の日本渡海においては、漢字を書ける僧侶を道中で冒険に誘い、李朝の官のふりをして日本国に乗り込んだ。一度目の渡海で、密航者であるにも関わらず酒などふるまわれてずいぶんと丁重な取り扱いを日本側から受けて、味をしめたとも考えられるが、、、
彼の目的は、どうやら鬱陵島及び「于山島」の領有を、日本に認めさせるものであったようだ。だが、この二度目の渡海の時点ですでに幕府は鬱陵島への漁民の渡航を禁じていた。彼はそれを知らぬ立場にあったのであるが、このとき所在不明の「于山島」まで李朝領であると彼が日本側に主張したことが、現在の領土問題をややこしいことにしている。韓国側は、「于山島」とはリアンクール・ロックスであると、主張している。日本側は、安龍福の勘違いあるいは虚言であると、主張している。
現代の問題は、さておいて。
日本は、安龍福という一漁民によって、手玉に取られたようなものだ。彼は日本当局の前に出ては、虚言を弄して言い繕うことを常としたようであるが、外国にまで出向いて単身渡り合う度胸だけは一流のものであった。安龍福は結局日本から李朝に送還されて、その後の消息は分からないが、彼のおかげで日本は鬱陵島を失い、その上リアンクール・ロックスの領有権すら、脅かされる結果となっている。
芳洲も上に言っているように、半島の民の才知は、日本人の及ぶところではなかった。昔ならば刀で脅せば相手も怖がり、それが日本側に有利な交渉条件を作らせていたものだが、今やすっかり友好ムードが高まって日本側も軟弱になった結果、かえって半島人の才覚と度胸に、日本側がたじたじとなる始末。芳洲は、日本側に彼らと渡り合う準備が足りないことを、憂慮しているのである。

古来より、朝鮮の書物に「敵国」という言葉がございますが、ここでいう「敵国」とは、対礼の国(訳者注:対等の礼儀で交際するべき国)と申す字義なのであることを、(わが国は)ご存知ありません。これほどまでに誠信をもって友好関係を結んでいるのに、朝鮮においてはかつての旧怨をいまだ忘れず、日本を「かたき国」と書いているのだと、合点しています。
また、お国(対馬藩)が朝鮮のために日本の海賊を掃討している件を文書に書き記す際には、(朝鮮側が)「対馬は朝鮮の藩屏である」と記載しているところに、「藩屏と申す言葉は、家来が主人に対して言上するときの言葉である!」とよく考えもせずに添え書きする者が、ございます。こういった件は、我らのような粗学の者どもには、いまだもって免れ難い弊害であります。
文字を読んでも文意を読解できない者は、了見もそれ相応の程度しか持てないものでございまして、とにかくお国の義はかの国とははなはだ違うのでありますので、学問才力の優れた人物をお抱えになられないと、どんなに心を尽したところで、隣国友好の筋は立ちがたいであろうと、存じます。学力のある人物をお取立てになられることは、切要のことでございます。

雨森芳洲は、当時の東北アジアの外交用語が、儒教思想に基づいた漢文用語であることを、知っていた。それを知らない日本が、文字面だけをとらまえて怒って反論するのは、日本の無学無見識である。日本人は、漢字が読めるくせに、漢字で表された文明の常識を、知らなかったのだ。
一八六九年、日本の明治政府は、二百五十年の慣習を転覆させて、李朝に「皇」「勅」「大日本」の語を用いた書契を送付した。世に言う、書契問題である。李朝がその書契の文字に困惑して、受け取りを拒否したことは、単に旧弊に固執した李朝政府の頑迷固陋だけが、問題なのではない。
李朝の外交政策は、華夷秩序の国際法に準拠していた。
すなわち中華帝国を兄として事(つか)え、その他の夷国に対しては対等の礼をもって交隣する。それは西洋の国際法とは異質であったが、首尾一貫した体系であった。
もし日本一国に対してこれを破れば、李朝の外交政策は全て一変させなければならなかった。外交政策を一変させることは、さらに儒教に基づいた法が支配する国内秩序もまた、変化を余儀なくされる。それほどに重大な問題であることを、この時の明治政府が理解していた様子は、見られない。日本では単なる文字の形式に固執した当時の李朝政府の魯鈍さを嘲笑する評価が、出版された著作においてすらしばしば見られる。だが、その評価は誤りである。

対馬藩は、かつて李朝から米を支給されていた。対馬は住民を食わせるだけの米が取れないので、李朝に乞うて毎年米の給付を受けていたのだ。これが、李朝から見れば、藩屏として解釈された。事実関係として、対馬藩はずっと幕府と李朝の両方に、仕えていたと見なしてもよい。
その事実を理解せずに、藩屏とは何ごとだと怒るのは、現実をよく見ない主張である。李朝は、対馬藩に対して何の隷属関係も要求していないし、藩の重荷となるような課役も義務付けていない。それどころか、李朝は対馬藩に釜山の倭館にて貿易を認めさせて、対馬藩はその上がりでずいぶん儲けてさえいたのであった。
芳洲は、隣国と誤解なき友好関係を打ち立てるために、仕える対馬藩に対して、漢学をよく学んだ才人をもっと採用するように、提言した。相手の立場を知らず、外交の常識を知らない無学者は、外交を行なう資格はない。日本流のツーカーな空気で分かり合える相手は、日本列島を一歩踏み出したら、いないと心得なければならない。
もちろん、二十一世紀の現在、東北アジアの外交用語は、すでに漢文でも儒教思想でもない。
しかし、隣国と友好関係を打ち立てるためには、政府と外交官は無学無見識であってはならないことは、今でも全く通じる義ではないか。
ありていに言えば、現在の日本外交は、隣国から見透かされている。現在の日本にとって一番大事で、唯一大事なのは、アメリカとの関係だけだ。日本は、隣国の経済を必要としている限りで、ちょっとだけ謝ったり友好のそぶりを見せたりする。しかし、少しも本気でないことを、彼らは見透かしている。だから信用できず、ゆえに相手はいくらでも批判するし、難題をふっかけるのだ。それを恩知らずとか無礼だとか怒るのは、自分たちの隣国に対する礼儀が慇懃無礼そのものであることに、思いを馳せるとよい。

2009年03月14日

Korea!2009/03/14

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。非常に興味深いと思われる外交事件を彼はいろいろと書き記しているのだが、当時の外交事務の詳細を私はまだよく知らないので、十分に訳出することができない。よって、あらまし大意を読み取ることができた箇所だけ、試しに訳してみる。


送使(訳者注:対馬藩から倭館に毎年八回派遣される、八送使のこと)・僉官(訳者注:東莱府使の配下である、釜山僉使のことであろう)が五日次(オイリ。よくわからないが、文意からおそらく送使が運んで来た物品で開かれる、貿易市のことであろう)を受け取った際、鱈・青魚が一枚不足しているとか言って、役人どもが礼房・戸房(訳者注:李朝の外務省兼文部省に当たる礼曹および財務省に当たる戸曹の、出先機関)と相争うような見苦しい事も、ございます。
だいたいにして、他国へ使者がまかり越す際に、先方の応対がよろしいときには丁寧だと考え、先方の応対がよろしくないときには粗末だと考えて、それだけで判断を下してこちら側がとやかく文句を言うなどは、もちろん道理のないことです。朝鮮の場合にも上のような事例が確かにあるのですが、朝鮮の風儀と申すものは、下々の者どもにおいてはとくに廉恥の心が薄く、利を貪るので、接待の馳走の一事においても、李朝朝廷や東莱府の本意では全くないのです。下っ端どもが数を減らしたり、物品を粗末なものにすり替えたりしているのが実情でありまして、もしこちら側が何も申し立てないでいると、ゆくゆくは散々な結果が待っているべき恐れが、ございます。そのような時期に至ればどれだけの行き違いが生じるか想像もつきかねますので、日本の役人どもが上のように古式を踏まえて相争うのも、不恰好ではあるがやむをえない点も、あるのです。それゆえ、甚だしい争いについてはこれを禁じ、その他についてはこれまで通りのやり方で対処させてもよろしいかと、存じます。
日本人の覚え違いのために、「昔はこんな風ではなかったのに、段々と馳走の品が悪くなっている」と、口々に申したとしても、本当にそうであったか否かの義を何をもって判断すればよいのか、手掛かりがありません。不確かなので、先方に伝えることもできず、以前の礼儀の実情の証拠も、ありません。今後は、先方の馳走の丁寧・不丁寧をもって隣交の誠信・不誠信をもって知り、異邦の事情を察する一助となりますので、送使・僉官の記録にお膳の次第を仔細に書き付けるようにとの沙汰あり、宝永二年(1705)以降朝鮮に渡海する人はめいめいが記録を残して提出するようにとの、仰せ付けがございました。

長年実務に携わった芳洲は、日本側から見て朝鮮の対応が不審に思われる点があることを、知っていた。そして、その不審の原因が、李朝政府の不誠実にあるのではなく、政府が用いている下吏や町人どもの腐った性根にあることまで、見抜いていた。いったいにして李朝の高官は無学な自国の民衆を侮り、商売や利得の計算などを卑しい道として毛嫌いする、君子の倫理観を持っていた。それで、おそらく下吏や商人の狡猾なごまかしに、十分気付かなかったのであろう。小役人や商人こそが最も誠実であるという日本人の常識と、李朝の常識は、まるで違っていたのである。芳洲の指摘する朝鮮の商売は、どうやら中国式であった。
はなはだしい争いは、よくない。しかし、言うべきことは、言わなければならない。細かいことであるが、接待の馳走について細かく記録を残すべきという沙汰を、日本側は出した。誠実・不誠実の証拠を残して、先方の真意を問うためである。もちろん、相手が善意であるはずだとまずは前提に置いて、その上でどうしてこんな粗相があるのかを、交渉しなければならない。外交は、口論でもいけないし、逆になあなあでもいけないのである。

朝鮮を「礼儀の邦(くに)」と唐(中国)が申すわけは、他の夷狄(いてき。蛮族)どもはややもすれば唐に背くにも関わらず、朝鮮は代々藩王の格を失わず、事大(じだい。中国に仕えること)の礼儀にかなう国であると、こういう意味に他なりません。しかるに朝鮮人が壁に唾を吐き、人前で便器を用いるようなたぐいのことを見て、「礼儀の邦」には似合わない振る舞いだと申すのは、「礼儀の邦」という言葉の意味を分かっていないからなのです。もちろん朝鮮は古式を考え中華の礼法を採用している点においては、他の夷狄に優っていますので、これまでは日本人の方が思慮足らずであった事が多くございました。しかし、文盲の者どもは、かえって変なことをやらかすようでして、まことに恥ずかしいことでございます。このこと、心に留め置かれてくださいませ。

なぜ李朝が「東方礼儀の邦」と中国に呼ばれているのかを、芳洲は説明する。それは、日本人が「礼儀」という言葉からイメージする、「お行儀の良さ」という意味では、決してない。むしろ中華の礼儀を採用し、蛮族でありながら中国を兄として仕えて、決して背かない。それが、中国から見れば「中華に帰順したおとなしい蛮族」という意味で、「礼儀の邦」なのだ。いっぽう、日本は中国にとって「化外(けがい)」である。「化外」とは、中華に帰順しない蛮族のことであって、中華帝国から見ればケダモノと見なされなければならない。「化外」の日本は、とうぜん「礼儀の国」という称号を与えられない。どんなに民のお行儀がよくても、中国の文明を全面的に採用せず、その上中国を悪し様に言う国は、彼らにとって「礼儀」知らずなのだ。
儒教の文明は、高潔なエリートを作ることに役立ったが、残念ながら民衆の民度を高めるシステムではなかった。福澤諭吉が君子のいる国と君子の国とを区別せよ、君子の国とは中国ではなく、西洋諸国であると『文明論之概略』で喝破したのは、このことなのだ。
もとより、現在の韓国人は、君子の国である。これは、私が旅行したから、知っている。彼らは、昔の朝鮮人のように、むやみに道に唾を吐きかけたりしない。

2009年03月15日

korea!2009/03/15

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。


「東莱入」(日本側が、東莱府に行って交渉すること)と申すことを、まるで東莱府と果し合いをしに参るがごとく考えたり、または生きて帰らぬことのように考えて東莱府と合い構える風潮は、ぜったいに懸案に埒を開けなければならないかのように思い込んでいるからです。だがこれは、了見違いです。
たとえば、宴会の席で酒のついでに相手方に申したりして委細を語ることができなかったので、その後に訳官を通じて伝えたところ、相手が意味を受け取り難かった。そんな場合、とにかくも東莱府に参上して直談判で細かく相手側に申し伝えなければならないごときご用件は、必ずありうるものでございます。そんな場合が起ったならば、事前に約束を取っておいてから東莱府に参上することは、日本向きにたとえて申せば、田代(訳者注:肥前国にあった対馬藩領)の役人が、柳川藩(立花氏)あるいは久留米藩(有馬氏)に参上して、その地の役人と対談することと、同然のことでございます。
上のような場合、面談して埒が開くことも、ございます。また、埒が開かないことも、これまたあってしかるべきでございます。ゆえに、東莱にさえ参上すれば、何事にても相済むはずだと心得る理由など、ないのです。みだりに果たし合うべきことも、ございません。
(日本側は、原則として倭館から出てはならないと定められているので、)その境界を犯してかの方へ参上する場合、元来が容易に事が運ぶものではございません。ゆえに、東莱府に面談に及ぶほどのことでもないのに、東莱府に参上すれば訳官どもが難儀するだろうと考えて、訳官に苦労させて埒を開けさせるべしと計算して東莱府に送り付けようなどとすることは、思慮の浅いことでございます。

両国の板ばさみとなる日本の訳官たちは、辛い。上のような国家間の思い違いは、現代でも毎日のように起っていることであろう。事情をよく考えもせずして、訳官に相手国に行かせて、お前ら談判してこいと、上の連中がふんぞり返って命ずる。実は、外国との交渉とは、国内の組織どうしの交渉と、どれだけ違うというのか。芳洲の時代だから藩を引き合いに出しているが、現代ならば企業や役所を考えればよい。談判して、通ることもあれば通らないこともあるのは、国内でも同じなのだ。いやむしろ、外国だからこそ、通らないことの方が多い。もし通るとすれば、それはきっと自国の勢威を相手が恐れているためだ。だから、アメリカの要求は日本ですぽんすぽんと通る。日本の要求は、外国に通らない。
現場を知っている芳洲だからこその、後世への教訓である。

この東五郎(芳洲の通名)は二十二歳のときに、ご奉公に召し出されて、江戸に参りました。(対馬藩の)在勤の面々が語る話が言うには、「朝鮮人ほど、鈍なる者はこれなし!」というものでございました。「炭唐人」という名前の炭を運び込む者がいたのですが、もしも炭を持って来なかった場合、手に印判を押して「明日持ってこい」と言い付ける。そうすれば、翌日には必ず炭を持って来て、「この印判を消してください!」と申すというのです。(出入りの者は)大勢いるのだから、かの者を我らがいちいち覚えているわけもなし、それどころか印判などは洗って落としてしまえばそれでおしまいなのに、必ず戻ってくる。面白いものだ、との話でございました。
しかしこの東五郎が思いますに、鈍だったからでは、ありえません。きっと、当時は(文禄慶長の)乱の後の余威が強かったために、上のようなことが起ったのだと、私は思いました。
その後、三十六歳の時、朝鮮語の稽古のために、かの地へ渡海いたしました。ある日、町代官の一人で、以前の流儀を覚えていた者がいて、「炭唐人」を持って来なかった者を叱り、上着の袖を縄でくくり上げるべしと申し渡したところ、この朝鮮人はことのほか立腹して、その横に全(チョン)別将と申す訓導(フンド。訳者注:地方の教育を担当する、地方官)の書手がいたのですが、この者がまた目を怒らせて、「我が国の人を辱めるとは、どういうことだ!」と散々に申したので、上の代官は恐縮してしまい、命を実行しませんでした。
この例を挙げて見ましても、わずか十四ないし五年の間に、風向きが変わってしまったのです。だいたい壬辰の乱(すなわち、文禄の役)以降、万勝院さま(第十九代藩主、宗義智)ご一代より、光雲院さま(第二十代藩主、宗義成)のご初年までは、恐れられていました。光雲院さまの中ごろから、天龍院さま(第二十一代、宗義真)のご初年までは、避けられていました。天龍院さまの中ごろから以降は、慣れられています。恐れられ、避けられていた時分は、かの方は下手に出ていました。慣れられている時分には、強い方が上手に立ち、弱い方が下手に立つはずでございます。天龍院さまのご時代の中ほどまでは、まだ慣れることも浅うございました。しかし今日に至るや、慣れること深くなっております。ゆえに今後は、「これに乗じて、これを陵(しの)ぐ」との言葉どおり、威力権柄は向こう側に移り、こちら側はかえって卑屈になるであろうことは、時勢の勢いでございます。ゆえに、「正大をもって心を為し、理義をもって務めと為し」、前後を図り処置すべきかと、存じます。「強禦(きょうぎょ)を畏れず、鰥寡(かんか)を侮らず、剛(こわ)きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くらわ)ず」と申す言葉は、世に処する道を申す言葉でございますが、朝鮮とご隣交する際にもまた、この言葉をお心得になること、切要でございます。

芳洲は、鋭い観察者である。そして、凛とした儒者である。このくだりは、彼の資質が見事に現れている。
昔は侵略の記憶が生々しかったので、朝鮮人は日本人を恐れ避けていた。しかし、芳洲が二十二歳のときに江戸で対馬藩士から聞いた話と、三十六歳になって自ら朝鮮に渡海して見た実情は、まるで違っていた。芳洲はまず木下順庵の門を叩いて儒学を修め、師の推薦により二十二歳で対馬藩に真文役として、召抱えられた。彼はそれからずっと朝鮮との関わりの中で仕事を続けたのであるが、彼が勤務した年月のうちに、かの国の日本に対する印象は、変わってしまった。芳洲は、今や朝鮮人は日本に慣れてしまっていて、今後この勢いはますます高まるだろう、と懸念しているのである。
そこで、芳洲は今の藩主に向けて、教訓を述べる。
-正大をもって心を為し、理義をもって務めと為せ。
正しい心を、持ちたまえ。そして、道理をわきまえることに、務めたまえ。芳洲の言っていることは、仁義の道を進みたまえ、ということである。朝鮮もまた、儒教国である。仁義の道を進めば、相手は分かるはずだ。もし分からなければ、それは相手の落ち度である。卑屈にならず、正義正道を述べよ。芳洲は、日本固有の考えに留まらず、世界思想である儒学を学んでいた。だから、彼は国家間にでも通じる普遍的な道があることを、知っていた。現代でも、そうである。儒教のシステムは地球レベルで全面的に通じるわけではないが、正義の道だけは、万国不変のはずだ。それが通らないならば、何かがおかしい。我が方が悪いのではないと確信を持ちたければ、普遍的な正義を求めて、それに依拠したまえ。
-強禦を畏れず、鰥寡を侮らず、剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄うなかれ。
力強いだけの者を、恐れてはならない。不義の強者は、人間の敵である。
鰥寡(やもめ)を、侮ってはならない。「鰥寡孤独」という言葉がある。男女のやもめと、身寄りのない老人と、孤児のことを指して言う。儒教では、こういった社会の弱者たちを真っ先に救うのが、仁政であると教えている。それは、人間に対する、温かい思いやりである。人間を愛する者は、人間の味方である。
剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くら)わず。難しいことでも、正道を通りたいならば、避けてはならない。安易なことでも、邪道であるならば、取ってはならない。
人の品格も、国家の品格も、畢竟は一緒である。暴圧を退け、卑屈を取り除く。そのためには、普遍の道を、通るにしくはなし。芳洲の、現代人に向けた遺言とも、取ってよい。

2009年03月16日

Korea!2009/03/16

衆議院議員、山田正彦氏(民主党、長崎県三区選出)に私が送った書簡を、以下に公開します。
(09.03.16、永田町の衆議院議員会館宛てに送る)


前略。

対馬島が属する衆議院長崎県三区を代表されている国会議員である、山田先生のホームページを拝見いたしまして、一筆申し上げたくワープロの前に座りました。
ホームページには投稿フォームもございましたが、長文であることと、できれば昔からの伝統である、紙の上にしたためた手紙をお渡しした方が誠実なのではないかと思い立ちました。しかしなにぶん極度の悪筆ゆえに、手書きは避けました。ご容赦のほどを。

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Korea!2009/03/16

阪急電鉄に続いて、JR西日本からも回答があった。
以下に、その全文を掲示する。


鈴元 仁様

いつもJR西日本をご利用いただきまして、ありがとうございます。
また、ご連絡が遅くなりまして申し訳ございませんでした。

関係部署からの報告に基づき、頂戴いたしましたご意見についてご回答させていただきます。
ご指摘の英字でのご案内についてですが、路線図式の運賃標への表記については、英字だけでなく、漢字やひらがな等を含めた全体の見やすさと分かりやすさを確保するため、情報の内容、表現方式(表示方法、デザイン、色彩等)、掲出位置(高さや配置間隔など)を考慮して体系的に配置しており、英字については主要駅の表示としております。
関西空港駅を含め、海外のお客様も多数ご利用になる主な駅については、路線図式の運賃標とは別に表形式の英字運賃標を設置しておりますので、きっぷをお買い求め頂く際に、併せてご利用頂いております。

みどりの券売機につきましては、一部業務以外は「ENGLISH」ボタンを押すことで英語案内が可能です。
また、一部の近距離券売機でも同じく「ENGLISH」ボタンを押すことで英語案内が可能です。
なお、券売機の老朽取替に伴い、英語対応可能な券売機を増やしているところです。
中国語と韓国語については、現在のところ表示する予定はございませんが、今後の参考とさせて頂きます。ご理解の程よろしくお願いいたします。

今後ともJR西日本をご利用いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

阪急の前例に引き続き、私からのJR西日本への回答のメールを、ここに公開する。

私の意見へのご回答、誠にありがとうございました。

しかし、ご回答の内容でございますが、残念ながら私にとって満足のいくものでは、ございませんでした。
主要駅には表形式の英字運賃標が置かれていると、おっしゃる。
どうして、全駅に設置しないのでしょうか。
貴社の現在の対応では、外国人がマイナーな駅から乗り、マイナーな駅で降りることは、できません。
日本語は、トルコ語のようなローマ字表記では、ないのです。私が韓国に行ったとき感じたように、外国人にとって日本語の漢字とかなは、ミミズがはいずり回っているような呪文にしか、見えません。ガイドと引き比べて参照を試みるだけでも、うんざりしてくる代物なのです。その事情が、いま一つお分かりになっておられないように、見受けられます。貴社の皆様は、アラブ文字を読む気力がありますか?カルナータカ州で公用されるカンナダ文字を、旅先で解読してやろうという、殊勝さがありますか?日本の漢字とかなは、これらの文字よりも、ずっとずっと数が多くて、外国人が覚えることが事実上不可能なほどに難しいのですよ。

もしや、外国人にはそのような用事などあるはずなく、あるいは外国人は隠れた名所を観光しようという興味がない鈍物揃いであるとでも、思われているのでしょうか。
もしそうであるならば、貴社は外国人を侮っているのであり、そして日本のことを積極的に見せようとしない、日本の観光立国化を妨げる鉄道会社だということになってしまいます。
いま一度、申し上げます。
果たして、主要駅からバス・タクシーを使って、外国人が目的地に行くことが、果たして今の日本で容易でしょうか。
かつての国鉄から鉄道路線を受け継ぎ、西日本の各地に網の目のように鉄道を保有しておられる貴社は、異国の人を日本国内の好きな所に送り届けてあげる社会的責任があると、私は思います。
どうせ貴社の社員・駅員の皆様方といえども、日本人です。現在の日本人が、英語を習得できるわけが、ありません。よって、社員・駅員の方々に、口頭によるサービスを外国人に用意することは、おそらく非能率かつ効果薄です。
これは、阪急電鉄にも申し上げたことです。
どうして、日本の企業であるならば、券売機や掲示板にテクノロジーを用いて、各国語で読めるように、工夫をこらさないのでしょうか。
社員や駅員は外国語が話せなくても、機械は話すことができます。
英語、韓国語、漢語(中国語)といわず、全世界の言語をもって乗り降り・運賃をガイドできるような券売機を、今後よろしく開発したまえ。
デザイン上、路線図の全ての駅に英語標記ができないとおっしゃるのならば、路線図に光学的工夫を行なって、ある地点から見れば路線図が英語標記に映って見えるような仕組みを、よろしく企画したまえ。日本のテクノロジーならば、おそらくどこかの企業が、すでに開発しているはずです。
異国の民に日本の隅々までを知らしめ、加えて日本のテクノロジーの優秀さを示して、日本の誇りとなりたまえ。

もとより、私の申しているのは、全てホラ話です。
しかし、イノベーションはホラ話から始まることを、できれば理解してください。

貴社の今後のご発展を、心よりお祈り申し上げます。

おそらく、私の意見は、通らないだろう。
それが、大企業だ。官僚組織だ。
JR西日本一社の、罪ではない。
今の日本企業は、おしなべてこうなのだ。狭い池の中の、錦鯉。見てくれは綺麗であるが、何一つ自由に動くことができない。そして、自分たちが狭い池の中に住んでいることですら、もう忘れてしまっているのだ。そのうち、病気になって鱗がはがれて行きますよ。そうなったらもう、鯉の味噌汁にも値しなくなるであろう。

2009年03月17日

Korea!2009/03/17

ところが八五年四月に日清間の天津条約が成立して日清両軍は完全に朝鮮から撤退したが、守旧派政権が復活して開化アレルギーが政府内部に蔓延し、日清戦争に至るまでの一〇年間は、開化運動のきびしい雌伏期となった。ところが朝鮮をめぐる日清間の対立のほかに、一八八五年四月イギリス極東艦隊が巨文島を不法占領したため(八七年三月に撤退)、朝鮮をめぐる英露の対立が露呈した。この一八八五年にアメリカから帰国して軟禁状態にあった兪吉濬および、ドイツ総領事代理バッドラー(H.Budler)によって中立化論が提起されたことは注目に値する。両者間には「バッドラーは朝鮮中立化のモデルをスイス(蕊斯国)に求めているのにたいし、兪吉濬はそれをベルギー(比利時)とブルガリア(発佳利亜)に求めている」差はあるが、この中立化論はいずれも世論を形成するまでには至らなかった。
(姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.229)

兪吉濬(ユ・キリョ)およびバッドラーが提案した半島中立化案は、姜尚中東大教授が現在提唱している半島永世中立化案と、平仄を合わせている。
スイス同様周囲を列強に取り囲まれている中堅国であるコリア半島の地政学的位置付けから、中立化論は論じられている。すなわち非同盟の道であり、どの国とも偏することを行なわないことによって、国家と周辺地域に平和をもたらそうという、アイデアである。
まことに、説得力がある。
コリア半島は、かつての二千年の歴史において、三度日中の軍事衝突の場となった。
七世紀、新羅(シルラ)を巡った、唐と日本の争い。
十六世紀、李氏朝鮮を巡った、豊臣秀吉の侵略軍と明との争い。
十九世紀、再び李氏朝鮮を巡った、明治政府と清との争い。
その上に、二十世紀初頭の日露戦争と、二十世紀中葉のKorean Warがある。半島は、日本、ロシア、中国の三大列強に取り囲まれている、東北アジアの火薬庫なのだ。
これを繰り返してはならないゆえの、永世中立化案である。
この意見は、重く受け止めなければならない。
ただ、永世中立化案は、スタティック static なモデルである。現状は維持されるが、動的な経済と社会の発展は、回避される。
全て、半島の民しだいであろう。
永世中立化して周辺諸国から距離を置き、東方の隠者に戻るか。
それとも、ダイナミック dynamic な東北アジアの同盟を目指して、民族の歴史を揺さぶり動かすか-
ただ、永世中立化案では、日本との和解は残念ながら無理である。日本は国益を賭けてまで、中立国に肩入れすることは、できない。

Korea!2009/03/17

朝鮮日報(チョソンイルボ、조선일보)への投書を、以下に公開する。
朝鮮日報は、東亜日報、中央日報と並ぶ、韓国三大紙の一である。
各紙を比較検討しながら同時に投書を送りつけるのは、先方への侮辱となる。ゆえに、今は一社だけに絞って、投書した。
どうして朝鮮日報を選んだのかの理由は、ただ一つ。
三紙ともに、オンラインの日本語版がある。
朝鮮日報の訳が、最も本当の日本語を用いている。他二紙は、残念ながらわずかに日本語がおかしい。他二紙とも記事の意味は読み取れるのであるが、文脈にふさわしい語彙の用い方や、ひらがなで表記するべき用語か漢字で表記するべき用語かの「呼吸」とも言えるニュアンスが、日本語から多少離れている。
日本人の書いたものの趣意を、誤解することなく完全に読解している新聞社は、よって朝鮮日報であろうと、判断した。
日本語版Wikipediaなどには各紙の主張・傾向などが印象批評されているが、はっきり言って聞く耳持たない。
先進国の大新聞ならば、一方的に偏った記事が、書けるわけがない。右か左か保守か革新かなどの傾向は、程度の差にすぎない。朝鮮日報は聞くところによると保守系らしいが、保守主義者だから他人の意見を聞かないなどと決め付けるのは、どこかの左翼小児病者だけである。
よって、私や、他の日本人が書いた日本語をもっとも正しく解読できるであろうという印象を受けた、朝鮮日報に今回投書することとした。
日本語は、極めて難しい言葉なのである。まず日本語の文書や書物は、海外で誤解されていると、思ったほうがよい。

P.S.
残念ながら下のメールは、受信されなかった。
日本語版でだめ、英語版を経由しても、だめであった。
スパムメール対策でも、しているのであろうか。だったら、サイトに明記するべきである。
残念ながら、当社は日本人の意見を(そして、外国人の意見を)積極的に聞こうとしていない姿勢であると、見受けられる。よって、他二紙に投稿する。


前略。

私は、一介の日本人です。
貴社におかれましては、充実したオンライン日本語版を置かれ、その日本語もこなれて表現が適正であると判断いたしますので、日本語で投書をさせていただきます。もしこの投書の日本語で不明な箇所がございましたら、私にお問い合わせいただければ、日本語ないし英語にて、ご返答申し上げます。ただし、私は韓国語がほとんどできませんので、韓国語でのお問い合わせにお答えすることは、残念ながらできかねます。ご了承のほどを。

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2009年03月18日

Korea!2009/03/18

「三、東西の長所を打って一丸とした日本の文化を、そのまま何の労苦もなく、韓国に取り入れるのは極めて有利であるが、それには、日本の言葉を知るのが捷径で、教科書の如きも、日本仮名の所を諺文に改めると、直ぐにそのまま韓国のものとなる。」

一九〇四年、韓国政府の学部参与官として学制改正に着手した幣原坦の「五つの方針」の一、「漸次日本語を普及せしめる」である。姜在彦『朝鮮の開化思想』から引用した(pp.354)。
韓国語を少し学習すれば理解できるように、日本語と韓国語は語彙と文法が、酷似している。
この事実を発見した日本人が、小躍りして幣原のように結論付けることは、最もありえることである。
一九〇四年八月の日韓協約以降の日本人は、幣原のごとき錯覚に反省を加えることなく、日本人≧半島人の図式を頭から信じきった。世界五列強の一に成り上がった日本の勢威が、その錯覚を通らせてしまった。

もとより、日本語と韓国語は、別の言語である。
スペイン語とイタリア語のような、真の兄弟言語ではない。外部からの文化的影響によって結果的に酷似することなった、同窓生といってよい言語である。日本語の母音の響き、花の色を愛でる感性、情に流される情緒性。韓国語の子音の響き、石と水の簡素を愛する感性、主張を凛として保つ固執性。何もかも、違う。
一九〇四年以降四〇年余続けた日本の勝手な思い込みによる暴挙的併合政策は、一〇〇年後の現在においても、日本人の心中で反省されることもなく、保たれている。何という、怠惰な精神であろうか?

Korea!2009/03/18

内田はつぎのように書いている。「著者が斯くの如く日韓併合を急いだ所以は、支那革命の機運既に熟し、数年を待たずして勃発すべき形勢にあるを以って、支那革命に先立ち合邦せざるに於いては、韓国の人心支那革命の影響を被り、如何なる変化を生ずべきか測るべからざるものあるのみならず、満蒙独立の経綸も行ふ可からざることとなるべき憂ひがあった。」 (姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.382)

又引きが続くが、読書ノートなので原典を探らず引用する。
上は、国粋主義団体黒竜会の創設者、内田良平(1874-1937)が、1932年に出した『日本之亜細亜』からの引用である。内田は、韓国の合併促進団体一進会と提携し、日韓併合に奔走した策士であった。
なぜ日露戦争後に日本が日韓「併合」を - 日本が「併合」の言葉を用いた理由は、「韓国ガ全然廃滅ニ帰シテ帝国ノ領土ノ一部」とする本意であるにも関わらず、過激な表現を避けただけであった(上書pp.421) - 急いだのかの理由は、内田の回想の言葉が、最もよくそれを表している。日本は韓国を帝国主義戦争の果実として断固確保するスケベ心を丸出しにしたのみならず、すでに「併合」時点で後の時代の満蒙侵略が、国家のビジョンとして見えていたのである。そのための足がかりとしての、コリア半島領有であった。
司馬遼太郎は昭和戦前の日本を「鬼胎」として日本史からの逸脱であったと見たが、あれが「鬼胎」であったのならば、内田のビジョンを実行に移した伊藤博文や山県有朋といった、明治国家の元勲たちがすでに日本史の「鬼胎」であったということになる。残念ながら、司馬遼氏の明治・昭和史観は、重大な修正を必要とすると、私は評価せざるをえない。日韓併合以降の日本は、まず半島を策源地として工業化し、進んで中華民国を分割占領する国策に、ほぼ一貫していた。満州事変以降の日本は、それまでの日本史からの逸脱でも何でもない。伊藤が、山県が、敷いた路線の上であった。戦前に学生であり一庶民であった司馬遼氏は大日本帝国によって散々な目に合わされたが、彼にのしかかった大日本帝国という存在自体が、明治からの着実な積み上げの結果であった。東北アジアの文明から生まれ出て、にわかに十九世紀の西洋帝国主義の礼儀作法を学んで東洋の猿真似国家となった大日本帝国じたいが、「鬼胎」であった。そう評価しては、いけないのであろうか?

鮮人が最近数年間、所謂国家の岌業(きゅうぎょう。大きな事業)に際会するや、其開化の迅速なること、恐くは明治二十年間に吸収したる文明を、鮮人は僅々数年間に会得せるもの如く、現今の鮮人を六、七年前の鮮人と比するに全然形貌を一変し、京城市街の面目が毫も旧慣を止めざるに至りたる変化よりも、遙かに速かなるものあることは之を公言するに躊躇せず、、、

輓近鮮人思想の急変を見ては、真に寒心に堪えざるものありと存す。蓋し鮮人を統ぶるの方策は、秋霜烈日一毫も仮借する処なく、先ず其初めは討伐にあり、討伐して而して後に威圧あり、威圧して而して後に綏撫あり、綏撫して而して後に鮮土初めて平安なるべし。

朝鮮総督府警視国友尚謙の『不逞事件ニ依ッテ観タル朝鮮人』からの引用である。なお、読みやすいようにカタカナをひらがなに直した。
国友が「寒心に堪えず」と言っているように、半島人は日本人が侮っていたほど、魯鈍な民ではなかった。単に、李朝五百年の積弊が、民衆の力を抑圧していただけであった。焦った国友は、そして日本当局は、ただ討伐、威圧を持って望んだ。日本の半島支配は、その当初から失敗していた。
日本は、十五年前に棚ぼたで台湾を領有して、ここを土匪の住まう土地のように討伐と威圧をもって制圧し、かなりの成功を収めた。日本の韓国支配は、明らかに台湾での経験を半島に当てはめたものであったに、違いない。しかし、半島は台湾とは、全く違った世界であった。台湾の住民に蔓延していた阿片中毒の弊も、アナーキーな村同士の私闘(械闘という)も、韓国には存在しなかった。韓国は、出遅れはしたが日本と潜在的に同水準の文明を、持っていたのであった。

大勢より察するに、今日は既に暴徒蜂起(義兵運動)の時期を経過せり。勿論再び蜂起することなきを保し難しと雖も、予の察する所に於て将来の危険は、人民の文明に進むに随って起るべき無政府主義、社会主義等に類する危険なりとす・・・

一九一〇年七月に警務総長を兼任した韓国駐箚憲兵隊司令官明石元次郎(1864-1919)の、就任早々の訓示であるという。
明石は、いっぱんに日本では、日露戦争時にストックホルムにあって第五列を利用し、ロシア帝国内に騒擾をもたらしてロシアの挫折に手を貸した英雄として、描かれる。
しかし、戦争の後に彼がその辣腕を買われて、韓国併合時点の警務総長として半島人への弾圧を指揮した事実は、日本人のとんと知るところではない。
明石は、安重根(アン・チュンクン)の従弟で独立運動を画策していたという(事実は不明)安明根(アン・ミョンクン)を、カトリック教会の密告をネタにして逮捕・拷問し、それを皮切りとして半島において愛国啓蒙運動の活動家一六〇人余を一網打尽にして、拷問・起訴・徒刑に処した。
この一九一〇年十二月の「安岳事件」は、一年後の一九一一年に、民族振興を目的に結成された秘密結社「新民会」を対象に一大弾圧を加えた、「百五人事件」のさきがけとなる日本武断当局の行動であった。すなわち、一九一〇年末に企画されていたという(事実は不明)寺内朝鮮総督暗殺未遂の嫌疑をもとにして、一九一一年九月の平安北道在住の李範允なる青年を逮捕・拷問した後、翌年三月にかけて六〇〇余名の逮捕が断行された。拷問による死亡者四名、発狂者三名を出した後、一二八名が起訴、うち一〇五名が有罪判決を受けて刑に処された。ゆえに、百五人事件という。明石や、国友は、日本の機能的な警察力を活用して、半島人の地下独立運動に鉄槌を加えたのである。
「新民会」は秘密結社であったが、その活動は(もとより秘密結社だから不明であろうが、)テロリズムというよりは愛国教育事業の振興や、民族産業の育成にあったと想われる。そういった半島人の自律的活動力までを、日本当局は敵視して、窒息させようとした。日本は、併合当初から、半島人の活動力を恐れていたのである。これでも、「半島の植民地化には恩恵があった」などと、日本人は胸を張って言う勇気があるか。
こんな野蛮を隣国にしなければならなかった「明治という国家」は、司馬遼が追慕するようなよいとこずくめの結果を、後世のわが日本民族に残したのであろうか。
日露戦争の英雄、明石元次郎は、戦争後も生きて、仕事に精を出していたのである。そして、彼が忠勤した大日本帝国は、「坂の上の雲」を通り過ぎた後、打ち負かしたロシアに成り変わって、凶暴な民族の牢獄と化していったのであった。

2009年03月20日

Korea!2009/03/20

朝鮮日報へのメール送信が拒否されたので、別紙に送ることにする。先方から拒否された以上、別紙に鞍替えしたところで、礼を失することにはなるまい。
中央日報(チュンアニルボ、중안일보)は韓国三大紙の一。日本語サイトもある。日本語サイトの特徴は、日本語での投稿が公開されていること。産経新聞のiza!に通じるものがある。
それにしても。
投稿された内容が、判で押したように、嫌韓である。
これに投稿している阿呆どもは、気づかないのか。
この新聞がこうして諸君らの投稿を公開しているのは、日本人が野蛮人であることを宣伝するための、素材にしているのだ。
これに嫌韓の投稿をしている者は、新聞の策略に踊らされている低能か、あるいはわざと投稿して日本を貶めようとしている、売国奴である。きっと、投稿のうち何割かは、売国奴が投稿している。中央日報のウェブマスターは、嫌韓の投稿を削除しなければならない。

とにかく、中央日報にメールを送付した。内容は、以下のとおり。前回の朝鮮日報宛ての内容を、中央日報に送るために添削しただけで、主文は変わらない。


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Korea!2009/03/20

本日、夕映舎氏と祇園のコーヒー屋で、談怒。
談笑と書くよりも、韓国を語るときには、こう書きたい。
私が、「秀吉については、これを悪人として歴史を再定義しなければならない」と言った言葉を、夕映舎氏は斥けた。
「一方的な謝罪なんざ、やってたまるか。秀吉は、日本史の誇りの一つや。それをまるまる否定するなど、日本を否定することや。伊藤博文も、吉田松陰も同じ。日本史にとっては、大事な英雄や。フランスがナポレオンを否定したり、中国がフビライを否定するか?もっと、客観的な歴史的評価を双方で持てるところに導いていくのが、互いが誇りを持って認め合うことやないのか?」
私は、これまでそれができなかったから、まずこちらから頭を下げて、動き出させる必要があるのではないか、と反論した。
「たとえば、ドイツのビリー・ブラントが謝罪したように、、、ドイツでナチスを肯定する言葉を、自ら封殺したように。」
夕映舎氏は、言い返す。
「ドイツは、ナチスだけに罪をなすりつけることができる、歴史やった。日本史は、そうやない。誰にでも罪があるように、なってしまう。どこまでも遡って、収拾がつかない。」
この部分は、微妙である。ありていに言えば、ナチスだけに罪が本当にあったのかどうかは、歴史が評価するべき問題である。切り返して言えば、ドイツ史より責任の所在があいまいな日本史であっても、あえて誰かを最終的な責任者として断罪し、象徴的に過去を反省させる歴史評価の道を取ることも、できるはずなのだ。
しかし、夕映舎氏は、言った。
「そうなったら、天皇になる。」
これは、急所である。私たちの論議は、それ以上先に進めなかった。
この急所を回避せざるをえないために、これまでの政治は日韓を、さらに日本が侵略した諸国とを和解させることに、失敗したと言えるのであるか。
だが、このままでは、将来もまた日本は周辺諸国から、孤立したままだ。そしてそれは、日本の没落への道を、きっと開いていく。
夕映舎氏は、私に言った。
「政治と同じ言葉を、使ってはいかん。同じ言い合いの、繰り返しや。だが民の意見は、もっと別のところにあるはずや。そこから、搦め手で盛り上げて行く。それが、お前のするべきことではないか?」
彼は、秀吉を祀った神社なども、必ず韓国人に見てもらうべきだと、主張した。
秀吉を英雄として祀るのが日本史である以上は、隠してはならない。見てもらわなければ、こちらの誇りを保つことができない。譲歩するのは、我らが日本海を東海(トンヘ)と言わされる道へと、繋がって行く。
確かに、そうなのだ。
釜山の龍頭山(ヨンドサン)は、かつて対馬藩倭館があった土地なのだが、徳川時代の友好外交の拠点であったにも関わらず、韓国の歴史から抹殺されている。現在龍頭山に行ったとしても、ここがかつての倭館であった説明を、見つけることができない。彼らは日韓史のポジティブな面を隠している点が、確かにある。
しかし、日本もまた、安土桃山時代の日本製の陶磁器が明朝や李朝の優品に比べ物にならない粗末品であり、それが徳川時代初期に突然質が上がったのは李朝から拉致して返さなかった陶工たちの技術のたまものであったという事実、日本は確かに鉄砲の採用では隣国に先んじていたが、大砲の製造技術では明朝や李朝に大きく見劣りしていたという事実、さらには李朝の亀甲船(コブッソン)と日本水軍の和船では、原子力空母と日露戦争の戦艦三笠の差にたとえてよいぐらいの、テクノロジーの質というべき戦力差があった事実などを、戦国ロマンを過大評価する癖によって見逃している。日本は北朝鮮の拉致問題を悪魔の所業のように糾弾し、確かに現代社会においては非難されてしかるべきであるが、日本もかつて半島から拉致して返さなかった人々がいた日韓史を拉致の糾弾者たちが知らないならば、それは一種の犯罪である。

双方ともに、歴史を正しく認識していない。
これを歩み寄らせることは、確かに相互が誇りを保ったままで、冷静に相手を評価できる道になるに、違いない ― 極めて、難しいが。

彼は、私に任意団体を設立し、国際関係のための非営利の事業の器を、作るべきことを薦めた。
その言葉、ありがたく受け取ることにしよう。

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WinXPは、コントロールパネルを操作することによって、韓国語入力機能を追加することができる。
これで、ハングルをワープロ打ちができるようになった。八千万人の使う言葉だ。覚えて、損はあるまい。

2009年03月21日

Korea!2009/03/21

桜の季節用にトップページを編集していたら、過去に撮った洛東の桜たちが、思い出されてならない。
-そうだ、竹中稲荷には、ぜひとも行かなければならない。
知られていないが、神楽岡竹中稲荷は、京都の桜で個人的に最も美しい地点の一つであると、私は人に薦めたく思っている。薦めたいが、名所なんぞになってほしくない。もどかしい、ところである。
-日本は、こんなにも美しい。外国人には、日本のよいところを、賞賛してもらいたいものだ。
ここ最近の私は、政治に悩むあまり、日本のネガティブな面を抉り出して断罪しなければならないという思いに、駆られていた。
その思いは、今でも忘れたわけではない。日本の過去の悪事は悪事として、目を背けてはならない。
しかし、それよりもさらに、日本の良い面は、確かにある。ありすぎるほどにあることを、自分が撮った写真を見て、思い出した。
二月に、私が韓国の思いもよらなかった美徳なる面を旅行して見たことが、以降の私を走らせているのではないか。
じつに悲しきは、両国の国民が、隣国の美徳なる面を、ちっとも知っていないことである。
私は、韓国人に、日本の良い面が余りあることを、伝えなければならない。
そして同時に、日本人に、韓国の良い面が余りあることを、伝えなければならない。
憎むべきは、己を誉めて相手を貶める精神であり、己を卑下して相手に媚びる、精神ではなかったのか。その両者を、斬らなければならない。

-ソウルに、行かなければならないな。

私が二月に行った慶尚道は、韓国の歴史で言えば、両班(ヤンバン)の牙城。
最も、保守的な地域であった。
北部の平安道、黄海道が日韓併合前後にキリスト教によってラディカルな抵抗運動を繰り広げたのとは対照的に、慶尚道は「本学」つまり朱子学から来る攘夷思想によって、ラディカル化した。
今回の旅行ではどの辺が両班の伝統と言うお国柄であったのか、それともそんな伝統はなくなってしまったのか、私にはよく分からなかった。
しかしソウルは、慶尚道とはまた違う世界のはずに、違いない。

Korea!2009/03/21

戦争中の日本軍の暴虐を考えれば、私は「謝罪する」という言葉を使いたかったが、私は彼らの真情を知りたかったので、できるだけ倫理的な判断から距離を置くために謝るとか、お詫びするという言葉を一回として使わなかった。私の思想も心情も彼らに通じ、彼らによって受け入れられたと私は今でも考えている。というのは、私は翌日の学生の出席者の数は減るのではないかと予想していたが、それは増えこそすれ減ることはなかったからである。最後の二日間は南開大学の元学長も続けて出席してくれたのである。
しかしそれは学生との意志の疎通である。日本軍に苦しめられた一般民衆や、日本軍と戦った軍人たちも代表する江主席は、日本人の歴史理解を曖昧にしたままで両国の関係を先に進ませることができないのは当然である。
(森嶋通夫『なぜ日本は没落するか』(岩波書店)第7章 ただ一つの解決策より。)

今この本を改めて読み返してみると、森嶋氏の構想といま私が抱いている構想は、力点の置きところが少しずれている。
森嶋氏と私が共有している点は、日本・コリア半島・中国文化圏の三者を「東北アジア」と定義して、これを「歴史的文化的にも近く、人種的にも近い隣国だから共同作業が出来る」(pp.155)と考えている点である。森嶋氏は、文化的つながりを共同体の基盤に置いている。ゆえに、宗教が違うベトナム以南の東南アジア諸国は、含まれない。ましてや、インド、ロシア、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランドは、少なくとも経済共同体としての「東北アジア共同体」の枠組みの、外に置かれる。森嶋氏のこの域内における最終構想は、EUと同じ域内共通通貨である。この構想に、私は全面的に賛同する。

私と森嶋氏が違う点は、日本にイノベーションをもたらしうる隣国への焦点の当て方であり、ゆえに真っ先にアプローチするべき隣国の選び方である。森嶋氏は戦前に海軍に徴集された戦争経験者であり、あの戦争が中国への日本侵略から始まったことを、骨身にしみて知っていた。だから、彼の構想が、日本の社会経済を復活させるフロンティアを中国に他ならないと位置付けているのは、経験から導かれたものであると批評したい。
しかし私の意見は、真っ先に日本が求めるべきフロンティアは、コリア半島である。それは、私の経験から来る直感であり、そして二十一世紀初頭における両国の経済と民度の発展度合の近さ、それから両国の行き詰まった現状に対する最も効き目のある薬であると判断できる展望から、導かれたものである。いずれ両国は中国に向かって開かなければならないが、日本とコリア半島との差と、両国と中国文化圏との差は、いささか開きがある。
段階的な構想を持った方が、よいと私は考えている。政治的枠組みとしてまず三国共同体を作り、経済のすり合わせが必要な市場統合と通貨統合については、まず日韓で行い、中国は条件が整い次第、拡大するのがよいであろう。もちろん、中国にも大きなメリットがあることを実をもって示さなければ、かの国は乗ってこない。関税及び非関税障壁の撤廃、域内投資活動の自由化、域内雇用の自由化をスケジュールとして示しながら、日韓にとって懸案である食料品他の品質管理、雇用条件の向上、国際的犯罪防止システムの構築を、中国側に求めなければならない。その先には、かの体制に政治プロセスの民主化と、民衆に対する法の支配の貫徹と、広大な国内に住まうマイノリティー民族文化の真摯なる尊重とを、人類のために我々は促していかなくてはならない。

上の引用は、森嶋氏が中国国内の大学で講義した際の、経験である。森嶋氏は、中国学生の真意を聞きたくて、あえて謝罪の意を控えた。むしろ、「民族もまた発狂しうる」(pp.151)という説明を用いて、かの国の文化大革命と類比させ、倫理的判断を避けた。そうして、これからは過去と違って相互協力し合わなければならないことを、学生に向けて語ったのであった。「中国学生を一応納得させることに成功」したと、森嶋氏は講義の結果を判断している。
森嶋氏は、上の引用のとおり、日本が謝罪しなくてもよいと言っているのではない。
日本人の歴史理解を曖昧にしたままで、日中両国の関係を先に進めることはできない。「アジアへの侵略は弁解の余地がない。謝るべきです。それも心から謝れば、将来に向かって話し合えるようになる。」(1998.11.21付東京新聞夕刊における談話の引用。pp.157)
彼もまた私同様に、悪事については謝罪して、その悪事の原因を日本国が二度と起こさないように反省しなければ、将来の共同体建設を進めることができないと、考えていた。コリア半島について言えば、二度と秀吉のような侵略を起こさないことを誓い(私の友人の夕映舎氏は、秀吉の侵略を耄碌ゆえの誇大妄想だったろうと批評していた。だがその点については、私は別の意見を持っている。私見では、秀吉の海外征服事業は、元来信長のプランであったと、推理している。)、大切な隣国を植民地化した過去に痛恨を感じて詫びる必要があるだろう。2002年9月、当時の小泉首相はピョンヤンにおいて、「植民地支配によって、朝鮮の人々に多大の損害と苦痛をあたえたという歴史的事実を謙虚に受け止め、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明」した。

では、2002年9月以降、日本の隣国に対する姿勢に、何が足りないのか?

答えは一つ。
将来に向けた、具体的なプランである。
日本の持てる力を、地域の繁栄と、民の幸福と、戦争と圧制の恐怖から和らげる救済に向けて、ひたむきに汗をかく努力である。この努力が日本政府と日本社会に何一つ見えないことが、韓国も、中国も、いまだに批判の手を休めない、口実となっているのだ。結局、口だけかよ。そうだ、口だけなのだ。あんたらとは、関わり合いたくないの。私は、米(アメ)さんに恋して、頼って、尽くしてるの。あんたらなんか、嫌い。
小泉首相の日朝宣言後の北朝鮮や韓中に対する強硬姿勢、その後を継いだ安倍首相の輪をかけた強硬姿勢。これは、明らかにアメさんへの色目であり、そして己の選挙基盤の反アジア的意見に、引っ張られたものである。自民党外交のこの方十年は、東北アジア構想を大きく後退させてしまった。インド、ASEANと提携、、、?そんな迂遠な外交が、日本社会を救う特効薬になるとでも、思っているのか。北朝鮮核協議を踏み台にした、六国共同体、、、?それは安全保障であって、安全保障ももちろん大事であるが、経済と社会の行き詰まりは、安全保障では解決されない。日本人をもっと幸福にするプランを、どうして考えないのだろうか。考えない政治家は、政治家とはいえない。政治屋。いやさ、テクニックで顧客の無理難題をゴリ押しして通す、「政治師」とでも呼ぶべきであろう。


2009年03月22日

Korea!2009/03/22

雨森芳洲『交隣提醒』試訳、今回でいちおう終結。
末尾の段を、訳す。

「誠信の交」と申す言葉を、人々は口に出しますが、たいていはその字義を明らかにしておりません。
誠信と申すのは、「実意」と申すことでございまして、「互イニ欺カズ争ワズ」、真実をもって交わることを、誠信と申すのです。
朝鮮とまことの誠信の交わりを取り行うべきであるとお思いになられるならば、こちらからの送使もまたご辞退なされて、すこしもかの国の接待ご馳走を受けないようになさる時がなくては、まことの誠信とは申しがたいです。その理由は、かの国の書籍を拝見すれば、かれらの底意がどこにあるかが知れるからです。しかしこういう段階に持っていくことは、容易にかなうことではございませんゆえ、現今まで続けて参ったのでございまして、だからかの国でもまた、容易に改めることができそうにありません。そういうわけなので、何とぞ今後は現状に留め置かれながらも、加えて「実意」を見失わないようにお心がけになられるべきで、ございます。
「日本人ハ其ノ性獷悍(こうかん。無礼にて凶暴)ニテ、義ヲ以ッテ屈シ難シ」と申叔舟の文にも、見えます。かの国の幣竇(へいとう。貨幣と通しひも。つまり、費用)は、相当の負担でございますが、送使接待を初め、今まで別状もなく連続しているのは、獷悍の性を恐れられていることから起こることなので、ございます。以降、余威は今やはなはだ薄くなっております。ゆえに、今後の対馬人が、「従前ノ武義」を失い、惰慢の心を持つようになれば、必ずや最前申し上げた「なんとかの木刀」のごとくになりますので、朝鮮関係の幹事の者どもは、そのことよく心得るのが肝要にございます。とにかく、朝鮮の事情をくわしく知らずにいるならば、事に臨んで何の了見も持つことができなくなります。浮説新語がどれぐらい出て来たところで、何の益にもなりません。」それゆえ、『経国大典』『考事撮要』などの書や、阿比留惣兵衛が編じ申し上げた『善隣通交』、松浦儀右衛門が編じ申し上げた『通交大紀』、および分類記事・紀事・大綱を常に熟覧いたして、前後を考え処置いたすべきかと、存じます。

享保十三戊申年十二月二十日
雨森東五郎

この末尾の文は、慎重に読むべきであると、考える。
芳洲は、あくまでも対馬藩主に対して、言上しているのである。
対馬藩は、釜山草梁倭館を一手に運営し、毎年の八送使による貿易により利益を収め、その上藩の使者の接待馳走など、李朝の持ち出しは大きかった。これを李朝と対馬藩の関係から見れば、一方的に恩恵を受けているとみなされる。だから、対馬藩に仕えていた芳洲は、対馬藩主に対して、この不均衡な相互関係の背景について説明し、こちらが「獷悍」ゆえに相手は今まで費用を持ち出しているが、今後藩士たちの性が惰慢に流れ、相手が慣れる風潮がますます昂じてくると、いつなんどきトラブルがあったときに相手のペースに乗せられかねないか分からない、と警告したのである。現状はしかし容易に変えられないのだから、藩主と藩士たちはよく相手国の事情を学んで精通しておき、事あれば理義をもって毅然と応対しなければならないことを、芳洲は最後に説いたのであった。

徳川時代の藩は、あくまでも独立経営体である。
幕府は、諸侯の盟主として、指揮権を行使しているだけであった。
だからこの末尾における藩主への忠告のような文が、書かれたのである。
しかし、日本国全体から見れば、幕府は朝鮮通信使の形で、不定期とはいうものの、大変な費用をはたいて、李朝の使者を接待しているのである。いっぽう、李朝は日本の使者を、釜山の外から一歩も外へ出させようとしない。日本国全体と李朝との外交関係から見れば、通信使への接待と対馬藩への接待で、帳消しであると言うべきだ。何の、不均衡もない。むしろ、日本国の対馬藩に対して李朝が便宜をはかるのは、当然の義務である。もし李朝の側が対馬藩側に何か無理難題を言ってきたのならば、日本国全体の見地から見れば、それは不当な言いがかりである。対馬藩は、言い返してもよいのである。しかし、対馬藩は李朝外交を幕府から請け負う独立経営体として、李朝の恩恵に言い返すことが、なかなか難しい。この辺りが、幕藩体制の複雑怪奇な側面であった。

そこを頭に入れて読むと、どうして李朝がこの泰平の世においても、幕府の使者を漢陽(ソウル)に迎え入れてくれないのかの真意を、読み取ることができる。

-日本人ハ其ノ性獷悍ニテ、義ヲ以ッテ屈シ難シ。

申叔舟の文の引用であるということであるが、これが彼個人の意見であるということは、できない。この書は、芳洲も読むことができた、公式文書である。つまり、李朝の朝廷では、日本人のことをこのように考えていた、というわけなのだ。
儒教の国際秩序において、「交隣」とは、このようなものであった。日本は、儒教秩序から見れば、「化外」の蛮族である。蛮族とは、儒教を採用した「東方礼儀の邦(くに)」の李朝としては、親しく付き合うことなど、できない。わずかに釜山の港で貿易を許してやるから、せいぜいおとなしくしてくれよ、というのが、李朝朝廷の日本政府に対する、真意なのであった。
まことに、残念なことであった。李朝の政界は、この頃完全にイデオロギーでがんじがらめに、自分を縛り付けていたのだ。雨森芳洲と申維翰とは個人的にもずいぶん親しく付き合い、総じて通信使の面々は日本に対して好意的な印象を持っていたにも関わらず、李朝の公式見解は、日本について「義ヲ以ッテ屈シ難シ」であった。

そんな不幸な大状況の外交関係であったが、末尾の芳洲の言葉は、現代にも訴えかける、外交の要点である。

互イニ欺カズ、争ワズ。
真実をもって交わることを、誠信と申す。

対等の、外交である。
対等の人間同士の交わりと同じく、国と国との交わりは、本当はこうでなければならない。
「誠信」とは、儒教の徳目の一、「信」である。
朋友、信アリ。
「信」とは、親子でも夫婦でも兄弟でもない、他人同士が社会の中で交わるときに発動するべき、徳目である。親子や兄弟の関係のように切っても切れないつながりではなく、したがってこちら側が一方的に屈従したり、あるいは相手側から屈従されることを期待することは、できない。あくまでも、ギブ&テイクの関係である。それが、「信」を作り出す。ゆえに、互いに相手のことを尊重し、相手の過ちに対しては黙っておらずにきちんと反論しなければならない。つまり、よき対等の関係である。芳洲は対馬藩との関係の中で語っているゆえに、国家全体の外交関係とは齟齬がある。しかし、外交の原理については、彼ほど的確に言い表すことができた日本人は、今に至るまでも稀ではなかろうか。

Korea!2009/03/22

春のうらゝの隅田川
のぼりくだりの船人が
櫂のしづくも花と散る
ながめを何にたとふべき

見ずや あけぼの露浴びて
われにもの言ふ櫻木を
見ずや 夕ぐれ手をのべて
われさしまねく青柳を

錦おりなす長堤に
くるればのぼるおぼろ月
げに一刻も千金の
ながめを何にたとふべき

著名な武島又次郎作詞、滝廉太郎作曲の『花』である。
この歌詞を、英訳してみた。

Sumida River in the right spring,
Boatmen, who come along up and down.
Drops trickling from their rows, scattering like flowers,
How can be explained, this splendid scenery?

Why don't you look? There’s dawn,
Cherry blossoms talk to us, dressed in dews.
Why don't you behold? There’s dusk,
Green willows invite us, stretching their hands.

Above a long embankment in the evening dress,
Comes and rises a hazy moon.
Surely are, two hours, worthy of two million pounds!
How can be explained, this splendid scenery?


第三聯の三行目は、直訳しても意味がない。
それで、一刻すなわち二時間を、二百万ポンドに値する、としゃれてみた。
二百万ドルでは、味気ない。金儲けの国アメリカの貨幣単位では、味気ない。

さらに、韓国語に訳しても、みた。

화창한 봄의, 스미다강.
올라 내리는, 뱃사람들의
노의 물방울이, 꽃이 되고, 지다.
이 경치를 무엇에, 비유 할 수 있어?

보지 않았어?새벽의 이슬을 받아
나에게 이야기를 거는 벚꽃나무를.
보지 않았어?황혼에 손을 펴
나를 부르는 푸른 버들을.

비단의 옷을 껴입는 긴
제방 위에 와 오르는, 어슴푸레한 달.
확실히 一刻이 千金인
경치를 무엇에, 비유 할 수 있어?

だいたい、意味は通っていると思う。
第三聯の三行目は、漢字を残さなければならない。
これは、蘇東坡の詩からの引用なのだ。


蘇東坡『春夜』

春宵一刻直千金

花有清香月有陰

歌管樓台聲細細

鞦韆院落夜沈沈


かつては、彼ら韓国人だって、(漢字が読める階級の人間であれば、の話であるが)この詩を当たり前に、知っていた。
だが今はもう、捨てかけてしまっている。あまりにも、むざんである。
彼らの祖先たちに語りかけるためにも、『一刻千金』の四字熟語は、漢字として訳に残さなければならない。そう考えて、漢字にした。

2009年03月23日

ロシア民謡『ステンカ・ラージン』を補訳してみた

久遠にとどろく
ヴォルガの流れ
目にこそ映えゆく
ステンカ・ラージンの舟

ペルシャの姫なり
燃えたる口と
うつつに華やぐ
宴が流る

ドン・コサックの群に
今わくそしり
奢れる姫なり
飢うるは我ら

そを聞きステンカ・ラージン
舳先に立ちて
姫をば抱き上げ
雄々しく告げぬ

ヴォルガ、ヴォルガ、母なる
我が魂(たま)が故郷(さと)
謹み差し上ぐ
野人(のびと)の花を

我らは頚木(くびき)を
打ち捨て立てる
自由の民なり
諍いぞ断たん!

これみよとステンカ・ラージン
姫をば差し上げ
さかまく波間に
投げておとしぬ

(語り)「ど阿呆!喜べ!踊ろうぜ!
さあ黙ってないで、兄弟!」
舟歌奏でよ
姫眠る河に

島影すぎゆく
ヴォルガの流れ
さみしや ステンカ・ラージン
眉根ぞかなし

この高名なロシア民謡の日本語訳詞は、これまた高名な与田準一氏の手になるものである。
与田氏の訳詞は創作訳とも言ってよいほどに自由な訳であり、原詞とはずいぶん違う。ドン・コサックのラージンへの謗りは、原詞では「奢れる姫」のためではない。むしろコサックたちが、「ラージンめは、嫁など娶って、すっかり女の腐った奴になりやがった」と、やっかみ半分で不満を述べているのだ。

私は、与田氏の訳詞に対して、原詞にある三つの聯を、追加して訳してみた。
なかなか劇的になって、グーだと思うのであるが。
語りの部分は、歌うときにも情感をたっぷり込めて、語らなければならない。

この曲のコード進行は、G調ならば、

G D D7 Em C Em7 D G

F調ならば、

F C C7 Dm B♭ Dm7 C F

となる。
G調の方がはるかに簡単であるが、私は試しに歌ってみたところ、キーが高い。それにG調では、明るい響きになってしまい、もの哀しさにやや欠ける。それで、1音階下げたF調で、練習することにした。バレーコード出まくりの、地獄のF調で。とうぜん、バレーコードなんざ、まともに押さえやしない。Fは五弦で、B♭は四弦だけ握って、ごまかす。これ、初心者の基本ね。

練習した後の、結果。
F調は、うまくいかない。肝心かなめのFの音が、省略コードの上に握りがヘタッピなために、きれいに出ない。この曲にぜひとも必要な、重厚な音が出ない。
そこで、さらに半音階、下げる。

E B B7 C#m A C#m B E

Bが、バレーコードで難しい。しかし、この曲はあまりギターがいらない。だから、EとA、それに悲哀を出すC#mがきれいに出れば、なんとかサマになりそうだ。これらの握りは、簡単だ。

2009年03月24日

Korea!2009/03/24

3月23日、JR西日本から、さいぜんに送ったメールに対して、以下の返答があった。
以下に、公開する。

鈴元 仁様
いつもJR西日本をご利用いただきまして、ありがとうございます。
また、ご連絡が遅くなりまして申し訳ございませんでした。
関係部署からの報告に基づき、再度頂戴いたしましたご意見についてご回答させていただきます。
全世界の言語に対応した券売機をご要望とのことですが、多様な国際化に対応するという観点で今後検討してまいりたいと思います。
貴重なご意見をありがとうございました。
今後ともJR西日本をご利用いただきますよう、よろしくお願い申し上げます。

テンプレート、だな。
文面を見るだけで、分かる。
残念ながら、このような慇懃無礼な文書をもらったところで、私は嬉しくもなんともない。
私は、役所時代に、こういうテンプレートの文書を、死ぬほど書かされた。
市民からの苦情に対して、言葉だけ謝るための文書を、送り返すために。
その実態は、何一つ反省していないのだ。それが、大組織というものだ。
JR西日本が、私が知っている大組織と同様でないことを、祈る。たぶん、期待できないだろうが、、、

2009年03月25日

滝廉『花』の韓国語訳

私が訳した『花』の韓国語訳を、歌えるように小節ごとに区切ってみた。
試しに自分で歌ってみたが、歌える、歌える。バッチリだ。

화창한 봄의, 스미다강.
ファチャンハン|ポミ|スミダガン
올라 내리는, 뱃사람들의
オルラ|ネリヌン|ペッサラムドゥリ
노의 물방울이, 꽃이 되고, 지다.
ノイ|ムルバンウリ|コッチ ドェゴ チダ
이 경치를 무엇에, 비유 할 수 있어?
イ ギョンチルル|ムオセ|ピユハルスイッソ

보지 않았어?새벽의 이슬을 받아
ポジ アナッソ|セビョギ|イスルル パダ
나에게 이야기를 거는 벚꽃나무를.
ナエゲ|イヤギルル コヌン|ポッコッナムルル
보지 않았어?황혼에 손을 펴
ポジアナッソ|ファンホネ|スヌル ピョ
나를 부르는 푸른 버들을.
ナルル|プルヌン|プルン ポドゥルル

비단의 옷을 껴입는 긴
ピダニ|オスル|キョイッヌン キン
제방 위에 와 오르는, 어슴푸레한 달.
チェバン ウェエ|ワ オルヌン|オスムプリョハン タル
확실히 一刻이 千金인
ファッシリ|イルガギ|チョングミン
경치를 무엇에, 비유 할 수 있어?
キョンチルル|ムオセ|ピユハルスイッソ

コード進行は、至って簡単。
(一、二番)
G | C | G | D
G | C | D | G
G | C | Em Em7 | D
G | C | D | G

(三番) 
G | C | G | D
G | C | D | G
G | C | Em Em7 | D
G D | C A | D | G


2009年03月26日

『何日君再来』コード進行&試訳

名曲『何日君再来』〈ヘール(ジュ)ージュンツァイライ〉のコード進行を、ギター片手に拾ってみた。

『何日君再来』
作詞:晏如
作曲:團伊玖磨

G  C    G  D
好花不常開 好景不常在
G  D    C  D
愁堆解笑眉 涙洒相思帯
G  D    G  Em
今宵離別後 何日君再来
G       C
喝完了這杯 請進点小菜
G  D    G  D7
人生難得幾回酔 不歓更何待
G       Em
(台詞)来来来喝完了這杯再説罷
G  D    G  D G
今宵離別後 何日君再来

この曲は、昭和戦中に日中両方で大ヒットした、中国語曲。原曲には二番もあるが、日本で有名なのは「李香蘭」こと山口淑子が、戦後1952年に発表した、二番を永田恒雄氏が訳した一番の詞に変えたものである。

忘れられない あの面影よ
灯火揺れる この霧の中
二人並んで 寄り添いながら
囁きも微笑みも 楽しく融けあい
過ごしたあの日 ああ 愛しい君
何時又返る 何日君再来

戦前ヒットした中国語曲には、日本人のエキゾチズムを満足させ、かつ日本と中国との協調をうたった曲が多い。実際には大陸で日本軍は殺戮の限りを尽くしていた、最中であったのに。
この『何日君再来』は、そんな曲たちに比べて、まだ内容が穏やかだ。私はたとえ名曲であったとしてもそういった曲をギターで歌うことにためらいを持つが、この曲なら歌ってもよいと思った。テレサ・テンの持ち曲でもあった。

山口淑子が歌った日本語訳詞は、しかし創作訳ともいうべきもので、原曲と意味が相当にずれている。
試しに、より原曲に忠実な一番の訳詞を、この鈴元仁が試みる。

花咲き誇る 時は鮮(すくな)し
悲しみつのり 涙に変わる
今宵別れば 何日君再来(いつまた会える)?
でも楽しきは この宴
人生酔って生きたいが、叶うことなし
(語り)「さあ、その杯、空けて。もっともっと、語り明かそうよ!」
今宵別れば 何日君再来?

2009年03月28日

アイルランド民謡"The Recruiting Sergeant"の訳&コード進行

全然寝られなくて、しようがない。
だから、早朝に一曲訳してみた。
The Poguesもカバーしたアイルランド民謡、"The Recruiting Sergeant"。
コード進行は、英語サイトから拾った。

The Recruiting Sergeant
アイルランド民謡
訳詞:鈴元仁

Em
ダブリンの通りを
G     D
上機嫌で歩いたら
Em
徴兵係軍曹殿が
(G) (D)  Em
俺に声をかけたぞ
Em
「君、軍服が似合いそうだ
G       D
国王陛下のおんために
Em
フランダースで戦えよ
(G)  (D) Em
ちょっとした旅行だぞ?」

それで俺は言い返した
「軍曹殿、教えてくれ
軍服着て背嚢背負って
俺が楽しくいられるか?
規律、しごき、訓練、軍法
やってはじめて一兵卒
フランダースは温かくても
塹壕の中は日照りだぞ」

軍曹、俺の言葉聞いて
ニヤニヤ笑ってヒゲしごく
「塹壕の中は快適さ
土嚢で風も入らんぞ」
俺は通りをすれちがった
彼女にウィンクして
言った、「だったら軍曹殿
雪が降ったらどうなんだよ!

雨が降ろうが弾が降ろうが
俺はフランダースに行かないよ
ダブリンで戦うんだ
軍曹、あんたが行ってこい
イギリス人の戦争だろ
イギリス人に戦わせろ」
俺は軍曹に「グッナイ」って
あいさつして別れたぞ!

この歌詞の背景は、日本人にとってよく分からないだろう。
日本人にとって第一次世界大戦は、ただのひとごとであった。
しかし、ヨーロッパにおいては、天地をひっくり返すほどの、大戦争であった。
イギリス帝国は、ドイツの野望をくじくために、総力を挙げて大陸のフランダースから北部フランスにかけて、消耗戦を戦った。毒ガス、機関銃といった大量殺戮兵器が次々に戦場に投入されたにも関わらず、戦術そのものは古臭い塹壕戦であった。そのため寸土の土地を奪い合うために、何百万人の血が流された。
イギリス帝国の植民地もまた、正義の戦争の名のもとに、戦争協力に駆り出された。
イギリスの正義とは、世界の覇権を保持することが正義であって、世界中で原住民を隷従に置く体制を維持することが、正義の正体であった。
そしてチューダー王朝から始まりクロムウェルによる征服によって完成した、300年以上も続いたイギリスによるアイルランド支配を打ち破るチャンスが、第一次大戦によって巡ってきた。アイルランド独立派にとって、イギリスが戦争に忙殺されているのは、敵が見せた絶好の隙であった。
イギリスを背後から突き刺して、弱らせ、独立を勝ち取る。
そのために、彼らは過激なテロリズムも厭わなかった。
大戦最中の1916年に起こったイースター蜂起は、イギリス当局に対する、戦時下で最大の蜂起であった。
血なまぐさいテロと報復の応酬の果てに、1921年アイルランドは一応イギリスから分離独立した。しかし、イギリス残留を決意した北部アイルランドを巡る暴力紛争は、20世紀中ずっと引きずられていった。

本日6時間、カラオケボックスに一人こもって、持ち歌の弾き語りを特訓。
だが苦闘の結果、まだ許せる演奏の映像は、これだけ。
暗誦(そら)で歌えることと、弾き語りすることは、根本的に違うことをよくよく思い知った。
初心者の私は、心中にほんの少しの雑念があれば、指がばらんばらんになる。
この曲なんぞ恐ろしく簡単なコードなのに、何度繰り返してもちゃんと弾けない。
この演奏だって、中途で一回つまっているが、総合的に一番ましだと判断したから、YouTubeに発表した。
初心者の私は、これから演奏するときには歌詞カードを見て、そして歌詞の上に見やすいコード進行を記入するべし。
歌詞を覚えているとかいないとかの、次元でないのだ。
体がつまらずに、反射神経で動くかどうか。
それができないうちは、歌詞カードを見る方がよいのだ。
この曲の歌詞なんか、自分で作ったのに歌えない。そんなものなのだ。

で、もう一回、歌詞カードをきっちり作って、挑戦。

少しは、ポーグスのバージョンのノリに、近づいたかな?

2009年03月29日

首相官邸に投書

夕映舎氏から、日韓トンネルを推進する最大手のNPOが、某新興宗教がらみであるとの情報を、受けた。
日本語版Wikipediaで、調べてみる。
確かに、その旨が書かれていた。
真相は、私の知るところではない。
Wikiの情報で、主に九州地方選出の国会議員によって結成された、「日韓海底トンネル推進議員連盟」なる超党派組織が存在していることも、知った。同時に、民主党内にも「日韓議員交流会」(最高顧問、羽田孜)という委員会が2003年に結成されていたことも、知った。

くだんの民主党内委員会に、私が手紙を差し上げた山田正彦衆院議員(長崎三区選出)は、加入していない。
じつは私は、他に前原誠司衆院議員(京都二区選出)にも、メールであるが意見を申し上げた。
最近、長らく放置していたソーシャルネットワークサービスのmixiを再開したところ、どういうわけか「足あと」に前原議員自身が開設したプロフィールの名前が、残っていた。
本人が私のプロフィールを訪れたとはとても思えないが、それでも何か申し上げるのが礼儀であろうと思って、私の持論をメールによって返した。
前原議員も、日韓議員交流会のメンバーではない。
本日現在、彼(というよりも、彼のスタッフだろうが)から返事を、もらっていない。

私は、民主党に全幅の期待を、寄せているわけではない。
私は、あの政党のもう一つの顔が、労働組合政党であることを、知っている。
そして、労働組合なる組織が、およそ外部の意見を真摯に受け止めて大局観を持った将来像を作る能力と意欲に著しく欠けている集団であることも、深く知っている。
だから、縁がないならば、今は遠ざける。
羽田議員にも、鳩山由起夫議員にも、私は手紙を書かない。
彼らには、今の私にとって、人間として共感できるところまで、至っていない。

私は、現在の日本国総理大臣のサイトを、開いた。
だが投書する項目が、見当たらない。
メルマガ購読すれば投書できるのであろうが、私は政治家のメルマガごときを読むほどに、退屈してはいない。
それで、首相官邸のサイトを開いた。
「ご意見募集」の項目が、ある。
しかし-

ご意見・ご要望は、全角2,000文字以内(改行・スペースを含む)でお願いします。

なぜ、制限するのか。
人民からの投書に文字数を制限するなど、北条泰時がやったか。徳川吉宗が、目安箱に文字制限を設けたか。
私は官邸の傲慢に腹を立てて、以下の投書を送った。

(題)あなたたちは、人民の知恵を活用する意欲が、おありなのですか。

文字数が少ないので、挨拶なしで書きます。
2009年3月29日現在で総理大臣である方のHPに投書欄がないので、ここに書きます。
国政への意見について詳しく書きたいが、詳細は私のブログ内の韓国旅行記に、書いております。
2000文字で、何の提案ができますか。
あなたたちは、国民をバカにしている。
ドイツ語で、"Bierbankpolitiker"と言います。
ビール飲んで政治のホラを語る、スカのことです。
あなたたちは、日本人はしょせん"Bierbankpolitiker"だと、思っている。
だから、意見を受け付ける用意を、こんなに怠っているのです。
それで、日本国が、我らの美し(かった)国が、21世紀もまたよい国であると、思っておられるのですか。
あなたがたの今の姿勢を見て、分かりました。
あなたがたは、もう日本の将来を、あきらめておられる。
もう、日本人は衆愚であって、このまま腐れカボチャと果てるべきだと、見切っておられる。
だめです。
改めなさい。
希望を持って、先覚者となりなさい。
明日から。
それを、願うばかりです。

以下のブログの稿が、私の意見です。

http://suzumoto.s217.xrea.com/2009/02/korea20090221_7.html

現在の首相は、福岡県のご出身で、日韓トンネルの構想に一定のご尽力をなされていると、伺っております。
外国人を知らなすぎる日本人にとって、韓国は最良の薬です。
日韓トンネル、そして韓国との統一市場。
その先に見据えることができる、東北アジア経済共同体。
それは必ず日本人を地球人に変えて、この国をより強く、より気高く、より賢く、より豊かにすることができる、秘薬になるに違いありません。
よろしく、ご推進のほどを。
リニアよりも、オリンピックよりも、はるかにはるかに日本の子供たち、学生たち、社会人たち、主婦たち、経営者たち、引退者たち、そして悲しんでいる独りものたちのために、なることでしょう。

2009年03月31日

『ステンカ・ラージン』演奏してみた、、、

歌詞カード作って、コード付けて、『ステンカ・ラージン』に挑戦。

うははは、恥ずかしい。
結局、G調にしてしまった。
F調は、難しくて押さえられない。
E調は、低すぎて声が響かない。私は、テノールなのだ。

下に、歌詞とコードあり。

続きを読む "『ステンカ・ラージン』演奏してみた、、、" »

"The Lincolnshire Poacher"の訳&コード進行

また今日も、ぜんぜん眠れない。
そこで、また一曲訳してみることにした。
イギリス民謡、"The Lincolnshire Poacher"。


When I was bound apprentice in famous Lincolnshire
Full well I served my master for nigh on seven years
Till I took up to poaching as you shall quickly hear
Oh, 'tis my delight on a shiny night in the season of the year.

G         D         G D G
おいら有名どころリンカーンシャーの密猟人
G      D        G  D
丁稚勤め、こきつかわれ、七年間
G      D     G        D
そいで密猟始めたら、有名になっちった
G           D   A D G
ソラ、シーズン中の月夜は楽しいな

As me and my companions was setting out a snare
'Twas then we spied the gamekeeper, for him we didn't care
For we can wrestle and fight, my boys, and jump from anywhere
Oh, 'tis my delight on a shiny night in the season of the year.

おいら、仲間連れて罠かける密猟人
管理人の跡を付けた、それがどうした
ぐるっと囲んで、寄ってかかり、殴り飛ばした
ソラ シーズン中の月夜は楽しいな

As me and my companions was setting four or five
And taking them all up again, we caught a hare alive
We caught a hare alive, my boys, and through the woods did steer
Oh, 'tis my delight on a shiny night in the season of the year.

おいら、仲間連れて罠かける密猟人
四つ五つ罠かけて、もう一回試して
見事に捕まりましたがな、元気なウサギ
ソラ シーズン中の月夜は楽しいな

We threw him over my shoulder, boys, and then we trudged home
We took him to a neighbour's house and sold him for a crown
We sold him for a crown, my boys, but I divven't tell you where
Oh, 'tis my delight on a shiny night in the season of the year.

ウサギ持って、うきうきして、家に帰る
隣近所の家に行きゃ、銀貨に換わる
その家は、どこかって?そんなん言えるか
ソラ シーズン中の月夜は楽しいな

Success to every gentleman that lives in Lincolnshire
(Alt. Bad luck to every magistrate)
Success to every poacher that wants to sell a hare
Bad luck to every gamekeeper that will not sell his deer
Oh, 'tis my delight on a shiny night in the season of the year.

みんなおいでリンカーンシャーの、密猟に
(または「ご馳走さん、リンカーンシャーの、領主どの」でもいいかも?)
ウサギ売って儲けたい奴、しっかりやれよ
子鹿も売れない管理人、災難続きだな
ソラ シーズン中の月夜は楽しいな

いやあ、愉快だねえ。
イギリス民謡は、ふてぶてしい。
日本民謡と、えらい違いだ。民衆は、領主さまなんぞに、素直に従ってなどいない。イギリスの領主さまは巨大な猟場を一人じめして、庶民を立ち入らせない。己はキツネ狩りを悠々と楽しみ、下賎の者には所有権だとか自由主義だとか難解な法学用語を並べ立てて、門前払いする。彼らには警察もあるし、裁判所もある。正攻法でぶち当たれば、庶民の負けは、決まっている。
だから、密猟するのさ。"poacher"とは、密猟者のことだ。

この曲は、かつてキプロスのイギリス空軍基地から流されていた謎の乱数放送の開始に鳴らされるジングルとして、ごく一部の熱狂的乱数放送ファンに愛されていた曲であった。
乱数放送とは、無意味なアルファベットの配列を、放送するもの。聞いても、何がなんだかわからない。
これを解読するキーを持っている受信者だけが、知ることができるのだ。乱数放送は、理論的に最高の機密性を発信者と受信者の間で保持することができる。そのキーを盗まれたり、あるいは同一のキーを繰り返し使ったりしなければ。二回同じキーを使ってしまったら、プロの手にかかれば見破られる。実際、ソ連やキューバの乱数放送は、見破られた。
曲の内容が密猟だから、スパイ活動にふさわしい、というわけなのだろうか。イギリス軍も、なかなかにお茶目である。現在は、この放送は行われていない。乱数放送なんぞよりも、もっと機密性が高くて使いやすいシステムが、導入されたからであろう。

首相官邸からのメール

今朝、官邸からメールが届いた。公開する。

ご意見等を受領し、拝見しました。
  首相官邸ホームページ「ご意見募集」コーナー担当

以上である。
テンプレなのだから、長かろうが短かかろうが、私は一向に気にしない。
官邸が、意見を受け取ってくれれば、それでよい。
そして、できれば結果の見える行動に出てくれれば、こんなありがたいことはない。
私は、民間企業のように、だらだらと長いテンプレのメールを首相官邸が返して来なかったことを、むしろ好意的に思っている。私に対する言葉なんぞ、いらん。不言実行で、動いてほしい。それだけだ。
しかし、このメールがもし彼らが人民ごときに言葉をケチっただけの、傲慢なる返事にすぎなかったとしたならば、日本の国家体制は重症である。

『花』韓国語バージョン

以前に韓国語訳した滝廉太郎の『花』を、ギター伴奏で歌ってみた。

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