雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。
さらに、信使(朝鮮通信使)を大仏(かつて東山方広寺にあった、京都大仏)に立ち寄らせる件ですが、これまで朝鮮へもご通知されたりしておりますが、あれは廃絶するべきです。そのわけの仔細は、享保年間の信使(すなわち、1719年の第九回通信使。正使洪致中、製述官申維翰)の記録に書かれております。明暦年間(すなわち、1655年の第六回通信使)に、日光に参詣させるようにと仰せ出されたことは、御廟の華美なるを使者に拝見させようとする意図であったと、聞きました。そして大仏に立ち寄らせた件についても、一つは日本に珍しい巨大な仏があることを見せるためであって、もう一つは耳塚(東山区)をお見せになって、日本の武威を見せ付けてやろうとする意図であったとか、聞いています。しかし、これはまた何と奇怪なご見識でございましょうか。
廟制は節倹を主といたすところであって、よって柱に丹(に)塗り、垂木(たるき。やねばしら)に彫刻するような事は、『春秋』(儒教の経典。乱世の諸侯の行いを批判した、歴史書)においてては謗(そし)られることです。ゆえに、御廟の華美は、朝鮮人の感心するところでは、ございません。仏の功徳とは、形の大小によるものではありません。ゆえに、有用の材を費やし、無用の大仏を作るような事は、これまた嘲りの一因となるものです。耳塚なんぞは、豊臣家が無名の師(いくさ)を起こし、両国の無数の人民を殺害した記念碑でございますので、その暴悪を重ねて相手に示すことになるのです。これらいずれも、わが国の繁栄のためになりません。かえって、我が国の無学無見識を暴露するだけなのです。正徳年間(すなわち、1711年の第八回通信使)には、大仏に信使が立ち寄った際には、耳塚を囲って隠しました。享保年間にも、その前例に従って、朝鮮人には見えないように配慮しました。これらは、まことに盛徳のご政治であらせられたことです。
日本人がよかれと思って見せたものも、外国人には変なものに見えることがあるのは、しごく当たり前のことだ。上に書かれている韓国人の美意識は、たぶん基本的に今でも変わっていない。彼らのことを、派手を好む中国人の仲間だと思い込むと、たぶん大誤解を招くだろう。彼らから見れば、むしろ日本人のほうが、よっぽどに派手好きなのだ。耳塚は、方広寺の門前にある塚で、文禄慶長の役の際に日本軍人たちが功名のしるしとして死体からそぎとった耳・鼻を集めて、現在ここに供養塔が建っている。幕府は通信使の目から隠したが、いずれこれは日本がきちんと謝罪した後に、韓国人にも見てもらわなくてはならない。アウシュビッツと同じ、戦争の負の遺跡なのだ。
天和の年(すなわち1682年、第七回通信使)、日本の道中の列樹がいずれも古木で枝葉を損傷していない姿を見て、法令が厳粛ゆえにこうであるのかと、三使者がことのほかに感心したとか。日光とか大仏をもって栄華を見せたとこちらが思っていても、彼らはそれらには感心もしませんでした。かえって、日本人の気の付かない列樹のようすに、感心していたのです。ここにも、朝鮮と日本の違いがあることを、知るべきなのです。
華麗な建築よりも、樹木の姿に感銘する。それで、よいではないか。
第九回の通信使で雨森芳洲と道中を共にした申維翰は、近江摺針峠の「望湖亭」という茶屋の光景を、激賞した。
結構は新浄にして、一点の塵もなく、後ろには石泉を引いて方池となし、游魚はキキ(さんずい+癸)として鱗さえも数えられる。徘徊すること久しくして、みずから人生を歎き、「この一畝区を得れば、すなわち、老死するまでそれに安んじ、紅塵を踏まざるべし。莱州以北の好山水、なんぞ我が数間を容れざるか」と。
(『海游録』より)
第九回通信使の製述官、申維翰は、妾腹の庶子であったという。嫡庶の区別を厳しくする儒教国家の李朝においては、庶子の栄達の道は、閉ざされていた。申維翰は、そんな己の境遇を嘆いて、故国から遠く離れた近江の琵琶湖を見下ろす茶屋において、できればこんな絶景の地に一畝の田を得て、生涯を隠れ住んでみたいものだと、詠嘆したのであった。
韓国の河は、日本以上に澄み渡っていて、しかも広い。彼らが日本人以上に水景を愛したとしても、何の不思議があるだろう。幸いに、日本にも美しい水を湛えた風景は、まだ残されている。彼らならば、きっと喜ぶであろう。そして、川と湖と海をこれまで無残に痛め付けて省みなかった、日本人は彼らの美意識に触れて、よくよく反省せよ。もう、瀬戸内海も有明海も、我らは無残な姿に汚してしまった。そんなもの誰が、喜ぶというのであるか?
-知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。(雍也篇)
彼らはもうかつてのように『論語』を読めないであろうが、孔子のこの言葉が今でもきっと心に染み渡っているはずではなかろうか?