交隣提醒(こうりんていせい) アーカイブ

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2009年03月10日

korea!2009/03/10

雨森芳洲の『交隣提醒』を、読んでいる。
これは、全訳して日本人に読ませるべき古典だと、思う。
雨森芳洲(1668 - 1755)は儒者で朝鮮語を会得して、その技能をもって徳川時代の対馬藩に招かれて、真文役として李朝の釜山東莱府と往来し、両国の外交事務に生涯を捧げた。
彼の著作を読むと、昔から半島と関係を持ち、かの国の民には慣れているはずの対馬藩士ですら、隣国の常識に往々にして無知であったことが、見て取れる。何かにつけて日本の常識を持ち出して隣国を嘲る武士たちを諌めて反省を促す厳しくも切々と語る調子が、両国民を知り尽した芳洲の、両国の友好を願う心からの祈りを、鮮やかに描き出している。

古文書なのですらすらと訳すことが、難しい。
興味深いと思った箇所だけ、試しに訳出しよう。


日本では、歴々の車夫が寒天にも尻をまくり、槍持ちとか挟箱(きょうばこ)持ちなどは、顔にヒゲを描いて足拍子なぞ取ります。定めし、朝鮮人の心にも男意気立派だと写るだろうと、思うでしょう。ところが、朝鮮人の心にとっては、尻をまくるなんぞは無礼と見なし、顔にヒゲを描くなんぞは異様に見えるし、足拍子なぞ取るのは単に疲れるだけで無駄なことをしていると、内心で笑っているのです。また、朝鮮人の心には、身内の喪において務めとして哭泣(こっきゅう。霊前で大泣きすること)することは、日本人が見たらきっと感動するに違いないと考えているのですが、実は日本人は嘲笑しているのです。このように、日本と朝鮮とでは食い違いがあることを、お察しなさいますように。

ふんどし一丁でオケツをからげた姿は、日本人にとっては男意気だ(最近はそうでもないが、、、)。また、風呂で裸の付き合いも、結構なことだ。しかし半島の常識では、野蛮な習俗でしかない。一方半島の人は、親類の喪に服したとき、大声を挙げて泣きわめく。これは儒教に定められている葬礼にのっとったもので、大声で泣き悲しめば、周囲の人は遺族がどれだけ故人を大事にしていたかがよく感じ取られて、もらい泣きするのが人情だと、彼らは思っているのである。しかし、金日成の喪に服したピョンヤン市民の身をよじらせて号泣する映像を見て、たぶんほとんどの日本人が不気味に思って嘲笑したように、彼らの喪礼が日本人を感動させることは、たぶんない。

朝鮮人は日本人と言葉の上でも相争ったりしないようにしているのですが、それを彼らの主意だと早合点するがゆえに、彼らは毎度に自国のことを謙遜している一方で、日本人はかえって自国のことを常に自慢ばかりしています。たとえば、酒の一事などにしても、「日本の酒は、三国一ですぞ。だから朝鮮の皆様も、そのように思われるでしょう?」などと誇ります。朝鮮人が、「なるほど、そうですな。」と返答すれば、やっぱりそうであったかと得心します。ところが彼らは内心では、「了見の狭い奴だ!」と嘲って、何の評価もしていないのです。日本の酒が三国一だと朝鮮人が思っているのならば、会合があったりした際に、日本酒が飲みたいと申し出るはずです。ところが、そんなことはありません。それは、日本人の口には日本酒がよいのであって、朝鮮人には朝鮮酒、唐(中国)人には唐酒、紅毛(オランダ)人には阿利吉(アラキ。蒸留酒)がよいのです。これは、自然の道理です。以前、訳官たちの会合で、真意を申していただきたいと彼らに促した際に、我ら朝鮮人にとっては食べ慣れているものがよいのです、と言われました。また、日本酒は確かに結構であるが、胃につかえます。多く飲むには、朝鮮酒がよいです、とも言われました。お国(対馬藩)のうちに酒豪がいたとしても、京酒(つまり、清酒)を好まずかえってお国の薄にごり酒を好む者がいるのと、同様の心持ちなのです。

うまいまずいの思い込みは、主観的なもの。そして、民族の文化に、包まれているものだ。
彼らが清酒(せいしゅ)を好まなくても、それは仕様がない。日本人の私が清酒(チョンジュ)を全く受け付けないのと、同じなのだ。肝要は、互いが違うことを認め合って、嘘をつかないことだ。上の芳洲の観察から300年後の現在、攻守所が変わって韓国人が自国の文化を日本人に誇って、日本人が「なるほど、そうですな。」と心ならずもうなずいているような、気がする。しかし、日本人にとって、それはかえって不誠実ではないだろうか?裏で嘲らず、これはまずい、これは面白くない、と愛をもって言い返す勇気が、日本人に欲しいものだ。そして、私にも。

2009年03月11日

Korea!2009/03/11

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。


さらに、信使(朝鮮通信使)を大仏(かつて東山方広寺にあった、京都大仏)に立ち寄らせる件ですが、これまで朝鮮へもご通知されたりしておりますが、あれは廃絶するべきです。そのわけの仔細は、享保年間の信使(すなわち、1719年の第九回通信使。正使洪致中、製述官申維翰)の記録に書かれております。明暦年間(すなわち、1655年の第六回通信使)に、日光に参詣させるようにと仰せ出されたことは、御廟の華美なるを使者に拝見させようとする意図であったと、聞きました。そして大仏に立ち寄らせた件についても、一つは日本に珍しい巨大な仏があることを見せるためであって、もう一つは耳塚(東山区)をお見せになって、日本の武威を見せ付けてやろうとする意図であったとか、聞いています。しかし、これはまた何と奇怪なご見識でございましょうか。
廟制は節倹を主といたすところであって、よって柱に丹(に)塗り、垂木(たるき。やねばしら)に彫刻するような事は、『春秋』(儒教の経典。乱世の諸侯の行いを批判した、歴史書)においてては謗(そし)られることです。ゆえに、御廟の華美は、朝鮮人の感心するところでは、ございません。仏の功徳とは、形の大小によるものではありません。ゆえに、有用の材を費やし、無用の大仏を作るような事は、これまた嘲りの一因となるものです。耳塚なんぞは、豊臣家が無名の師(いくさ)を起こし、両国の無数の人民を殺害した記念碑でございますので、その暴悪を重ねて相手に示すことになるのです。これらいずれも、わが国の繁栄のためになりません。かえって、我が国の無学無見識を暴露するだけなのです。正徳年間(すなわち、1711年の第八回通信使)には、大仏に信使が立ち寄った際には、耳塚を囲って隠しました。享保年間にも、その前例に従って、朝鮮人には見えないように配慮しました。これらは、まことに盛徳のご政治であらせられたことです。

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日本人がよかれと思って見せたものも、外国人には変なものに見えることがあるのは、しごく当たり前のことだ。上に書かれている韓国人の美意識は、たぶん基本的に今でも変わっていない。彼らのことを、派手を好む中国人の仲間だと思い込むと、たぶん大誤解を招くだろう。彼らから見れば、むしろ日本人のほうが、よっぽどに派手好きなのだ。耳塚は、方広寺の門前にある塚で、文禄慶長の役の際に日本軍人たちが功名のしるしとして死体からそぎとった耳・鼻を集めて、現在ここに供養塔が建っている。幕府は通信使の目から隠したが、いずれこれは日本がきちんと謝罪した後に、韓国人にも見てもらわなくてはならない。アウシュビッツと同じ、戦争の負の遺跡なのだ。


天和の年(すなわち1682年、第七回通信使)、日本の道中の列樹がいずれも古木で枝葉を損傷していない姿を見て、法令が厳粛ゆえにこうであるのかと、三使者がことのほかに感心したとか。日光とか大仏をもって栄華を見せたとこちらが思っていても、彼らはそれらには感心もしませんでした。かえって、日本人の気の付かない列樹のようすに、感心していたのです。ここにも、朝鮮と日本の違いがあることを、知るべきなのです。

華麗な建築よりも、樹木の姿に感銘する。それで、よいではないか。
第九回の通信使で雨森芳洲と道中を共にした申維翰は、近江摺針峠の「望湖亭」という茶屋の光景を、激賞した。

結構は新浄にして、一点の塵もなく、後ろには石泉を引いて方池となし、游魚はキキ(さんずい+癸)として鱗さえも数えられる。徘徊すること久しくして、みずから人生を歎き、「この一畝区を得れば、すなわち、老死するまでそれに安んじ、紅塵を踏まざるべし。莱州以北の好山水、なんぞ我が数間を容れざるか」と。
(『海游録』より)

第九回通信使の製述官、申維翰は、妾腹の庶子であったという。嫡庶の区別を厳しくする儒教国家の李朝においては、庶子の栄達の道は、閉ざされていた。申維翰は、そんな己の境遇を嘆いて、故国から遠く離れた近江の琵琶湖を見下ろす茶屋において、できればこんな絶景の地に一畝の田を得て、生涯を隠れ住んでみたいものだと、詠嘆したのであった。
韓国の河は、日本以上に澄み渡っていて、しかも広い。彼らが日本人以上に水景を愛したとしても、何の不思議があるだろう。幸いに、日本にも美しい水を湛えた風景は、まだ残されている。彼らならば、きっと喜ぶであろう。そして、川と湖と海をこれまで無残に痛め付けて省みなかった、日本人は彼らの美意識に触れて、よくよく反省せよ。もう、瀬戸内海も有明海も、我らは無残な姿に汚してしまった。そんなもの誰が、喜ぶというのであるか?

-知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。(雍也篇)

彼らはもうかつてのように『論語』を読めないであろうが、孔子のこの言葉が今でもきっと心に染み渡っているはずではなかろうか?

2009年03月13日

Korea!2009/03/13

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。


古館(訳者注:1678年まで使われた、豆毛浦倭館)の時分までは、朝鮮の乱後の余威がありましたので、朝鮮人に無理をもって押し付ける式で、訳官たちは己の身の難儀の余り、中間(ちゅうげん。下僕)に都の首尾をよろしく取り繕って、成り難いことも成るように運ぶことも、できました。これゆえ、「強根ヲ以ッテ勝ヲ取ル」道を、朝鮮を制御する良策であると、人々は心得たものでした。
新館(訳者注:1678年に開かれた、草梁倭館)ができて以降は、余威もだんだん薄くなって、無体に勝を取ることが難しい勢いになったのですが、余威が薄くなったのだという点を(日本側は)理解することができず、こっち側のやり方がまずかったから(交渉がうまくいかないのだ)とばかり、思い込みました。
竹嶋一件(すなわち、1693年に始まる、鬱陵島紛争のこと)までは、威力恐喝をもって勝を取るべしとの趣きでございましたが、七年を経ても目的を達することができず、かえってご外聞に傷が付くように、相成りました。それゆえ、ここ三十年来は、上のような風をやめて、その結果以降は平穏無事となっているのでございます。しかし、朝鮮人の才知たるもの、日本人の及ぶところではありませんので、今後ご対策が不十分でございますと、「世話になった誰それの木刀」(訳者注:木刀を振り回しても実戦には役に立たない、という意味であろうか?)という次第で、あちらこちらでやり込められる恐れがございますので、この点をよくよく心を用いるべきでございます。
四、五十年前には、日本人が刀を抜けば、朝鮮人は恐懼逃奔いたしました。ところがここ十四、五年には、(倭館から)こちら側が炭薪を取りに参っただけの者どもを、朝鮮の軍官の一人が刀を抜いて追い散らしたこともあったほどでした。「霜ヲ履(ふ)ンデ氷ノ堅キニ至ル」と申すように、今や有智の人は渡海を考え直すべきという風にまで、なっております。

訳中にある「竹嶋一件」でいう「竹嶋」とは、当時の地名においては現在のリアンクール・ロックス(日本名竹島、韓国名独島)ではない。これは、鬱陵島(ウルルンド)のことだ。李朝の漁民安龍福(アン・ヨンブッ、生没年不詳)の活躍(?)の結果として、日本は李朝との紛争の結果、鬱陵島への日本漁民の渡海を禁止した。以降、鬱陵島は李朝領として確定している。だがこのとき、リアンクール・ロックス(当時日本はこの島を「松嶋」と呼んでいた)の李朝領有まで幕府が認めていたのかどうかは、極めて微妙な問題である。
現在に至るまでの紛争の種をまいた張本人、安龍福は一介の漁民であった。農本主義の李朝においては、漁民は賤民(チョンミン)である。彼はどうやら日本語が理解できたようであるが、日本語も朝鮮語も、書くことができなかったという。もっとも、この場合彼が書けなかったのは漢字(ハンジャ)であるはずで、民衆のための文字である諺文すなわちハングルが書けなかったかどうかは、よくわからない。
ともかく、目に一丁字もない男でありながら、彼は大した冒険者であった。二度目の日本渡海においては、漢字を書ける僧侶を道中で冒険に誘い、李朝の官のふりをして日本国に乗り込んだ。一度目の渡海で、密航者であるにも関わらず酒などふるまわれてずいぶんと丁重な取り扱いを日本側から受けて、味をしめたとも考えられるが、、、
彼の目的は、どうやら鬱陵島及び「于山島」の領有を、日本に認めさせるものであったようだ。だが、この二度目の渡海の時点ですでに幕府は鬱陵島への漁民の渡航を禁じていた。彼はそれを知らぬ立場にあったのであるが、このとき所在不明の「于山島」まで李朝領であると彼が日本側に主張したことが、現在の領土問題をややこしいことにしている。韓国側は、「于山島」とはリアンクール・ロックスであると、主張している。日本側は、安龍福の勘違いあるいは虚言であると、主張している。
現代の問題は、さておいて。
日本は、安龍福という一漁民によって、手玉に取られたようなものだ。彼は日本当局の前に出ては、虚言を弄して言い繕うことを常としたようであるが、外国にまで出向いて単身渡り合う度胸だけは一流のものであった。安龍福は結局日本から李朝に送還されて、その後の消息は分からないが、彼のおかげで日本は鬱陵島を失い、その上リアンクール・ロックスの領有権すら、脅かされる結果となっている。
芳洲も上に言っているように、半島の民の才知は、日本人の及ぶところではなかった。昔ならば刀で脅せば相手も怖がり、それが日本側に有利な交渉条件を作らせていたものだが、今やすっかり友好ムードが高まって日本側も軟弱になった結果、かえって半島人の才覚と度胸に、日本側がたじたじとなる始末。芳洲は、日本側に彼らと渡り合う準備が足りないことを、憂慮しているのである。

古来より、朝鮮の書物に「敵国」という言葉がございますが、ここでいう「敵国」とは、対礼の国(訳者注:対等の礼儀で交際するべき国)と申す字義なのであることを、(わが国は)ご存知ありません。これほどまでに誠信をもって友好関係を結んでいるのに、朝鮮においてはかつての旧怨をいまだ忘れず、日本を「かたき国」と書いているのだと、合点しています。
また、お国(対馬藩)が朝鮮のために日本の海賊を掃討している件を文書に書き記す際には、(朝鮮側が)「対馬は朝鮮の藩屏である」と記載しているところに、「藩屏と申す言葉は、家来が主人に対して言上するときの言葉である!」とよく考えもせずに添え書きする者が、ございます。こういった件は、我らのような粗学の者どもには、いまだもって免れ難い弊害であります。
文字を読んでも文意を読解できない者は、了見もそれ相応の程度しか持てないものでございまして、とにかくお国の義はかの国とははなはだ違うのでありますので、学問才力の優れた人物をお抱えになられないと、どんなに心を尽したところで、隣国友好の筋は立ちがたいであろうと、存じます。学力のある人物をお取立てになられることは、切要のことでございます。

雨森芳洲は、当時の東北アジアの外交用語が、儒教思想に基づいた漢文用語であることを、知っていた。それを知らない日本が、文字面だけをとらまえて怒って反論するのは、日本の無学無見識である。日本人は、漢字が読めるくせに、漢字で表された文明の常識を、知らなかったのだ。
一八六九年、日本の明治政府は、二百五十年の慣習を転覆させて、李朝に「皇」「勅」「大日本」の語を用いた書契を送付した。世に言う、書契問題である。李朝がその書契の文字に困惑して、受け取りを拒否したことは、単に旧弊に固執した李朝政府の頑迷固陋だけが、問題なのではない。
李朝の外交政策は、華夷秩序の国際法に準拠していた。
すなわち中華帝国を兄として事(つか)え、その他の夷国に対しては対等の礼をもって交隣する。それは西洋の国際法とは異質であったが、首尾一貫した体系であった。
もし日本一国に対してこれを破れば、李朝の外交政策は全て一変させなければならなかった。外交政策を一変させることは、さらに儒教に基づいた法が支配する国内秩序もまた、変化を余儀なくされる。それほどに重大な問題であることを、この時の明治政府が理解していた様子は、見られない。日本では単なる文字の形式に固執した当時の李朝政府の魯鈍さを嘲笑する評価が、出版された著作においてすらしばしば見られる。だが、その評価は誤りである。

対馬藩は、かつて李朝から米を支給されていた。対馬は住民を食わせるだけの米が取れないので、李朝に乞うて毎年米の給付を受けていたのだ。これが、李朝から見れば、藩屏として解釈された。事実関係として、対馬藩はずっと幕府と李朝の両方に、仕えていたと見なしてもよい。
その事実を理解せずに、藩屏とは何ごとだと怒るのは、現実をよく見ない主張である。李朝は、対馬藩に対して何の隷属関係も要求していないし、藩の重荷となるような課役も義務付けていない。それどころか、李朝は対馬藩に釜山の倭館にて貿易を認めさせて、対馬藩はその上がりでずいぶん儲けてさえいたのであった。
芳洲は、隣国と誤解なき友好関係を打ち立てるために、仕える対馬藩に対して、漢学をよく学んだ才人をもっと採用するように、提言した。相手の立場を知らず、外交の常識を知らない無学者は、外交を行なう資格はない。日本流のツーカーな空気で分かり合える相手は、日本列島を一歩踏み出したら、いないと心得なければならない。
もちろん、二十一世紀の現在、東北アジアの外交用語は、すでに漢文でも儒教思想でもない。
しかし、隣国と友好関係を打ち立てるためには、政府と外交官は無学無見識であってはならないことは、今でも全く通じる義ではないか。
ありていに言えば、現在の日本外交は、隣国から見透かされている。現在の日本にとって一番大事で、唯一大事なのは、アメリカとの関係だけだ。日本は、隣国の経済を必要としている限りで、ちょっとだけ謝ったり友好のそぶりを見せたりする。しかし、少しも本気でないことを、彼らは見透かしている。だから信用できず、ゆえに相手はいくらでも批判するし、難題をふっかけるのだ。それを恩知らずとか無礼だとか怒るのは、自分たちの隣国に対する礼儀が慇懃無礼そのものであることに、思いを馳せるとよい。

2009年03月14日

Korea!2009/03/14

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。非常に興味深いと思われる外交事件を彼はいろいろと書き記しているのだが、当時の外交事務の詳細を私はまだよく知らないので、十分に訳出することができない。よって、あらまし大意を読み取ることができた箇所だけ、試しに訳してみる。


送使(訳者注:対馬藩から倭館に毎年八回派遣される、八送使のこと)・僉官(訳者注:東莱府使の配下である、釜山僉使のことであろう)が五日次(オイリ。よくわからないが、文意からおそらく送使が運んで来た物品で開かれる、貿易市のことであろう)を受け取った際、鱈・青魚が一枚不足しているとか言って、役人どもが礼房・戸房(訳者注:李朝の外務省兼文部省に当たる礼曹および財務省に当たる戸曹の、出先機関)と相争うような見苦しい事も、ございます。
だいたいにして、他国へ使者がまかり越す際に、先方の応対がよろしいときには丁寧だと考え、先方の応対がよろしくないときには粗末だと考えて、それだけで判断を下してこちら側がとやかく文句を言うなどは、もちろん道理のないことです。朝鮮の場合にも上のような事例が確かにあるのですが、朝鮮の風儀と申すものは、下々の者どもにおいてはとくに廉恥の心が薄く、利を貪るので、接待の馳走の一事においても、李朝朝廷や東莱府の本意では全くないのです。下っ端どもが数を減らしたり、物品を粗末なものにすり替えたりしているのが実情でありまして、もしこちら側が何も申し立てないでいると、ゆくゆくは散々な結果が待っているべき恐れが、ございます。そのような時期に至ればどれだけの行き違いが生じるか想像もつきかねますので、日本の役人どもが上のように古式を踏まえて相争うのも、不恰好ではあるがやむをえない点も、あるのです。それゆえ、甚だしい争いについてはこれを禁じ、その他についてはこれまで通りのやり方で対処させてもよろしいかと、存じます。
日本人の覚え違いのために、「昔はこんな風ではなかったのに、段々と馳走の品が悪くなっている」と、口々に申したとしても、本当にそうであったか否かの義を何をもって判断すればよいのか、手掛かりがありません。不確かなので、先方に伝えることもできず、以前の礼儀の実情の証拠も、ありません。今後は、先方の馳走の丁寧・不丁寧をもって隣交の誠信・不誠信をもって知り、異邦の事情を察する一助となりますので、送使・僉官の記録にお膳の次第を仔細に書き付けるようにとの沙汰あり、宝永二年(1705)以降朝鮮に渡海する人はめいめいが記録を残して提出するようにとの、仰せ付けがございました。

長年実務に携わった芳洲は、日本側から見て朝鮮の対応が不審に思われる点があることを、知っていた。そして、その不審の原因が、李朝政府の不誠実にあるのではなく、政府が用いている下吏や町人どもの腐った性根にあることまで、見抜いていた。いったいにして李朝の高官は無学な自国の民衆を侮り、商売や利得の計算などを卑しい道として毛嫌いする、君子の倫理観を持っていた。それで、おそらく下吏や商人の狡猾なごまかしに、十分気付かなかったのであろう。小役人や商人こそが最も誠実であるという日本人の常識と、李朝の常識は、まるで違っていたのである。芳洲の指摘する朝鮮の商売は、どうやら中国式であった。
はなはだしい争いは、よくない。しかし、言うべきことは、言わなければならない。細かいことであるが、接待の馳走について細かく記録を残すべきという沙汰を、日本側は出した。誠実・不誠実の証拠を残して、先方の真意を問うためである。もちろん、相手が善意であるはずだとまずは前提に置いて、その上でどうしてこんな粗相があるのかを、交渉しなければならない。外交は、口論でもいけないし、逆になあなあでもいけないのである。

朝鮮を「礼儀の邦(くに)」と唐(中国)が申すわけは、他の夷狄(いてき。蛮族)どもはややもすれば唐に背くにも関わらず、朝鮮は代々藩王の格を失わず、事大(じだい。中国に仕えること)の礼儀にかなう国であると、こういう意味に他なりません。しかるに朝鮮人が壁に唾を吐き、人前で便器を用いるようなたぐいのことを見て、「礼儀の邦」には似合わない振る舞いだと申すのは、「礼儀の邦」という言葉の意味を分かっていないからなのです。もちろん朝鮮は古式を考え中華の礼法を採用している点においては、他の夷狄に優っていますので、これまでは日本人の方が思慮足らずであった事が多くございました。しかし、文盲の者どもは、かえって変なことをやらかすようでして、まことに恥ずかしいことでございます。このこと、心に留め置かれてくださいませ。

なぜ李朝が「東方礼儀の邦」と中国に呼ばれているのかを、芳洲は説明する。それは、日本人が「礼儀」という言葉からイメージする、「お行儀の良さ」という意味では、決してない。むしろ中華の礼儀を採用し、蛮族でありながら中国を兄として仕えて、決して背かない。それが、中国から見れば「中華に帰順したおとなしい蛮族」という意味で、「礼儀の邦」なのだ。いっぽう、日本は中国にとって「化外(けがい)」である。「化外」とは、中華に帰順しない蛮族のことであって、中華帝国から見ればケダモノと見なされなければならない。「化外」の日本は、とうぜん「礼儀の国」という称号を与えられない。どんなに民のお行儀がよくても、中国の文明を全面的に採用せず、その上中国を悪し様に言う国は、彼らにとって「礼儀」知らずなのだ。
儒教の文明は、高潔なエリートを作ることに役立ったが、残念ながら民衆の民度を高めるシステムではなかった。福澤諭吉が君子のいる国と君子の国とを区別せよ、君子の国とは中国ではなく、西洋諸国であると『文明論之概略』で喝破したのは、このことなのだ。
もとより、現在の韓国人は、君子の国である。これは、私が旅行したから、知っている。彼らは、昔の朝鮮人のように、むやみに道に唾を吐きかけたりしない。

2009年03月15日

korea!2009/03/15

雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。


「東莱入」(日本側が、東莱府に行って交渉すること)と申すことを、まるで東莱府と果し合いをしに参るがごとく考えたり、または生きて帰らぬことのように考えて東莱府と合い構える風潮は、ぜったいに懸案に埒を開けなければならないかのように思い込んでいるからです。だがこれは、了見違いです。
たとえば、宴会の席で酒のついでに相手方に申したりして委細を語ることができなかったので、その後に訳官を通じて伝えたところ、相手が意味を受け取り難かった。そんな場合、とにかくも東莱府に参上して直談判で細かく相手側に申し伝えなければならないごときご用件は、必ずありうるものでございます。そんな場合が起ったならば、事前に約束を取っておいてから東莱府に参上することは、日本向きにたとえて申せば、田代(訳者注:肥前国にあった対馬藩領)の役人が、柳川藩(立花氏)あるいは久留米藩(有馬氏)に参上して、その地の役人と対談することと、同然のことでございます。
上のような場合、面談して埒が開くことも、ございます。また、埒が開かないことも、これまたあってしかるべきでございます。ゆえに、東莱にさえ参上すれば、何事にても相済むはずだと心得る理由など、ないのです。みだりに果たし合うべきことも、ございません。
(日本側は、原則として倭館から出てはならないと定められているので、)その境界を犯してかの方へ参上する場合、元来が容易に事が運ぶものではございません。ゆえに、東莱府に面談に及ぶほどのことでもないのに、東莱府に参上すれば訳官どもが難儀するだろうと考えて、訳官に苦労させて埒を開けさせるべしと計算して東莱府に送り付けようなどとすることは、思慮の浅いことでございます。

両国の板ばさみとなる日本の訳官たちは、辛い。上のような国家間の思い違いは、現代でも毎日のように起っていることであろう。事情をよく考えもせずして、訳官に相手国に行かせて、お前ら談判してこいと、上の連中がふんぞり返って命ずる。実は、外国との交渉とは、国内の組織どうしの交渉と、どれだけ違うというのか。芳洲の時代だから藩を引き合いに出しているが、現代ならば企業や役所を考えればよい。談判して、通ることもあれば通らないこともあるのは、国内でも同じなのだ。いやむしろ、外国だからこそ、通らないことの方が多い。もし通るとすれば、それはきっと自国の勢威を相手が恐れているためだ。だから、アメリカの要求は日本ですぽんすぽんと通る。日本の要求は、外国に通らない。
現場を知っている芳洲だからこその、後世への教訓である。

この東五郎(芳洲の通名)は二十二歳のときに、ご奉公に召し出されて、江戸に参りました。(対馬藩の)在勤の面々が語る話が言うには、「朝鮮人ほど、鈍なる者はこれなし!」というものでございました。「炭唐人」という名前の炭を運び込む者がいたのですが、もしも炭を持って来なかった場合、手に印判を押して「明日持ってこい」と言い付ける。そうすれば、翌日には必ず炭を持って来て、「この印判を消してください!」と申すというのです。(出入りの者は)大勢いるのだから、かの者を我らがいちいち覚えているわけもなし、それどころか印判などは洗って落としてしまえばそれでおしまいなのに、必ず戻ってくる。面白いものだ、との話でございました。
しかしこの東五郎が思いますに、鈍だったからでは、ありえません。きっと、当時は(文禄慶長の)乱の後の余威が強かったために、上のようなことが起ったのだと、私は思いました。
その後、三十六歳の時、朝鮮語の稽古のために、かの地へ渡海いたしました。ある日、町代官の一人で、以前の流儀を覚えていた者がいて、「炭唐人」を持って来なかった者を叱り、上着の袖を縄でくくり上げるべしと申し渡したところ、この朝鮮人はことのほか立腹して、その横に全(チョン)別将と申す訓導(フンド。訳者注:地方の教育を担当する、地方官)の書手がいたのですが、この者がまた目を怒らせて、「我が国の人を辱めるとは、どういうことだ!」と散々に申したので、上の代官は恐縮してしまい、命を実行しませんでした。
この例を挙げて見ましても、わずか十四ないし五年の間に、風向きが変わってしまったのです。だいたい壬辰の乱(すなわち、文禄の役)以降、万勝院さま(第十九代藩主、宗義智)ご一代より、光雲院さま(第二十代藩主、宗義成)のご初年までは、恐れられていました。光雲院さまの中ごろから、天龍院さま(第二十一代、宗義真)のご初年までは、避けられていました。天龍院さまの中ごろから以降は、慣れられています。恐れられ、避けられていた時分は、かの方は下手に出ていました。慣れられている時分には、強い方が上手に立ち、弱い方が下手に立つはずでございます。天龍院さまのご時代の中ほどまでは、まだ慣れることも浅うございました。しかし今日に至るや、慣れること深くなっております。ゆえに今後は、「これに乗じて、これを陵(しの)ぐ」との言葉どおり、威力権柄は向こう側に移り、こちら側はかえって卑屈になるであろうことは、時勢の勢いでございます。ゆえに、「正大をもって心を為し、理義をもって務めと為し」、前後を図り処置すべきかと、存じます。「強禦(きょうぎょ)を畏れず、鰥寡(かんか)を侮らず、剛(こわ)きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くらわ)ず」と申す言葉は、世に処する道を申す言葉でございますが、朝鮮とご隣交する際にもまた、この言葉をお心得になること、切要でございます。

芳洲は、鋭い観察者である。そして、凛とした儒者である。このくだりは、彼の資質が見事に現れている。
昔は侵略の記憶が生々しかったので、朝鮮人は日本人を恐れ避けていた。しかし、芳洲が二十二歳のときに江戸で対馬藩士から聞いた話と、三十六歳になって自ら朝鮮に渡海して見た実情は、まるで違っていた。芳洲はまず木下順庵の門を叩いて儒学を修め、師の推薦により二十二歳で対馬藩に真文役として、召抱えられた。彼はそれからずっと朝鮮との関わりの中で仕事を続けたのであるが、彼が勤務した年月のうちに、かの国の日本に対する印象は、変わってしまった。芳洲は、今や朝鮮人は日本に慣れてしまっていて、今後この勢いはますます高まるだろう、と懸念しているのである。
そこで、芳洲は今の藩主に向けて、教訓を述べる。
-正大をもって心を為し、理義をもって務めと為せ。
正しい心を、持ちたまえ。そして、道理をわきまえることに、務めたまえ。芳洲の言っていることは、仁義の道を進みたまえ、ということである。朝鮮もまた、儒教国である。仁義の道を進めば、相手は分かるはずだ。もし分からなければ、それは相手の落ち度である。卑屈にならず、正義正道を述べよ。芳洲は、日本固有の考えに留まらず、世界思想である儒学を学んでいた。だから、彼は国家間にでも通じる普遍的な道があることを、知っていた。現代でも、そうである。儒教のシステムは地球レベルで全面的に通じるわけではないが、正義の道だけは、万国不変のはずだ。それが通らないならば、何かがおかしい。我が方が悪いのではないと確信を持ちたければ、普遍的な正義を求めて、それに依拠したまえ。
-強禦を畏れず、鰥寡を侮らず、剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄うなかれ。
力強いだけの者を、恐れてはならない。不義の強者は、人間の敵である。
鰥寡(やもめ)を、侮ってはならない。「鰥寡孤独」という言葉がある。男女のやもめと、身寄りのない老人と、孤児のことを指して言う。儒教では、こういった社会の弱者たちを真っ先に救うのが、仁政であると教えている。それは、人間に対する、温かい思いやりである。人間を愛する者は、人間の味方である。
剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くら)わず。難しいことでも、正道を通りたいならば、避けてはならない。安易なことでも、邪道であるならば、取ってはならない。
人の品格も、国家の品格も、畢竟は一緒である。暴圧を退け、卑屈を取り除く。そのためには、普遍の道を、通るにしくはなし。芳洲の、現代人に向けた遺言とも、取ってよい。

2009年03月22日

Korea!2009/03/22

雨森芳洲『交隣提醒』試訳、今回でいちおう終結。
末尾の段を、訳す。

「誠信の交」と申す言葉を、人々は口に出しますが、たいていはその字義を明らかにしておりません。
誠信と申すのは、「実意」と申すことでございまして、「互イニ欺カズ争ワズ」、真実をもって交わることを、誠信と申すのです。
朝鮮とまことの誠信の交わりを取り行うべきであるとお思いになられるならば、こちらからの送使もまたご辞退なされて、すこしもかの国の接待ご馳走を受けないようになさる時がなくては、まことの誠信とは申しがたいです。その理由は、かの国の書籍を拝見すれば、かれらの底意がどこにあるかが知れるからです。しかしこういう段階に持っていくことは、容易にかなうことではございませんゆえ、現今まで続けて参ったのでございまして、だからかの国でもまた、容易に改めることができそうにありません。そういうわけなので、何とぞ今後は現状に留め置かれながらも、加えて「実意」を見失わないようにお心がけになられるべきで、ございます。
「日本人ハ其ノ性獷悍(こうかん。無礼にて凶暴)ニテ、義ヲ以ッテ屈シ難シ」と申叔舟の文にも、見えます。かの国の幣竇(へいとう。貨幣と通しひも。つまり、費用)は、相当の負担でございますが、送使接待を初め、今まで別状もなく連続しているのは、獷悍の性を恐れられていることから起こることなので、ございます。以降、余威は今やはなはだ薄くなっております。ゆえに、今後の対馬人が、「従前ノ武義」を失い、惰慢の心を持つようになれば、必ずや最前申し上げた「なんとかの木刀」のごとくになりますので、朝鮮関係の幹事の者どもは、そのことよく心得るのが肝要にございます。とにかく、朝鮮の事情をくわしく知らずにいるならば、事に臨んで何の了見も持つことができなくなります。浮説新語がどれぐらい出て来たところで、何の益にもなりません。」それゆえ、『経国大典』『考事撮要』などの書や、阿比留惣兵衛が編じ申し上げた『善隣通交』、松浦儀右衛門が編じ申し上げた『通交大紀』、および分類記事・紀事・大綱を常に熟覧いたして、前後を考え処置いたすべきかと、存じます。

享保十三戊申年十二月二十日
雨森東五郎

この末尾の文は、慎重に読むべきであると、考える。
芳洲は、あくまでも対馬藩主に対して、言上しているのである。
対馬藩は、釜山草梁倭館を一手に運営し、毎年の八送使による貿易により利益を収め、その上藩の使者の接待馳走など、李朝の持ち出しは大きかった。これを李朝と対馬藩の関係から見れば、一方的に恩恵を受けているとみなされる。だから、対馬藩に仕えていた芳洲は、対馬藩主に対して、この不均衡な相互関係の背景について説明し、こちらが「獷悍」ゆえに相手は今まで費用を持ち出しているが、今後藩士たちの性が惰慢に流れ、相手が慣れる風潮がますます昂じてくると、いつなんどきトラブルがあったときに相手のペースに乗せられかねないか分からない、と警告したのである。現状はしかし容易に変えられないのだから、藩主と藩士たちはよく相手国の事情を学んで精通しておき、事あれば理義をもって毅然と応対しなければならないことを、芳洲は最後に説いたのであった。

徳川時代の藩は、あくまでも独立経営体である。
幕府は、諸侯の盟主として、指揮権を行使しているだけであった。
だからこの末尾における藩主への忠告のような文が、書かれたのである。
しかし、日本国全体から見れば、幕府は朝鮮通信使の形で、不定期とはいうものの、大変な費用をはたいて、李朝の使者を接待しているのである。いっぽう、李朝は日本の使者を、釜山の外から一歩も外へ出させようとしない。日本国全体と李朝との外交関係から見れば、通信使への接待と対馬藩への接待で、帳消しであると言うべきだ。何の、不均衡もない。むしろ、日本国の対馬藩に対して李朝が便宜をはかるのは、当然の義務である。もし李朝の側が対馬藩側に何か無理難題を言ってきたのならば、日本国全体の見地から見れば、それは不当な言いがかりである。対馬藩は、言い返してもよいのである。しかし、対馬藩は李朝外交を幕府から請け負う独立経営体として、李朝の恩恵に言い返すことが、なかなか難しい。この辺りが、幕藩体制の複雑怪奇な側面であった。

そこを頭に入れて読むと、どうして李朝がこの泰平の世においても、幕府の使者を漢陽(ソウル)に迎え入れてくれないのかの真意を、読み取ることができる。

-日本人ハ其ノ性獷悍ニテ、義ヲ以ッテ屈シ難シ。

申叔舟の文の引用であるということであるが、これが彼個人の意見であるということは、できない。この書は、芳洲も読むことができた、公式文書である。つまり、李朝の朝廷では、日本人のことをこのように考えていた、というわけなのだ。
儒教の国際秩序において、「交隣」とは、このようなものであった。日本は、儒教秩序から見れば、「化外」の蛮族である。蛮族とは、儒教を採用した「東方礼儀の邦(くに)」の李朝としては、親しく付き合うことなど、できない。わずかに釜山の港で貿易を許してやるから、せいぜいおとなしくしてくれよ、というのが、李朝朝廷の日本政府に対する、真意なのであった。
まことに、残念なことであった。李朝の政界は、この頃完全にイデオロギーでがんじがらめに、自分を縛り付けていたのだ。雨森芳洲と申維翰とは個人的にもずいぶん親しく付き合い、総じて通信使の面々は日本に対して好意的な印象を持っていたにも関わらず、李朝の公式見解は、日本について「義ヲ以ッテ屈シ難シ」であった。

そんな不幸な大状況の外交関係であったが、末尾の芳洲の言葉は、現代にも訴えかける、外交の要点である。

互イニ欺カズ、争ワズ。
真実をもって交わることを、誠信と申す。

対等の、外交である。
対等の人間同士の交わりと同じく、国と国との交わりは、本当はこうでなければならない。
「誠信」とは、儒教の徳目の一、「信」である。
朋友、信アリ。
「信」とは、親子でも夫婦でも兄弟でもない、他人同士が社会の中で交わるときに発動するべき、徳目である。親子や兄弟の関係のように切っても切れないつながりではなく、したがってこちら側が一方的に屈従したり、あるいは相手側から屈従されることを期待することは、できない。あくまでも、ギブ&テイクの関係である。それが、「信」を作り出す。ゆえに、互いに相手のことを尊重し、相手の過ちに対しては黙っておらずにきちんと反論しなければならない。つまり、よき対等の関係である。芳洲は対馬藩との関係の中で語っているゆえに、国家全体の外交関係とは齟齬がある。しかし、外交の原理については、彼ほど的確に言い表すことができた日本人は、今に至るまでも稀ではなかろうか。