雨森芳洲『交隣提醒』、試訳のつづき。
「東莱入」(日本側が、東莱府に行って交渉すること)と申すことを、まるで東莱府と果し合いをしに参るがごとく考えたり、または生きて帰らぬことのように考えて東莱府と合い構える風潮は、ぜったいに懸案に埒を開けなければならないかのように思い込んでいるからです。だがこれは、了見違いです。
たとえば、宴会の席で酒のついでに相手方に申したりして委細を語ることができなかったので、その後に訳官を通じて伝えたところ、相手が意味を受け取り難かった。そんな場合、とにかくも東莱府に参上して直談判で細かく相手側に申し伝えなければならないごときご用件は、必ずありうるものでございます。そんな場合が起ったならば、事前に約束を取っておいてから東莱府に参上することは、日本向きにたとえて申せば、田代(訳者注:肥前国にあった対馬藩領)の役人が、柳川藩(立花氏)あるいは久留米藩(有馬氏)に参上して、その地の役人と対談することと、同然のことでございます。
上のような場合、面談して埒が開くことも、ございます。また、埒が開かないことも、これまたあってしかるべきでございます。ゆえに、東莱にさえ参上すれば、何事にても相済むはずだと心得る理由など、ないのです。みだりに果たし合うべきことも、ございません。
(日本側は、原則として倭館から出てはならないと定められているので、)その境界を犯してかの方へ参上する場合、元来が容易に事が運ぶものではございません。ゆえに、東莱府に面談に及ぶほどのことでもないのに、東莱府に参上すれば訳官どもが難儀するだろうと考えて、訳官に苦労させて埒を開けさせるべしと計算して東莱府に送り付けようなどとすることは、思慮の浅いことでございます。
両国の板ばさみとなる日本の訳官たちは、辛い。上のような国家間の思い違いは、現代でも毎日のように起っていることであろう。事情をよく考えもせずして、訳官に相手国に行かせて、お前ら談判してこいと、上の連中がふんぞり返って命ずる。実は、外国との交渉とは、国内の組織どうしの交渉と、どれだけ違うというのか。芳洲の時代だから藩を引き合いに出しているが、現代ならば企業や役所を考えればよい。談判して、通ることもあれば通らないこともあるのは、国内でも同じなのだ。いやむしろ、外国だからこそ、通らないことの方が多い。もし通るとすれば、それはきっと自国の勢威を相手が恐れているためだ。だから、アメリカの要求は日本ですぽんすぽんと通る。日本の要求は、外国に通らない。
現場を知っている芳洲だからこその、後世への教訓である。
この東五郎(芳洲の通名)は二十二歳のときに、ご奉公に召し出されて、江戸に参りました。(対馬藩の)在勤の面々が語る話が言うには、「朝鮮人ほど、鈍なる者はこれなし!」というものでございました。「炭唐人」という名前の炭を運び込む者がいたのですが、もしも炭を持って来なかった場合、手に印判を押して「明日持ってこい」と言い付ける。そうすれば、翌日には必ず炭を持って来て、「この印判を消してください!」と申すというのです。(出入りの者は)大勢いるのだから、かの者を我らがいちいち覚えているわけもなし、それどころか印判などは洗って落としてしまえばそれでおしまいなのに、必ず戻ってくる。面白いものだ、との話でございました。
しかしこの東五郎が思いますに、鈍だったからでは、ありえません。きっと、当時は(文禄慶長の)乱の後の余威が強かったために、上のようなことが起ったのだと、私は思いました。
その後、三十六歳の時、朝鮮語の稽古のために、かの地へ渡海いたしました。ある日、町代官の一人で、以前の流儀を覚えていた者がいて、「炭唐人」を持って来なかった者を叱り、上着の袖を縄でくくり上げるべしと申し渡したところ、この朝鮮人はことのほか立腹して、その横に全(チョン)別将と申す訓導(フンド。訳者注:地方の教育を担当する、地方官)の書手がいたのですが、この者がまた目を怒らせて、「我が国の人を辱めるとは、どういうことだ!」と散々に申したので、上の代官は恐縮してしまい、命を実行しませんでした。
この例を挙げて見ましても、わずか十四ないし五年の間に、風向きが変わってしまったのです。だいたい壬辰の乱(すなわち、文禄の役)以降、万勝院さま(第十九代藩主、宗義智)ご一代より、光雲院さま(第二十代藩主、宗義成)のご初年までは、恐れられていました。光雲院さまの中ごろから、天龍院さま(第二十一代、宗義真)のご初年までは、避けられていました。天龍院さまの中ごろから以降は、慣れられています。恐れられ、避けられていた時分は、かの方は下手に出ていました。慣れられている時分には、強い方が上手に立ち、弱い方が下手に立つはずでございます。天龍院さまのご時代の中ほどまでは、まだ慣れることも浅うございました。しかし今日に至るや、慣れること深くなっております。ゆえに今後は、「これに乗じて、これを陵(しの)ぐ」との言葉どおり、威力権柄は向こう側に移り、こちら側はかえって卑屈になるであろうことは、時勢の勢いでございます。ゆえに、「正大をもって心を為し、理義をもって務めと為し」、前後を図り処置すべきかと、存じます。「強禦(きょうぎょ)を畏れず、鰥寡(かんか)を侮らず、剛(こわ)きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くらわ)ず」と申す言葉は、世に処する道を申す言葉でございますが、朝鮮とご隣交する際にもまた、この言葉をお心得になること、切要でございます。
芳洲は、鋭い観察者である。そして、凛とした儒者である。このくだりは、彼の資質が見事に現れている。
昔は侵略の記憶が生々しかったので、朝鮮人は日本人を恐れ避けていた。しかし、芳洲が二十二歳のときに江戸で対馬藩士から聞いた話と、三十六歳になって自ら朝鮮に渡海して見た実情は、まるで違っていた。芳洲はまず木下順庵の門を叩いて儒学を修め、師の推薦により二十二歳で対馬藩に真文役として、召抱えられた。彼はそれからずっと朝鮮との関わりの中で仕事を続けたのであるが、彼が勤務した年月のうちに、かの国の日本に対する印象は、変わってしまった。芳洲は、今や朝鮮人は日本に慣れてしまっていて、今後この勢いはますます高まるだろう、と懸念しているのである。
そこで、芳洲は今の藩主に向けて、教訓を述べる。
-正大をもって心を為し、理義をもって務めと為せ。
正しい心を、持ちたまえ。そして、道理をわきまえることに、務めたまえ。芳洲の言っていることは、仁義の道を進みたまえ、ということである。朝鮮もまた、儒教国である。仁義の道を進めば、相手は分かるはずだ。もし分からなければ、それは相手の落ち度である。卑屈にならず、正義正道を述べよ。芳洲は、日本固有の考えに留まらず、世界思想である儒学を学んでいた。だから、彼は国家間にでも通じる普遍的な道があることを、知っていた。現代でも、そうである。儒教のシステムは地球レベルで全面的に通じるわけではないが、正義の道だけは、万国不変のはずだ。それが通らないならば、何かがおかしい。我が方が悪いのではないと確信を持ちたければ、普遍的な正義を求めて、それに依拠したまえ。
-強禦を畏れず、鰥寡を侮らず、剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄うなかれ。
力強いだけの者を、恐れてはならない。不義の強者は、人間の敵である。
鰥寡(やもめ)を、侮ってはならない。「鰥寡孤独」という言葉がある。男女のやもめと、身寄りのない老人と、孤児のことを指して言う。儒教では、こういった社会の弱者たちを真っ先に救うのが、仁政であると教えている。それは、人間に対する、温かい思いやりである。人間を愛する者は、人間の味方である。
剛きもまた吐かず、柔らかなるもまた茄(くら)わず。難しいことでも、正道を通りたいならば、避けてはならない。安易なことでも、邪道であるならば、取ってはならない。
人の品格も、国家の品格も、畢竟は一緒である。暴圧を退け、卑屈を取り除く。そのためには、普遍の道を、通るにしくはなし。芳洲の、現代人に向けた遺言とも、取ってよい。