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2009年05月 アーカイブ

2009年05月02日

大変な誤解を、していました。

告白いたします。
私は、今日の今まで、現在「朝鮮人」と一般に日本社会で呼称されている人たちは、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)国籍の方々だと、思い込んでいました。

今日、この「隣の国の話」のサイトを読み通して、自分が誤っていたことを、教えられました。

日本と北朝鮮との間に、国交はありません。
したがって、日本国が北朝鮮籍の外国人の登録を、認めるわけがありません。
真相は、上のサイトの中の、このエッセイにまとめられています。
日本がサンフランシスコ平和条約を連合国と締結して独立を回復したとき、日本に残留していた半島の人々は、一律で「朝鮮籍」とされました。
その後、大韓民国の要請を受けて、「朝鮮籍」の人たちは「韓国籍」に移ることが、認められました。すなわち、現在の「朝鮮籍」「韓国籍」の区別は、母国の区別とは、関係ありません。上のエッセイにも書かれているとおり、あえて「韓国籍」に移さなかった以上は、「朝鮮籍」の方々に在日本朝鮮人総聯合会(総聯)に所属しているケースが多いことは、事実らしい。しかし、必ずしも「朝鮮籍」=「総聯」では、ない。だいたいが、在日のコリアン(エッセイでは、「朝鮮人」を提案している。しかし、私はこの提案に、いまはまだ従わない。それで、ぼやかして半島の人々とか、コリアンとかの称号を、適宜使います。)は圧倒的に半島最南部の慶尚両道・全羅南道(現在の済州道を含む)からの移民である。その彼らが北部の体制を支持する総聯に所属している理由は、さまざまであろう。一番痛切なのは、おそらく戦後に日本から北朝鮮に帰国した親類が、いるケースであろう。

そして、エッセイにも書いているが、「韓国籍」で在日本大韓民国民団(民団)の所属であっても、「朝鮮人」とあえて名乗る人もまた、いるということだ。かつて「チョーセンジン」という言葉が日本の中で軽蔑語であったことを捉え直して、誇りをもって日本の中で自称してやろう、という意気込みだと、いうのである。

私は、大変な無知でした。自分が、恥ずかしい。

しかし、あえて申せば、このような初歩的な事実ですら、日本ではほとんど知れ渡っていない。
在日問題が、タブー視されている証拠だ。
私は、今こそ包み隠すこの国の空気に、挑戦したい。
明らかに示されない事実は、誰も議論しようと立ち止まったりしない。

酒井敏雄『日本統治下の朝鮮 北鎮の歴史』

著者は一九二〇年北鎮で生まれ、この土地の日本人小学校を卒業し、平壌の商業学校に学んだ。ここの生徒は半数が朝鮮人で、著者はいまも彼らと親交を結んでいる。北鎮の歴史を書くことができる残り少ない一人である。(表ブックカバー折込みより)

本書は、草思社から2003年に発行。

本書の大半は、かって植民地時代に平安北道雲山郡北鎮面と呼ばれた金鉱都市の、歴史である。
叙述は詳細で、これもそれなりに面白い。
だが、山間の一都市だけの記録であって、戦前の朝鮮半島の全体像がここから理解できるかと言えば、私はそれには無理があるだろう、と思った。

むしろ、本書の冒頭に当たる、第一部「数字が語る日本の朝鮮統治」が、意見として重大である、と感じ取った。
この第一部は、『朝鮮総督府統計年報 明治四十三~昭和四十七年度』を一次資料として、植民地時代朝鮮の経済動向を、分析しようとする試みである。
その、結論。


、、、朝鮮の近代化計画は約二〇年余りで達成されたのである(昭和五年頃)。
近代化のために日本は、朝鮮の人々を誘導するため、時には軍事力を行使したこともあり、後にはこれが朝鮮における日本の失政といわれる大きな原因となった。
しかし世界の植民地で、このような短期間に繁栄をもたらした国が果たしてあったであろうか。これには日本の決断と実行がなくては進まなかったであろう。
当然のことながら、これは多くの朝鮮人の絶大な協調と理解があってはじめて達成されたことである。
このような輝かしい成果が、どのようにして醸成されたかは多くの日本および韓国の学者や研究者たちが『朝鮮総督府統計年報』の解析に携わり、その結果を次々と公表することになれば、やがて日朝の近現代史が新たに解明され、これにより日韓両国とその国民には必ずや明るい二十一世紀が開かれてゆくものと確信される。(pp20-21)

朝鮮の近代化が達成され、経済水準が李朝時代より向上した傍証として、著者は人口と歳入の増加を挙げる。
朝鮮民族の人口は、
1910 13,128,780人
1941 23,913,063人(+182%)
朝鮮総督府特別会計の歳入は、
1911  52,284,464円
1930 218,210,352円(+417%)
であった。著者は1942年と比較しているが、戦時中では税収体系に大幅な変更が起こっていただろうし、満州事変以降の円ブロックの経済は、インフレーションがあったはずだ。だから、満州事変直前の大恐慌時代、1930年と比較してみた。
人口と財政収入が期間を通じて激増していることが、このデータから読み取ることができる。
これが著者の言うように、単純に朝鮮民族の生活向上を意味していたのかどうかは、私には即断できかねる。
たとえば著者は、「従来畑作が主で穀類はムギ・アワ・ヒエ・キビ・トウモロコシなどで、栄養に乏しかった朝鮮人は、米の飛躍的な増産で彼らの食生活は栄養的に改善され、、、これは人口が急激に増加したことで明らかとなった」(pp39)と、書いている。
しかし、この説明は、どうも李朝時代に農村を旅行したイザベラ・バードの観察と、食い違っているように思われる。バードが見た農村は確かにとびきり裕福とは言えなかったが、食事は現在の韓国人のパンチャンと同じく、米のごはんといくつもの小皿が供される食事で、味もよく栄養にも富んでいた。ひょっとしたら、著者は自らが生活していた北部地方の事情について、一般化して述べているのかもしれない。戦前に日本に渡って来た人々は、困窮した小作人が多かった。平均値はどうであれ、困窮した階層が植民地時代に発生していたことは、私にとっては確からしいと思われる。それは、現在の在日の方々がアボジやオモニの労苦を思い出して語る言葉に、よく表れている。

しかし、他方で、植民地時代の朝鮮が日本の経済的収奪によって、全般的に困窮化したと主張するならば、たぶんそれも誤っているのでは、なかろうか。
私は、経済史の研究家ではない。
ゆえに、これまで半島について書かれた著作を私が読んだ限りで、自分としてイメージで語るより他はない。
戦前の巨文島(コムンド)は、漁業で繁栄していた。
本書にも書かれているように、北鎮は日本資本によって活況を呈していた。
以前読んだ朴景利の小説『金薬局の娘たち』は、統営が物語の舞台であったが、日本による併合は人々にとって痛恨事であったと、書かれていた。しかし、二十年の歳月が過ぎた後の統営の街は、日本式の漁業が導入されて、繁栄を加えていたと叙述されていた。
もちろん、経済的繁栄と、人の心の憤りは、別次元のものだ。
『金薬局の娘たち』でも、併合から20年後の若者たちの中には、独立運動に向けて突き進もうとする群像が、現れて来る。
かつての日本史でも、貧農史観が猛威を振るっていた。今でも、有力なのかもしれない。
植民地時代の朝鮮史も、経済的収奪史観だけでは、歴史の実像に迫ることはできないのではないだろうか。
両国のわだかまりは、もはや経済ではない。
プライドを傷つけられた、人の心の憤りに関する、点なのだ。

2009年05月11日

最も遠い国

昨日、韓国語講座仲間と飲んで、その時出た会話。
「北朝鮮は、韓国にとっていちばん遠い国ですよ。何考えてるか、まったく分からない。」
ソウルの人が、言った。
日本人がいっぱいいるソウルに生活していた彼女にとって、日本はよほどに近い。北朝鮮は、もうそうでない。若い世代は、正直そう思っているのだろう。統一という韓国の国是は、残念ながら若い世代から、崩れ始めていると予感した。ちなみに、いま韓国で「八道」といったら、韓国の行政区画である八道のことを言うようだ。現在は、済州道が新設されて、九道になっている。私は歴史的な八道(京畿・慶尚・全羅・忠清・江原・黄海・平安・咸鏡)を想定して話をしたら、彼女と言っている内容が、食い違ってしまった。

「『同志』(たしか、「同胞」の意の「トンポ」と言っておられたと思う)なんて言葉、知らないよ。北の人は、学校でこれを使うんだな。」
日本に住んでいる韓国籍の人が、言った。
聞いてみると、朝鮮籍の人は、やっぱり韓国に渡航できないという。
渡航したければ、韓国籍に変えるしかない。
しかし、韓国籍でも、北朝鮮に渡航は可能だという。
「金、出しゃあね。結局、金だよ。」
じっさい、渡航しているという。
現在、新潟の港は閉ざされているが、北朝鮮に渡ることができないかといえば、そうではない。
中国を経由すれば、行くことができる。
だから、日本の制裁政策は、中国と調整をしなければ、何の実効もないことになる。
これじゃあ、バカにされますよ。
本当に日本は、人権を大事にせよと、胸を張って言えますか?
抑圧されている人、国家の犠牲となっている人に対して、「私たちはあなた方の味方だ」と、言うことができますか?していますか?
拉致被害者について怒るならば、どうして法輪功弾圧に対して、怒らないのか。ミャンマー軍政を、どう思っているのか。ロシアのファシズムと言ってもよいプーチン政権を、どう思うのか。
日本人の悲しみだけ主張していれば、外国が聞いてくれると思ったら、大間違いですよ。
日本は、経済が繁栄して、その何万倍も、高笑いの声が外国に聞こえているではありませんか?

2009年05月14日

悲鳴を上げる中国農業 - 日経オンライン記事

ある教授が農村で目にした“悲惨な病理"

話し手は、愛知大学の高橋五郎教授。まず自ら、「中国専門家」ではなく、「農業の専門家、食料の専門家」であると、断ってからの、インタビューである。ゆえに、教授は農業・食料の専門家として中国農業の実態について、語る。

日本でもさみだれ的に報道されている中国農業の恐るべき汚染実態を、高橋教授もまた述べる。


―― そう考えると、土作りや水の管理、肥料の使い方、循環の手法などについて、国や企業がもっとコミットすべきなのでしょうね。

 高橋 何らかのルートでコミットすべきでしょう。ただね、農民に教えることは大切だけど、何せ数が多い。日本の場合、農協などに農家を集めて研修や講習会を開くことができる。ところが、中国の農村では、どこを見ても農民を集める施設がないんですよ。従って、一人ひとり相対で教えていくしかない。これはものすごい時間がかかる作業です。

中国には、技術指導などを担う農業専業協会という農協のような団体があります。ここの指導員を教育するという方法はありますが、先ほど述べた理由で、指導員が農民に指導していくのもえらく手間がかかる。コミットするとしても、相当に大変だと思いますよ。

高橋教授は、農業の技術が立ち遅れている原因として、土地の公有制度を挙げる。これは、さきほど政府が、農民に対して土地の一定の使用権を認めて、資産として活用することを認めた立法を通した、と聞いていた。いったい、いまだに実行化されていないのだろうか。農村の購買力を上げる、という中央政府のスローガンは、いつになったら末端にまで政策が行き渡るのであろうか。

それにしても、上の引用などからも垣間見えるように、地方政府の無能と非能率さは、ひどいもののようだ。農村を貧窮させ、汚染への関心を失わせている最大の障壁は、中央と地方の政府なのではないか。いまだに、首都が作った法を広大な天下に一律に当てはめて、地方には中央にしか目が向いていない、金権まみれで直近上位の役人の監視の目しか気にしていない、非能率な役人ばかりしかいない。帝国時代から、進歩していないではないか。もっと、人民の幸福を願う有志の者が、法によって処罰されることを恐れずに、自発的な力を発揮できるような社会に作り変えることを、望む。もういいかげん『韓非子』流の統治政策は、捨てなさいよ。

2009年05月16日

傷に塩を塗るのか(Salt in their wounds)-The Economist記事

今週号記事を、訳す。

犯罪者扱いされる、遺族の親たち(Bereaved parents treated like criminals)

「災害地域の市民は、新しい生活に向けて行進中であります」と、胡主席は宣言した。
五月十二日。四川省での地震が、8万6000人以上の死者及び行方不明者を出し、数百万人の家を奪った、一周年のことであった。
しかし、主席がいう中国の巨大な救助活動が納めた勝利宣言にもかかわらず、生き残った人々の中には非常に不満が残っている。

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「間」と「情」

今日、韓国フリークのオフ会があって、いろいろ面白い話を聞かせていただいた。
忘れないうちに、メモしておく。

-関西在住、三羽烏。

これは、姜在彦、金達寿、尹学準の三氏のことである。
幸いに、私は三氏の書物を、読んだことがある。
だから、彼らを韓国で出迎えに行った、という本日会った方の話を、適当でなく聞くことができた。
いずれも、司馬遼の『街道をゆく』に出てくる。

『韓のくに紀行』。
『壱岐・対馬のみち』。
『耽羅紀行』。

金氏は、壱岐・対馬への旅行に、司馬遼と共に行った。
姜氏は、耽羅すなわち済州島への旅行に、同行した。
「司馬氏はお弟子さんがいなくてね、資料集めを人に振るんだ。彼は、人づかいがうまかった。耽羅紀行の資料は、姜先生に振った。その資料集めが、当事学生だった、僕に振られたのさ。」
私は、本日会った三羽烏の後継者の方の話を今日聞いたから、三世かな?
その方は、現在日韓の貿易のお仕事をしておられるが、学生時代は上田正昭京大教授の謦咳に触れられて、日本の大阪生野出身の在日韓国人でありながら、韓国ソウルの大学に留学された。当事まだ注目されていなかった、野史(ヤサ)の研究をなされた。野史は、韓国史で中世と呼ばれる、李朝時代の民間の記録である。現代の韓国文化の原点は、中世の李朝にある。

この方が、ソウルに留学なされていたとき。
「よう!」
教室の学生数は十八人なので、すぐに顔見知りになる。
胸には、当時いちばんポピュラーだった、「コブッソン」のたばこ。
ぐいと、取られて、
三本を、引っこ抜いて、
彼は、残りを返すのかと、思った。
ところが-
彼のポケットに返したのは、その三本だった!

大学試験に、受かった日。
下宿のオーナーに、なぐられた。
「よく受かったな!」と、祝福の、しるしとして。
下宿に、戻ったら。

冬。
漢江は、氷点下18度の気候で、凍る。
酔っ払いが、川のそばで、寝ていた。
-日本人だったら?
通り過ぎる。
しかし、彼は韓国流儀に従って、背負った。
背負って、警察に連れて行った。
警官は、彼をほめたという。
「お前ら学生は、政府に楯突いてばかりするが、たまにはよいことするじゃないか!」

相手に、このぐらいはやる。やらなければならない。
そのお返しに、自分にもやってくれる。
トータルで、つりあっている。
それが、韓国なのだろう。私は、お話を笑いながら聞いた。

-日本は「間」の文化で、韓国は「情」の文化。

これは、もう一人のお方が日韓の文化を総括された、言葉である。
このお方も、代表取締役。
くしくも一国一城の代表三人が、同じテーブルに集まっていた。
私の城は、ちゃんとビジネスを成り立たせておられるお二人とは違い、ただのにわか仕立てのあばら家であるが。

その方が言った。
-仕切るんだなあ。人と人とを、互いに干渉しないように。それが、日本の文化。しかし、韓国人は、相手のテリトリーに、ぐいと入っていく。島国と、半島との違いだよ。島国のムラだと、いちど失敗したら、逃げられない。だから、明日また同じ人と顔をあわせることを、先に考えた行動になる。しかし、韓国は陸つづきだから、やばくなったら逃げればいいんだ、って考えるんだ。中国に逃げればいい。ロシアに逃げればいい。アメリカだって、日本だってある。だから、いまこの時を遠慮せずに、自分の思ったままの姿をさらけ出したほうがいい。そう、思うんだよ。韓国と日本の違いを、何と表せばいいか長らく分からなかった。香川に行って、話を聞いたとき、分かったんだ-「間」の日本と、「情」の韓国さ。

2009年05月18日

四寸・八寸・十六寸

韓国語に、サチョン(사촌)という言葉がある。
「四寸」と漢字で書く。
これは、四等親という意味である。
自分から見て、一寸が両親。
二寸が、祖父母。
三寸が、おじおば。
その子が、四寸となる。つまり、いとこのこと。
イウッサチョン(이웃사촌)という言葉が、しばしば使われるという。
直訳すれば、「隣のいとこ」という意味。
これは、血のつながりはないが、いとこ同然に親しい間柄を指す言葉だ。
人の関係についても言うし、国の関係についても言う。
「ハングッハゴ イルボヌン イウッサチョニダゴ センガカムニダ。」
-韓国と日本は隣のいとこだと、思います。
こんな言い方が、できる。

韓国語の親族を表す言葉は、日本語よりもはるかに多い。
日本語なら「おじ、おば、祖父、祖母」で終わってしまう言葉が、韓国語では複雑に分かれている。父方については、何番目の兄・姉であるか、あるいは子がいるかいないかで、言い方が変えられる。
言葉は、その文化が大事だと思っている対象について、豊富な表現方法を持つという。
アラブ語がラクダについて豊富な語彙を持っていたり、漢語が料理方法について細かい用語を誇っていたりするのは、それぞれの文化が大事に思ってきた対象をよく表しているといえよう。
日本でも、あったね。

 津軽には七つの雪があるとか
 粉雪、つぶ雪、綿雪、ざらめ雪、水雪、かた雪、春待つ氷雪

新沼健二の、『津軽恋女』。
雪の津軽だから、雪にいろいろ言う。
日本語全般では、雨の語彙がとても多い。雨の国なのだ、日本は。
さて韓国では、父方は十六寸、母方は八寸までが、親戚とされる。
ものすごい、広がりだ。
数えてみれば、自分の八代前の父方の祖先の子孫が、親戚となる。父方だから、必ず自分と同姓同本貫のはずだ。もし一世三十年と考えれば、二百四十年前の祖先から分かれた同姓の人が、ぜんぶ親戚となる。
親類というよりは、社会集団と言うべきであろう。
ここが、日本と全く違う。
韓国の歴史で、特定の一族がまたたく間に権勢を独占するケースが見られるが、これは韓国社会の親類の結束の強さが、背景となっているはずだ。日本では、一族による権勢の独占は平氏や北条氏の頃まで見られたが、室町時代以降は目立たなくなった。親類よりも組織集団の結束のほうが、日本人の集団意識として重視されるようになったからであろう。
韓国に旅行すれば、同姓同本貫の人たちの組合事務所が、都市にある。
金海金氏、密陽朴氏、全州李氏、晋州姜氏、、、
外国人の目にはよく見えないが、韓国社会にはこのネットワークがある。政治すら、このネットワークで動いている面がある、と洩れ伝わってくる。

韓国語では、母の姉妹、すなわち母方のおばを表す特定用語として、イモ(이모)がある。イモは、面白いことに他人の女性に対しても、使う。店などに行って、その店のママさんに対して親しく問いかける言葉が、「イモ!」である。

それと、韓国語では男性と女性で、親しい目上の人に問いかける言葉が違う。
男性は、親しい目上の男性に対して、「ヒョン」と呼びかける。目上の女性には、「ヌナ」を使う。
女性は、親しい目上の男性に対して、「オッパ」と呼びかける。目上の女性には、「オンニ」を使う。
ところが、ここからが面白くて、男性もまた、女性に対して「オンニ」を使うことがある。ちょっとふざけたニュアンスを持った、親しい彼女への呼びかけである。年上・年下は、関係ない。日本語にあえて訳せば、「オネーサマ!」といったところだろうか。
だから、男と女が、互いに「オンニ!」「オッパ!」と呼び合っていれば、二人がとても親しい間柄だということが、すぐに分かるのだ。そうして結婚した後も、「オッパ!」と呼び続ける。やがて子供が生まれると、「オッパ!」が「アッパ!」になる。「アッパ」は、お父ちゃんのこと。たぶん漢語からの、輸入語だろう。

ちなみに女性が男性に「ヒョン」と呼びかけることは、普通ない。あるとすれば、学生時代に女性が気合を付けて、先輩などを呼ぶ場合だけ。日本語にあえて訳せば、だから「センパイ!」あたりなのだろう。

2009年05月23日

いまどきの学生は、天安門事件なんて気にしない(Tiananmen Now Seems Distant to China’s Students)-NYTimes記事

http://www.nytimes.com/2009/05/22/world/asia/22tiananmen.html?_r=2&ref=world

4月30日、北京大学の32630名生徒全員の携帯が、大学当局からの文字メッセージを伝達して、鳴り響いた。北京大学は、中国最高学府のひとつとして、世間に穏やかな大学と見られている。メッセージの内容は、「特別に複雑な」状況ゆえ、青年節には「諸君の発言と行動に注意するように」というものであった。

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