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2009年02月 アーカイブ

2009年02月14日

Korea! 序

『金笠(キム・サッカ)選集』(東洋文庫)の編訳者である、崔碩義氏は解説に言う。


金笠(1807-63年)は朝鮮王朝末期、全国各地を放浪した天才詩人である。彼の自由奔放な詩は、奇異なその人生と相俟って民衆に愛好され、今日でも朝鮮半島の南北で人気が高い。金笠の領域は多岐にわたるが、やはりその真骨頂は旅人として、人生の世知辛さを詠い、当時の腐敗堕落した両班支配層にたいしても歯に衣着せぬ諷刺詩を放ったところにある。金笠とその破格的な詩篇は朝鮮詩文学史上異彩を放つ存在であるといえるだろう。

解説の略歴に、頼る。
金笠の真の姓名は、金炳淵。笠(サッカ)は、彼がいつも笠をかぶって全国津々浦々を放浪したので、世間の人が呼んだ俗称である。
安東(アンドン)金氏の、末流である。
純祖(スンジョ)時代から大院君(テウォングン)時代までの李朝末期、安東金氏は政権を壟断して、歴史上に勢道政治(セドチョンチ)と呼ばれる。金笠は、祖父の宣川府使、金益淳が洪景来の乱に巻き込まれさえしなければ、政府の高官に昇る展望すら開けたかもしれない。

洪景来の乱(1812)は、北部の平安道で起った、農民反乱であった。
イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird,1831-1904)が彼女の『朝鮮旅行記』で描く李朝末期の支配階層たちの姿は、一般民衆たちの姿と鮮明な対象を成している。
彼女が歩いた漢江流域の農村の住民たちは、外国人に対してその好奇心から失礼なふるまいをややもして行なうものの、概して性は善良で友好的であるという姿を、好意的に描いている。
彼女の指摘で注目するべきは、民衆は確かに漢字は読めないものの、たいていは諺文すなわちハングルを読むことができる、という点である。


諺文[ハングル]は軽蔑され、知識階級では書きことばとして使用しない。とはいえ、わたしの観察したところでは、漢江沿いに住む下層階級の男たちの大多数はこの国固有の文字が読める。
(バード『朝鮮紀行』時岡敬子訳、講談社学術文庫、pp.111)

それが本当ならば、李朝末期において、民衆の識字率は、実は高かったはずである。単に、科挙(クァゴ)を受けるために必要な漢字(ハンジャ)を、両班だけが学び使う公用文字の漢字を、知らなかっただけであった。バードが半島を旅行した1894年から1897年の時期と同じくして、李朝政府は諺文すなわちハングルを、政府の公認する文字に昇格させる。
その支配階層である両班たちや、それにぶら下がっている吏員や従僕たちの姿は、バードの目から見て、どうしようもない。「朝鮮の災いのもとの一つにこの両班すなわち貴族という特権階級の存在があるからである。」(『朝鮮紀行』、pp137)ソウルと地方の両班や、その代官としての下僕たちは、民衆から無法に搾れるだけ搾り取る。肉体労働を恥辱とする両班たちは、自分では何もせず、隷下の民に地元の瓦や農産物をソウルまで無償で運ばせる苦役を課す。地方都市の吏員たちは、外国人に対して倣岸にして、無礼なばかりである。バードは李朝の農村の貧しくもつつましい生活を愛するものの、両班や従僕たちが集まる大小の地方都市に対しては、賞賛する言葉が極端に少ない。洪景来の乱は、バードが観察したような李朝末期の農村社会の圧制に反抗して起った、李朝末期の一連の農民反乱の一であった。

さて反乱は燃え上がって、金益淳は為すすべもなく、反乱軍に投降を余儀なくされる。
後に政府軍が反乱鎮圧に成功して、金益淳は中途で脱出することに成功したものの、結局許されずに、乱の最中に大逆罪で処刑されてしまう。当時の李朝の法は中国を倣った法であって、大逆罪の罪は、三族に及ぶ。権勢高い安東金氏の一流であったために、罪は思いの他軽くすんだ。しかし、金益淳の末流たちは、滅門廃族、すなわち両班の身分から追放されてしまったのであった。

金炳淵は、長じて自分が大逆者の孫であることをはじめて知り、動揺する。彼は狂騒し、二十二歳でついに妻子までを捨てて、放浪の旅に出た。笠をかぶり、李朝の北辺から済州島まで、歩いた。そうして、両班たちを罵り、民衆たちを憐れむ詩を、後世に残したのであった。彼の漢詩は破格であって、時に猥褻であり、それで民衆の愛するところとなったという。

私は、解説を読んでから、期待して金笠の詩を読んだ。
だが―
現在、私はこの金笠という高名な詩人の作品が、どうして韓国人の心を打つのか、まだ理解できない。
陶淵明やランボーならば、私は理解できる。
彼らは読み下したり、訳文で読んでも、その詩心がはっきりわかる。
私はフランス語でランボーの詩を読んでみたが、読めばますますこの詩人が言葉の魔術師であったことを、正しく理解できた。厳格に韻を踏む漢詩ならば、なおさらのことである。


松松栢栢岩岩廻
水水山山処処奇
(『金剛山』)

だが、金笠の詩を、今の私はいまだに、理解できない。
確かに技巧的な律詩や絶句もあることはあるが、上の作品のような日本人にとっては手抜きにすら見える作品が、傑作と言われているようだ。
私は、選集に収められた金笠の金剛山詩を読んだ後、イザベラ・バードの南北漢江(ハンガン)及び金剛山(クムガンサン)旅行記を読んで、少しだけ金笠の描写する風景が、分かったような気がする。だが、バードが激賞した風景の華麗かつ詳細な描写を読んだ後でもう一度金笠の詩を読み返せば、その色彩の乏しさに今度は淋しくなってしまった。

選集に収められた金笠の詩には、数字をやたらと多用した作品が目に付く。漢詩好きの私から見れば、小学生の作品のように見えてしまう。

一峰二峰三四峰
五峰六峰七八峰
(『夏雲多奇峰』)

一読して思ったことは、どうも韓国人は我ら日本人と、漢詩に対する感覚が、違うようだ。日本人は、読み下して日本語に変えてしまう。韓国人は、漢字の並びのままに、読む。

同知生前双同知
同知死後独同知
同知捉去此同知
地下願作双同知
(『輓詞』)

明らかに、これは何かの詩世界を、作っている。
だが、日本人であり、読み下した漢詩を長らく楽しみすぎている私には、金笠の漢詩は異様に見える。

主人呼韻太環銅
我不以音以鳥熊
濁酒一盆速速来
今番来期尺四蚣
(『濁酒来期』)

日本人流に読み下しても、何がなんだかわけがわからない。
編訳者の崔碩義氏が解説してくれているが、この詩は韓国語で読まないと、わからない。
漢字を読んだ時に起る、ダブルミーニングを使用しているのである。
金笠の諧謔詩は、漢字を独占して、詩文に耽る両班に、攻撃の矛を向ける。
この詩は、七言絶句のふりをした、実は韓国語詩なのだ。解説によると、とある田舎の詩会で、濁酒を賭けた出題に対して、金笠が即妙に披露したという。
だが。
韓国語詩だから、韓国語が血肉の中に入り込んでいないと、楽しめない。この詩を日本語に訳してしまうと、その内容は、じつにくだらない。

彼の詩には、怒りが多い。傑作と言われる詩は、罵りに満ちている。怒りと、罵りと、そして哄笑の世界が、金笠の詩の世界には、広がっている。
金笠の詩は、韓国語というこの子音の響きの美しい言葉に、強く結び付いているのであろう。今はそう、予感する。
そして、彼を生んだ韓国人の愛する風景とは、岩と水と空の、あくまでも地味な風景なのであろう。
日本人と韓国人は、確かに異質である。
そして、互いの芸術作品は、余所者にとってわかりにくい。中国やヨーロッパのような、誰にでもよいと分からせる、普遍性の味がかなり薄い。金笠の詩は、韓国の言葉と、韓国の山水と、そして韓国の人間が分かっていなければ、味わいづらいのであろう。我が万葉・古今の和歌が、ひとたび英訳してしまえば、もとのうたが持っていた呪術的な魔力を、ほとんど消し去ってしまうように。


柳柳花花
ポドルポドル・・・コッコッ(버들버들・・・꼿꼿)
(『訃告』)

翌日、もう一度読み直した。
すると、彼がどうして韓国で人気があるのかの理由が、わずかながら私の前に透けて見えたような、気がした。
上の、たった一行四文字の諧謔詩の漢字を韓国語で読めば、カナのようになる。
なんとなく分かると思うが、この読みは、擬態語に通じている。
ためしに、日本語訳してみよう。


柳柳花花
ブルブル・・・コッテン

そうなのだ。
この愉快な訃告を、しかも生気あふれた(そして「花柳」で色道にも通じさせた)漢字でもって、金笠は作って見せたというのだ!
なるほど、愛されるわけだ。
やっと、彼の楽しみ方の、一条の光が私に見えた。

だが、まだこれでは、今の日本人に楽しめるとは、言いがたい。
だからこそ。
だから、こそ。
この両国は、もっと互いを理解しあうべきなのだ。私は、金笠の詩を読んだ後、そう思った。
日韓の血と文化は、歴史を遡れば、確実に濃く混じり合っている。
もとより、別民族である。
イギリス人とドイツ人が、日本人と韓国人以上に濃厚に血と文化を重ね合わせていたとしても、イギリス人とドイツ人が同民族であるなどという主張は、一部の北方人種優越主義に凝り固まったフェルキッシュ(Völkisch)思想家のたわごとにすぎないように。イギリス人とドイツ人は、別民族である。日本人と韓国人は、なおさら別民族である。別の言葉を持ち、別の文化を愛好している。
だが、互いは異質であるが、きっと最も近い、文明である。
私は、今回の七泊八日の旅行をもって、両国民の心の底流に流れているものが、驚くほどに似ていることが、よく分かった。そして、我らとは異質ながらも、韓国人と、韓国語と、そして韓国の山水が、極めて美しいことを、知った。

旅行記の中で、ハングルをカタカナに直す場合には、原則として韓国での読み方に準拠した。ただし、引用した文の中で著作者が自らの姓名を別のカタカナ表記で著している場合には、著作者の意図を尊重した。
また子音の「ク」が、末尾にあるか、あるいは別の子音に続く場合については、促音すなわち「ッ」で表示した。これは、私が旅行中に通った食堂でイイダコの混ぜごはんを頼んだとき、店員の声が私の耳に「ナクチポックム」とは決して聞こえず「ナッチポックム」としか聞こえなかったこと、そして旅の途中で会ったパク君が韓国の餅を発音したとき、私の耳に「トッ」と聞こえて、「トック」と聞こえなかったこと。これらの経験から、あえて旅行記では、上の表記を使いたいと思う。(ただし、韓国の大姓である「朴」などは、「パク」というカタカナ表記があまりにも定着しているため、これを用いる。本当は「パッ」と聞こえるのであるが。)

Korea! 2009/02/14

明日より、ちょうど一週間、韓国に行くことにした。

1月末日、以前共に香港に行った夕映舎代表氏と飲んで、今年のことについて話し合ったときに、旅立つことを決めた。
東アジアを、知りたい。
しかし、韓国について、今の私は何も知らない。
自分が価値判断をするときの原風景となるべき印象を持っていない、ということが、この隣国に対して私がまともに何も言うことができない理由となっている。
だから、酒の席のはずみではあったが、行こうと決めた。
翌日、パスポート用の写真を取り(ついでに、散髪した)。
翌々日、府庁に行ってパスポートを申請し(以前の台湾旅行の直後で、期限切れだった)。
その日のうちに、韓国語会話の本を買って、にわか仕込みで韓国語を勉強し始めた。

ハングルは、一週間で覚えることができた。
この文字は、確かに彼らが誇るのも故なしとは、言えない。
韓国語の発音は日本語よりもずっと複雑なものであるが、ハングルはこの言葉の音韻を、余すところなく、そして不足もなく、ぴっちりと合理的に表すことに成功している。
まさしく、韓国人のために作られた、韓国人のための文字。外国人は、この合理的な文字を覚えさえすれば、少なくとも読むことができて、かの国に入るとっかかりを得ることができる。
- というよりも、ハングルを覚えなければ、韓国ではたぶん完全に文盲になりそうだ。
インターネットの韓国語サイトなどをこの二週間いくつも開けてみたが、画面の上にハングルしかない。
漢字が、誇張ではなく、一字たりともない。
それどころか、英語すら、ほとんどお目にかかれなかった。
漢字を国語から追放し、ハングルに純化する教育政策は聞いていたが、正直言ってここまで徹底的であるとは、思っていなかった。
旅行まで二週間しかないので、単語を覚えることは、あきらめた。
ハングルを何とか読みこなす訓練と、後は文法だけざっと学習して(韓国語の文法は、じつに日本語に似ている)、旅行への準備とした。

明日から、慶尚道を中心として、七泊八日の旅行をする。
ソウルへは、たぶん行かないだろう。
韓国で行きたい所の優先順位をつらつらと考えてスケジュールを大まかに立てて見たら、ソウルが弾け飛んでしまった。
私の今回の旅行は、まず対馬海峡を渡って隣国に行くことを決めた後に、行く日数だけ先に固めて、往復の航空券を予約した。
どこに行くのかは、それから考え始めた。韓国という国に行きたいという思いが私にとってまず先にあって、具体的にどこに行きたいのかは、旅立つことを決めた時にも、はっきりとイメージしていなかった。
自然と、故司馬遼太郎氏の旅行記に、手が伸びた。
司馬遼は、戦後1971年に初めて、韓国の土を踏んだ。
彼はその前に、戦前学徒動員によって戦車兵であった頃、配置されていた満州から戦車隊と共に内地に配転される途上で、鉄道で半島を南下して、釜山港に降り立ったことがあった。彼にとっては、それ以来の韓国であった。
司馬遼の旅行は、かつて戦車を操って降り立った釜山から始まり、金海(キメ)、慶州(キョンジュ)、倭城(ウェソン)、友鹿(ウロッ)、そして扶餘(プヨ)を訪ねた。古代朝鮮の加羅、新羅、百済の三国の故地に、それぞれ触れた旅行であった。(もう一つの古代朝鮮の大国である高句麗の地には、行けるはずもなかった。ピョンヤンを中心とするその土地は、司馬遼の旅行から三十八年も経っているのに、まだ他国人は行くことができない。)
旅行記の中の、慶州を描いたくだりが、実に読んで心地よい。
老松の林の下に、古代の歌垣の習俗の名残のごとく、舞い踊る人たち。
私が行くのは寒い季節だから、司馬遼が逢った春の踏青の頃の風景を見られそうにもないが、それでも慶州には必ず行こう、と彼の『街道をゆく』を読み終わって、思った。

慶州に行こうと心に決めてから、慶州の土地を調べるために、GoogleMapに手を伸ばした。
だが、地図がない。
去年オリンピックに滑り込みで間に合わせるかのように、大陸中国にもようやくGoogleMapがお目見えしたところだ。
しかし、韓国のGoogleMapは、いまだに空っぽのままだ。
きっと、軍事的配慮であろう。大陸中国や台湾よりも、当局がもっともっとナーバスであることは、現状では致し方がない。
(これは、後に書いている。韓国には、国全体を表示することができる、独自のオンラインマップが、すでに存在している。私は、釜山市の英語観光サイトから、それを確認した。だから、オンライン地図を当局が規制しているわけでは、たぶんない。)
(さらに、六月時点で追加して書く。ついに、GoogleMapに韓国の地図が導入された。大陸中国よりも、ちょっとだけ遅かった。)
やむないことで、名所旧跡のある区画の、だいたいの縮尺だけをPCの画面に定規を当てて、拾ってみた。
定規の長さを、そのまま京都の上に当てて、自分が見当違いをしていることに、気が付いた。
慶州盆地は、想像していたよりも、ずっと広い。
必ず行って見たいと思った土地の一つの掛陵(クェヌン)と慶州市街地との距離は、定規が京都御所から伏見稲荷をすっ飛ばして、伏見城下すら突き抜けてしまった。
新羅の王城、慶州盆地は、ちょうど奈良盆地のように広々と遺跡が点在している。
数多い石仏群などは、山を歩けばそれで一日が終わってしまいそうだ。
これは、一日で回って済む古都ではない。
そういうわけで、慶州を最低二日、旅程に取った。
後、山を見てみたいと思ったので、著名な海印寺(ヘインサ)に一日。
釜山にも、一日。秀吉のあの無理無謀な半島遠征軍が、緒戦で李氏朝鮮(イッシチョソン)軍と激戦して、朝鮮軍が全滅した東莱邑城(トンネウプソン)の跡が、いま釜山郊外に公園として整備されているのを発見した。釜山には、文禄・慶長の役(これは、日本史での名称。現在の韓国では、イムジンウェラン - 壬辰倭乱 -、チョンユジェラン - 丁酉再乱 - と呼ぶ)の遺跡が、他にもいくつかある。
後、海岸に李舜臣(イ・スンシン)の戦跡を訪ねて、一日。
こうやって予定を組んでみると、到底ソウルに向かう日が足りなくなった。
まあ、よいかと思った。
私が勝手に作り上げたイメージとして、ソウルは東京と同じく、東アジア型帝国の首都である。
中国、韓国、日本という、古代以来中央集権国家として文明のパターンを築き上げて来た三国にとって、首都とはただの一都市ではない。その帝国が版図とする人材の、最良の上澄みの部分がことごとく吸い寄せられて、その版図とする文明の全てがある。
全てがあるから、たぶん東京と同じく、何でもあるだろう。
だが、独自なものは、すでに現在の東京と同じで、壊れて残っていないだろう。そして、西洋から受け取った文物ならば、きっと東京とソウルは同時に受け取って、同水準になってしまっているはずだ。情報化時代とは、そういうものだ。
私は東京にも結構長らく住んで、東京をある程度知っている。だから、今回の旅行で韓国の地方を回れば、もう韓帝国の首都ソウルはパスしてもよいかな、と思った。

旅先の旅館には、ノートPCを持ち込む。デジカメのデータを毎日吸い取っておくためと、ネットに接続して毎夜にメモを残すために。そういうわけで、今夜から旅行中毎晩更新する予定。



以下の旅行記は、日付を見れば分かるように、韓国旅行をしている夜に、ライブで書き始めました。
私がその時々に思ったことを残すために、書いた内容を最大限、残しています。ただし、帰国してから、調べものをして追加をしたり、明らかな誤解があったために訂正をしたり、それはしています。
旅行中は毎晩ソジュ(焼酎)をひっかけていたので、多く書けませんでしたが。ハハハ。

2009年02月15日

Korea! 2009/02/15その一

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散々苦労して、ようやく釜山チャガルチのホテルに到着。
機内食が、いきなりチーズのサンドウィッチ。
チーズだけは食べられない私に、この旅の初っ端からまず、大凶と出た。

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釜山に着いた、第一印象。

- 大阪。韓国の、大阪であろうか。

今はこのぐらいにして、これから釜山を一巡りとしよう。

2009年02月16日

Korea! 2008/02/16

昨日の記憶がない。
この国は、酔って初めて愛することができると思って実践した結果、日本でいつものことをやらかしたようだ。
デジカメまでが、おかしい。
この国は、「酔え。壊れろ。そうやって、初めて分かる」と、言っているかのようだ。おそらく、昨日はずいぶん学生流にひどいことをしたのであろう。

デジカメが、壊れてしまった。
こんなとき、日本ならば、どうするか。
写真屋に飛び込んで、相談するか。
もしこちらが日本語さえできたならば、微に入り細を穿つ説明をしてくれるだろう。そんな写真屋のおやじが、街にはいっぱいいる。

、、、この韓国の大阪には、たぶんいないだろうな。

私は、朦朧とした頭で、そう思った。


ここから後は、帰国してから書いている。
釜山人は、少なくとも大阪のような、殺伐とした人柄ではない。
私が、間違っていた。大阪人は他人の心が分からない野蛮人であるが、釜山人は人情に厚い、文明人だ。
しかし、外国人のような余所者にとって、分かりにくい点だけは、同じであった。

Korea! 2009/02/15その二

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昨日のことを、つらつらと。

2:30、金海国際空港に着いた。
明らかに、「キメ」と発音していた。日本語表記でよくある、「キンヘ」空港ではなかった。
バスを、待った。
空港には、空気がある。
ロンドンのヒースロー空港の、空気。
香港国際空港の、空気。
台北の桃園空港の、空気。
空港の空気は、やはり東アジアだと思った。
空港に降りたときから、外国の感じがしなかった。むしろ、勝手知った場所のような気がした。
きれいなコンビニが、空港の敷地内にしつらえてある。
店員のサービスは、日本のものと同質。ただ、言葉が違うだけだった。
30分待って、ようやくリムジンバスが到着。
バスには、私しか乗っていない。
乗車代5000ウォンは、外国人以外はバカバカしくて乗らないのだろう。
私は、運転手のおっさんに「ナンポドン」と、告げた。
外国人しか乗らないに違いないのに、彼が放った日本語は、乗り際に放った「ジョーシャチン」だけだった。
バスに乗った途上で、運転手が意味もないのに、クラクションを鳴らした。
窓から見れば、バスが進む空港内の車線の向こうで、子供を連れた中年のおやじさんが、連れ立って自転車に乗って通っていた。
-ははあ、仕事の同僚なんだろう。今日は休暇日で、子供と一緒に遊んでいたのを運転手のおっさんがが見つけて、クラクションを一発鳴らしたに、違いない。
私は、そう直感した。
のっけから、気に入った。
香港のセントラルで感じたような、身が引きしまる空気ではない。 
台北で感じたような、南国の優しさでもない。
東アジアにも、様々ある。

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南浦洞(ナムポドン)に着いたが、ホテルの場所が分からない。
通りにあったパン屋でアンパンでも買って、ついでに道を聞こうと思った。
店のおねえさんは、一から十まで韓国語で、私に問いかけて来る。
「ハンゲ、チルペグォン、トゥゲ、セゲ、、、」
韓国語が、私の頭に入っていなかった。
せめて英語で言ってくれれば、わかるんだが。
ようやく、アンパン一個買って、ついでに地図を出して、ホテルへの道を聞いた。
しかし、店頭の誰も、知らなかった。
「わかりません。」
おねえさんが放った日本語は、これだけだった。

うろうろ探し回って、ようやくホテルを見つけた。
店の、すぐ裏だった。
どうも、互いに言っていることを、誤解していたようだ。

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ホテルは、チャガルチ(자갈치)にある。
「チャガルチ」とは砂利(じゃり)を意味する韓国語の「チャガル」(자갈)から派生した地名であると言われ、韓国固有語である。だから、漢字名はない。大通りを面して北側が繁華街であり、南の海そばに面した側には、海産物の店屋が並んでいる。
龍頭山の東西に渡る広大な土地が、かつての対馬藩の倭館の敷地内であった。東の海岸は現在の釜山港であるが、ここに倭館に隣接して、石積みの防波堤付きの立派な船着場が、しつらえられていた。李進煕氏の『江戸時代の朝鮮通信使』(講談社現代新書)には、ソウル韓国国立博物館所蔵である倭館の屏風絵が、写真で収録されている。そこには、絶影島(ジョリョンド。現:影島)を対岸に見晴るかし、防波堤を整えた倭館の広大な姿が、龍頭山から見下ろした構図で、描かれている。
チャガルチは、倭館の南に隣接した地区である。ひょっとしたらここには、倭館を南から寄せる海波の侵食から守るために整備された、砂利浜が作られていたのかもしれない。だが上の絵の写真を見ても、はっきりとわからない。この地名の由来も私には探せず、よくわからない。

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ホテルから出て、通りの向こうに大きなコンプレックスがあった。
チャガルチ市場。
最近できた、海産物市場だ。
入る。
いきなり、日本語で売り込まれる。
- これは、高いな。
私は、そう直感した。
とりあえず、次々に売り込んで来る品を防戦しながら、イイダコとヒラメとハマグリを買った。
案の定、韓国の相場にしては、高かった。日本円では、大したことないが。
一階で魚を買って、それを二階に持っていけば、料理して出してくれる。

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ハマグリの焼き物と、ヒラメとイイダコの活け造りが、皿で出てきた。
薬味、、、
ゴマ油があったが、正直言って口に合わない。
ヒラメの刺身に、コチュジャンを着けて、食べてみた。
次の一切れは、置いてあったしょうゆを皿に入れて、浸した。
-刺身をコチュジャンで食べるなんか、もったいない!
しょうゆの味が、日本のものと全く同じだったので、私はなおさらそう思ってしまった。
誰がなんと言おうが、日本人の私の舌は、しょうゆを愛していた。
私は刺身がそんなに大好きというものではないが、こうしてさっきまで生きていた魚を捌いて皿に出されたとき、漬けダレはしょうゆでないと、ダメだ。コチュジャンで食べさせられると、がっかりする。
これは、どうしようもない。

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酒は、まず無難に、ソジュ(焼酎)を頼んだ。
だが、物足りない。
酒が、欲しい。
そういうわけでチョンジュ(清酒)を、店のおばさんに頼んでみた。
だが、通じない。
手持ちの辞書を引き引き、ノートに「청주」と書いて、店のおばさんに見せた。
出されたチョンジュを、飲んだ。

-すっぱい!

吟醸酒をすっぱくしたような味で、刺身にはとうてい合わないと思った。
このワインに近い味わいは、むしろ肉に合うはずだ。生魚の伴としては、どうだろうか。
しょうがないから、ソジュで料理の残りを、平らげた。

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ここは、魚は確かに新鮮なので、日本人がここで楽しみたいときには、日本から酒とたまりじょうゆとワサビを、持ち込めばよい。韓国の食べ物屋は、基本的に持ち込みオーケーなのだ。
しかし、日本の刺身屋は、店の雰囲気までもサービスの中に入っていることを思うと、この市場の空気の庶民臭さは、ちょっと日本の店とは違う。

この後のことは、さすがにブログで書くことすら、ちょっと恥ずかしい。
幸いに、私は(たぶん)次の日になっても、まだ生きている。
一つだけ、言える事がある。
私と彼らは、全く言葉が通じない。 
通じないが、簡単に理解できる。
この国の人は、誰が何と言おうが、世界の中で最も日本人に近い。
香港人よりもずっと近く、そして驚いたことに、きっと台湾人よりも近い。
そう、確信した。
台湾人は、日本を真似たがっているが、日本と違うところがやはり多い。
韓国人は、日本から目をそむける素振りをするが、何もかもが日本に近いのだ。
道にゴミを落とすことを、恥じること。
警察が、行政サービスの機関として、ちゃんと機能していること。
とりあえず、日本と韓国が共有している点を、二点だけ挙げておく。

Korea! 2009/02/16その一

自業自得でひどい目に会った、翌日。
気がつくと、ホテルで寝ていた。
まだ暗い時間に意識を戻して、ホテルの鍵を探したが、ない。
なくしたんだな、と思った。
朝。
ホテルの社長と交替で、夜の番をしている金(キム)さんが、ドアを開けた。
部屋の鍵を、渡してくれた。
キムさんは、歳70であるにも関わらず、ホテルの前で倒れ伏した私を、この三階の部屋まで、登らせてくださったのだ。
私は、ひたすら謝りに、謝った。
キムさんと、社長が出社してくる午前10時まで、コーヒーを飲みながら雑談した。
キムさんは、日本語がほとんどできない。
私は、韓国語が全くできない。
キムさんは、日本語は難しい、とおっしゃられて、日本語練習帳を私に見せた。
このホテルは日本人が大勢泊まるから、日本語が必要なのだ。
練習長は、全てひらがなであった。
残念ながら、たとえひらがなで日本語を知ったとしても、日本では生活が難しい。
私はこの後の旅行でキムさんに頼みごとをしたり、お詫びの品を贈ったりしたとき、全て辞書で調べたハングルによる筆談を用いた。
キムさんは、私に気を使ってTVのチャンネルを、日本のNHKに変えた。
だが、韓国人は、この放送が全くわからないに、違いない。
私は、辞書を引き引き、画面に映り出される漢字の意味を、キムさんに説明した。
韓国のTVは、私にとって内容が全くわからない。
だいたい何をしているかは、わかる。朝のワイドショー番組で、おっさんが演歌を一節うなって、パーソナリティーたちが、「お上手、お上手!」と、拍手している。やっている番組の質は、日本とほとんど同じだ。だが、文字は読めない。
台湾でも私はTVを見たが、台湾の番組は、言葉が分からなくても文字を読めば、何を放送しているのかの概略を、読み取ることができる。

「去蔣!政府企圖抹掉中正的地名。」

と、字幕にあれば、これは政府が蒋介石(蒋中正)の名前を地名から抹消しようと企んでいるというニュースなのだな、と理解できる。だから、台北で見たニュース番組を観て、私は大笑いしていた。ほとんど解読できる新聞やインターネットの情報と併せて観れば、台湾のニュースを現地で知るのは、簡単なことだ。
残念ながら、韓国のTVでは、私は笑えなかった。新聞も、インターネットの韓国語サイトも、この旅行中に参照しなかった。

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こうして本日の行動は、朝も遅くなってから。
体が、重い。
外に出たら、昨日の雨模様から一転して、きれいに晴れ渡っていた。
晴れた日の釜山の冬は、寒い。
料金チャージ式の地下鉄パス「ハナロパス」を買って、乗ったはよいものの、、、
あ?乗る方向、間違えたか?
焦って、向かい側のホームに行こうとしたら、、、

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行けない。
ここの地下鉄は、反対側のホームに行くことが、できないようだ。つまり、上り列車と下り列車の改札が、完全に分離されている。
ちょっとひどいなあ、と思った。
これでは、うっかり乗り過ごしたり、間違った方のホームに駆け込んだりしたら、切符分がまるまる損になってしまう。
私のようなマヌケな人間に優しくない、システムであった。
あ、デジカメは昨日の衝撃によって見事に壊れてしまったので、出社して来たホテルの社長(日本語ができる)に相談したところ、わざわざチャガルチの地下街まで着いて行ってくれて、安く買うことができた。有難や。

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東莱邑城(トンネウプソン)に行こうと思って、地下鉄明倫洞駅で、降りた。
駅前で、写真の白黒の鳥を、見かけた。
この鳥は、いっぱいいる。
慶州でも見かけたし、巨済島でも見かけた。
後に知り合ったチェさんに、鳥の名前を教えてもらった。
帰ってから、うっかり記録しもらしてしまったかと、後悔した。
しかし、私はそれをノートではなくて、統営の市街図に書き込んでいた。見つかって、よかった。
-까치。
ちょっと、難しい発音だ。カタカナであえて書き記せば、「カチ」となる。
だが、「カ」の発音が、日本語と微妙に違う。あえて言えば、「カ」を発音する直前に、「ン」をわずかに加える。つまり、「ンカチ」を、「ン」を弱く発音すれば、近くなるだろう。チェさんの発音したこの鳥の名前は、澄んだ響きをしていた。

日本語訳は、「カササギ」。
平凡社世界大百科事典の、「カササギ」の項目から、引用する。

スズメ目カラス科の鳥。別名カチガラス。ユーラシア大陸の中緯度地帯のほぼ全域,北アフリカ,北アメリカの西部などに広く分布する。中国,朝鮮半島にはたくさん生息しているが,日本には17世紀に朝鮮から人為的に移植され,それ以来,九州の筑紫平野で繁殖している。ほとんど移動はしない。国の天然記念物。全長約45cm。頭,胸,背,雨覆,尾などは金属光沢のある黒色で,肩羽,初 列風切の大部分,腹,腰の中央は白い。くちばしと脚は黒色。筑紫平野の田園地域にのみ分布し,農耕地内や屋敷林の高木上に小枝を集めて,側部に出入口のある大きな巣をつくり,繁殖する。1腹の卵数は5~8個,抱卵,育雛(いくすう)は雌雄とも行う。食性は雑食で,果実や種子などの植物質,昆虫,カエル,カタツムリなどの動物質の両方をよく食べる。

さらに、

朝鮮をはじめとする東アジア北部ではカササギは吉鳥とされる。カラスの鳴声が陰気なのに比べてカササギの声は軽くすがすがしいと感じられている。家のそばでカササギがなくと,朝鮮ではだれか親しい人が訪れる吉報だとされる。高麗時代の女性の歌辞〈済危宝〉には〈かささぎが垣根に鳴き,蜘蛛が寝床の上に糸をひきつつ降りてくるから,課役にいって家を留守にしていた夫が帰る良いしらせ〉と歌っている。カササギの異名カチガラスは,朝鮮語のカチ Kkach‘i(カササギ)に由来するものであろう。韓国では国鳥に指定されている。

英名は、"Korean Magpie"。
韓国の国鳥であり、この国の文化の中に、深くこの白黒色の鳥は、埋め込まれている。
日本名の異名「カチガラス」は、ほぼ間違いなく韓国語からの、輸入であろう。ちなみに日本語Wikipediaには、カササギは、秀吉の半島侵略戦の際に、九州の大名が持ち帰ったものだとされる、と書かれていた。もしそうであれば、このカラスよりも明るい声で鳴く鳥にも、因縁が染み付いている。韓国では、国鳥。日本では、隣国を侵略した、土産物。

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漢字は、ファッションとしてならば、こんな風にマンションの名前などに、時々見かける。
だが、残念ながらたぶん、この国では漢字はもう、我々の英語やフランス語なんかと同じ、ファッションでしかない。実用性が、ない。

東莱邑城を、目指す。
秀吉の半島侵略戦の緒戦で、日本軍の小西行長・宗義智らの率いる先発隊一万八千七百余人は、一五九二(文禄元)年旧暦四月、釜山に上陸。行き掛けの駄賃とばかりに釜山城を葬った後、直ちに当時のこの辺りの府城であった東莱に殺到した。
東莱を守る都護府史の宋象賢(ソン・サンヒョン)は、敵の大軍にもひるむことなく、城に立て篭もって防戦した。
二日後の四月十四日、城は陥ちた。
鉄砲の威力が、絶大であった。
李朝の陸軍は、鉄砲の力によって、日本軍に負けた。
海戦では李舜臣将軍が、大砲を用いた亀甲船(コブッソン)によって日本水軍を完膚なきまでに叩きのめしたにも関わらず、陸戦において李朝軍は、鉄砲を採用することに失敗した。日本軍の勇猛が緒戦の大勝をもたらしたというよりも、たまたま日本が広く採用していた新兵器が、李朝軍の肝を冷やしてしまったと言った方が、おそらく戦史の評価として正しい。
その東莱邑城を、今日は目指そうと思った。すでに昼前で、今日は遠出ができない。
だが、歩けども、歩けども、たどり着かない。
釜山の道は、坂道だらけだ。二日酔いの体に、坂道がこたえた。
道の途上に、観光地図があった。
ハングルで読めないが、写真を見れば史跡の位置のあらましが分かる。
城までの道は、延々と続く山道だった。
徒歩では行くまでに、相当時間がかかるだろう。
本日は梵魚寺(ポモサ)にも行きたいと思っていたので、こりゃあだめだと思って、行くのをやめにした。

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写真は、東莱郷校(トンネヒャンギョ)。東莱邑城への道の、途上にあった。
説明板の英語を、読む。日本語もあるが、挑発的なまでに短く、何の参考にもならない。


郷校。儒教の神殿にして、学校である。これは、高麗(コリョ)時代に導入された、地方の教育機関の一つのタイプであり、李氏朝鮮の末期まで継続した。ここの郷校がいつ作られたのかは正確な記録がないが、推察するに、1392年 - 王朝初代である太祖(テジョ)の、統治初年 - に政府が国中の大都市すべてに郷校を建設すべきことを決定した後の、李氏朝鮮時代初期の頃であろう。郷校の通常の構成は、儒教の聖人及び哲人を祀った大聖殿(テソンジョン)、講義を行なう明倫堂(ミョンニュンダン)、それに生徒のための寄宿所である東斎(トンジェ)と西斎(ソジェ)であった。他に、たとえば庫などの付属的建築物もあった。東莱郷校の二階立ての門は、攀化楼(パンワル)と呼ばれる。この名は、ひとが聖人の跡を慕って徳を積むことの大事さと、それに王への忠勤の大事さを、意味したものである。この神殿にして学校が日本の侵略時代(1592-98)に焼失した後、1605年に東莱のMagistrate、Hong Jun(ホン・チュン)によって再建された。その後、何度か場所を変えて、現在の郷校は、1813年に東莱のMagistrate、Hong Suman(ホン・スマン)によって、建てられたものである。十三代王、純祖(スンジョ)の治世のことであった。

このとき撮影した写真から字が明らかであるものと、私の李朝と儒教の知識によって判読できるものだけを、漢字化しておいた。英文の"Magistrate"が下で述べる守令の一職である府使(東莱府使)に当るのかどうか判断しかねるために、そのままにしておいた。

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東莱は、今でこそ釜山の郊外に組み込まれているが、もともとここいらの土地の中心地であった。
東莱府は、上記の郷校が置かれていたような行政都市であると共に、日本軍との戦いがあったような、邑城(ウプソン)であった。
血なまぐさい日韓の歴史の地であるが、明るい外交史の舞台でもあった。
徳川時代に前後十二回行なわれた朝鮮通信史は、この東莱府の担当するところであった。東莱府は現在の龍頭山にあった対馬藩倭館を管理して、対馬藩を通じて日本との外交事務を担当する任務に当った。朝鮮通信使は、この府の管轄である釜山浦から、日本の対馬に向けて出港したのであった。
私は帰国後、李進煕(リ・ジンヒ)氏の『江戸時代の朝鮮通信史』(講談社学術文庫)を読んで、徳川幕府と李朝との国交がどのようであったのかを、知ることができた。これは、名著である。かつての両国の人士たちの、温かい思いやりのこもった交流の軌跡を、ぜひとも読んで欲しい。

この東莱府のような地方の行政拠点には、中央から各種の守令(スリョン)が任命されて、赴任した。
守令は、土地とのつながりもなく、短期間で他の土地に転任させられる。守令たちは、中央集権制度の常として、首都の出先機関であった。日本のような世襲の大名が存在する余地は、李朝にない。
李朝の行政組織は、明朝などの中華帝国の制度とだいたい同じ、中央集権制であった。そして、日本の徳川時代とは、国の体制が大きく異なる。

この半島に、中国型の中央集権王国が、最適だったのであろうか。
現在の韓国は、近代の激しい社会の流動化の結果として、非常に均質な国民となっている。それが可能となったぐらいの、面積しかない。南北併せれば、日本の本州に比べてごくわずかに小さい程度である。
こんなコンパクトな国家には、中央集権制が、最適だったのであろうか。日本の歴史の例と参照したとき、よくわからなくなる。
中央集権制だから、政治の全てがソウルの宮廷の中で、争われた。
国内の改革も、政変も、宮廷が動くかどうか次第であった。よって、宮廷では激烈な権力闘争が繰り返し行なわれ、エネルギーを浪費した上に結局改革を逃してしまった。
李朝はその上、身分制度であった。
限られた階層しか、政治に参入することができなかった。権力と権威は、全て学者であり地主である貴族の両班(ヤンバン)のものであり続けた。渋沢家のような富農も、三井家や鴻池家のような商人も、李朝末期には現れなかった。

私は歴史学者でないので、これ以上の評価はしない。
だが、両班は、末期に至るとはなはだしく腐敗していた。集団として、無為徒食の遊民と化していた。
五百年続いた李朝の制度は、十九世紀末になると、かちかちに干からびていた。水を与えて再びふやかすには、おそらくかなりの時間がかかったに、違いない。
だが、再び水を吸って立ち直るには、十九世紀末期の国際社会は、あまりにも苛酷で、時間を許さなかった。
すぐ隣に、短期間で明治維新を成功させて、意気軒昂とした日本があった。
日本は、革命の輸出とばかりに、金玉均(キム・オッキュン)ら開化派人士の留学を迎え入れ、彼らを援助した。
その日本が、もし真心から相手を説得したいと願うならば、相手に礼を尽さなければならないという、人間たるものの基本を、どのぐらい分かっていただろうか。
帝国主義たけなわの十九世紀末の時代に悠長な空想論だと、批判はあるかもしれない。だが、日本は時間をかけて、李朝の硬直化した宮廷政治を温めながら一歩退く自重の道も、もしかしたら取り得たのかもしれない。

しかし、歴史は無残であった。
第一次日中戦争(日清戦争)は、李朝を巡る日中の綱引きであった。日本が退けば清が半島を支配するだけのことであったから、日本がこれに対抗したことは、歴史上やむをえなかった点もあった。
しかし、清に完勝した後の日本は、かつては少なくとも野心の裏側に持っていたはずの、李朝の改革への期待感を、忘れ去ってしまったのではないだろうか。日本国内の世論は、もはや三国干渉への復讐、ロシアへの討伐一色となってしまった。第一次日中戦争後の甲午改革が挫折した後は、半島はロシアの侵入を払いのけるべき日本の勢力圏として、明治政府の方針は確定した。そこに住む人々の意向を、この時代の日本人は、どれだけ関心を持っていたであろうか。

そうして日露戦争に勝利し、もう世界の列強となった日本は、自分の勢力圏として列強に認められた半島を、すんなり「併合」してしまった。「併合」する必要もなかったのに、「併合」してしまった。

日韓併合を、台湾領有と同一の次元に置いてはならない。台湾は、あくまでも中国の一省であった。その島の民は主に沿岸の福建省から移民してきたもので、漢民族の移民の歴史は、たかだか明朝末期から遡ることができない。
だが韓国の併合は、日本と深く共有する長い歴史を持った一民族を、まるごと隷属の下に置いたのである。日帝三十六年の支配が今に至るまで憎悪の歴史であり続けている事情は、彼らの心情を考えたとき、日本人の私は手を触れると火傷しそうになる。

かなり、筆の走りで書いている。それだけ、私は両国を愛しているからだ。
あまりにも、不幸であった。もう少し両国にとって良い道はなかったのかどうかと、考え込んでしまう。

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コンビニで、おにぎりとカップラーメンを買った。
面白いことに、韓国のたいていのコンビニでは、中に食事できるテーブルと椅子が、用意してある。お湯も、ある。ラーメンの食べ残しを捨てる、ゴミ箱もある。
ラーメンは、わざと辛そうなやつを、買った。
買って、食べた。
なあに、なんてことないな。
十秒後。
自分が間違っていたことを、理解した。
スープは飲むこともできず、ゴミ箱に捨てた。

Korea!2009/02/16その二

バスに乗って、梵魚寺に行った。
寺までの道を、バスが山登りしていく。
高所恐怖症の私は、道脇に松しか植えられていない道のカーブをバスがくねくねと通って行くのを車窓から見るだけで、気分が悪くなった。

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梵魚寺。
境内の松の木が、何とも美しい。
松は、まさしく韓国の木だ。
この寺も、ずいぶんな山の中にある。
秀吉の半島侵攻の際に、この寺は焼失してしまったという。ゆえに、最も古い建物は、17世紀のものだ。
疑問が、ふと沸いてしまう。
-こんな山の中の寺を、なんで日本軍はわざわざ焼いたのか?
あの慶州の仏国寺ですら、日本侵攻時に、焼かれている。
あの戦争のとき、仏寺は同時に山城として、押さえられてあったのだろうか。
私の想像では、そのぐらいしか、思いつかない。
彼らは必死になって抵抗したのであるから、人が住んでいる山の上ならば、寺だろうが何だろうが敵を圧しとどめる拠点として、活用したに違いない。
この辺りは緒戦の段階で李朝の行政組織が崩壊し、長らく占領されていた。


釜山(プサン)と漢陽(ハンヤン)とを結ぶ兵站線がたち切られ、総司令部の軍糧が確保できない状態となった。じつは釜山には三万石の軍糧が陸揚げされており、釜山と漢陽の間に二十二ヵ所の拠点が設けられ、兵四、五万が配置されていたにもかかわらず、兵站線さえ確保できなかったのである。
(李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』、講談社学術文庫より)

李朝軍は崩壊したが、各地で義兵(ウィビョン)が組織されて、蜂起する。
一九五二(文禄元)年四月の釜山上陸からたった二十日で遠い北の漢陽(現:ソウル)まで占領してしまった、日本軍。しかし、翌年の二月になると、上の李進熙氏の書から引用した叙述のとおりの、ありさまであった。この梵魚寺や仏国寺なども、きっと義兵討伐の結果として、あるいは城として活用しているうちに冬の乾燥で失火して、焼け落ちてしまった、、、
帰国後、李進煕氏の著作を読んで、もうひとつの可能性を、思いついた。
-日本軍は、書籍を略奪に来たのかもしれない。
李進煕氏が例をもって示すとおり、侵略軍の諸大名は、李朝から書籍、金属活字、印刷器具の類を、略奪して回った。宇喜多秀家は、書籍の略奪にとりわけ熱心であったと、李進煕氏は書いている。宇喜多、安国寺恵瓊が持ち帰った書籍は関が原以降徳川家に没収され、現在も大量の李朝書籍が日本の各地に残されている。おかげで「十五、十六世紀の朝鮮印刷史の研究は日本でのみ可能だといわれる」(李進煕『江戸時代の朝鮮通信史』)。
これから後に行った海印寺に高麗大蔵経があるように、寺院ならば書籍が汗牛充棟に山積みされているだろうと、大名どもが舌なめずりしたことは、十分想像できるのではないか。
外国の珍しいものを、侵略のついでに略奪する。
野蛮そのものでは、ないか。
抵抗の結果だったのか、略奪だったのか、どちらにせよ日本の非はまぬかれない。
私は、境内で頭を下げた。

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夕方、チャガルチに戻り、近くの国際市場(クッチェシジャン)に向かう。
ホテルで教えてもらった店の、スンドゥブチゲ。
これは、うまかった!
値段が、涙が出るほどに安い。二人前頼んでも、日本の定食より安い。
そして、味わいが深い。ごはんと一緒に食って、感激した。
当然、辛かったが。
その後、有名だという冷麺の店にも、行ってみた。
こちらは、余り感激しなかった。
席に座るとやかんを持ってきてくれて、お茶だなと思って湯のみに入れて飲むと、鶏スープだった。それだけが、ちょっと面白かった。韓国では、緑茶が日本ほど飲まれていない。ペットボトルのお茶は、いろいろな草木の煎じ茶が多い。李朝は、高麗時代に盛況であった仏教を国家草創の時期に一掃して、山奥に閉じ込めてしまった。そしてその際に、仏教文化とつながりの深い緑茶を、生活から捨て去ってしまった。緑茶が文化に組み込まれていない点だけは、韓国は日本と違い、日本は中国・台湾と茶文化を共有している。
だが、全体的な印象として、韓国の味は、日本の味に近いものを感じる。
辛いことだけを省いてしまえば、ここの人たちは、「ウマミ」というものが料理に絶対必要だ、「ウマミ」がなければそれを料理とは言わない、ということを、知っているように思える。
だから、私の口に合わない料理もいくつかあるが、吐き出したくなるような「物体」に、幸いにもいまだ出会っていない。
香港や台湾で私が遭遇した、「料理」ならぬ「物体」としか言いようのない、悲しいものに。

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龍頭山公園(ヨンドサンコンウォン)に、登った。
ここは、もともと対馬藩の倭館があったところなのだが、そんな説明はこの公園に、ない。
この公園は、あくまで釜山タワーと、救国の名将李舜臣将軍像のための、公園だ。
それにしても、半島と貿易のよしみを通じるために、わざわざ姓を惟宗(これむね)から韓国っぽい一字姓の宗(そう)に変えた対馬藩主は、秀吉の誇大妄想によって大迷惑をこうむったものだ。


対馬は、「嬶児(あかご)の乳を絶候ごとく」になったと、後に雨森芳洲が形容している。こうなるであろうことを宗義智(そうよしとも)は戦争のはじまる前から予知していたが、戦争を通じて、対馬の生きる道は朝鮮との平和外交と貿易の隆盛しかないことを、いま一度痛感したにちがいない。彼は日本軍が撤退を完了して一ヵ月後の一五九八年十二月、使節を釜山(プサン)におくり、翌年三月と六月にも使いをやって和平交渉のきっかけをつかもうとするが、朝鮮側は使いをことごとく牢にいれてしまう。
(李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』、講談社学術文庫より)

秀吉の半島侵略は、ただの耄碌ゆえの思い着きではなかったに、違いない。
もともと信長が、日本統一の後に世界征服を、構想していたと思われる。
秀吉は、信長死後の織田家に取って代わった後、信長の構想をそっくりそのまま受け継いだ。
「唐入り」と称した海外侵略戦は、おそらく秀吉が天下盗りを進めている最中から、彼のプログラムに入っていたと、思われる。
そのため、本気でつぶそうと思えばできたはずの対家康戦を、天下統一を早めるために、外交で手打ちした。
そして、後に勇猛な薩摩武者を大陸戦に投入するために、島津氏を寛大に許した。
秀吉は、軍人としては、凄腕の才能を持っていた。
だが、勝手違う外国とどのように付き合うべきかを知らなかった点で、悲しいまでに日本人であった。日本人だから、外交を知らない。世界の中で生きる道を、知らない。占領した半島でどうして義兵がこんなにも蜂起するのか、彼はたぶん死ぬまで理解できなかったのであろう。残念ながら、日本の戦の常識は、外国で通用しなかった。
日本は、秀吉死後、半島撤退の二年後に、関ヶ原。
李進煕氏の簡潔な説明を、いま一度引用する。

日本の状況も大きく変わっていた。一六〇〇年九月の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が義智にたいし、和平交渉に全力をあげるよう命じたのである。それは、「日本朝鮮和交の事、古来の道なり。しかるを太閤一乱の後その道絶えぬ。通行はたがいに両国の為なり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば、公儀よりの命とすべし(『通航一覧』)というものであった。
(李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』、講談社学術文庫より)

義智は、家康の意を受けて拉致者の引き渡しを行い、謝罪の使いを李朝に出した。当たり前のことだが、李朝はなかなか疑って乗ってこない。しかし、一六〇三年に家康は征夷大将軍に就き、豊臣家から権力が交代されたことが、明らかにされた。その間に李朝側でも帰国者によって日本に対する情報が増えて、宗氏からの和平を請う使者もあり、さらに拉致者を続々と引き渡したことも心証を良くした。宰相李徳馨は、「探賊使」として日本に使者を派遣することを、提議する。名前から見て、不信感が表れている。しかしそれでも、一六〇四年(慶長九年)四月、僧惟政(ユジョン)と孫文彧(ソン・ムンウッ)が、対馬を経由して京都に向かう。将軍を秀忠に譲って大御所となった家康は、わざわざ駿府から両名の来日を喜んで、伏見城に出向いて二代将軍と共に会見したのであった。

外交とは、相互の利益のためであって、かつ相互の信頼を作らなければならない。
外交下手の日本も、この時ばかりは短期間で李朝との外交修復に、成功した。
一つは、家康が李朝の末代までの仇である豊臣家を、政権からひきずり降ろしたこと。そして当の家康は、秀吉の侵略戦争に一切関与していなかったこと。
一つは、李朝からの探賊史を、家康が自ら出向いて会見したことで、誠意を示したこと。
もう一つは、李朝にとって北辺の満州族への対応が喫緊の課題となり、南の日本との関係改善が、必要であったこと。
これらの要因が重なって、よい結果をもたらした。
一六〇七年、呂祐吉(リョ・ウギル)を正使として、李朝より「回答兼刷還使」が、江戸に至る。
一六〇九年、国交回復を祝う日本側の使節三百余名が、釜山浦に到着。しかし、李朝はこの使節を首都に迎えず、釜山浦にて丁重に接待した。それは、秀吉軍が十七年前に釜山浦から一挙に首都を襲撃した前例を警戒しての、ことであった。この時、いまだ豊臣家は、大坂に残っていた。結局、これが前例となって、江戸とソウルの間に互いの使節が往来する相互交流は、幕府の終焉までとうとう行なわれなかった(一度だけ、日本の使節がソウルに赴くことが許されたことがあった。一六二九年のことである。後の清朝である後金が李朝に侵略し、李朝と講和した直後、幕府は国王仁祖に謁見して北方情勢を直接確認させてほしいと強く願い出て、認められた。幕府の国防政策上、どうしてもこの新興帝国の事情と隣国の外交方針について知っておかなければならかなったのは、当然であったろう)。相互の外交関係は残念ながら不十分なものであったが、徳川幕府が受け取った朝鮮通信使、前後十二回の研究は、上記の李進煕氏の著作が明らかとするところである。

公園もまた、山の上。
本当に、山ばかりだ。平地なんか、ほとんどない。

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釜山タワーの上から、釜山の港を見た。
写真ではよく分からないが、海の向こうにうっすらと島影らしき姿が、見える。

-対馬島(テマド)だろうか?
展望台の眼下に広がる風景について、説明がないだろうかと探したが、ない。
ここもそうなのだが、いっぱんに名所での日本語の案内は、ないか、あっても韓国語と英語の説明に比べて、挑発的なまでに短い。
私は英語が読めるから説明を知ることができるものの、ちょっと寂しい。

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タワーの下に、世界地図があった。
どうでもよい。
実に、どうでもよいことなのだが、韓国の地図の上には、朝鮮民主主義人民共和国という国は、存在しない。
ピョンヤンは、首都ではなくて、あくまでも地方都市にすぎない。
地下鉄に乗っていると、軍服姿の若者を、大勢見かける。
ファッションではなく義務として迷彩服を着用している若者たちの存在と共に、このことだけは日本人にとって、共有できるはずがない残酷な現実だ。
地図の上のリアンクール・ロックスなどは、この際日本側が笑って許してやってもよいじゃないか。
それで、両国がもっと仲良くなれるならば?
、、、ただの上機嫌で、言ったまでの与太話だ。

Korea!2009/02/16その三

そんなわけだから、私はときどき車をとめて飛びおりては、道をゆく韓服の老若男女に、西面廠舎はどういけばいいのですか、とたずねた。かれらは親切におしえてくれたが、なかには徒歩でゆく感覚でもって、
「ここをゆけば近道ですよ」
と、大まじめで、戦車がもぐりこめば家がバラバラになってしまいそうな家と家とのあいだの露地を指さした。
(『街道をゆく 韓(から)のくに紀行』より)

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夜、西面(ソミョン)に、行ってみた。
帰国して司馬遼氏の『街道をゆく』を読み返して、ここが大日本帝国の崩壊直前に、彼が戦車隊を率いて四苦八苦していた土地であったことを、知った。

現在の西面は、台北の頂好(ディンハオ)を思わせる、急成長中の新都心だ。
しかし、頂好よりも、国の規模の分だけ、街が大きい。
韓国第二の都市で、結構な規模だから、ソウルの巨大さが想像できる。
それにしても。
また、与太話だが。
釜山の街並みを見ると、ぎょっとする建物にお目にかかることがない。
台北や上海で時折見かける、日本人の美的感覚から言って奇怪しごくに「どうしても見えてしまう」(悪気で言っているんじゃないよ。ただ自分が日本人なので、その感覚を述べたまでだ)建物が、ない。
西面のビルなども、日本にあってもしっくり来るデザインばかりが、揃っている。
美的感覚が両民族では近い、と考えるのは、即断だろうか。
そういえば、地下鉄の構内で、バッハがBGMとして流れていた。
途中に寄ったスーパーマーケットでは、私が大好きなバッハの『ゴルトベルク変奏曲』がBGMになっていたではないか。
この民族は、音楽的センスがあるのではないか?
なんてことを、思った。
西面から歩いた向こうにある大きな書店に、行ってみた。
本は、ハングルばかり。
当たり前。全く、読めない。
だから、台北では本を買ったものの、韓国では本を買わなかった。
せめてマンガぐらいならば?と思ってマンガコーナーに行ったが、あんまり規模が大きくない。
かつて池袋西武にあったリブロの荘厳な巨大さを知っている私にとって、この書店は小さなものに、思えた。

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これは、ポムネゴルという駅なのであるが。
島ホームになっている。
これならば、うっかり間違えて乗っても、無問題だ。じじつ、ポムネゴル駅の入り口は、上り下り共に共通の改札になっている。
私は、推理した。
-地下鉄は、何駅かごとに島ホームになっているのではないか?
そう思って、通り過ぎる地下鉄の駅のホームの形状を、観察した。
ポムネゴルから五駅、分離型ホームが続いた。
その後、中央洞駅で、また島ホームが現れた。
-もし乗り間違えたり乗り過ごしたら、何駅か乗って島ホームのある駅で、乗り換えろ。
釜山人の生活の知恵として、そうなっているのではないかと、推理した。
もしそうならば、わかりにくい。
私のように、マヌケな外国人に、優しくない。
韓国は東アジアはおろか、世界レベルでも相当の水準に達していると、私は街を歩いて思ったが、ただマヌケな私が思ったのは、もうちょっと世界中のマヌケに優しくあってもよいのではないかな、と思ったりした。
民族にとって自明の前提であっても、よそ者から見ればぜんぜん自明でも何でもない物事は、いっぱいある。
自民族の常識で物事を考えすぎる性癖のある日本人として、それがこの国に言いたいことの一つでありそうになった。
これもどうでもよいことなのだが、ホテルで飲もうと思って、コンビニでインスタントコーヒーをニ袋買った。
一袋目を開けると、ティーバッグのようなものが出て来た。
どうやって、飲めばいいんだろう?
私は、紙のバッグを開けて、紙コップに注ぎ込み、お湯を入れた。
飲んで、自分が間違っていたことを、知った。
やはり、ティーバッグのように淹れるのであった。一口飲むと、口中にコーヒー豆がじゃりじゃりとして、とても飲めなかった。
一杯を便所に捨てて、二袋目を開けた。別のタイプの、コーヒーを買っていた。
開けた途端、内容物が弾け出して、危うくホテルの部屋中をコーヒーだらけにしてしまいそうになった。
この袋は、インスタントコーヒーの要領だった。
同じ社が出している、同じ形状の袋で、コーヒーの作り方の前提が違っていた。
こんなもの、韓国人ならば常識として知っているのかもしれない。
だが、「同じ社の同じ系列の商品ならば、同じように作れるようにあらかじめ商品を調整してあるはずだ」という日本人の前提を無意識に持ち出していた私は、弾き飛ばされた。
-ほんのささいなことであるが、ここをよく考えれば、韓国は一段と商売が安定するのではないか。
私は、コーヒーを飲んで、そう思った。(コーヒーそのものは、じつに美味い。)

夜、夜食としてまたコンビニでパックのカレーを買ってみた。
コンビニで温めてもらって、ホテルで食う。
カレーだった。
甘ったるくもなく、スパイスの味わいを穏やかにまぶした、カレーであった。たぶん韓国人にとっては、これで大甘口なのであろうが。
やはり、この民族はカレーを分かっている。
それが、安心となった。

2009年02月17日

Korea!2009/02/17その一

こっちへ来ている間に、日本では実にくだらないことで最重要ポストの閣僚が、辞任に追い込まれたようだ。
酒に酔うのは、個人的には、良いことだと思っている。
だが、西洋人の前でへベレケになっては、だめだ。彼らは、東洋人のようにヨッパライを許してくれない。
韓国人と台湾人だけは、心中ひそかに同情してくれていると思いますぞ。政治家氏?

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それはともかく、今日は、古都慶州に行く。
朝一番の地下鉄に乗って、釜田駅まで。
韓国の国鉄Korailの、釜山の主要駅はもともと釜山駅であったが、KTXの登場と共にこちらの駅に移りつつあるという。慶州行きの「列車」セマウル号で、慶州に向かう。ディーゼルカーだから、「電車」ではない。
昨日、この始発駅で切符の前売り券を買ったのだが、自動券売機の表記が、ぜんぶハングルなのには閉口した。
英語すら、ない。なんで?
ハングルにまだ慣れていないので、間違って買ってしまうのが、怖い。自動券売機はやめて、窓口で買うことにした。

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こんなこともあろうかと、事前にワープロで作っておいたのが、これ。
これを書いて、窓口に見せれば、券を買うことができる。応対は、しっかりしているからね。
漢字を使っては、だめだよ。読んでくれないから。
ローマ字も、だめだよ。たぶん、読んでくれないから。
写真は、帰国してから作った、シミュレーション。ソウルから釜山行きのKTXには、乗っていません。
マイクロソフトのWord様式だけれど、アップしておきます。ここに

予約した上のセマウル号には、カフェが一車両備わっていた。
コーヒーを、カウンターで頼んだ。
こちらは英語を混ぜてやりとりしているのに、カウンターのおねえさんは、あくまでも韓国語で応対する。
、、、英語に、自信がないのかな。学校で学んでいるはずだから、知らないはずはあるまい。
そんなところも、日本人に近い。もしこれが香港か台湾ならば、相手さんからは必ず英語に切り替えた応対が、返って来ることを期待できる。

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もうもうと工場の煙を上げる、朝まだきの蔚山(ウルサン)工業地帯。
道を走っている車がほとんど現代と起亜であるように、この国もまた日本同様に、たとい世界不況であろうが工業で生きていくしか、しばらく国の道はないであろう。

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後でよくよく分かったことだが、釜山から慶州まで行くのには、列車よりも高速バスの方がずっと速いし、その上ずっと安い。だから、釜山から慶州まで列車で行くバカなんぞは、私以外にいない。やっぱり鉄道旅行が好きなんですよ、私。

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慶州駅に着いたのは、朝7時半。
しみじみと、寒い。
素手の手が、かじかんで凍えるので、用意していた手袋を着けた。

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この厳しい冷え込みの早朝にも、駅前の通りには朝の露天市ができていた。
野菜、漬物、果物、海産物が、並べて売られている。
煉瓦ブロックのような塊が、積まれて売られていた。
「クッサンメジュ。」
と、書かれている。クッサンは「国産」だろうから、これが韓国のみそなのだろう、とこのときは思い込んだ。
だが、今調べてみると、「メジュ」(메주)は韓国流のみそである「テンジャン」(된장)を作る前段階の、大豆をゆでて荒く潰し固めた玉だということだ。
その後のプロセスは、Wikipediaの説明に任せる。

この塊は、それから日光の下、あるいは温室のような温かい部屋に置かれ、乾燥させられて、大豆の初期発酵プロセスが始まる間、空気中、あるいは干し米に入ったバチルス・スブチルスを増殖させられる。バチルス・スブチルスは、メジュの中の大豆たんぱく質と水を消費しながら、増殖する。バチルス・スブチルスは、メジュの発酵期間が終わった後には、芽胞あるいは内生芽胞に変形する。発酵の期間中、メジュは不快なアンモニア臭を発する。発酵を加速するためには、メジュは温かい場所に置かれ、喚起を調整した場所に置かれなければならない。塊の大きさによって1~3ヶ月の後に、メジュは塩水を入れた大きくて半透明の陶器のかめに入れられて、さらに発酵を進められる。この間、さまざまな有益なバクテリアが、かめの中の混合物を、よりビタミン豊富な物質に変形させる。これはつまり、ミルクをヨーグルトに変形させるプロセスにも似ている。発酵プロセスが終了すれば、水分と固形分は分離される。水分は、韓国の醤油(チョソンガンジャン、조선간장)である。固形分がテンジャンで、とても塩辛く、濃厚であり、(日本のみそと違って、)しばしば丸のままの潰れていない大豆が含まれている。

店頭でメジュがこうして売られているということは、いまだに醤油とみそを自家製で作っている家庭(あるいは、料理店)がある、ということであろうか。釜山郊外の梵魚寺でもこのメジュを見かけたから、細々ではなくて結構広まっているのかもしれない。

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慶州の街並みそのものは、古都の趣きに乏しい。
現市街地は、何の変哲もない普通の韓国の街だ。
街を挙げて観光都市を目指しているという、京都のような空気があるわけではない。
今日は山に分け入ろうと予定したので、まず朝食だけは取っておこうと思った。
喫茶店を探したが、開いているところがない。
しようがないから、24時間営業している「メットナルドゥ」に、入った。
モーニングセットのトレーの上には"I'm lovin' it"のキャッチフレーズが、各国語で表示。
しかし、ドイツ語、漢語、ロシア語まであるのに、その中に日本語がない。
この国の国民感情を考慮に入れて省いたのだろうが(というよりも、日本語を入れたらどこかからクレームが来ることを事前に予想して、あらかじめ逃げたんだろうが)、メットナルドゥの各国支店における文化を尊重した(?)気の回し方に、日本人としてちょっとムッとした。

2009年02月18日

Korea!2009/02/17その二

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慶州は、じつに雄大な規模を持った、古都であった。
現市街地の南に、新羅王国にとっての「王家の谷」がある。
円形の古墳群が、野の中からにょっきり顔を出す。
残念ながら、今は冬の季節で、芝が枯れてあまり見栄えがしなかった。
司馬遼太郎は慶州の古墳群の美しさを絶賛していたが、これが春にもなれば芝も緑となって、さぞかし美観を呈するのだろう。

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南山に登るために、バスで登山口に向かう。
慶州の市街地は小さくて、すぐ農村地帯になる。
降りたところは、一望のど田舎。
雲ひとつなく晴れて、風もない。そして、空気が乾いて、冷たい。

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地図の通りに登山口に向かう。
国道に沿った鮑石亭のバス停から南に歩けば、いかにも日本の登山口の風情をした、二、三軒のお食事所とでっかい登山地図がある地点に、出くわした。
山に、分け入る。
登山口近くにある、三陵ゴル。
新羅初期の王一人と、最末期の王二人の、墓だという。
古い方の新羅第八代阿達羅王の在位は紀元154~184年だというから、中国では後漢時代の後期である。本当ならば、とてつもなく古い。
古墳作りの発想は、中国から流入したものなのだろうか。
それとも、古代遊牧民の墓であるクルガン(Kurgan)の発想が、新羅人にもとからあって、君主のために塚を作ったのだろうか。
新羅王の古墳は、長い歴史のどの王のものであっても、丸っこくて愛らしい。
日本の仁徳・応神天皇陵の、あの異様なほどに巨大な古墳は、どこで半島との間に発想の転換が起こったのであろうか。
ひょっとして、かつて日本人は中国の長安にお登りとして赴いて、秦の始皇帝とか漢の武帝とかの、とてつもなく大きな陵墓を見て、仰天したのかもしれない。
それで、半島の諸国に対抗して、こっちは本場中国のスケールを真似たどでかい墳墓を作ってやる、と権力者が意気込んだのかもしれない。
田舎者が力を誇示するために、いかにもやりそうなことではないか?

山に分け入ろうと思ったものの、日本の山と少し勝手が違う。
南山は、韓国の山々の典型の樹相として、全山が疎な松林だ。
松林の下は空間だらけで、いったいこれが登山道なのか、ただの林の間なのかが、判別し難くなった。
歩いているうちに、これは間違ったのではないか、と不安心が沸き起こった。
引き返した。
外国で山に迷ったら、きっと恐ろしいことになる。とにかく、慎重に慎重を重ねることにした。
二度、中途で引き返して、ようやく三度目に、他の登山客の一行に遭遇して、その後を着いていくことにした。

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しばらくすると、整備された登山道が、現れた。
これで、安心だ。

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松林の木陰に、動く影、、、
リスが、いた。
しかも、いっぱいいた。
松の木をするすると登り、梢を伝って軽々と駆け回っている。
きっと松の実を食って、生活しているのだろう。
これは、素晴らしい。
だが、あまりに素早く逃げ去ってしまい、写真に撮ることができなかった。
撮影できたのは、上の一枚だけ。

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岩肌が露出した、荒々しい山塊の途上に、自然石を彫琢して作った石仏が点在する。
大変な、山道だ。
この南山に仏を奉納し続けた新羅人たちは、きっと山深い世界にこそ、神霊な空気が宿っていると、確信していたのだろう。
日本の修験道などと、同じ信仰心ではないか。
むしろ、日本人の山好きは、かつて日本に大挙して渡来した半島の民が持ち込んだものなのかもしれない。
日本には、山の世界と、海の世界がある。
この両者は、私の直感では、たぶん起源を別にしている。
海の世界は、おそらくポリネシア諸島やマレーと起源を同じくする。韓国では、南端の済州島に海の文化が濃厚に残っている。
いっぽう山の世界は、半島の民の文化なのではないか。
日本人には、海を見たとき郷愁を感じる人と、山に入ったとき郷愁を感じる人とに分かれるのではないか。
私は海を見ても別段何の感慨も起きないが、こうして南山の山々に分け入ったとき、心が清清しくなる。

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空気は、冷たい。
渓流が、凍り付いている。
山は、険しい。
途中地点の金鰲山(クモサン)にたどり着くまでに、1時間30分かかった。
私は山を歩くペースが常人より少し速いから、この南山の石仏巡りは、本物の山登りコースだと思ったほうがよい。標高は低いものの、足場は岩が露出して滑りやすく、道は狭くて険しい。なめてかからない方が、よい。私は金鰲山から先に進む道を迷って、岩山で滑り落ちてしまいそうになった。先ほども言ったように山の木々は疎な松林なので、道でないところを道に間違える恐れが、ある。

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道を、下っていった。
平日の冬なのに、山を歩く人が結構いる。
向こうからやって来たおばさんの一行が、私とすれ違った。
「アンニョンハセヨ?」
おばさんたちは、私に挨拶した。
ああ、こう言っていたのか。
登る途上で、すれ違った人たちが何か言い合っていたのだが、よく聞き取れなかった。
山道ですれ違っても何も言わない人もいるが(男性は、何も言わない人が多いようだ)、言う場合には、アンニョンハセヨ。つまり、「こんにちは」。
どうして、こんなにも日本と似ているのだろうか。
道の途上で、頭の後ろからトントントントン、、、という何かの音が、聞こえてきた。
何だ?と振り返ると-
啄木鳥(きつつき)が、松の幹を叩いていた。
実は、名前だけ有名なこの鳥が木を叩く姿を見たのは、これが初めてだった。
日本の山とは違うが、韓国の山は、自然に覆われている。
愛すべき山河ではないか、と感じ入った。
山道は、下っていく一方だった。
途上でどうやら道をまた間違えたようだな、と思ったが、もうずいぶん下ってしまった。
おじさんにもおばさんにも、後続からずんずん追い抜かれていく。
ここの人たちは、山を歩く足が速い。
とうとう、麓の統一殿(トンイルジョン)付近に、着いてしまった。
元々の予定では、金鰲山奥の石仏にまで足を運ぶつもりだったのが、もういいや。
仏とは風のようなもので、像を拝まなくても後ろからそっと押して、衆生の我らを前に進ませるものだ。なんぞ、石仏をあえて見んや。
リスとキツツキと、アンニョンハセヨ。
これがあったので、南山を登った甲斐は十分にあった。

Korea!2009/02/17その三

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統一殿で、バスを待つ。
日本人みたいな顔をした学生ぐらいの若者と、二人で待っていた。というよりも、韓国人の顔は全てどこかで見たような顔ばかりであって、日本人離れした顔は、街を歩いていても、バスや地下鉄に乗っていても、まずお目にかからない(西洋人は、釜山ではごくまれにしか見かけない。)
私がどうやってバスに乗り降りするべきか、バス停のハングル表示の運行表を見ながら苦労して解読しようとしていたら、学生っぽい若者が、私に声を掛けた。
「ヨギヘ、、、、スムニッカ?」
聞き取れないし、たとえ聞き取れたとしても、単語を知らないのでわからない。私は、乏しい韓国語の知識を動員して、運行表を指し指し、「この『仏国寺駅』に行きたいのです。」と彼に言った。
彼の言葉が、変わった。
「日本人ですか?」
私は、答えた。
「そうです。日本人です。」
若者は、じつにきれいな日本語を話すことができた。
彼もまた、同じバスに乗る予定であった。それで、待っている間とバスに乗り込んでから別れるまで、わずかの時間であったが会話を交わした。
「私は学生で、慶州の生まれです。大学はソウルに行っているが、今は冬休みなので実家に帰ってきたんです。私の実家は、向こうの方です。」
彼は、バス停から南の方角を指した。そこには一望の冬枯れた水田が、広がっていた。
白皙の青年で、いかにもインテリそうだ。東大生か慶応生だと日本人に言っても、きっと信じてしまうに違いないほどに、日本語がうまい。
「日本語、うまいね。私が完全に分かるよ。」
彼は「まだまだ全然勉強できていない」と謙遜した後で、どうして日本語を操れるのか、その理由の一端を言った。
「私は法学の研究をしているので、漢字を勉強しなければならない。韓国では法学の研究者だけは、漢字を学ぶ必要があるのです。それで、日本語も学ぶことができる。」
つまり、ハングルオンリーで日常生活を通している韓国人であるが、漢語(中国語)由来の抽象的な言葉を誤解なく法文として書き記すためには、どうしても漢字を使わないとならない、ということであるに違いない。
これは、よく分かる。
日本語がもしひらがなオンリーとなったならば、法文は全く読めなくなってしまう。韓国語も、日本語も、同音異義語が非常に多いのだ。
今の韓国人は、中学生から高校生まで、一応漢字の学習を受けている。だから、漢字学習が禁止すらされていた一昔前の世代に比べれば、今の若者にはまだ漢字を読める人間の数が多い。彼は、そう言っていた。
漢字が読めなければ、韓国人にとって日本語はあまりにも難しい言葉となってしまう。
彼のように専攻として必要だったために、難しい漢字までも詳しく学ばざるを得ない人間は、たぶん今でもあまり多くないに違いない。
私は次の日に地下鉄の改札口で日本人へのガイドをボランティアでやっている、日本語の勉強に取り組んでいるおばさんと、しばらく話をした。
彼女の日本語は、きれいなものであった。
しかし、おばさんは嘆いていた。
「日本語の漢字が、難しい。まだ、簡単な文字ぐらいしか、覚えていない。それに、一つの漢字で、いくつも読み方があるよ。私の姓は『文』(ムン)なのだけれど、これで『ぶん』、『もん』、『ふみ』、『あや』の四つも読み方があるよ。」
おばさんに言われて、そうだろうなあ、と思った。
この日同行した青年の彼が言うには、日本語は韓国語と作りが似ている、という。
私も、少し学習しただけで、その通りだと思った。
そして、彼が言うには、日本語の発音は、韓国人にとって難しくないそうだ。
私にとって、少なくとも韓国語の発音は、非常に難しい。
だからひょっとしたら、韓国の人たちにとって、日本語はしゃべる方がむしろ読み書きよりも容易な言葉なのかもしれない。韓国語も日本語も、語彙の圧倒的多数は、中国からの輸入語あるいはそれを基礎にして近代に創作された、漢字から成る造語だ。
だから、文法が酷似していて、その上語彙が重なっているからには、発音さえできればしゃべる道に近づけるのかもしれない。
その代わり、私は彼に言った。
「日本人は、香港とか台湾に行けば、言葉を知らなくても文字を見ればいっぱつで意味を理解できる場合が多い。それは、漢字が頭に叩き込まれているからだ。日本語は、漢字がなければ書いても何を言っているのかわからないから、捨てられないのだよ。」
ちょっと悲しい文化だと、思った。
日本人は、ハングルの壁があるために、韓国語が読めない。
韓国人は、漢字の壁があるために、日本語が読めない。
文法と語彙は、互いに非常に似通っているにも、関わらずだ。
同行した青年の彼は、日本に五回行ったことがあるという。
東京に三回、京都・大阪に二回だとか。
一方の私はこれが初めての韓国だと言った後、彼は私に聞いた。
「韓国は、どうでした?」
私は、その時思っていた、最大の印象を答えた。
私は、手に持っていた登山ステッキで、目の前のまぶしく冬の陽に照らされた道をざっと指して、言った。
「道が、きれいだ。私は釜山の市街地からこの慶州まで歩いたけれど、道端にゴミが落ちているのを、ほとんど見かけたことがない。あなたたちはこんなもの何とも思っていないかも知れないが、これは世界にもまれに見る美徳なのですよ。道にゴミを捨てたり、唾や痰を吐き捨てたりすることが悪いことだと分かっているから、こんなに道がきれいなのです。」
私は、かつて香港と台北に行ったときの印象を、話した。
もとより私は、彼らのことを偉大な住民だと思っている。
しかし、この韓国の美しい道に比べて、あまりにも公道徳が足りない。
台北の西門街の汚らしさは、日韓の精神と、残念ながら何かが違っていた。
だから、私は言った。
「中国人の悪口を言いたいとは、思わない。だけれども、彼らは道を汚すことを、あまり悪いことだと思っていないようだ。でもこの国は、そうではないことが、道を見て分かったよ。だが日本の道は、昔きれいだったのに、今やどんどん汚くなっている。残念だ。」

青年と同行してバスに乗って、わざわざ私のために降り先を運転手に告げて、彼は降りて行った。
去る彼に、私は合掌して、感謝した。
バスは、走って行く。
どうやら私を、仏国寺に連れて行くように、彼は告げたようだ。
本当は『仏国寺駅前』で降りて、そこから乗り換えて掛陵(クェヌン)に行こうと思っていたのだが、まあいいさ。
行き違いも、多少の縁だ。
私は、世界遺産であるらしい、仏国寺に向けてバスに揺られて行った。
仏国寺そのものには行ったが、写真を撮っていない。
これまで京都で寺社仏閣を散々見てきた私の目に、残念ながら仏国寺の造形は、感動を起こさなかった。
これも秀吉の半島侵攻時代に消失した寺で、秀吉さえいなければもっと素晴らしい遺跡が残っていたと非難されれば、反論のしようもないが。

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世界遺産は写していないが、脇寺の石積みを写した。
韓国は、石の美だ。
石が、何とも美しい。
この寺は撮影禁止で、私がうっかり寺院の中を撮ってしまったら、寺内を管理しているおばさんから押しとどめられた。
私は寺の左脇にあった石積みがどうしても撮りたいと思ったので、辞書を引き引き「この石積みも撮影禁止ですか?」と紙にハングルで書いて、おばさんに渡した。
結果、撮影禁止なのは、如来像を信仰する、中の仏殿だけであった。
おそらく、信仰の場所は神聖なので、撮ってはいけないということなのだろう。
仏寺では、この国の人は日本人よりもずっと熱心に祈っている。特に、女性が祈っている。ひょっとして仏教は、女性の宗教なのかもしれない。

仏国寺を後にして、バスに乗る。日没には、まだ少し時間がある。
バスの中ではラジオ(?)の放送が、流れている。
台北の街と、違うところ。
台北では、街中でもテレビでも、日本語のポップスや、漢語に翻訳した演歌が、次々に耳に入って来る。
だが、韓国では、日本語の歌を、街中で決して聞くことがない。
K-Pops(こんな言葉があるのかどうか、知らない)の音作りは、日本のものと音楽的にもほとんど同水準のように、耳で聞いて思える。違いは、韓国語で歌っていることだけだ。
この国は、台湾よりも大国なのだ。
大国だから、自国内の文物で、自足できるのだ。だから、歌も隣国から輸入しない。
だがそれは、制約になるぞ。すでに、なっているぞ。
私は、そう思った。日本人についても痛烈に言えることを、この国にもあてはめずにはいられない。

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「博物館」(パンモルグァン)でバスを降りて、慶州国立博物館に入った。
慶州の各遺跡に置いている説明板にある日本語の説明は、釜山のものよりも詳しくて、英語の説明と遜色がなかった。
だが、新羅の見事な文物を収めるこの博物館の内部に入ると、また日本語が消えた。
早く両国の国民が、当然の前提として隣国の説明を併記する時代が来ることを、望む。
写真は、統一新羅時代の土偶。
この造形に、大いなる味わいを感じた。
新羅は黄金の国と呼ばれ、この博物館にも展示されている豪華絢爛な金冠を始めとして、黄金の装飾品が数多く出土している。
それらの金細工の細かさには、作り手の一種の執念を感じた。
金属加工の技術そのものは、すでに中国の漢代以前に、完成している。
春秋戦国時代には、蝋で取った型を用いて、青銅の鋳物で恐ろしいまでに細やかな器が、作られていた。かつて日本の国立博物館で展示された『曾侯乙墓』出土品の、精工無比な春秋時代末期の青銅器を見て、いったい誰が戦慄せずにいられようか。
漢代の中山靖王墓から出土した玉衣は、玉(ぎょく)の板片にごく小さな穴をうがって、そこに細い金の糸を通して連ねていた。金の糸は、絹の糸のように細く伸ばされていた。
だから、新羅時代ならば、中国から技術さえ輸入すれば、この博物館で展示されていたような細やかな金属細工を作ることは、可能なことだった。
注目すべきは、だから技術ではなくて、細かいデザインを愛好する、その意志である。
新羅の金冠や銅馬具(同じデザインの馬具が、応神天皇陵からも出土している)のフラクタル図形のような細かさは、繊細なものに心を惹かれる新羅人の趣味を、表しているに違いない。
その一方で、上の写真のような、人物を思いっきりデフォルメして活写した、その造形。
中国の文物にはない、パワーを感じる。中国は六朝から隋唐時代になるとよほどに文物が洗練されて来るが、かえって古代の文物が持っていたような呪術的な生命力を、失ってしまったように思える。その辺境で文明を輸入した新羅は、しかしいまだに中国とは違った美をこしらえるパワーを、持っていたのではないか。

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展示されていた、新羅時代の壷。
デフォルメされた動物の群れに混じって、この見事なまでに土でひねり出された、女の尻の形。
ここまできっちりと見たいものを一挙に作って見せた観察眼は、中国の文物に決して見られない。
ギリシャの人物彫刻とは違う系統の、人間を描写する目が、新羅人にはあった。現代日本人のマンガを描く目に、きっと通じるものが韓国にはあった。
もっとも、この尻の女性の顔は、目と口を三本の線で描いただけの、超デフォルメであったが。

慶州から帰って、昨日スンドゥブチゲを食べた店にもう一度行って、テンジャンチゲを頼んだ。料金は、同じ。
テンジャンチゲもまた、うまかった。味噌汁であり、味噌汁でなし。しかし、味わいがあることだけは、同じだった。
山歩きで疲れきった体に、付け出しのキムチがうまい。
韓国料理は、激しく体を動かした後に食べるのがよい。
肉体労働を小人の業として卑しむ儒教の君子たちが、本当に現在の韓国料理を開発したのであろうか?私は、ごはんをチゲに浸しながら、ふと疑問に思った。

2009年02月19日

Korea!2009/02/18その一

はっきり言って、疲れた。
一日目に恥の限りをかいて、二日目に昨日のダメージをひきずりながら歩き、三日目に本格的な登山をしてしまった。
猛烈に、風呂に入りたくなった。
私は温泉というものが嫌いな日本国異人で、旅行に行って風呂につかるだけで観光した気分になる輩の心情が、理解できない。だから、旅行に行っても、地元の温泉なんぞに目もくれない。
しかし、この日の朝には、とにかく湯の中で体をほぐしたいと思った。
ホテルの近くに、サウナらしきものがある。早朝まだ暗い頃、ビルの十階にあるサウナ(「チムジルパン」などと名乗っているが、内実はサウナそのものだ)に行って、汗を払った。
サウナの中でも、本当に韓国語オンリーだな。
私がゆっくり英語で話しても、店員の誰も理解できない。掃除のおじさんだけが日本語を理解しようという心構えがあって、シャンプーを欲しがった私に、「サンプル!」と言って、渡してくれた。
だが、風呂から上がって、フロントに借りたシャンプーを返しに行くと、おじさんがどこかに行っていた。残った店員の誰も、日本語は当然として、英語も一言すら理解できない。何か犯罪者であるかのように、じろじろ見られてしまった。
私は、手でモップをかけるボディーランゲージをして、「掃除の、おじさんに、借りた!」と表現してみせた。
ようやく、理解されたようだ。ボディーランゲージが、一番通じるのだ。
だが、にせインテリの私にとって、ボディーランゲージはちょっと気恥ずかしい。その恥ずかしさが、国際理解への障害なのだって?、、、悪かったな。

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朝の、チャガルチ。
台北の朝は、機車(ジーチョ、原付単車)の群れが道路を占有していたが、この釜山では、単車を見ることが、朝はおろか日中を通して、ほとんどない。通勤は、どうやっているのだろうか。地下鉄はあるものの、大きな釜山市街で三路線しかなくては、家からよほどに不便であろうに。(JRに当たるKorailは、本数が思いっきり少ない。それに、韓国には私鉄が存在しないのですぞ。)
何となくだが、この国の人々が、痩せ我慢をしている風景を、頭に描いてしまう。自宅から駅まで、2kmあるって?、、、それが、どうした。ポス(버스、「バス」)が、あるだろうが。バス停もないだと、、、お前は、足を持っていないのか、、、
とにかく、自転車すらほとんど見かけないこの釜山の街は、旅行者にとっては天国のように、街が美しい。

朝方はやる気が出なかったが、一風呂浴びて寒い釜山の市街地に出ると、俄然気合が入って来た。
よおし。今日は、予定通り、海印寺に行くことにしよう。
海印寺は、大邱の郊外(いや、ずっと山の奥)にある、仏教寺院。あまりに山の中にあるために、ここには秀吉軍も、攻め入ることがなかったとか。私は、海印寺に行くために、釜山駅からKorailに乗り込んだ。

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乗った列車の車窓に広がる、豊かな水の流れ。
洛東江(ナットンガン)。
私は、もう中流に差し掛かっているはずなのに、この水量の多さを見て、驚いた。
-これは、堂々たる川だ。
広々とした流れが、山の合間を縫って、流れている。山、尽きるところに水あり。洛東江の山水は、まさしく水墨画にふさわしい風景であった。私は、車窓から見える華麗な風景に、ほれぼれと見とれてしまった。

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しかし、美しい川の姿を鑑賞しながらも、思った。
-この大河は、ケチな川だ。
こんなに豊かな流れなのに、川の周辺に、平野がほとんどない。
これだけの水があれば、野が左右に広がってさえいれば、数百万石の米を作ることができるだろう。
なのに、河口の近くにすら、大阪平野のような沖積平野がない。河口の釜山・金海は、山だらけなのだ。
井上秀雄氏『古代朝鮮』から、引用する。


淀川は河口から約七五キロで海抜八五メートルの琵琶湖に達する。淀川の傾斜度は一キロあたり一・一三メートルである。これにたいし洛東江は河口から約一二〇キロの咸安(ハマン)邑で海抜八メートルである。また三〇〇キロ上流の安東市で、洛東江の水位は海抜八〇メートルである。咸安邑までの洛東江の傾斜度は一キロあたりわずか六・七センチで、淀川のそれにくらべ実に十七分の一である。また安東市までの洛東江でもその傾斜度は一キロあたり二六・七センチで、淀川の傾斜度の約四分の一である。
この傾斜度のゆるさは流域の開発を遅らせることになり、その河岸の沖積平野が近代まで農耕地として利用できなかった理由でもある。弁韓・辰韓の小国はかなり上流まで洛東江を避け、その水位より一〇メートル以上も高いところに位置している。
(井上秀雄『古代朝鮮』講談社学術文庫より)

さらに、

また、洛東江やその支流などによって作られた沖積平野が少しはあるが、この沖積平野を部分的にしろ農地として利用するのは、近世の朝鮮王朝時代になってからである。この沖積平野は四周の山に振りそそいだ雨がここに集中するが、洛東江が超緩傾斜であるため、その雨水はこの沖積平野に停滞する。そのためせっかくの沖積平野が農地にならず、この点が日本の古代農業ひいては古代国家と大きな違いを生じた理由であろう。

井上氏は、日本の淀川が古代国家形成を促進する役割を果たし、洛東江はそれを阻害する役割を果たした、と批評している。洛東江の豊富な水が、超緩傾斜の流れによって利用することを阻み、川から離れた地域に小国が分立する結果を招いた。
洛東江の流れは、筆を取りたくなる風景であった。もちろん、使う具材は、西洋の油絵具ではない。黒い、墨一色だけ。
しかし、鑑賞して美しいこの川は、生活者にとって何とうらめしい流れではないか。

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てなわけで、東大邱駅に着き、バス停まで地下鉄で行く。
写真は、プラスチック製の乗車券。これをセンサーにかざして入場し、出るときはスロットに入れて、回収される。
リサイクルと、いうわけだな。その意気は殊勝であるが、せめて英語くらい構内に表示してくれよ。路線図がハングルだけでは、外国人が迷う。

Korea!2009/02/18そのニ

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バスに揺られて、寺の構える伽倻山系の真ん中へ。
空気はいよいよ冷たいが、雪なんか山上にもないね。内陸気候だ。

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伽倻山海印寺。
高麗大蔵経の版木を収める、名刹だ。あまりに山奥にあるため秀吉の侵攻においても焼かれなかったが、残念なことにその後に火災に逢ってしまった。これだけ空気が乾燥していて寒ければ、冬に暖と食のために火を起こせば、何十年かに一回は火事となるのは、もう致し方なかろう。韓国の寒さは、やせ我慢では過ごしきれない。

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山門を入った先にあった、枯死木(コサモッ)。
9世紀初頭の新羅王エジャン(Ae-jang、哀荘王)が、王妃の病を祈祷によって治癒させた二人の僧への感謝として、多くの寺院・僧院と共に、この海印寺を寄進した。枯死木は、寄進したエジャン王の記念として、境内に植えられたという。それから1200年生き続け、光復の年1945年に、枯死したという。
以上は英語の説明から引き写したものであるが、説明板の中の"zelkova"という木の名前が、分からなかった。
ホテルに帰ってから英語と日本語のwikipediaを並べて参照してみると、あらまし答えが出た。
ケヤキ。
この伽倻山の植生もまたやっぱり貧相なものであるが、寺院の中のケヤキの大樹は、人の記憶として生き続けて来た。今、死んでしまった。誰かが記憶しておかないと、忘れ去られてしまう。

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ここは、まさしく名刹ですね。
背後の借景が、じつに美しい。
境内正面の大寂光殿を撮影しようとしたら、「チャルヨンクンチ」のハングル表記が、目に入った。
「チャルヨンクンチ」(촬영금지、撮影禁止)のハングルだけは、この旅行で目で読み取れるようになった。
インフォメーションセンターに行って、紙に「大寂光殿」とペンで大書して、その後に書き記して、見せた。
「大寂光殿 의 outside 는-」
私は、「チャルヨンクンサ?」と言いながらカメラを取るしぐさを、インフォメーションセンターのおねえさんに示した。本当は上のごとく「チャルヨンクンチ」なのだが、このくらいの間違いならば、相手にも通じる。
おねえさんは、私の漢字を見て、「あー、テジュグァンジョン?」と読んだ。
さすがに、仕事をしている寺の漢字名は、知っていた。
おねえさんとの英語のやりとりはたどたどしかったが、とにかくチャルヨンクンチなのは、仏を拝む殿の内側だけだということが、分かった。

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大寂光殿は、建物そのものは新しい。
屋根の反りが、美しいと思った。
韓国の寺院には、台北の寺院のような華やぎがない。
この国民がたぶん好きな色なのであろう、緑色基調をしている。
石ばかりで出来たような山の中に、緑色の寺院を置けば、枯れたような味わいとなる。
この国の街や山河で感じることは、風景に使われる色合いの数が、少ない。
絵具を取ってみても、墨の黒に加えて、後は緑色さえあれば、表現できそうな気がする。
今は冬だからかもしれないが、釜山の街でも大邱の街でも、花を見かけることがない。
今、日本ならば、梅の季節。
紅、白、黄色の梅の花が、京都ならばそちこちに顔を出して、見る人の目を喜ばせる。
日本人はたとい枯れた冬であっても花の華やぎを風景に求めてやまないが、韓国人はそうでないようだ。
春には芝の緑があれば、それでいいのだろうか。冬はもう、華やぎをあきらめた境地に安住しているのだろうか。
大寂光殿の奥に、世界遺産の高麗大蔵経がある。
写真は、撮っていません。
こちらは、本当にチャルヨンクンチ。

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寺の入り口にある建物で、ただの土産物屋だ。
だから、歴史なんぞ、何もない。
だが、屋根が古さびて、上に木が生え出していた。
後ろの雄大な山々を背景とすれば、何とも一幅の絵になっていた。
山水画の巨匠たちがこの景色を見れば、筆を取らずにはいられなかったに、違いない。
この国は、新しいものまで古さびさせて石と緑の中に埋もれさせる、風水とでもいうべきなのだろうか、何かの力があるようではないか?

2009年02月20日

Korea!2009/02/18その三

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韓国もこんな辺地にまで来ると、日本語は当たり前として、簡単な英単語すら通じない。
完全に、韓国語モノリンガルの世界になる。
英語式に発音しても、ムダ。
韓国語に輸入された英単語は、日本語と同じように、自国語の「くせ」でねじ曲げられて、たいていネイティブの発音と、大きく異なっている。
地名をローマ字で書いても、たぶん読んでくれるか、怪しいのではないか。
昨日慶州で会った白皙の青年が言うには、「韓国語のローマ字表記は、発音とぜんぜん違うから、読んでも意味がないです。」と、言っていた。
そうなのだ。
じっさい、韓国ではローマ字を目にすることが、日本よりももっと少ない。
日本人も英語はしょせんファッションで使っているだけのことで、実用ではなく見栄で飾っているだけのことであるが、少なくともローマ字表記には、親しんでいる。
どうも、韓国人は、ローマ字を読むことも、使うことも、日本人よりもずっと少ないように、見える。
ハングルだけを用いて、筆談と変な韓国語の発音をたよりに、道を聞く。
下山するバスに乗るのに、大変苦労した。
こんな時に役に立つのは、日韓辞書。
ハングルと、基本中の基本の動詞(つまり、「です」、「ある」、「する」の三つ)の活用さえ覚えていれば、日本語の単語を韓国語に直訳して書き記せば、間違いなく通じる。私は、この旅行で、そう確信した。
上の写真の海印寺のバス停は、寺の入り口からずっと上に登ったところにあった。

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帰りの、バスの窓から。
中途で通った高霊(コリョン)の街の近くにも、洛東江が流れている。
もうすっかり川の上流であるにも関わらず、流れはしっかりとしている。
美しきかな、この山河。
恨めしきかな、洛東江。
本当は海印寺でテンプル・ステイをしようと思って、ホームページを通じて申し込んでいたのだが、とうとう返事が返ってこなかった。
縁がなかったと、思うことにしよう。

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夜の、東大邱駅。
なあに、日本と変わらないな。

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、、、と、思うだろ?

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なんと、駅のホームと線路との間の高低は、降りて駆け抜けることができるぐらいに、小さいのであった。現に、目の前でやっていた。ちょっと面白かったので、連続写真で撮りました。
高低が少なく、その上本数が少ないKorailだからできる、芸当だ。
日本に来た韓国人が、母国の常識につられて線路に飛び降りて、死人が出ないことを祈る。

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Korailの誇り、KTX。
釜山から東大邱までの間は、行きと帰りにこれを使った。

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KTXは日本人の間であまりよい評判を聞かないが、私が乗った限りにおいては、十分に快適だと思いましたよ。
もっとも、釜山から東大邱までの間は在来線を走っていて、専用線のあるソウル~東大邱間よりも、速度が遅い。ソウルから乗ったならば、どんな感じになるのかは、今回の旅行で私の知るところではない。

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釜山駅のそばの店で食った、ソルロンタン。
これはどんな料理なのかと、尋ねられれば。
「調味料の入っていない、豚骨チャーシューメン。」
肉と、ねぎと、麺が入っているのだが、スープに味がない。
そこで、付け合わせとしていろいろ出てくる薬味を、好きなだけ入れる。
キムチ、コチュジャン、こしょう、ニンニク、それに塩。
大阪ミナミの、金龍のラーメンみたいになった。出されたご飯もまた、このスープに浸して食う。
だが、しょうゆだけはなかったな。

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今日、海印寺を観終わった後に、境内にあった店で、オデン(오뎅)を一串食った。
正直言って、驚いた。
それは、正真正銘の、「おでん」の味だった。
だしと言い、しょうゆと甘みの味付けといい、日本の味とそっくり一緒だ。
ホテルに戻る中途、チャガルチの屋台でオデンと餃子を、買った。
両方とも、中身は確かに日本のものと違う。餃子には春雨が入っているし、オデンの練り物には、少し唐辛子風味が入っているものもある。(入っていないものも、ある。)
しかし、日本人の舌にとって、基本の線を決して踏み出していなかった。
これらは、台湾にあったような、日式料理もどきでは、ない。
むしろ日本料理の、別のバリエーションと言っても、よい。
やはりこの国は、日本と分母が共通している、数少ない国であるに違いない。
だしの味が分かるという、日本人にとって空気のような前提を共有してくれる国民は、ひょっとして世界の中で韓国人だけなのかもしれない。
私は、嬉しくなっておでんをつまみにして、ホテルでソジュを飲んだ。

Korea!2009/02/19その一

本日、天気は下り坂。
昨日、釜山に帰る電車の途上で、司馬遼太郎の『街道をゆく 壱岐・対馬の道』を、読みふけっていた。
-対馬島(テマド)を、見てみたいな。
そんなことを、思った。

「たしかに、そうです。あれは巨済島でしょう。」
と、李進熙氏が言った。金達寿氏には見えたかどうか。ただいつもは姿勢のいいこの人が、うつむいて松林の砂を踏んでおり、話題に入って来ない。
「巨済島ですか。」
「位置からいえばそうなります。」
と、李進熙氏が言った。この御前浜からは方角が悪く、見えにくい。ともかくここから巨済島の南端まで西北六十数キロにすぎず、土地の人は晴れた日、ごく日常的な海景の一つとして巨済島の島影を見ているのである。

巨済島(コジェド)は、高麗がモンゴルに屈従した時代、フビライの送った黒的・殷弘の両名の使者が日本への渡海を望んだとき、高麗の政府が日本を見せるために案内したところであった。黒的・殷弘の両名の使者は、冬の荒れる海の向こうに見えた対馬島を見せられて、その渡海の困難を知らされてすごすごとフビライのもとに帰ったという。

晴れた日に、巨済島に行きたいと、思った。
インターネットで天気予報を見ると、今日から明日にかけて、雨模様。晴れるのは、土曜日しかない。
それで、土曜日を巨済島に行く日と、した。
もう一日、慶州に行く必要がある。まだ、全てを見ていない。
そういうわけで、今日はもう一度慶州に行くことにした。雨よ、ほどほどに降ってくれ。

手持ちのウォンが、少なくなってしまった。
それで、クレジットカードでキャッシュを引き出そうと思って、中央洞まで歩いて、銀行に入った。
ATMを操作したが、受け付けてくれない。
銀行の受付をしているおっさんに、英語で聞いてみた。
おっさん、英語がわからない。
日本語は、もっとわからない。
私は、「カード、ハゴシポヨ。No、イムニダ。」と、ATMから出て来たレシートを見せて、何とか説明しようとした。
ようやく、おっさんは窓口に駆けて行って、出納係の人に、韓国語で事情を説明してくれた。
おっさんは、この銀行ではない、近くにある外為を業とする、別の銀行を指示してくれた。
銀行の外まで着いていってくれて、指差した。
「イゴ?」
「ネ!」
おっさんは、笑って私にうなずいた。
おかげで、クレジットカードでキャッシュを引き出すことができた。
しかし。
私の入った銀行は、たぶん釜山では最も支店の多い、大銀行のはずだぞ。
そこで、日本語はおろか、英語すら通じない。
-おっさん、それでええんか?
私は、内心関西弁で、つぶやかざるをえなかった。

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今日は、老圃洞(ノポドン)まで地下鉄で行って、そこからバスで慶州に向かう。
老圃洞駅の手前の駅が梵魚寺駅で、三日前に梵魚寺駅から地下鉄に乗った時、軍服姿の若者たちが車内に大勢乗っていた。
老圃洞は市外バスターミナルの集積地だから、たぶん彼らは韓国各地からの勤務から、郷里の釜山に戻って来たのであろう。あるいは、釜山市内の基地に、向かう中途であったのだろう。
バスの車窓に、冬枯れの田が広がる。
だが、ふと思った。
-この辺の土地の、水はどうしているのだ?
見回せば、川のようなものがない。
濃尾平野のような、用水も掘られていない。
あるのは、水もほとんど流れていない、溝だけだ。
そんなことを思っていると、途上で水たまりが目に入った。
慶州までの途上に、いくつかあった。
ため池を掘っているのに、違いない。
ならば、大阪平野や讃岐平野と、同じ要領だ。
農村の風景は、日韓でよく似ている。しかし、かつての社会の構造は、両国で違っていた。

昔、地主として田園に君臨していた両班(ヤンバン)たちは、現代の韓国人にとって忌まわしい害毒であったのか、それとも追慕すべき理想であったのか。

李氏朝鮮の社会制度は、明王朝を模範としたところから、始まった。ゆえに、官の登用試験である、科挙(クァゴ)があった。
しかし、時代の進展と共に、中国の制度とは微妙に異なったものとなった。
韓国語が漢語とぜんぜん違う言葉であるという事実が、科挙のための言葉を使える身分と、使えない身分との差を作り、それを固定してしまった。
李氏朝鮮王朝の社会は、両班、中人(チュンイン)、常民(サンミン)、賤民(チョンミン)の四身分であった。身分制が機能していたのが、前近代の中国社会と李朝社会の、違いである。

李朝は、中国の文明を輸入した。
しかし、日本であれば室町時代である李朝初期には、まだ半島の民は中国文明の「形」を知らなかった。その「形」を半島の民に教えることを期待されたのが、両班であった。科挙に及第し、ソウルで高官に昇った官には、国王から土地と奴婢(ノビ)が与えられる。そうして、彼らの家は農奴を蓄える地主貴族として、しだいに成長していった。そして、栄えある祖先を持ち、祖先に倣って学業に精を出す伝統を、後世に伝えながら。
両班は、日本の徳川時代における、「士」の身分に相当する。
ただし、日本武士のように、法によって固定された身分ではない。
又引きで申し訳ないが、宮嶋博史氏『両班』(中公新書)に引用された宋俊浩(ソン・ジュノ)氏の言葉を引くと、


明確に言いうることは、(両班)が法制的な手続きを通じて制定された階層でなく、社会慣習を通じて形成された階層であり....

だがしかし、
両班と非両班との限界基準が相対的であり、主観的であったからといって、それが曖昧模糊としたものであったと考えるならば、それは誤りである。実際においては至極明確な基準があった。

言い換えれば、李朝社会において、法により決められてはいないものの、社会ははっきりと「両班の家」を民衆と識別していた。それは、外国語である漢字を知り、外国思想である儒教を学び、そして先祖に科挙に及第した高官あるいは高名な学者を持っている集団、ということであった。たとえるならば、国家と地方の政治と文化を指導する、学者家族の集団とでも言うべきであろうか。両班である資格が外国語と外国思想であったから、とりわけ明確な差が生まれることとなった。
両班以外の民衆が、「農・工・商」を受け持つ。
彼らは、科挙を受ける道を、ほとんど閉ざされていた。
両班と同じ韓国語を話す民であるにも関わらず、なのだ。
科挙に必要な文字である漢字(ハンジャ)を知らず、ゆえに『論語』『孟子』といった外国思想書を読むことができないからであった。両班は、漢字を使えない常民を、蔑むことはなはだしかった。同じ民族なのに、外国語の知識の有無だけが、身分差別の根拠であった。
ただし、後にハングルと呼ばれる諺文(おんもん)は、彼ら民衆のための文字であった。そして、ハングルだけに限定すれば、男子の識字率は低くなかったかもしれないことが、イザベラ・バードが漢江を旅行した際の報告から予感される。

英語版Wikipediaの"Joseon Korea"の項目が説明するには、1750年ごろ、半島の人口は、約千八百万人という。その後、1810年から1850年までの間に、人口は約10%減少し、それから定常化した。
さらにWikipediaの説明に、頼る。
このうち両班が、1800年までに総人口の30%を占めていた。残りが中人、常民、あるいは賤民といった階層を占めていた。李朝の当初は、もっと両班の比率が少なかった。だが、時代が下がるにつれて、その比率が高まっていった。両班は明確な身分であるが、その資格が漢字を読めるかどうかにかかっていることが、時代が下がるにつれて両班の比率を増やす要因の大きな一つであったのではないだろうか。李朝当初に比べてよほどに儒教が大衆化し、外国思想に触れることが国初よりもさほどに希少価値でなくなるにつれて、あの手この手で両班に成り上がろうという機運が社会に生じるのは、当然のなりゆきであったろう。両班の資格は国初に極めて厳格なものであったが、上の宮嶋氏の著作が概説するところによれば、十九世紀には庶子の子孫や諸吏どもまでが両班文化に参入して、自らの族譜(チョッボ)を作って誇示するようになった。そうして、現在では族譜をもった両班の家は、韓国ではどこにでもいる。

李朝末期の社会を旅行した外国の観察者にとって、両班は腐敗した搾取者たちのように、描かれている。彼らは、いっさいの労働を軽蔑する。儒教の君子は頭を使うのが仕事で、農商工業などする必要はないのである。最重要テキストの『孟子』に、はっきり書いてある。

-堯舜の天下を治むるや、豈(あ)にその心を用いるところ無きかな。また耕に用いざるのみ。
(『孟子』滕文公章句上より)

いにしえの聖王、堯舜が偉大であったのは、頭と心を用いて政治をなし、民に倫理を教えたからなのだ。田畑を耕す小事ごときなど、手足を動かすしか能のない、哀れな小人の仕事である。君子の仕事は、別Iにあるのだ。
彼らはそう思想的に信じきっていたからこそ、芸術的なまでに労働をしなかった。飯も作らず、物を手で運ばず、キセルに自分で火すら点けない。李朝の農村では貨幣経済が極めて貧弱であったから、彼らの生活を成り立たせるためには、奉仕するための下僕が、常に周囲に侍る必要があった。そんな生活が、外国人旅行者たちの目には、異様で無様な無為徒食に見えたとしても無理はない。
旅行者が見た李朝末期の両班の実際の統治はといえば、下僕を引き連れて無為に農村を闊歩し、勝手気ままに農村に労役を課して、富を搾り上げていた。このような両班は、旅行記を読んだ限りにおいて、胸のむかつく搾取階級である。彼らが李朝の社会経済の停滞の元凶であるという直感を、確かに私は禁じえない。
なのに、十八世紀半ばに千八百万人も人口がいたというのが、今の私には今一つ理解できない。洛東江の流域が農地に変わったのは、李朝時代なのだ。李朝時代前期、確かに経済は上向いていたのである。開国後の西洋人や日本が見た李朝の停滞の前には、成長の時代もまたあったはずなのだ。李朝末期の両班は遊民であったかもしれないが、王朝が創設された時期には地球上で圧倒的に先進国であった中国の思想と文明を輸入する、受信塔であった時代があったはずだ。上の宮嶋氏の著作が説明するところによれば、李朝前期の両班は、農業経営者として地方の開拓をすすめていた。高名な世宗大王(セジョンデワン)の下命により編纂された『農事直説』(1430)や、民間で編まれた『農家月令』(高尚顔著、1619)などは、中国の農書から刺激を受けて、韓国の風土のために書かれた農業技術書であった。両班は、少なくとも秀吉の侵略までの李朝前期においては、国を文明で改造するための学者であり、農業経営者であった。中国から少し離れた日本人は、かつての中国文明の高みを、いまいち認識していない。

姜在彦(カン・ジェオン)氏の研究書『朝鮮の開花思想』(岩波書店)は、李朝末期の開化派の系譜を明らかにしようと試みた、一大労作である。著作においては、開化派に先行する内発的な改革思想である実学者(シラッチャ)たちの業績が、明らかにされている。


朝鮮儒学の「分流」として実学派が、十九世紀前半期に思想界の「本流」に転回できなかったことは、近代朝鮮が迎えなければならなかった開国とそれにつづく開化期をおくらせ、外勢とのからみあいの中でその近代的発展をより困難にしたといえるであろう。
(『朝鮮の開花思想』pp.59)

国学としての朱子学が李退渓(イ・テゲ、1501-70)・李栗谷(イ・ユルゴッ、1536-84)の両学によって頂点を極めた後、しだいに現実ばなれして虚学化していった。「実学」は、だいたい十八世紀から十九世紀にかけて、虚学化した朱子学を揺さぶり、中国や西洋の技術科学に目を向け、さらには国政改革への提言までを試みようとした。姜在彦の例示する彼らの国政改革案には、両班が実業に従事することの許可奨励(李瀷など)、身分にとらわれない人材登用と、そのための教育の機会均等(洪大容)、国内の流通改革(朴斉家)など、日本の徳川時代における改革思想とほぼ同様の提言が、網羅されていたのだ。
李瀷(イ・イッ、1681-1763)、洪大容(ホン・テヨン、1731-83)、朴趾源(パク・テヨン、1737-1805)、朴斉家(パク・チェガ、1750-1815?)、それに丁若鏞(チョン・ヤッギョン、1762-1836)といった思想家たちが、停滞していたと思われていた李朝後期には、群像としてあった。李朝の「実学」は、ちょうど日本における「実学」(じつがく)の発展期と、時を同じくしていたのだ。彼らの存在があった以上、李朝後期の人間たちが技術や合理性に一切理解を示さなかった鈍物揃いであった、わけがない。

ただ、李朝の国是は、儒教一尊であった。
その上、唯一の公認学問が、朱子学一尊であった。
朱子学は、よほどに魔力を持った、学問であったのだろう。中国宋代から始まり、東アジア諸国の学者たちを魅了してやまなかった。かつては韓国人も、日本人も、この学問の魔力に頭がぼおっとなっていた時代が、確かにあったのだ。

もともと儒教とは、教祖である孔子・孟子の素朴なお説教と、いにしえの宮廷儀式の次第を収めただけの、宗教(?)であった。
高度な哲学をはやくから展開した、仏教や道教に比べて儒教の教義体系は、とても見劣りするどころではなく貧相だった。
それを、一大転換したのが、宋代の儒者たちであった。
彼らは科挙の勉強として自分たちが学んだ儒教の体系を磨き上げて、仏教や道教に匹敵する高度な哲学に、儒教を作り変えた。その集大成が、南宋の朱熹(朱子)であった。
この私とて、朱子学は難解すぎて、その全貌を理解することができない。
ただ、あくまでも印象批評であるが、朱子学の特徴として以下の点を指摘しても、あながち的外れではないかと思う。
一つは、朱子学は、宇宙の全ての現象を一つの原理で説明しようとする、大胆な綜合哲学である。
二つは、朱子学にとって孔子・孟子が後世に残した教えは、絶対無謬であり、反論の余地はない。
三つは、そうした朱子学は極めて難解であって、凡庸な頭脳の持ち主では、その教義に近寄ることすら、難しい。
こういった朱子学が、巨大な魔力をもって、東アジア諸国の秀才の頭脳を、捉えて離さなかった。私は、朱子学はマルクシズムに、その点で似ていたと思う。
李朝の子弟の頭脳は、朱子学に500年間も、捉えられた。
実学者たちは、国学としての朱子学を結局打ち破れないままに、敗北してしまった。
一八〇一年の辛酉教獄では、天主教(キリスト教)と共に西学に傾斜した分子が邪学として弾圧を受け、死罪、獄死、流刑が行なわれた。こうして、丁若鏞らの属する南人派は政界から失脚し、本学すなわち朱子学の保守派が勝利した。以降、李朝は西洋排斥の空気が支配する、十九世紀前半の勢道政治(セドチョンチ)の時代へと突入していく。
李朝の権力闘争は激烈なもので、権力闘争は思想上の対立によって行なわれた。敗北した側には死罪、遠方への流罪、一族の権力からの追放が行なわれ、執拗であった。佐幕派の薩摩藩と倒幕攘夷派の長州藩が坂本龍馬のあっせんによってコロッと仲直りするような、昨日の思想を今日捨てる式のお手軽な政治は、李朝に見られなかった。

姜在彦氏の上の引用は、せっかく李朝には内発的な改革思想が日本同様にあったにも関わらず、政治として身を結ぶことができなかった歴史を嘆いたものだ。
十九世紀末の開化派はややもすれば日本の走狗である「親日派」と貶められて、十九世紀末李朝の諸改革は、外圧による他律的な改革にすぎなかったと評価されがちである。姜在彦氏の書はその通説に対して、李朝固有の改革思想の伝統があったことを強調して、李朝の改革の担い手たちには、外圧を受けながらも改革して独立を保つ道を模索しようとしていた、自律的側面があった点を忘れてはならないと、訴えているのである。姜在彦氏の主張に従えば、韓国版の明治維新は、諸外国の外圧と、なかんずく日本による併合政策によって、進む道を歪められてしまったと評価するべきであろう。

韓国人に、ビジネスの才能がなかったわけでは断じてない。
それは、現在の韓国を見れば、すぐにわかる。
ただ、彼らは儒教一尊によって、長い間自らを縛ってしまった。それで日本に比べて大きく出遅れて、結果として隣の日本に「併合」された。イデオロギーの害毒は、国民の力すら歪めてしまうものなのだ。おそらく、現在の北朝鮮の人々も、今でも潜在的には南の人々と遜色ないビジネスの能力を持っているに、違いない。単に、政治が押し留めているだけであるに、違いない。

2009年02月21日

Korea!2009/02/19その二

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まずは慶州市外バスターミナルから、歩いて金庾信将軍の墓に行く。
インフォメーションセンターでもらった地図のとおり、墓への通り道には桜並木が植えられていた。
春にもなれば、さぞかし美しいことでしょうな。

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墓域へ入るこの大極図の描かれた門は、韓国の様式であって、他に同じ慶州の大陵苑(テヌンウォン)でも見られるし、普通の田舎の大屋敷の裏などでも、見ることができる。

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将軍の、墓。
韓国の田舎に行くと、山のふもとにこの形のままで規模を小さくしたお墓を、いくつもいくつも見ることができる。
頑固なまでに新羅時代の古俗を守って、祖先の祭祀(チェサ)を続けるこの国のしぶとさには、時代時代の流行にコロッと転んでは捨てる浮気な日本人として、感嘆するより他はない。

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墓の周囲には、十二支の動物たちが、面白い甲冑姿で陰刻されている。
写真は、今年の干支、丑(うし)さんの、将軍像。
本日時間がなくて、掛陵には行くことができなかったが、おとつい国立慶州博物館で掛陵の十二支像と金庾信墓の十二支像が並べて説明されていたのを見たので、二つが同系統の作品であることを知った。
この彫刻は、確かに河内飛鳥(大阪府羽曳野市)にある杜本(もりもと)神社の「隼人石」と、よく似ている。
以下、『大阪府の歴史散歩』(山川出版社)から、杜本神社について引用する。

地元の伝承では、この地方は聖徳太子が巡幸のみぎり、黒駒をとどめ休息された故事から、"駒が谷"と称したといわれているが、実際は河内国安宿(あすかべ)郡の狛(こま。高麗)村だった公算が大きい。
安宿(飛鳥戸)の語源は朝鮮語のアンスク(安住地)からきているといわれ、アンスクからアシュクと変わり、漢字で表記して安宿になったと考える説が有力である。
小丘の上にある杜本神社は、延喜式内社で、祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命の夫婦神で、経津の神宝といわれる"日月の刀剣"と土鏡(日月鏡)が保存されている。本殿の両側に隼人石という人身獣面の石碑が一対たっている。これは新羅の王都慶州に存在する"金庾信古墳"の周囲に建てられている十二支神像のひとつに似ているといわれる。附近は渡来系の人びとが居住したらしく、村内に多い"真銅""金銅"の珍しい姓と共に、注目される。

本の説明では分かりづらいが、「アンスク」とは「안숙」のことであろう。手元の辞典では、「安息」の漢字が、当てられている。だが、いっぱんに言えることなのであるが、古代韓国語は、よくわからないのである。世宗大王(セジョンデワン、1397-1450)の時代に現代のハングルのもととなる「訓民正音」(フンミンジョンウム、後世、蔑んで「諺文」とも言われた)が公布されるまでは、漢字以外に記録が残されていない。だから、古代の韓国人がどのような言葉を話していたかどうかは、万葉がなが残されている日本語のように、遡って研究することが難しい。ゆえに、現代韓国語から古代語を類推するのは、残念ながら科学的とはいえない。上代の日本語が現代日本語と似ても似つかぬ別言語であり、千三、四百前のヘプターキー(Heptarchy)時代の英語が現代英語と何から何まで違っている事情を見れば、同じ民族でも使う言葉がいかに時代によって変化するのかという実情が、分かってしまうものだ。

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左が、隼人石の写真。
右が、金庾信将軍墓の十二支像の中から、卯(うさぎ)の像。
彫り方は違うが、デザインは酷似している。
同一のデザインを作る集団に属する彫り師が、海のこちら側と向こう側で作ったと、推理するより他はない。あるいは、新羅から日本に輸入されたのかもしれない。
日本と、半島。二つの国と民族は、古代に遡れば遡るほどに、近かった。

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慶州の都を潤す、兄山江(ヒョンサンガン)。
この国は、水が豊かだね。
慶州は海岸からちょいと入った川そばの盆地に築かれた都で、日本の京都と山水の構図に、似通ったものがある。
平安京は、(平安時代後期には崩れてしまったものの)唐の大長安城を真似た、四角四面の都であった。
しかし、慶州の構造は、おとつい慶州博物館で見た新羅時代の慶州復元模型を見る限り、四角四面ではなかったようだ。
無理なく山水と祖先の陵墓を包み込むように、都市が柔軟に作られていた。
古代は、むしろ日本よりも半島のほうが、中国の猿真似ではなかったのかもしれない。

2009年02月22日

Korea!2009/02/19その三

今日は、これからヤンドンミンソンマウルに、行く。
日本語に訳せば、「良洞民俗村」。
市外バスターミナルで、日本語も英語も通じない世界の中で、四苦八苦しながらバスに乗る。

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まあ、着いたんは、ええものの、、、
どないして、行けばええん?
日本の常識として、バスから降りれば、すぐに観光地だと思っていた。
この国は、旅行者に根性を要請する、剛毅な国だ。

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さきほどの写真にある道を、えんえんと歩き続けた先に、ヤンドンミンソンマウルがあった。
このマウル(韓国語で、村)の説明は、慶州市発行のガイドブックに任せよう。

月城孫氏と驪江李氏によって形成されたヤンバン(両班)ムラで村全体が文化財(重要民族資料第189号)として1984年12月24日に指定された。全国に6カ所の伝統民族村があるが、村の規模、保存状態、文化財の数と伝統性、そして美しい自然環境とおかされていない郷土性などで他のどんなところよりも優れており、みどころも多く1993年には英国のチャールズ皇太子もここを訪問された。

李朝社会の中核であった、両班。
現在、韓国人のほとんど全員が、両班の子孫に当たるという。
それは李朝末期から近代にかけての激しい社会変動の結果であろうが、このマウルの両班は、正真正銘の本物、李朝を支えた功臣・学士を輩出した、名門中の名門である。


孫氏と李氏の両家を合わせて、科挙の文科及第26名、武科及第14名、生進士科に合格したものが76名で、人材の輩出がもっとも多い地域として名高いヤンバン(両班)ムラである。

上のパンフレットの引用における「生進」(センジン)とは、科挙の受験資格を得るための一次試験の司馬試のことで、進士試と生員試の二つの受験コースに分かれていた。だから両方を併せて「生進」とこのパンフレットは呼んでいるのであろう。司馬試は、中国でいう学校試に当たる。中国では、この試験に受かって「生員」(ションユァン)と呼ばれるだけでも郷里ではたいへんな名誉となり、地方の官に就職できる道が開ける。李朝でも、たぶん同様の事情であっただろう。

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華やぎは、いらない。
それが、両班の美学であった。
村は、全体として、土っぽい。
本瓦をした家屋の屋根が、重々しい。本瓦とは、写真のような平瓦と丸瓦を交互に組み合わせた葺き方で、古代中国から受け継がれた様式である。日本では、由緒ある寺院は必ずこの本瓦葺きになっている。徳川時代以前まではこれが標準であり、徳川時代までは、日本に瓦なんぞ寺院と大名の天守閣にしか、なかった。徳川時代になって、平瓦と丸瓦を一体化した桟瓦(さんがわら)が、発明された。軽くて安いこの瓦はたちまちに広まって、現在の日本の家屋はほとんどが桟瓦となっている。韓国でも見かけるが、あればそれはたぶん日帝時代以降の建築であろう。

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今でも、人が住んでいる。
村は、坂が多い。
楽々と、見学させてくれない。
観光客をもてなして、楽にきれいな風景を見せるというサービス精神は、両班の魂からは遠いようだ。
韓国では、どこに行くにも、足を使わなくてはならない。

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畑で、コチュ(唐辛子)を、植えていた。
韓国では、これがなくては料理ができない。
コチュはビタミンCが豊富で、その上火を加えても栄養分が消え去りにくい。
ビタミンCは人間が最も必要とする栄養であるが、毎日コチュさえ食べ続けていれば、欠乏症になることはない。
同じくビタミンCが豊富なお茶を、仏教と共に捨て去った李氏朝鮮の人々は、コチュを愛して食することによって、代替としたというわけか。

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無忝堂(ムチョンダン)の写真を、撮らせてもらった。
説明によれば、1460年ごろに建てられた驪江李氏の宗家だという。
梁(はり)が、わざとしたように、歪んでいる。
真っ直ぐな木材を作る技術がなかったわけではなかろうから、これは全く美意識の問題であるはずだ。
大地主の宗家であるはずなのに、家そのものは貧しい空気を放っている。

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柱も、大歪みに歪んで、ぞんざいな空気を作り出している。

茅茨(ぼうし)、剪(き)らず。(十八史略)

上の言葉は、儒教がその統治を黄金時代として理想とする、いにしえの聖王である堯帝(ぎょうてい)の宮殿の質素さを称えた、表現である。堯帝は、民を慈しみ暦を作り、庶民の中から舜(しゅん)を見出してこれに政治を任せて、死後には自分の息子ではなくて舜に位を譲った。彼は中国最高の君主の一人であるにも関わらず、その宮殿は剪り揃えもしない、茅茨(かやぶ)きであった。
さすがに両班の屋敷じたいは、周辺の一般農家がいまだに茅茨きであるのとは違って、瓦葺きであった。だが、儒教の本場の中国人が君子の質素さをどこかに忘れ去ってしまい、富貴を求めて楽しむ楽天的な人間たちになってしまったのと違って、ここの国の君子たちは、儒教の経典が教える道を、大真面目に実践しようとしていたに、違いない。それが、偽善だって?、、、それは、このムラに入ったからには、言ってはならないよ。

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床の木材は、段違いになっている。
これは、明らかにわざとやった結果だ。
金をかけて、わざわざ貧しく見せる。この家は、冬の日に何とも寒そうだ。

堂の高さは数仭(すうじん)、榱題(しだい。よこはり)は数尺。我は志を得るとも、為(な)さ弗(ざ)るなり。 (孟子、盡心章句下

地主であっても、豊かな生活を求めない。それが、儒教の君子である。
ゆがんだ梁と、段違いの床柱は、そんな美意識のなせるわざなのであろう。

人名が記載されていて失礼に当たるので写真は撮っていないが、無忝堂の壁に李氏一族の行事担当者たちの名簿が、墨書で掲げられていた。
韓国人の男性名には、伝統的に木・火・土・金・水の五行(ごぎょう)のどれか一つが、漢字に組み込まれている。
名簿の人名で調べたら、確かに全ての人名に、水と火を確認することができた。たとえば水ならば、「さんずいへん」を使った字を一字、名前に組み込む。火ならば、「ひへん」であったり、「れんが」であったり、あるいは太陽を表すために「日」の字を組み込む。
私にはそのシステムがよく分からないが、一族の始祖から始まって代を重ねるごとに、この木・火・土・金・水をぐるぐると回していくらしい。だから、本貫(ポングァン、始祖の墳墓がある土地)を同じくする同姓の韓国人であれば、名前を見ただけで祖先から何代目かが、分かるようになっているという。それで、小学生の男の子が五十代のお父さんのおじに当たるようなことが、ありえるというのだ。もし現在そうであることが判明したら彼らがどのように対応しているのかは、知らない。五十代のお父さんが、小学生の男の子におじおいの礼を取るのであろうか。

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山道に分け入ると、陶器の破片が落ちていた。
拾ってよく見たら、釉(うわぐすり)がかけられている。
-李朝陶磁の、破片かな?
一瞬、そう思ったが、、、まさかね。

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村だから、鶏がいる。
静かな村で、聞こえる音といえば、鶏と犬の鳴き声ばかりだ。

-鶏犬、相聞こゆ。

『老子』の、そんな一節を思い出した。
そのとき家の中からとつぜん大きな音が鳴り出したので、何だと思って振り返ると、斧で薪を割り始めていた。
いにしえの古俗を守るのも、ここまで来ると愉快になってくる。
空から、とうとう雨が降って来た。
傘は、一日目に紛失してしまった。中途で買おうと思ったが、コンビニよりも慶州市内で買ったほうが安いだろうと思って後回しにしていたら、買うのを忘れてしまった。
戻ろう。雨が、本降りになる前に。
私は、ヤンドンミンソンマウルを後にして、またえんえんと続くバス停への道を、歩いて行った。

Korea!2009/02/19その四

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とぼとぼと歩く道の横に、単線、無電化の線路がある。
線路の上を、貨物列車が通り過ぎて行った。
のどかだねえ。今日は天気が悪いのが、ちょっと残念だ。
バスで、また慶州に戻る。
バス停は国道のど真ん中で、車がものすごいスピードで、駆け抜けていく。
ちょっと、いやだいぶん怖い。

慶州の市外バスターミナルに着くと、雨が本降りになっていた。
傘がないと、もう歩けない。
バスターミナルの売店で、折りたたみ傘を買う。
「オルマ(いくら)?」と聞けば、「チルチョノォン(7000ウォン)。」とおやじが答える。
買った傘は、ずいぶんいい加減な作りだ。
これで日本円で500円ぐらいとは、高すぎる。
ぼったくられたな、と思った。

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雨の中、日没まで再び慶州を歩く。
雨にけぶる、大陵苑(テヌンウォン)。
慶州の市街地の中にある、王家の谷だ。
これが春にもなって、晴れた日であれば、さぞかし美しかったに違いないのに。ちょっと、残念だ。
陵墓と陵墓の間に通路が作りつけてあって、敷地をぐるりと取り囲む塀の北門から南門まで、通り抜けることができる。
日本の古墳では、こんなことができない。
天皇陵なんて、あれは徳川時代の国学者が、しかもいい加減な知識をもって認定したまでのものだ。
だから、考古学的に言ってあきらかにおかしい陵墓が天皇陵とされていて、代わりにおそらく天皇陵であろうと思われる大規模な古墳が、ただの陵墓参考地になっている。日本では、そのどちらにも入れない。徳川時代には、ひょいひょい入れたものが。日本は、何かがおかしい。
著名な天馬塚の中にも、入った。
中はチャルヨンクンチであるが、はっきり言って撮る価値など、ない。
出土した黄金冠の本物は、国立慶州博物館にある。ここにあるのはレプリカだから、タダで観れる博物館に行った後には、有料であるここに入る必要は、ない。
まあ、入場料金は、素晴らしい古墳の間を歩くために払ったと、思うことにしよう。

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慶州のシンボル、瞻星台(チョムソンデ)。
いにしえの都のよすがは、もう現代にはほとんど何も残っていない。
壮麗であっただろう月城(ウォルソン)の遺跡には、もう何もない。瞻星台の向こうに見える月城の基壇には、木が生えているばかりだ。

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おとつい私が行った、国立慶州博物館に作られていた、いにしえの慶州の姿の模型の写真を、示す。
右上にあるのが、月城。
左手前にあるのが、大陵苑。その右に、下の写真にある、陵墓群。
向こうに見える塔が、芬皇寺(ファヌンサ)だ。
復元模型には、「これが正確な姿でないかも、しれません」と断り書きがあったもの、いにしえの慶州のイメージだけは、この模型から掴むことができるだろう。新羅の慶州は、平安京に勝るとも劣らない、壮麗な王都であった。
今、何もかもが、失われてしまった。
石と、土の古墳だけが、こうして残った。
悲しいが、だけれどもこの石と土の国に、ふさわしい末路なのかもしれない。

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大陵苑の南、月城の西にも、陵墓の群れがある。
この三つの敷地が、あくまで慶州の一部にすぎないのであるから、都の大きさが分かる。
美しい陵墓のすぐ脇の、猫の額のような敷地がハクサイ畑になっていて、刈り取った後の残り葉がしおれて腐りかけていた。
剽軽(ひょうげ)ているというのか、田舎じみているというのか。

2009年02月23日

Korea!2009/02/19その五

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伝統的な韓国家屋が、いくつかあった。
ちょっと失敬して、家の門の瓦を、触ってみた。
ざらり、という冷たい感触が、指に伝わってきた。
-石瓦?
私は、そのときそう思った。
日本に帰国したその日に飲んだ夕映舎氏にそのことを話したら、「石の瓦のわけがないやろ。土の瓦に、決まっている。」と、否定された。
私の、思い過ごしだったのかも、しれない。
だが、韓国の屋根の瓦は、釉(うわぐすり)など掛けてピカピカの日本の瓦とは、ぜんぜん違う。

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家並の古さびた風景は、華やぎのないモノクロームの世界だ。
どの家も重厚で、まことに絵になっている。
だが、私はこの古めかしい家並みを見て、思った。
-ここに一輪の花が咲いていれば、この風景は想像を絶する美しさになるだろう。
塀の向こうから、たとえば紅梅の花が、覗き出していれば。
呉竹の青さが、清清しい光を放っていたならば。
だが、華やかなものは、何もない。
台湾のようににぎやかすぎるのも考えものだが、寂しさの中に一点の花を咲かせる、情緒の趣きが韓国の街並みには欲しい。
花好きの日本人の、たわごとさ。民族には、それぞれの美的感覚がある。

有名だという酒店に行って、生酒の名品を、買おうと思った。
名品だけあって、値段がひどく高い。
日本語が通じると聞いていたが、行ってみるとおじいさんしかいなくて、通じない。
どう説明しようか迷っている私に、おじいさんはにっこり笑って、私を奥の方へ入れてくれた。
コップに酒を注いで、試飲させてもらった。
前にチャガルチで飲んだ清酒(チョンジュ)はすっぱくて、清酒(せいしゅ)好きの私をがっかりさせた。
今度は、どうだろうか。
、、、
帰国後、夕映舎氏に、私は言った。
「韓国は食い物は、全部うまい。だが、酒は残念ながら、良いものがないとしか、言いようがない。」
ソジュ(焼酎)は、確かに飲みやすいし、アルコール分も清酒より高く、その上とびきり安い。コストパフォーマンスは、抜群だ。
だが、あれは安酒だ。
思わず魚を伴にしたくなるような、高級な米の酒は、韓国にない。
夕映舎氏に、買って帰った、その酒を飲ませた。
「いや。」
夕映舎氏は、猪口から一口を含んだ後で、私の批評を、否定した。
「日本の古酒も、こんなものやで。あくまで、これは日本の清酒とは違う、別系統の米の酒やと、思ったほうがいい。お前の即断は、誤りや。これをうまいと思う日本人も、きっといるはずや。」
彼が言うように、私の即断なのかもしれない。
私は、結局マッコルリ(濁酒、どぶろく)も、この旅行で試してみなかった。マッコルリを置いている店を、見つけることができなかった。
しかし、これはただのイルボンサラムのおせっかいなのかも知れないが、肉を楽しむ伴としてならば、ワインというとびきり美味い酒が、存在する。
韓国は日本よりもずっと肉好きの国民だから、この際ワイン造りを始めてみたら、どうだろうか。
南の慶尚道や全羅道ならば、ぶどうを作れるはずだ。さらに南の済州島ならば、なおさら作れるだろう。
肉を食べる機会が韓国人よりも少ない日本人よりも、うまいワインを舌で作り上げることが、できるかもしれない。
酒を買って、また市外バスターミナルまで歩いていった。
途中、土産物のパン屋がいくつもあったが、値段を見て通り過ぎた。
韓国は、安いもののほうが、どんなものでも、断然よい。
私は、この頃そんな印象を持つようになってしまった。
市外バスターミナルの横の屋台で、串のホルモン焼きを売っていた。
「ハンゲ、オルマ?(一個、いくら?)」と尋ねれば、店のおばあさんが、威勢良く答えた。
「ハンゲ、サッペグォン!セゲ、チョノォン!」
つまり、一本400ウォン、三本ならば、たったの1000ウォン(70円足らず)。
私は、三本買って、食った。
-うまい!
タレの味が、まことに絶妙であった。これとソジュさえあれば、倒れるまで飲むことができる。

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釜山に帰って、二日目と三日目に行った店にまた行って、ナッチポックムを頼んだ。
ナッチポックムとは、「イイダコの混ぜご飯」。
まず、タコと野菜と春雨が入った小鍋を、コンロで火通しする。
煮上がったならば、白いごはんを入れて、よく混ぜる。
出来た料理は、辛さの中に、うまみがある。私は、かっこむように食べた。
値段は、スンドゥブチゲよりも、ちょっとだけ高めだった。
海産物の分だけ、高いのかもしれない。
この店には四品しかメニューがないので、私は結局その三品までも、この旅行で食べてしまった。もう一品は本格的な鍋で、きっと美味いに違いないが、残念ながら、一人前がない。

Korea!2009/02/20その一

朝、今週いつも通っている、ホテルの脇のコンビニに行って、コーヒーとパンを買う。
店内の放送に耳を傾けると、日本語であった。
韓国で日本語が聞こえるのは珍しいので、店頭で、にいさんに聞いてみた。
「日本語?」
聞けば、にいさんは日本語を、アニメを聞いて練習中だったとか。
日本語を学んでいる人は、かなりいるぞ。

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そういうわけで、朝。
あー、本日は、何も予定していません。
もともとの予定は、大田(テジョン)から扶余(プヨ)に行って、いにしえの百済(ペッチェ)の遺跡を偲ぼうかと思ったが、はっきり言って、KTXは、もう飽きた。
前日に観た天気予報も、今日は雨模様だというし。
今日は、ゆっくりしよう。そう、思った。
それにしても、予報とは違って、今日もまたいい天気だ。
晴れ男なのですよ、私。だから、女を濡らすことが、できない。ははは。

中央洞までてれてれ歩いて、地下街に入る。
地下鉄の改札前で、高(コ)さんと、金(キム)さんというお二人のご老人が、日本人旅行者のために案内のボランティアを、やっておられた。
お二人は、もうすっかり余生を楽しんでおられるという境地であるかのように、終始ニコニコとして、私の質問にいろいろと答えてくれた。
私は、その時頭に思いついていた、質問をした。
「レンタサイクルは、ありますか?」
高さんは、答えた。
「ないんだなあ。韓国には、自転車旅行をするという考えが、まだ根付いていないんだよ。だから、自転車専用道路もないし、駐輪場もない。これから、発展させていくことに、なるのさ。」
そうか。
だから、市内でも自転車を、ほとんど見掛けないのか。
高さんは、言った。
「自転車屋に行けば、借りられるかも、しれないけれどね。だけれども、韓国の自転車は、日本のものと違って、重たい。自転車旅行は、できないよ。」
横の金さんが、口を挟む。
「できるよ。」
高さんが、撃退する。
「いや、できないね。」
金さんが、混ぜっ返す。
「そんなこと、あるかよ。できるよ。」
私は、お二人のやりとりを横で見ながら、愉快になった。この国の人々は、人との付き合いを、実に楽しんでいる。
高さんが他の観光客と応対している間、少しの時間金さんと私だけになった。
金さんは、私に椅子を薦めて座らせて、私に言った。
「僕は、大阪に住んでいた。だから、言葉が大阪弁だろ?」
言われてみれば、確かにイントネーションが、大阪弁であった。
私は喜んで、大阪弁に切り替えて、言った。
「いやー、そやね。その通りですわ。」
金さんは、もう36年間も、独り暮らしをしていると言う。
彼は、私に言った。
「君も、独り者なんだって?ま、独りでいた方が、気楽なもんだけれどね。お金は、全部自分で使えるし。妻を持って、子供を持ったら、うんとお金を使わなくてはならない。家庭を持った方が幸せかどうかなんて、分からないよ。でも、韓国の息子たちは親孝行だから、息子を持たないと不幸だって、言われるんだけれどね。」
聞けば、韓国では親が困窮していたならば、子供は援助しなければならないという、法律まであるという。
この国では、儒教の心がいまだに息づいていると思った。私は日本人で、親不孝者だ。
高さんが戻って来て、笑って私に言った。
「韓国の娘を、貰ってくれよ。だめかい?」
私は、あわてて手を振って、答えた。
「人をモノみたいに、貰うことはできませんよ。土産物ならば買えるけれど、人はモノじゃない。それは、人をバカにしていると、いうもんです。」
金さんは、言った。
「そうだな。韓国でも、いっぱい国際結婚しているけれど、その三割が破綻している。外国人と結婚するのは、やっぱり難しいもんだ。」
高さんは、私に言った。
「でも、韓国の娘は、かわいいだろ?そう、思わないかい?」
確かに、美人が多い。ひょっとしたら、日本より多いかもしれない。
これから後、どこに行こうと思っているのかと問われて、私は答えた。
「巨済島に行こうと、思っています。」
高さんは、聞いた。
「へえ、なんで?」
私は、言った。
「巨済島に行けば、対馬島(テマド)が見えると、本に書いてありましたので。」
高さんは、ハハハと笑いながら、否定した。
「巨済島からじゃあ、対馬島は見えないよ。対馬島って、この辺りじゃないか。遠すぎて、見えないよ。」
高さんは、私が持っていた韓国の地図の右端に、指で楕円を描いた。
高さんは、付け加えた。
「対馬島ならば、太宗台(テジョンデ)に行けば、いいんだ。今日なんか晴れているから、たぶん見えるよ。影島(ヨンド)が、いちばん対馬島に近いんだ。そう、そう、ここだ。」
高さんは、地図の裏側にあった釜山の地図の上を、指差した。
そうか。
ならば、今日はこれから、太宗台に行くことにしよう。
そう、決めた。
何でも聞けばよいとおっしゃるので、私はさらに聞いた。
「この辺で、美味い店って、ありますか。」
高さんは、答えた。
「チャガルチに行けば、何だって安くて、美味い。入って、欲しいものを頼めばいいんだ。辛いのが苦手ならば、辛くないようにしてくれって言えばいい。最近の日本人は、辛いのが平気になってきたようだね。昔の日本人は、韓国の料理は辛くってだめだって、嫌っていたもんだ。僕は、日本料理は大好きだよ。かつおぶしのの味が、うまい。しょうゆの味も、うまい。日本人は、焼き魚をしょうゆだけで食うのが、好きなんだろ?」
私は、塩を振って焼いた魚を、しょうゆと大根おろしだけで食べるうまさを、言った。
高さんは、そうそうとうなずいた。
「僕は、中国に行っても、食事がうまいと思った。でも、日本人は、中国の料理は苦手かも、しれないな。油っこくて。」
私はむしろ、中国の料理は「ウマミ」を愛する心に欠けているのではないかと言いたかったが、このときはうまく言うことができなかった。
いろいろと長話をして、私はお二人と別れた。
そういうわけで、これからチャガルチに戻って、入った店でめしを食う。それから、影島の太宗台に、赴くことにしよう。明日は、巨済島行きはやめにして、その代わりに李舜臣将軍の海戦の跡である、統営(トンヨン)に足を運ぶことに決めた。
後で『街道をゆく』を読み返したら、確かに巨済島は対馬島が見える島であるに、違いない。
だが、今日の私は、文献よりも人の言葉を、信じることにした。

2009年02月24日

Korea!2009/02/20その三

「見えます」
李進熙氏は、陰気なほどのしずかな声でいった。
「絶影島です」
言われてみて、海を見た。せまい湾口に区切られたみじかい水平線上に、なにかあるらしい。凝視しつづけると目が疲れてしまい、淡い影がとらえられなくなってしまう。そのうちにしみのような影が、分別できるようになった。
(『街道をゆく 壱岐・対馬の道』より)

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絶影島(ぜつえいとう、ジョリョンド)というかつての島の壮絶な名前から連想したのか、それともこの『街道をゆく』の旅行で、司馬遼氏の同行者であった金達寿(キム・タルス)氏と李進熙(リ・ジンヒ)氏が、国籍の関係上韓国に渡航できないという苦悩を下敷きにした旅行であったことが、私の心を重くさせたのか。とにかく、影島(ヨンド)とは波頭の中の僻地であると、勝手に思い込んでいた。
ところが、橋を渡って入ってみると、そんなことはない。
司馬遼氏は、この島を「ビスケットのカケラのように小さな島」と形容していたが、ここは釜山市の一区を為すほどに、大きくて人口の多い島だ。いっぱい、人がいる。きれいなマンションが、うんと立ち並んでいる。だが交通の便は、市内バスしかない。

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見たまい、この船の群れ。
釜山港(プサンハン)は、栄えている。
衰退する一方の関西に住む私として、この風景は、うらやましい。

きれいな歩道が、海岸沿いに造り付けられている。
歩くというレジャーを、この国民がいかに愛しているかが、道を歩けば分かる。
影島どころか、ここは光の島だ。
途上の一軒の家の裏で、白梅が咲いていた。
やっぱり、梅を咲かせることができる、気候なのだ。
単に、咲かせることに、あまり興味がないだけなのだろう。

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海へ降りることができる、遊歩道。
ちょっとしたところにも、石のモニュメントがある。
石を愛する、韓国人。
花を愛する、日本人。
この両者が手を結べば、必ず世界に冠たる大文明を打ち立てることが、できるだろう。私は、今本気で、そう思っている。

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釜山といえば、椿。
なのに、この影島まで来て、ようやく植えられているのを、こうして見かけた。
絞りの椿が、清楚である。

椿咲く春なのに
あなたは帰らない
たたずむ釜山港に
涙の雨が降る

一日目に屋台の居酒屋に飛び込んで、この歌を高歌放吟したような、記憶がおぼろげにあるなあ。
クソバカ、だねえ。

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何じゃ、こりゃ?
自動販売機で、買ってみた。
-松のつぼみ、ドリンク。
英語での表記は、そうなっている。
韓国人は、松の実ばかりでなく、松のつぼみまで食しているというわけか。
韓国人は、日本人のように梅(ウメボシ)と竹(タケノコ)を好んで食しているようには、見えない。
だが、日本人にとっては食べ物ではない松の木を、逆に食べられる木として、尊重しているようだ。
さすが、木といえば松の林の山を持つ、国民だ。
飲んで、みる。
、、、形容し難き、味がした。

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晴れた日の、影島と釜山港の風景は、美しい。
街全体が、清潔である。
香港も確かに夜景は美しいのであるが、華麗なビルと隣り合わせに、おそろしく貧しくて不潔な昔のアパートが平然と並んでいたりする。香港は、遠くから眺めたらダイヤモンドのように見えるが、近寄って見ればあちこちがケシズミになって、汚れている。
隅々まで清らかである、釜山の勝ちだ。
所々で、釣りを楽しんでいる人がいる。
バス一本で、こんな結構なリゾート地に行くことができる釜山人の暮らしは、ぜいたくだ。

Korea!2009/02/20その四

さて、バス停の終着点まで歩いたものの、太宗台の先にある展望台には、どうやって行けばよいのだろう。
バス停の終着点は、食い物屋が立ち並んでいる。
ちょっと早いが、もう一度食うか。ついでに、行き方を聞こう。
中央洞で会った高さんが、私に勧めていた。
「魚のスープが、うまいぞ。チャガルチに行ったら、試してみるとよい。」
店の看板に、「해장국」と書いてあるのを、読んだ。
-ヘジャングッ。
私は、ヘジャンとは「海醤」のことなんだろう、と解釈した。ならば、海醤スープ。これじゃないか。
私は入って、メニューのヘジャングッを指して、頼んだ。

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出て来たのが、これ。
海産物なんか、どこにもない。あれれ?
中身は、濃厚な肉味の味噌汁に、骨つき肉(牛肉と思っていたが、後で調べたら豚肉らしい)とモヤシが入ったもの。空きっ腹だったらうまいに違いないが、まだ昼飯から大して間が空いていなかったので、正直胃にもたれた。
本当は、ヘジャンの字を当てるならば、「解酲」となるのであった。「酲」という難しい字を漢和字典で引いて見たら、「わるよい。ふつかよい。」とあった。
つまり、このスープは、ふつかよい覚ましスープと、いうわけのようだ。英語と日本語のWikipediaを交互に参照したところ、このスープの起源は高麗時代に遡るが、一般人に流行したのは、太平洋戦争直後のソウル鐘路地区のとある店からであるという。
店のおばさんにハングルで書いて、「展望台は、どこですか?」と聞いた。
おばさんは、「食べた後に、教えてあげるよ。」と言って(いるはずだ。何を言っているのかは、わからない)、笑った。
食べ終わって、「オルマ?」と聞いたところ、おばさんは、「ユッチョノォン。」と言った。
だが、一瞬私は、混乱した。
「ユッチョノォン?」
六、千、ウォン。そう、言っているはずだ。肉スープだから、ちょっとばかし高い。それはまあ、いいとして。
おばさんは、左手でパーをしていた。
それから右手の親指を立てて、いわゆる「サムズ・アップ」の仕草をしていた。
私はこのポーズを、「五千ウォンだよ、OK?」と、この瞬間解釈したのであった。
それで、言っていることとポーズに食い違いを感じて、混乱してしまったのであった。
「オチョノォン?、、、アニエヨ、、、ユッチョノォン、、、」
次の瞬間、理解した。
「六」のポーズが、日本人とこのおばさんでは、違っていた。
日本人は、「六」を示すときに、片方の掌でパーを作って、もう片方の手で人差し指を立てる。さらに、片手の人差し指を、もう片手の掌に押し付ければ、強調するポーズとなる。
だが、このおばさんの「六」のポーズは、人差し指の代わりに、親指を立てるものであった。
おばさんだけの、くせなのだろうか。いやいや、これで相手に通じなかったら、するわけがない。たぶん、韓国人の「六」のポーズは、こうなのであろう。
たった十秒ほど続いた、文化摩擦であった。
理解して金を払った後、おばさんは店の外に私を連れて行った。
おばさんは、太宗台のほうを、指差した。
ポーズから、あの入り口に入った、むこうにあると言っていることが、わかる。
そういうわけで、これから太宗台公園の中に、入って行く。
歩かされるなあ。

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ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ

歩きながら、そんな歌を、つぶやいた。
今日は、暖かい。
すっかり、春が近づいている空気を、感じる。
韓国の道に、花は乏しいけれどね。

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山道をぐりぐり進んだ、その果てに、とうとう対馬海峡が開けた。
見えないなあ。
やっぱり今日は、空気が霞んで、対馬島(テマド)は見えない。
二日目に釜山タワーからおぼろげに見えたのが、たぶん対馬島だったはずだから、今回の旅行はあれで見えたということに、自己認定しよう。

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あれが、展望台。
だが、今日はどうせ登っても対馬島が見えないから、行く必要はないや。
ところでこの岬の名前になっている太宗(テジョン)とは、新羅の武烈王、金春秋(キム・チュンチュ)のこと。
彼は、さきに慶州でその墓を見学した金庾信将軍とのコンビで、当時百済・高句麗の攻勢に追い詰められた自国の勢いを、超大国である唐との同盟を取り付けることによって、一挙に回復させた。
そのためには独自の国制を放棄して唐に臣従し、暦も官位官服も、唐を模倣した。勝つためにはなりふり構わず、徹底的にやる。太宗は、まさしくカジャの韓国男児であった。カジャ(가자、韓国語で『行こう』)の精神こそが、昔も今も、韓国である。
太宗の判断は、正しかった。半島の世界では強国であった百済であるが、超大国の唐が滅ぼすと決めたからには、もういけなかった。形勢は一変して、太宗の治世中に、百済はあっけなく滅亡した(660年)。
この後に、新羅は唐と連合して、日本軍と合した百済復興軍を白村江(はくすきのえ)で破り(664年)、さらにすすんで唐と共に高句麗をも滅ぼした(668年)。だが唐の本当の狙いは、半島全体の支配であった。唐が新羅を援助した真意は、強敵の高句麗を南から攻めさせる手駒として、新羅をしばらく太らせることであった。戦後、唐は旧百済の領域に兵を置いいたまま退かず、あまつさえさきほど滅ぼしたはずの百済の政権を、自らの軍の支援で復興させようと企んだ。
新羅は、ついに唐と開戦した。
676年、唐の海軍を錦江(クムガン)中流で破り、唐を百済の領域から追い出すことに成功した。こうして独立を保った新羅は、半島最初の統一王朝となった。
新羅の統一史を見ると、半島の宿命を感じる。この半島は、常に四方にある勢力に、囲まれている。半島は、それらの勢力と和し、力を借り、時には戦いながら、独立を保っていかなければならないのだ。
この太宗台は、百済を亡ぼして意気揚揚とした大王が、ここに登ってその絶景を賞した場所であるという。海の向こうにある、かつて人質として囚われていた日本に向かって、ザマーミロの一言でも叩き付けて、高笑いしていたのかもしれない。

この海峡は、韓国名では、南海(ナメ)と呼ぶ。
ここは、日本人にとってむしろ1905年の日本海海戦で連合艦隊が遊弋していった海として、有名である。
だが、詳しく知りたい日本人は、インターネットで調べろ。
それか、『歴史群像シリーズ 日露戦争』(学研)を買って、読め。
日本人にとっては列強の仲間入りをする戦争であった日露戦争も、韓国人にとっては隷従の屈辱への、一里塚だったのだから。私はその内容を知っているが、この稿でベラベラしゃべらん。

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太宗の笑い声が聞こえて来るかのような、まさに絶景。
展望台の下は、断崖絶壁。
人が、入り込んでいる。
つまり、ここまで降りることが、できる。
私は、降りなかった。
この写真を撮るときですら、足元が震えた。
柵もない絶壁に、よくこの人たち進んでいくなあ。
これが、カジャの精神なのだろうか。

Korea!2009/02/20その五

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私は、この旅行で、韓国に対して満腔の愛着を、感じることになった。
だが、本稿に関してだけは、厳しく批判させていただく。それは、ひるがえってわが国日本に対する、批判でもあるのだ。
見たくない人は、本稿を飛ばしてください。

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Korea!2009/02/21その一

いよいよ、最終日。
この日は、この国の真髄を見せ付けられた、一日であった。
この愛すべき国民は、やはり日本人とは、違う。
しかし、違うことを前提として付き合えば、こんなに仲良くなって楽しい外国人は、日本人にとってたぶん世界のどこにもいないだろう。
しぼむ一方の日本を活性化させるために、韓国というウマ辛の隣国を、ぐっと食せ。そして、返す刀で、韓国に食われるのだ。日本人よ!

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キャッシュは少ないが、地下鉄に乗るぐらいは、残っている。
西面で乗り換えて、沙上へ。
それにしても、どうして乗り換えのホームにまで、上り線と下り線の間に柵を設けるのだろうか?
いったん間違った乗り換えの方向に進んだら、途中で修正することが、できない。ずっと手前まで、戻らなくてはならない。
ここまで上りと下りが徹底的に分離されているのを見ると、国防上の理由でもあるのかと、勘繰りたくなってくる。
そのくせKorailは、線路の上を走って向こう側に行けるんだけれどね。ははは。

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思った、とおりだ。
左の写真、英語のできない人のために訳しておくと、
(青)ここでは、駅を乗り間違ったばあい、ホームを渡って反対側の向きに進む電車に、乗ってください。
(赤)ここでは、反対側の向きに進む電車への乗り換えは、階段を登って渡ることしか、できません。
この路線は、比較的乗り間違っても、乗り換えられる駅が、多いようだ。
それでも、乗り換えられない駅が、いっぱいある。
この地下鉄2号線にはこうして路線図に事情説明がしてあるものの、私が今回多用した1号線には、説明がない。

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市外バスターミナルがある、沙上。
チャガルチから、ずいぶん離れている。釜山の街は、うんと大きい。
ターミナルに行って、クレジットカードを見せて、聞く。
「OK イムニッカ?」
受付は、首を横に振る。
使えない。
なんて、ことだ。
公共交通機関たるもの、ホームページにひとたび掲載した事項は、必ず末端まで徹底して実行しなければならないという、市民社会のイロハが、分かっていないのか。
これでは、インターネット立国なんか、夢のまた夢だぞ。大事なのは、プログラムではない。コンテンツなのだ。ネットを通じた、便利で安全なサービスの、構築なのだ。私はこの国が日本と対等のビジネスを行なう能力があると固く信じているから、このような不手際に出っくわすと、余計に腹が立つ。

しかし、私はこんなことで、くじけたりはしない。
こんなにも、よい天気だ。가자、가자と、空の青さが、私に言っている。
沙上は、中心街から遠くても、結構開けている。
道の向こうに、「은행」のハングルが、目に着いた。
この旅行で散々な目に会わされたため、「銀行」のハングルも、読めるようになった。
その銀行は、以前カードで下ろせなかった銀行と、同会社。
クレジットカードで、操作。
この銀行のATMには英語はあるのに、だがやっぱり今回も、キャッシュを引き出すことができなかった。
がっくり、うなだれる。
-コンビニの、ATM。
私は、その手段を、思った。もう、それしかない。
コンビニは、いっぱいある。
私は、その一つに入って、ATMを操作した。
幸いなことに、英語が使える。クレジットカードも、使える。
"Cash Advance"のボタンを押して、暗証番号を入力した。
-出た!
二万ウォンを、引き出すことができた。これからは、このコンビニを使うことにしよう。
この国は、どういうわけか、チープな方がよりよいサービスを、提供してくれる。
そういうわけで、統営行きのバスに、乗り込むことに成功。
この旅行、菩薩か天帝に、守られているかのよな気分だ。苦しくなったとき、必ず道を通じさせてくれる。
だが、試練はこれから先の、ことであった。

Korea!2009/20/21その二

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この、美しい川の流れ。
洛東江の、河口付近。
もし今後、私の前で韓国が不潔だなどと言う日本人が現れたならば、私は今回撮った慶尚道の写真を見せて、その誤りを正す。

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慶尚南道の農村風景は、日本の農村風景と、あまりにもよく似ている。
山があり、美田がある。
所々に無粋なコンクリートの構造があって、風景を汚している。
しかし、そのような工業社会の強姦行為にも耐え忍んで、全体としてやっぱりまだ美しい。
それは、元が美しいからだ。汚れた水が、ない。ゴミの山が、ない。
慶尚道の気候は西日本よりも寒く、冬空は澄んでいる。山には木々が少なく、岩肌が露出している。しかし、これも我らが文明の、もう一つの形だ。日本と韓国が同一の文明圏にあることは、慶尚道の農村風景を見れば、すぐに分かることだ。サミュエル・ハンチントンは、韓国を中国文明圏に含んで、日本を孤立した文明圏だと定義した。だがそれは、真っ赤な嘘だということが、今の私には分かる。日本と韓国との違いは、たとえるならばイギリスとフランス程度、いやむしろイギリスとドイツ・オランダ程度の差にすぎない。
私は学生時代にヨーロッパのイギリス、フランス、オランダの三国を、回った。三国ともに、美しかった。私はフランス人については余り感心せず、オランダ人の親切さと、イギリス人のユーモア精神に、大いなる感銘を受けた。それぞれの国民の気質は、確かに違っていた。だが、同じヨーロッパ人たちであった。過去の悲惨な戦争と支配・被支配の残虐をくぐり抜けて、仲良く喧嘩できる間柄に、なっているようであった。その後、イギリスはいまだにポンドを捨てていないが、オランダ、ドイツ、フランスは、独自通貨を捨てて、ユーロを作り上げた。
彼らヨーロッパ人と我ら東洋人は、もとより違う。私は旅行中、始終酒を飲んでいたが、そんなヨッパライの私に"Are you drunk?...Ha!ha!ha!"と笑ってくれたのは、イギリスの辺境、ウェールズ人のにいさんただ一人だった。ヨーロッパでは、いっぱんにヨッパライは、喜ばれない。
そんな私であるが、今週の私は、昼酒だけは飲まない。この目で見て、この耳で聞いたことを、克明に記録するためだ。とか言いながら、これからしばらく後に、結局昼酒するんだけれどね。
今は、まだソルラル(설날、お正月)明けから、一月経っていない。
家々の門に、新年を祝う張り紙が張られているのを、所々で見かける。
韓国のお正月は、旧正月だ。日本と、ずれている。
この二国、正月をいっしょにするべきでは、ないだろうか。
その方が、地域で共に祝うことが、できる。
私は、日本も旧正月に新年を移してしまうことを、このさい薦める。
そうすれば、日本、韓国、中国、台湾で、同じ日がお正月になる。どうせ日本のお正月は、世界標準でない。西洋では、クリスマスこそが、新年の祝いに相当する。西洋の一月一日は、年越ししてシャンペン飲んで、それでおしまいだ。
東アジアの大同平和を望むために、私は雄大な戦略として、日本の正月を旧暦で祝うように改めることを、薦める。
韓国では、新年のための門の張り紙に、「立春大吉、萬事亨通」と書いて、貼っている。
私は、読める。だが、たぶんこの国の人たちは、悲しいことに大部分の人が、この字をもう読めない。
だが、だから私には、面白い。
これは、中国の春貼(チュンティエ)と、同じ習俗だ。いま、中文Wikipedhiaで調べると、韓国ではこれを立春榜(입춘방)、立春書(입춘서)、あるいは立春貼(입춘첩)と、呼んでいるようだ。
日本には伝わらなかった、新年の習俗であるが、中国の春貼がたいてい赤地に金字ではでやかなのに対して、韓国のイプチュンバンは、白紙に墨で、控え目である。呪術的な文字も、「立春大吉、萬事亨通」と、おだやかなものになっている。「恭喜發財」とか「年年有餘」などという、お金儲け祈願のまじない言葉は、決して使わない。これらは、中国の春貼で、よく使われる言葉。

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統営への途上、固城(コソン)附近の、風景。
この写真を見てまだ日本と韓国が別文明だと言う輩がいたならば、それは脳細胞が死滅していると、診断した方がよい。
慶尚南道は、いにしえの弁韓に相当し、ここに日本と密接な関係にあった加羅(カラ)国があった。
加羅が日本の植民地であったか、それとも日本を征服した大和朝廷の故国であったのか、そんなことは、この際どうでもよい。
千五百年を遡れば、この土地と日本列島が、海峡を隔てて断絶していたのだろうか。
同じジャポニカ種の米を、両国は太古から今でも育てて、食っている。水田の風景は、あまりにもよく似ている。そして、韓国人と日本人は、「ウマミ」が共に分かる。互いに、道端にゴミを捨てない。貧しさを尊いとする、痩せ我慢の心意気がある。
友好か外交的利用か、あるいは争いであったかは、様々であったろう。
しかし、いずれにせよ、かつての半島と日本とは、現在よりもむしろ近かったはずだ。
白村江の戦い以降、両者を隔てたのは、互いの「内向き症候群」なのだ。だから、両国は経済的に頑張っていながらも、二十一世紀の今になって、次の道を見つけることができなくなって、立ちすくんでいる。
我らの文明を、今こそ再発見するべきなのだ。
日韓の文明は、世界に冠たる文明であることが、いずれ分かる日がやって来る。
必ず、やって来る。我らだけが、地球環境を、人の命を愛しながら、救うことができる。西洋文明の極致であるアメリカにモノを申しながら、互いに切磋琢磨できる文明は、おそらく日韓に中国・台湾を加えた、東アジア文明を置いて、他はない。これからの人類には、対立しながら高めあうという、弁証法が必要なのだ。いま、西洋文明は全てアメリカという大河に流れ込んで、オルタナティブが枯れてしまっている。だが東アジアの文明は、少しの政治的工夫だけで、アメリカ文明に匹敵できる、オルタナティブを作ることができる。この慶尚道の田園の美しさ、そしてそれを共有している日本ならば、できることだ。やらなければ、ならないのだ。東アジアのために。そして、人類のために。

2009年02月25日

Korea!2009/20/21その三

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統営の、市外バスターミナルに到着。
地方都市であるが、やっぱり清潔なものだ。
フランスの首都パリは、驚くほどに美しい。
だがあれは、市政府が金をかけて、磨いているから美しいのだ。
特に何もしないで美しい街を持つことが、どれほどの美徳であるか。そして、そのことに気付いていないこの国民が、何と奥ゆかしいことであるか。

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某ガイドブックの地図と、正午の太陽の方角を便りに、南へ歩いて行ったが、、、
なんだ、ここは?
うーん、どうやら、目指す方向を、間違っているようだ。

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農家の畑で、牛さんが草を食んでいた。
もうちょっと近づいて写真を撮ろうと思ったら、牛さんがこっちを向いて、私をじろりと睨んだ。
綱が付いていないし、角が切られていない。
牡牛だと思うが、去勢されていなかったら、気性が荒いに違いない。
体当たりなんぞされたら、一大事だ。
私は、すごすごと退散した。

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韓国の道には、信号のない横断歩道が、ここのようにいっぱいある。
で、そんな道路に、車がびゅんびゅん走っている。
信号がアテにならないことだけは、韓国は香港と同じ流儀である。
学校の裏庭で、中学生たちがサッカーをやっていた。
やっぱり、韓国のナショナルスポーツは、玉蹴り遊びなのだな。
蹴り上げたボールが、勢い余って柵を越えて、私の歩く道の前に、ころころと転がり落ちた。
私は拾って、少年たちに投げ返した。
三人の少年たちは、私に頭を下げて、一礼した。
いっぱんにこの国では、街でも電車の車内でも、日本でならばあちこちで見かけるような、挙動不審で言語不明瞭、群れるだけしか能のない、そんなクソガキどもを見かけることが、ない。

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しようが、ないなあ。
警察で、聞いてみるか。
「トンヨンヘヤンギョンチャルソ」。
ゆっくり読めば、統営海洋警察署のことだと、おおかたの見当が付く。
しかし、まだハングルを瞬時に反射神経で判断できるほど、私はこの文字をまだ習得していない。
道路にあった案内板の英語を頼りに、進んだまでのこと。
門衛のにいさんに、英語で聞く。
若いにいさんは、好青年だ。たぶん。表情で、分かる。
にいさんは、答える。
「ストリート。インフォーメーションセンター。クエスチョン。」
???
にいさんは、道の向こうを指差しながら、英単語を繰り返す。
次の瞬間、分かった。
-にいさん、英語の動詞が、使えないんだ。
解釈すれば、「この通りの向こうに、インフォメーションセンターがあります。そこに行って、質問してください。」なのだ。にいさんが、言いたがっていることは。
私もそうだが、日韓の国民は、本当に英語オンチだ。
英語と日韓語は、言葉の発想が、根本的に異なっている。私なんぞ、もう何年も英語を勉強しているのに、今年初めにあったオバマ大統領の就任演説のライブ放送を、半分ぐらいしか分からなかった。美しい英語で、新大統領が演説してくれているというのに。後でニューヨークタイムズのサイトで演説全文を読めば、平易な言葉で語っていることが、明らかなのに。
私は、一笑して、にいさんと握手した。
インフォメーションセンターは、市外バス停のすぐ裏手にあった。
そこで市内地図をもらい、バスターミナルの前にある市内案内図を、いま一度見渡した。

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どうして、私が着いた直後に、この案内図を無視したのかが、いまようやく分かった。

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、、、もう、何も言うことがない、、、!

どうして、他の施設には英語があるのに、「現位置」(현위치)だけハングルオンリーなんでしょうか。
どうして、"You Are Here"を書き忘れるという一大事を、こんなにも大胆にやらかしてくれるんでしょうか。
しかも、こんな目立たない色で?
この掲示板の英語は、全て韓国人に向けたファッションだということが、旅行者に丸分かりだ。

こんなに、綺麗に描かれた地図なのに、この一点だけで全て台無し。
もう、ここまで来ると、かえって笑えてくる。
これが、「内向き症候群」なのだ。
地図を詳細に調べたところ、私が持っていたガイドブックと、市外バスターミナルの位置が、まるで違っていた。
ここから、統営市街地までは、ガイドブックの地図よりも、ずっと遠い。
私は、腹立ちまぎれに、ガイドブックを道に叩き付けた。
不手際は、日韓双方で、あいこであった。

Korea!2009/02/21その四

バスに乗らず、歩いて市街地まで、行こうとする。
バス賃がもったいないわけじゃ、ないんだよ。
バスに乗っていたら、空気が分からない。音が、聞こえない。興味のあるものを見かけたとき、道草ができない。
だから、歩くのだ。だが、、、今日の午後は、暑い!

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道の途上に、Korean Warの戦功者碑が、建てられていた。
日本人は、この戦争のことを、あまりにも知らなさすぎる。

1950年8月末、北朝鮮軍はこの統営の北にある、固城附近にすら、浸透していた。
残るは、釜山を最後の砦として、北の浦項(ポハン)、西北の大邱(テグ)、西の馬山(マサン)を繋ぐ、釜山円陣のみ。キーン少将が率いる米軍第25師団が、8月に固城から晋州(チンジュ)を目指して反撃するキーン作戦を行なったが、頓挫。9月には北朝鮮軍第6師団と第7師団が攻勢に出て、キーン師団長は後方の馬山市民の、強制疎開命令を出すまでに追い詰められた。
開戦からわずか二ヶ月で、国連軍は釜山円陣で耐えなければならないところまで、追い詰められた。

アメリカの態度からは、北朝鮮軍が北緯三十八度線を越えた場合には外交上の抗議以上のことが行なわれることになるということが、モスクワや北朝鮮の首都である平壌の政策決定者達には伝わらなかった。彼らは、アメリカが一九八〇年代後半の和解的態度から一九九〇年のペルシャ湾における大規模な展開へとその姿勢を変化させたときのサダム・フセインのように驚いたに違いない。モスクワや平壌の共産主義者達は、アメリカの指導的立場にある人々が朝鮮半島をアメリカの防衛境界線外と位置づけた発言を真に受けて、その発言に重きをおいていたのである。
(ヘンリー・A・キッシンジャー『外交』第19章より。岡崎久彦監訳)

1950年、アメリカの半島に対する基本姿勢は、「防衛線の外」であった。
トルーマン大統領は、1949年に統合参謀本部の勧告を受けて、韓国から米軍を撤退させた。東京のマッカーサー将軍は、1949年3月、新聞のインタビューで、「我々の防衛線」を、フィリピン諸島、琉球諸島、日本、アリューシャン列島であると、言明した。こうして彼は暗黙のうちに、韓国が防衛の線外にあることを、ニュアンスした。さらにアチソン国務長官は、1950年1月12日ナショナル・プレスクラブで演説し、朝鮮半島がアメリカの防衛境界の外であり、大陸のいかなる地域を保障する意図もない、とはっきり表明した。
これらの一連の声明が、北朝鮮にサインを与えた。
前年に蒋介石に対して勝利した中共がやったことを、北朝鮮がやったとしても、アメリカは黙認するであろう、、、

こうして、1950年6月25日、北の侵攻が始まった。アメリカは北朝鮮の予想に反して、直ちに国連で決議を取り付けて、国連軍派遣を決定した。しかし、米軍をすでに撤退させていた韓国側は、事前の準備が北朝鮮に比べて、貧弱であった。開戦当初には、北朝鮮軍の繰り出すT34戦車を破壊するだけの、対戦車兵器がなかった。T34を前面に押し出して進む北朝鮮軍に対して、韓国軍とにわかに急派された少数の米軍では、なすすべがなかった。7月13日韓国入りした米第8軍司令官ウォーカー中将は、戦力差の挽回には増援部隊を待つより他に方法がないとの判断に達し、とりあえず到着した米軍に、遅滞行動(敵の進撃を遅らせながら、撤退する行動)を命令した。

日本で学ぶ現代史では、昔なんぞこの戦争は米軍の挑発により始まった、などという嘘が、教えられていた。私が小学生の頃読んだ、マンガの日本史シリーズにも、はっきりとそう書いていた。そのマンガでは、Korean Warは日本にとってまるでひとごとのようで、むしろ戦争特需によって日本経済が一挙に立ち直った喜びを、生き生きと書いていたものだった。
昔の時代から、ずっと。
誰も、隣国を知ろうとしない。だから、私が読んだマンガ(ベストセラーだった、はずだ)のような嘘が、堂々とまかり通っていたのだ。

この戦争について、これ以降のことについては、詳しく書かない。
後はマッカーサーの立てた仁川(インチョン)上陸作戦の成功によって、補給線の延び切った北朝鮮軍が崩壊し、以後、北朝鮮軍は戦いにほとんど影響を及ぼさなくなる。それから休戦まで続いた戦いは、事実上、介入して来た中国人民解放軍と、国連軍との戦いであった。

今も、ただの休戦中である。終戦したのでは、ない。

戦後の日本は、かつての東アジアにまたがった帝国を精算させられて、徳川時代以来の固有の領域に、再び閉じこもった。
列島の外で、戦後の時代に何が行われて来たのかについて、極めて鈍感となった。
日本列島の内において、マッカーサーとGHQは、進歩であった。
そのアメリカは、かつて大日本帝国の版図であった沖縄、台湾、そして韓国において、反共の戦いためになりふり構わなかった。
列島がデモクラシーと平和を謳歌している最中、かつての大日本帝国の版図においては、沖縄はアメリカ軍の占領下であり、韓国と台湾はアメリカに後押しされた独裁政権であった。
日本は、周辺諸国を無視したままで、経済成長を謳歌した。
そうして、六十余年が、過ぎた。
今後の日本は、どうやって生きていく、つもりなのか。
戦後の日本は、いまだ過去の大日本帝国の後遺症に、正面から向き合っていない。
大日本帝国はなかったこととして、これまで頬かむりしたまま、周りを見ることもなく、生きてきた。
いま、日本の眼前に、かつて大日本帝国が植民地化し、独立運動を暴力的に弾圧し、民族性を抹殺することを企み、そして戦争に負けた結果、イギリスのように独立を支援することもなく放り出した、半島がある。
その半島は、米ソの対立がもう歴史となったはずなのに、いまだに冷戦の時代のままに、南北に分断されている。
これで、よいのであるか。
かつて征服した土地を、そしてすでに先進国に到達した南半分を持つ土地を顧みなかったこれまでの六十余年を、これからも続けるつもりなのか。

現在の日本は、行き詰まっている。
大日本帝国が崩壊した後、六十余年間外と交わることもなく繁栄して来た民族のエネルギーは、現在とうとう枯れ果ててしまった。このままではもう先に、何もない。
自分たちの周囲に、自分たちに近い文明があることを、もう一度思い出せ。すでに、かつてとは違って、周囲の諸国はもう先進国ではないか。
かつて征服して、植民地として己の戦争に利用して、その後放っぽり出して逃げた国を、今のままでは相手が信頼してくれるものか。
信頼を得たいならば - そして、得なければ日本の未来はないと、私は考える - 、謝るべきことははっきりと謝らなければならない。日本は、過去の一方的な侵略行為の全てについて、日韓併合時代だけに留まらず、それ以前の帝国主義時代の数々の事件についても、いやさらに遡って四百年前の豊臣秀吉が仕掛けた兇悪な侵略に至るまで、きれいに謝罪するべきだ。日本と韓国がもし二人の人間であるとするならば、そこまで謝罪しなければきっと将来のために協力し合うことができないだろう。過去を詫び、不信を洗い流せ。信頼を得ることは、屈従でも土下座でもない。将来を買うための、投資だと思わなければならない。半島は、すでに先進国なのだ。その国民は、日本人が思っている以上に、文明国民なのだ。この国民には、日本人にはない美徳がある。そして日本人にも、半島の国民が持っていない美徳を持っている。両国の協力は、きっと互いを再び活性化させる妙薬と、なるに違いない。政治の、工夫しだいなのだ。


記念碑を通り過ぎて、さらに歩く。
やっぱり、綺麗な遊歩道が、国道の脇に作りつけられている。
そして、この国の道の特徴として、坂だらけだ。
遠い。
とてつもなく、遠い。
ひょっとして、市外バスターミナルから市街地までは、歩いて行くことなど不可能なほどに、遠いのであろうか。
ずいぶん歩いたのに、市街地どころか、山と海しか、見えない。
山も海も、美しいのにね。それを楽しむ体力が、だんだん尽きて来た。
これは、どう考えても、バスを使わないと到達できないほどに、遠いのであろう。
しくじった、、、

Korea!2009/02/21その六

この辺りから、写真が減ってきます。
この時点で午後二時ぐらいですが、以降午後六時頃まで、疲労と酒のせいで、記憶がややあいまいです。
自分の頭の中に、印象に残った色彩をもとにして、書いて行きます。

キキッ、と、ミニバスが止まる。
このバスの人に、統営への道を、聞いてみよう。
「エクスキューズ、ミー。」
この旅行中、必ずこれを使っている。
「ちょっといいですか?」は、「잠깐만요(チャンカンマニョ)?」なのだが、難しくて発音できない。
中には、バス旅行中の人たち。
私に声を掛けたのは、チェ・ソンダルさんだ。後で、名前を教えてもらった。
チェさんは、英語ができる。私と同じぐらいに、できる。同じように、ゆっくりしゃべる。それが、嬉しい。
「英語、できる?」
チェさんは、私に聞く。もちろん、英語で聞いている。以下、同じ。
「できます。それで、統営への道は、これを進めばいいのですか?」
私は、チェさんに聞いた。
「で、どこに行くんだい?」
チェさんは、貧相な私と違って、恰幅の良い人だ。ビジネス大学院に行っている、自慢の息子さんが一人、おられる。とても優秀でハンサム、すらりと足が長いとか。そんな男児のことを日本語で何と言うのかな、と聞かれたから、とりあえず、
-イケメン(이케멘)。
と、答えておいた。
このバスは、ソウルから旅行に来た、バスの一行であった。チェさんも、ソウル在住だ。
話を元に戻すと、私が統営の地図を見せて、南望山に丸を書いて示したら、

、、、いつの間にか、バスに同乗していた。
ひょっとして、連れて行ってくれるのか。これは、有り難い。やはりこの国の人たちは、人情家だ。
「君、英語はヘタだね。」
チェさんは、ずばりと言って、1.8リットルボトルの酒の蓋を空けた。
チェさんは、カバンの中から、サリンジャーの"Catcher in the rye"を、取り出した。
「僕は、英語を学んでいる。そして、詩を書いている。俳句に、興味がある。」
明らかに、この人はインテリだ。
コップに、ソジュを注いでくれる。
出されれば、私は飲む。
もう、一杯。
統営は、ずいぶん遠いんだなあ。
旅行連れは、チェさんの他に、6,7人。
おばさんが、みかんをくれた。
上機嫌で韓国語で話し掛けてくれるが、もちろん一言も分からない。
チェさんが、おばさんの子供たちについて説明してくれたのだが、残念ながら記憶から吹っ飛んでしまった。とにかく、日本に何かしらの事情で、行っているということだ。
そこで、私は言った。
「ならば、、、ヨンサマ!」
おばさんが、大笑いした。
「あ、ヨンサマ!アッハハハ!」
ペ・ヨンジュンは、日韓の最大公約数だ。
私は、「ヨンサマ(용사마)」が韓国で流行語となっていたことを、旅行の前に読んだことがあった。
残念ながら、私はテレビを観ないので、ヨンサマのご活躍を拝見したことがない。
だが、釜山でも、日本人が来そうな場所には、必ずヨンサマのポスターが貼ってある。
遠い関係の者であっても、人と人とを繋げる力を持つヨンサマは、まるで菩薩のようだ。
後ろに座っていたおじさんからも、みかんを貰った。
そして、酒を空けた私の紙コップに、すかさず注いでくれた。
私は韓国の酒礼をよく知らないが、少なくとも年長者から酒を注がれたときには、両手で受けるべきことだけは、知っていた。
注いでくださったソジュを両手で受けて、飲んだ。
日本の礼(?)では、少なくとも注がれた一杯目は、飲み干すべきだ。韓国でも、たぶんそうであろう。
飲んで、私は破顔して、言った。
「マシッタ(맛있다)!」
おじさんが、同意して、大笑した。
「おー、マシッタ!」
数少ない、覚えていた韓国語が、役に立った。
「うまい!」と言えば、喜んでくれない人なんかいねえ。
だが、韓国の料理は、本当にマシッタだよ。
あー、統営は想像以上に、遠いんだなあ、ハハハ。

Korea!2009/02/21その七

チェさんが、私に言った。
「僕は、父と共に、昔日本にいた。」
私は、聞いた。
「どちらに?」
上の問い、日本語に訳しているから、敬語にしている。本当は英語で話しているから、英語に敬語なんかない。しかし、韓国語には、敬語がある。ちなみに、漢語にはない。
チェさんは、言った。
「旭川にね。」
私は、言った。
「旭川ならば、私は学生時代に旅行したことがあります。旭川、札幌、紋別、根室、釧路、稚内、小樽、函館、、、」
チェさんは、自分の記憶を手繰り寄せるかのように、都市の名前ごとに、わたしに相槌を打った。
「紋別で、釣りをした。田舎町だ。」
チェさんは、釣竿を引き上げる、仕草をした。
チェさんは、言った。
「父は、もう余命いくばくも、ない。パーキンソン病って、知ってる?ああ、知ってるか。それだ。酒の、飲みすぎさ。もう、自分で食べることも飲むことも、できない。とても悲しい。」
チェさんは、口をパクパクさせて、父上のヨイヨイの状態を、説明した。
私は、"I hope he'll get healthy again."と、祈った。
彼は、静かに首を横に振った。
"No. There's no hope."
この国の人は、家族を本当に、大事にしている。
私は、この旅行で、それを強く感じた。
チェさんは、私に言った。
「君のご両親は、元気かい?」
私は、答えた。
「はい。二人とももと公務員で、すでにリタイアしています。年金をもらって、健康に暮らしています。それが、うれしいです。」
チェさんは、それを聞いて、喜んでくれた。
それからチェさんは、私に俳句を書いてくれるように、頼んだ。
「バショーのやつを、書いてくれないか。ボチャーン!ってやつ。」
チェさんは、「ボチャーン!」と言って、手でモノが落ちる、ポーズをした。
帰国してから飲んだ夕映舎氏に、このエピソードを話したら、
「あ、それは『古池や、蛙飛び込む、、、』のことを、言っていたんやろ」と、私に示唆してくれた。
あ、そうだったのか。
私は、正直申すとこの句を秀句だと思っていなかったので、チェさんに言われても、思い出せなかった。
それで、私は自分の好きな古典俳句を思い出して、ノートに書いて渡した。

菜の花や 月は東に 日は西に
蕪村(18C)

静けさや 岩にしみ入る 蝉の声
芭蕉(17C)

「これらは、俳句の二大巨人です。」
私は、チェさんにノートを渡して、説明した。
チェさんは、平均的な韓国人よりも、漢字が分かる。
だが、ひらがなは、読めないようだった。
いずれ勉強する、と言いながら、私の詠む句を、暗誦しようと試みていた。
私は、大阪生まれで、東京の大学を卒業して、いま京都に住んでいる、と説明した。
チェさんは、私の通った大学について、言った。
「その大学には、韓国の文学者が、いっぱい通っていた。だから、その大学は韓国でも、有名だよ。」
私は日本人の学歴誇りが嫌いなので、自分のブログなどでも出身大学を、通常は書かない。まあ、、、早稲田大学、なんだけれどね。
だがチェさんの息子さんが通っている大学を、失念してしまった。確か「ヨンイ」と発音していたから、延禧大学(延世大学の旧名)だったと、思うのであるが。
チェさんは、言う。
「東京語と、京都語は、どれくらい違うのかね?」
私は、答えた。
「ぜんぜん、違います。東京語をたとえ覚えたとしても、京都語を聞いても、全くわかりません。」
私は、一つ例を、挙げた。
"I love you."
「これを、東京語で言えば-」
もちろん、このとき言うのは、いわゆる「標準語」だ。

私は、あなたが好きです。

私は、アナウンサーのイントネーションで、言った。
「そして、京都語ならば-」
私は、地の関西弁を、出した。

うち、あんたのこと、好きやねん。

全くのネイティブの発音で、言った。
チェさんは、しみじみと聞いて、批評した。
「僕は、京都語の方が、好きだね。東京語は、サムライの言葉だ。サムライも、いい。だけど、京都語の方が、僕を感動させる。」
私は、ネイティブの東京弁をしゃべることができないし、しゃべってみようとも、思わない。ネイティブがしゃべったら、彼に違う印象を与えるのかも、しれない。だが、「標準語」は、聞く者に温かさを伝える言葉では、決してない。

2009年02月26日

Korea!2009/02/21その八

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バスが、着いた。
アッハハハハハ。
巨済島(コジェド)に、来ちった。
もともと、行こうと思っていたところだ。こりゃ、いいや。
李舜臣将軍とは、今回縁がなかったと思って、あきらめよう。
酒が入って、いちじるしく判断力が鈍っている、この時の私であった。

低い山並み。風が強い。海は、見えない。巨済島は、非常に大きな島だ。
釜山でも慶州でも見かけた、白黒の鳥が山に向けて飛んでいった。
チェさんが、鳥の名前を教えてくれた。
-カチ。
かささぎ。別名、カチガラス。韓国の、国鳥であった。
「あの山、馬のサドルのようだな。」
二つのきれいな双対を為した低い山の間が、峠となっていた。植生は、韓国の山にしては、豊かであった。
「馬を走らせるとき、韓国語では『イリャ(이랴)!』というんだ。日本語では、何だい?』
私は、ちょっと迷ってから、
「『ハイヨー!』ですな。」
と、答えた。
「はは、ハイヨー!ハイヨー!イリャ!イリャ!」
チェさんは、馬に鞭を食らわすポーズをする。愉快な人だ。
「しかし、、、あのサドルの、豊饒さ。」
チェさんは、話題をずらして、山の峠の部分を指差した。
「両側が、足で。そしてあそこには、あれがある。分かるか、、、こっちに、こっちに。」
彼は、私に耳を近づけて、囁いた。
「――――!」
このブログは、成人指定でないので、書きません。
だいたい、わかるだろ。
「アッハハハハ!」
私は、チェさんの背中を、ばんばんと叩いた。
チェさんは、私に囁き続けた。
「女はな、secretでない。何も、secretでない。君も、トライするんだ。女は、待っているのさ。君に、今日の言葉を授けよう―」
彼は、私に囁いた。
「ウェット。」
私は、酒が残っていて、笑いながら聞いていた。
「女は、雨が好きだ。なぜか?濡れるのを、待っているのさ。君も、トライするんだ、、、ウェットだ。」
チェさんは、私をはげまして(?)くれた。
晴れ男の、私だ。
正直言って、自信がない。
だが、そのお言葉、今日は愉快に、受け取ります。
そう言えば、チェさんの姓をどう書くのか、聞いていなかった。
聞けば、
「こうだ。」
と、書いてくれた。
私は、首をかしげた。
「はじめて、見る字です。」
「やまかんむり」の下に、左に「にんべん」を置いて、右に「主」の字にもう一本横線を加える。
「崔」の字であるようで、あるようでない。
韓国の姓に、このような字があるのだろうか。
「韓国の五大姓は、キム、イ(リ)、パク、チェ、チョンだ。書けるか?」
私は、金、李、朴、崔までは、すぐに書けた。
だが、チョンがわからなかった。
しばらく考えた後で、「鄭」の字を、思い出した。
「そうだ!」
チェさんが、破顔した。
後で調べてみたのであるが、やはりチェさんが書いてくれた字は、韓国の姓にない。韓国人の姓は、中国人以上に少ない。
もしかしたら、異体字なのであろうか。
「君の俳句を、くれないか。君が、作ったやつだ。」
チェさんは、私にペンを渡す。
私は、これまで歌を、作ったことがない。
だが、試してみた。
午後遅くの風が、ようやく冷たかった。

冬の日に
巨済(コジェ)を風切る
二人連れ

最初、巨済を日本の地名の「巨勢」と、間違って書いてしまった。七の句に固い響きを連ねて、今日のこの島での出会った空気を表そうとした。ま、駄作だね。
チェさんは、私の発音に応じて、ひらがなにハングルを打った。
「ありがとう。大事にするよ。」
チェさんは、私の書いたノートの一枚を、大事に折りたたんでカバンに入れた。

Korea!2009/02/21その九

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で、ここは、どこなんだ。
写真に写っている背景が、前の稿に出てきた、サドルね。

ここは、青馬紀念館(チョンマギニョングァン)、という。
青馬の号を名乗った詩人、柳致環(ユ・チファン、1908‐67)を、記念した施設だ。次の稿で詳しく述べるが、ここ巨済市屯徳面は、詩人の父の郷里であった。詩人そのものは、海峡を渡った隣の統営市に、生まれ育った。
これは、帰国してから調べて判明したことだ。この時は、唯一目に入った漢字(ハンジャ)の「青馬紀念館」という施設名を、とりあえず走り書きしておいただけであった。展示には日本語も英語もないし、ガイドブックにも英語の観光サイトにも、載っていない。
館内は、青馬が生まれた村の模型に、彼が恋人たちと交わした手紙、それから青馬の生家を復元した家屋が、作りこまれていた。
「彼は、植民地時代、抵抗の闘士だった。そして、多くの恋をした。この手紙は、みんな女性たちと、交したものだよ。」
チェさんは、漢字で書かれた封筒を示して、私に言った。
チェさんと今日バスでやって来た仲間たちは、文学愛好者たちであったのだ。韓国では、日本よりずっと詩が愛されている。
私は、「サーティー・シックス・イヤーズ。」と、口走った。
チェさんは、「イエス。」と答えた。
私は、彼らに深い憤りの元を与えた時代について、第一印象として、謝罪の心を持っている。それは、帰国した今でも、変わらない。
私は、チェさんに頭を下げて、謝罪した。
チェさんは、私に言った。
「国と、君とは違う。君は、仲間だ。」
チェさんは、私を青馬が生まれた村の模型に、連れて行った。
青馬の生家は、裕福な家であった。おかげで、青馬は他の二人の兄弟と共に、日本の旧制中学校に留学している。
模型の瓦屋根は、地主の家。周囲を、わらぶき屋根の家が、取り囲んでいる。この旅行で前に行った良洞民俗マウルと、そっくり同じ風景だ。
チェさんは、わらぶき屋根の群れを指して、言った。
「こういった家は、美しくない。」
民俗マウルで私が見たわらぶき屋根の群れは、住みにくそうだなとは思ったが、一種の枯れた美があるように、私には思えた。だが、彼らの目にとっては、ただのあばら家なのかもしれない。日本人にとってはじめて見る韓国のわらぶき屋根の農家であっても、彼らにとっては日常嫌というほど見せられているものだからであろう。

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室内展示の外に、伝統的韓国家屋の復元模型が、あった。
写真は、牛に曳かせる犂(すき)。
「韓国人は、日本人と同じく、わび・さびが分かる。ウマミが、分かる。それが、同じところなんだ。」
チェさんは、私に言った。
私と、全く同意見だ。

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洗濯石。
「石鹸なんか、なかったからね。この石で、ゴシゴシこするのさ。」

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甕。
「日本のミソ、だよ。これに、入れて保存するのさ。」
「つまり、テンジャン。」
「そう。」

私は、残念ながらこのとき、この詩人のことを知らなかったので、チェさんの説明を聞くばかりであった。
ここに連れてもらったことは、私としてはよいことであったと、帰国した現在、思っている。人を、知ることができた。そして、柳致環を調べることを通じて、韓国の詩とは何かを知ろうと試みている、現在の私がある。
しかし―
圧倒的多数の日本人は、ここに連れられたとき、怒ると思う。
それは、現実だ。
柳致環は、日本でほとんど全くといってよいほどに、知られていない。もっと言えば、日本人は韓国文学を、皆目知らない。

Korea!2009/02/21その十

今、図書館から『現代韓国文学選集』(冬樹社)を借りて、韓国の現代詩を読んでいる。
どういうわけか、訳者の名前が書いておらず、編集委員の連名があるだけである。末尾の作家ノートに、高名な金素雲(キム・ソウン、1907-81)氏が訳を行なったと書いているので、少なくとも編集委員の一人である金氏の訳は、選集に入っているはずだ。
「青馬紀念館」から、柳致環を導き出すのには、大変苦労した。
韓国でだけしか知られていない人物、と言っても、過言ではない。「青馬祈念館」を「청마 기념관」とハングルに直して、韓国語のホームページを用いて、検索するより他はない。四苦八苦しながら巨済市のホームページを開いては、エキサイトで翻訳する。そうして、ようやく「青馬祈念館」が巨済市屯徳面にあり、「유치환」という詩人の記念館であることを、知る。「유치환」を、韓国語Wikipediaで、検索する。項目が、あった。他国語では、英語と日本語の項目だけがあった。そうして日本語Wikipediaで、彼の全貌を知ることができた。英語版の説明は簡単すぎて、参考にならない。たぶん日本語の項目は、誰か研究者の方が、書かれたのであろう。

柳致環(ユ・チファン、1908‐67)。
日帝時代を生き、戦後にまで生き通した。詩人であった。教育者であった。
慶尚南道忠武市、太平洞の生まれ。忠武市とは、私が今さっきまでいた、統営市の旧名である。彼と巨済島との関係は、この稿の時点で私がいる、巨済島屯徳面が父親の柳煖秀の出身地であったことに、由来する。
彼の生家は、裕福であった。
それで、父親が、八人の兄弟のうち三人を日本の旧制中学校に留学させた。
柳家の次男である致環は、その一人であった。
東京の、豊山中学校で学んだ。現在とは違って旧制中学校であるので、現在の中学一年生から高校二年生までの期間に当たる、五年の課程である。さらに言えば、旧制中学校は義務教育でなく、その後の旧制高校、そして帝国大学へと進む進路を前提とした、特権的教育機関であった。
しかし彼は、日本の学校を中途の四年で帰国した。父親が事業に失敗して、学資が困難となったためであった。その後は、韓国の学校で学んだ。以降、ごく短期間日本に滞在したことはあったが、韓国や満州ハルビンなどでいろいろな事業に挑戦しながら、戦前を過ごした。
金素雲の援助を受けて、1939年に詩集『青馬詩抄』を出版した。金素雲は釜山出身で、渡日して活躍していた詩人であった。彼は日本文壇に自ら採取した半島の口伝民謡・童謡を紹介して発表、半島の文化を知らぬ日本人たちに衝撃を与えた、詩人にして研究者であった。
戦後はKorean Warに従軍し、随筆や詩を発表すると共に、多くの学校で校長となった。赴任した各学校では、生徒たちに非常に慕われたらしい。1967年、自動車事故により、死去。

私は、手元にある『現代韓国文学選集』に訳された七葉の彼の詩を、読んだ。
残念ながら、私はその訳詩に、感心しなかった。これはもう、私の心が言っているのだから、どうしようもない。
彼の作った多くの詩のうちたった七葉であるし、原語の響きはまた違ったものであるに違いないから、今は彼の作品を批評することは、私にはできない。

Googleで、検索してみる。
「柳致環」で、2060件。
「柳致環 詩集」で、734件。
つまり、日本では、知名度がほとんどゼロだということが、わかる。チェさんには申し訳ないが、私がこの詩人を知らなかったことは、日本人の常識の範囲内なのだ。
帰国して調べると、微妙な問題を、感じ取る。
彼は、「親日派(チニルパ)」の疑惑が、掛けられている。
「親日派」とは、現在の韓国で、最も憤慨を起こさせる対象の一つである。
日帝時代に日本に協力したとみなされる人物は、「親日派」である。
私が見た祈念館の内容と、日本で調べた限りのこの詩人の戦前での活動内容は、食い違っている。
だから、韓国で「親日派」の疑惑がかけられているのであり、あの祈念館の中でだけは、彼は反日の闘士とされていた。
私は、今の時点で、この問題についてここから先に踏み込むことが、できない。
彼らを突き放すのは、簡単だ。
だが、それは必ず、両国の将来のために、ならない。両国を現在の行き詰まりから突破させるのは、両国の政治と経済の同盟しか、ありえない。今の私は、そう信じている。それはできるはずのことだと、私はこの旅行で強く感じた。そして、それを為さなければ、将来あの北朝鮮の建て直しは、きっとできないだろう。現在の韓国の国力では、北朝鮮はあまりに重荷に過ぎる。
だから、重大な問題である。ブログごときで、「親日派」問題を簡単に批評したくない。
その代わり、『現代韓国文学選集』より、戦後韓国の現代詩人たちのうたを、引用しよう。


ここは日本列島九州
東支那海の波打ち寄せる
指宿海岸
黒い砂浜
湧き出る温泉。

訪ねる友はおらず
真っ暗がり
静まり返った宇宙、

ひりつく思いに
雲が流れる

・・・(中略)・・・

ぼくと
ぼく
人間、所詮は独り行く旅。

(趙炳華『指宿』より)


韓国の詩は、内情の吐露である。
日本人ならば、指宿温泉の情緒を称えて、人間と自然を一体化させたい欲望を放ち、うたにするだろう。
しかし、韓国詩は、人間の心の叫びを、よしとする。
もとより、私の読んでいるのは、訳である。
詩は原語から別の言語に翻訳されると、別の詩になる。
韓国語の原語で趙炳華の詩を読んだときには、必ず日本語訳とは別の響きが、あるはずだ。
だが、訳だけでも、彼らが自分という存在の叫びに最大の詩心を置いていることは、わかる。

おお、ここに列なして横たわる魂魄たちには
目をつぶる安らぎもなかったに違いない。

きのうまできみたちの命を狙い
引き金引いたそのぼくたちの手で
崩れ爛れた肉片と骨を拾い
ここにこうして 日向を選んで
墓も建て、芝もどうやら着せた。
まこと死は、憎しみよりも 愛よりも
いやさらに神秘なもの。

(具常『敵軍墓地』より)


日本の歴史は、1945年8月15日で、時計が止まった。
それ以降の日本の戦後には、歴史が存在しない。
ただ、GDPとインフレーションが線的に伸びて、それと共に風景がめまぐるしく移ろって行った、それだけのことだ。1990年代以降には、GDPとインフレすら、平らかになってしまった。
しかし、韓国では、歴史はいまだに、終わっていない。
1945年8月15日の光復は、歴史の終わりではなくて、新しい不条理と悲惨の始まりであった。
1950年6月25日、半島では不条理な戦争が始まり、人が死に、村が焼かれて、その犠牲の結末は、それから59年経ったにも関わらず、いまだに精算されていない。いまだに、民族分断という不条理が、続いている。世界では冷戦が一応終結したにも関わらず、よりによって彼らだけが、まだ。
彼ら韓国人の心象風景の痛みは、叫びによってしか、満たされない。現実が、水に流してくれないのだ。現在の不条理の源に日本の占領があった以上は、これだけを切り離して笑って忘れるわけには、彼らとしてはいかないのであろう。

八月の江(かわ)が手を打ち鳴らす。八月の江が身もだえする。
八月の江が憂い悩む
八月の江が沈潜する。

江はきのうの溜息を、泪を、血のしたたりを
そして 死をすらも記憶する。

(朴斗鎮『八月の江 - 8/15に寄せて -』より)


上の詩、おそらく原語は、「八月江(봘월강)」であろう。パルウォルガン。いや、むしろ、パウォッガーンと表記した方が、日本人によりよく伝わるのかも、しれない。韓国語の響きは、我らがアイウエオの柔らかな母音を愛するのとは違って、子音の硬質な響きを愛する。

あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
(三好達治『甃のうへ』より)

日本の詩は、流れて移ろう。上の三好達治の詩が、それを表している。それは、母音の響きがそうさせるのだ。一方、韓国詩は、留まり考える。私が読んだ訳詩からだけでも、それがわかる。

どこかで受信する秋の人は
仕事の手を休めて
いっときボンヤリと想いに耽る。
こおろぎの送信がハタと止めば
天(そら)はぜひなく
青瓷の深淵だ。
(申瞳集『送信』より)

彼らは、夏に憂い、秋に悩み、冬に苦しみ、そして春に逢っては、季節の美とこの世の不条理を対比させて、怒る。
それが、彼らの詩情なのだ。どんな季節においても意味もなく泣きたがる詩心の日本人と、不思議さとしてはそう変わりはしない。彼らの怒りには悪気がないのだから、怒りたければ怒るに任せれば、よいさ。こちらは、泣きたくてしようがないんだから、泣いていればよいんだ。

からたちは
棘の身ながら
からたちの実をつけ

私は
詩を病むゆえに
詩をつくる。

歳々 年々
年々 歳々
行けども 行けども
人は
そのままの人。

きょうも明日も
われは われ
いつもの そのままの われ。

むかしも いまも
時計は
時計の音、
めしは
めしの匂い。

(柳玲『枳殻は』より)

彼ら韓国人の詩心と、われら日本人の詩心は、異質である。
しかし、両者ともに、詩心があることだけは、確かである。
互いに違うことを分かっていれば、互いを尊重しあうことだって、きっとできるはずなのだ。
韓国の、石と。
日本の、花は。
ともに、美しい。

2009年02月27日

Korea!2009/02/21その十一

青馬紀念館を、バスは出た。
私は、バスの車中で、チェさんに言った。
「韓国と日本は、EUのように通貨統合するべきだと、思います。それは、できるはずです。そして、しなければならないと、思います。」
チェさんは、答えた。
「私は、韓国の詩と日本の詩を、繋げたいと思っている。私は、日本語を学びたい。君も、韓国語を学んでほしい。私には、詩で両国を繋ぐ、夢がある。君には、政治で両国を繋ぐ、夢がある。必ず、できるよ。だがお金だけでは、だめだ。ハートが、伴わなくてはならない。日本の石原都知事だって、文学者じゃないか。」
私は、言った。
「本当は、台湾も加えたい。だが、今の台湾に手を差し伸べると、中国が怒る。だから、現状では残念ながら、できない。」
チェさんは、答えた。
「台湾は、忘れな。むしろ、仲間とするべきは、オーストラリアとニュージーランドだ。」
帰国して、この構想を夕映舎氏に話したら、彼は批評した。
「しかし―」
もう、泥酔に近い雨の夜に、彼は言った。
「いずれ、中国と台湾までも、仲間に入れなければならん。それは、分かり切ったことや。すぐに急いては、できんよ。できることから、順々にやっていけば、ええんや。構想を、持つ。戦略を、持たんといかん。日本なんか、北方四島の問題だけで、なんであんなにワーワーいうとるねん。国の面子が、そんなに大事なんかい。択捉をあきらめて、それでロシアと仲良くなれる利益が、なんで分からんのかい。」
二人の意見を、並列しておいた。
しかし、二人が共に、「ひとが大事」だと思っていることだけは確かであることが、私には分かった。

チェさんは、言った。
「そして、私の夢 - 南北の、統一。」
彼は、拳を握り締めて、力を込めた。
私は、この旅行をする前には、現実問題として南北の統一はとても無理なのではないか、と思っていた。
ヨーロッパの最富裕国であるドイツですら、東の建て直しのために、予想を越える巨額の資金と、長い年月を必要とした。統一から19年経った現在でも、いまだに旧東ドイツは経済が停滞し、失業率が西よりうんと高い。
現在の北朝鮮は、統一直前の東ドイツとは比較にならないほどに、貧しい。
その上、旧東ドイツの統一直前には、ある程度西側の情報を入手できる環境があった。現在の北朝鮮は、全く閉ざされている。住民は、おそらく第二次大戦直後の常識を現在まで引きずったまま、生きている。ビジネスに、全く慣れていない。
それらの状況を考えたとき、韓国の国力では、とても北朝鮮と統一することは、夢物語ではないかと、思っていた。
だが、私は分かった。
チェさんの言葉で、分かった。帰国後、韓国の文学に親しんで、理解した。
南北の統一は、彼らにとって捨てることができない。
あきらめろ、などと、今の私には、とても彼らに言うことができない。
長い時間が、かかるであろう。
この国の人たちは、ガッツがある。そして、根が非常に勤勉である。だから、時間をかければ、北を建て直すことも、できるだろう。
しかし、かつての西ドイツに比べて大きく国力の劣る韓国が、かつての東ドイツに比べて絶望的なまでに遅れている北朝鮮を建て直すためには、残念ながら一国では力が足りない。もし急いてやろうとすれば、この国は大混乱に陥るに、違いない。
日本が、乗り出すべきなのだ。
南北合わせれば、おおよそ七千万人の国民である。日本にとって、大きく市場が広がる。いま衰退している西日本が、間違いなく活性化する。九州は、日本の他の大都市に行くよりも、ずっと韓国に近い。山陰からは、船を使えばあっという間に釜山に行くことができる。四国は日本で孤立しているが、韓国を視野に入れれば、水路でも空路でも近くにある。済州島を愛する韓国人にとって、四国は済州島をちょうど十倍にしたような、光と緑が豊かな島ではないか。私の郷里の大阪には、在日の方々がたくさんいる。大きなコリアン・タウンが、生野にある。そして、関西空港から釜山金海空港までは、たった1時間30分しかかからない。機内食すら、簡単なサンドウィッチでおしまいなほどに、旅程が短い。
韓国にとっては、もっとよい。一億二千七百万人の市場に、アクセスできるのだ。一世代もしないうちに、日本に等しい所得水準に、跳ね上がることであろう。そうして金の余裕ができれば、統一もやりやすくなる。
韓国人は日本料理を好んでいるから、言葉の問題さえ乗り越えることができれば、彼らにとって日本はまことに旅行しやすい国となるのだ。日本人も、しかり。日本人がもっと韓国で目立つようになれば、食堂は日本人向けに辛くないメニューを用意してくれるように、必ずなる。韓国料理は、辛さだけを取ってしまえば、日本料理と完全に合い通じる。日本料理は、魚料理が優れている。韓国料理は、肉料理と野菜が、優れている。
だが、パスポートの撤廃までは、南北の統一まで無理かもしれない。日本には、北朝鮮の体制を支持する団体に属する方々が、住んでいる。彼ら、彼女らが支持しているとされる体制は、現在の韓国にとって、敵国である。日韓同盟は、日本に住む彼ら、彼女らを追い詰めることに、なるかもしれない。しかし、あの体制は、もう二十一世紀にまで続けてはならない。いにしえの高句麗(コグリョ)の土地に住まう二千万人の人間たちのために、ならない。私は、大慈悲の心をもって、あの体制を追い詰めるために、日韓同盟を進めるべきだと、主張したい。
現在のところ、日韓の両国民は、外国人と付き合う道を知らない。危険なほどに、知らない。この両国の「内向き症候群」を治癒するために、実は最も近い文明を持っている両国民は、通貨を統合し、領土問題を解決して、将来の半島統一のために、政治同盟を結ぶのだ。
通貨単位は、私は「両」が、よいと思う。
「両」は中国から日韓が共通に受け取った、重量と貨幣の単位である。かつては、両国共に、「両」が貨幣単位であった。日本の「両(りょう)」は、徳川時代東日本の、金貨単位としてであった。韓国の「両(ヤン、数字の後ではニャン)」は、短期間であったものの、李朝において1892年から1902年までの間の、最高通貨単位であった。
この新通貨のシンボルは、現行の円が使っている"¥"を流用したほうが、よいであろう。
その方が、すでに国際通貨である円の表記を、世界中で修正せずに使うことができて、パソコンとインターネットに優しい。外国に対して、信が立つ。そうしてこのシンボルの英語表記を、"Yen"から"Yan"に代えるのだ。シンボルは、日本のものを使う。読み方は、韓国のものを使う。両成敗で、ちょうどよい。
もちろん、統一通貨を自国では「エン」と呼んだり、「ウォン」と呼び続けたりしても、一向にかまわない。しかし、紙幣には日本語と韓国語を並べて、「一万両」「일만냥」を併記する。普段使う通貨から、親しみ合うのだ。そうやって、隣の島に行く感覚で外国に通うようにして、外国知らずの両国の精神を、鍛え直すのだ。
こうして交流をEU諸国なみに深めれば、両国民はまず外国人と付き合う方法のイロハを、学ぶことができる。そしてその段階を乗り越えることができたならば、さらに異質の文明である中国やロシア、西洋諸国とも付き合える感覚が、一世代もすれば育てられるであろう。
私は、帰国してから夕映舎氏に、一つの構想を述べた。
「釜山から対馬、壱岐、博多にかけて、トンネルを掘るのだ。そうして、JRとKorailが合同開発した新・新幹線を、ソウルまで伸ばす。東京とソウルを、一本の電車で繋ぐのだ。ゆくゆくは、ピョンヤンまで伸ばす。」
夕映舎氏は、付け加えた。
「その先には、北京や。東京から、北京まで、新幹線。」
私は、その説にうなずいた後に、言った。
「しかし、どうせトンネルを掘るのならば、電車と車道だけでは、もったいない。自転車と、歩いて渡れる道まで、作るのだよ。韓国の人々は、歩くのが大好きだ。地下のトンネルに、10kmごとに休憩所を作って、歩いて九州旅行ができるように、設備を作る。その途上の対馬と壱岐には、歓待する施設を作るのだ。控え目で、なおかつ清潔なやつがよい。韓国人は、日本人と美意識が非常に似通っているから、日本流の美意識をもってリゾート地を作れば、彼らはきっと喜んでくれる。」
夕映舎氏は、言った。
「そやな。かつては、青函トンネルも、夢物語やった。それをやり遂げた日本の技術やから、やると決めたら、日韓トンネルを必ず作ることが、できるやろ。」
そして、私は言った。
「そうして、ゆくゆくは今の北朝鮮の清津(チョンジン)から始まって、日本の青森まで渡る、日韓自転車レースを、開催するのだ。それを中継すれば、いかに自分たちの文明圏が、雄大な山河を持っているかを、心で分かることができるだろう。日本も韓国も、小国ではない。しかし、分かれているから、両方共に、中途半端なのだ。両方が同盟すれば、これはもう大文明圏なのだ。」
両国の間の海は、韓国詩で必ず「東海(トンへ)」と呼ばれている。
だから、彼らにこの海を「日本海(イルボネ)」と呼べと、言ってはならない。
しかし、我々は、この海を"East Sea"などと、呼ぶ必要は全くない。日本の、西にあるからだ。この海は、我らにとって"Sea of Japan"である。英名でどちらの呼称を使うかは、世界が決めればよい。
チェさんは、私に「君は、政治を目指すだろう。」と、言ってくれた。
残念ながら、今の私には、そこまでの勇気がない。
しかし、彼は日本について、言った。
「これから、十年だ。十年の間に、日本はrevolutionを起こさないと、ならない。もしそれがなければ、日本は沈没するよ。」
バスは、巨済島を、進んで行った。
というか、この時の私は話に夢中で、今自分がどこに連れられていくのか、分かっていなかった。
「この出会いのことを、ブログに書いてもいいですか?」
私の問いに、チェさんはOKを出してくれた。
私は、さらに聞いた。
「私は、この旅行のことを、あなたの国に対して99%の"love"をもって、書くつもりです。しかし、私は1%だけ、"critisism"を入れるでしょう。お嫌ならば、どうか読まないでください。」
チェさんは、そういう私を、遮った。
「いや。50%と、50%だ。この国の、良いと思ったところを、50%。悪いと思ったところを、50%。そうでなくては、ならない。」
私は、彼に感謝した。
チェさんはもっと同行するように、私に勧めてくれた。
しかし、残念ながら、私は明日の朝、日本に戻らなければならない。
「残念ながら、お別れだ。」
バスが、止まった。
私は、チェさんとその一行に、別れの挨拶をして、降りた。
降りた場所のことは、知らなかった。

Korea!2009/02/21その十二

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降ろしてくれたは、いいものの、、、
ここ、どこだ?
チェさんは運転手に、バスターミナルで降ろしてくれるように、言ってくれたはずなのだが。

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げっ!
ここは、フェリーターミナルだ。
長承浦、フェリーターミナル。
あわてて、ガイドブックを出す。
今、もう時間は午後六時。
最終便が、すでに出てしまっていた。
ターミナルの中は、誰もいない。
チェさんが、乗っていたバスの運転手のことを能なし呼ばわりして、「この運転手、まるで○○人だ。」とクサしていたが。
私は、彼のブラックユーモアに苦笑していたものだが、、、
バスターミナルで、降ろしてくれなかった。
バスの、最終便時間を調べる。
七時前で、最終便が尽きてしまう。
巨済島は、統営よりさらに先にある、僻地だ。バスで、釜山まで三時間かかる。
見回しても、コンビニ一つ、ありはしない。
、、、急げ!バスターミナルに。
酔いが、全てふっとんだ。

ガイドブックの地図が、あてにならない。
歩けども、歩けども、手掛かりが掴めない。
しようがないから、途上にあった高級そうなホテルのフロントさんに、英語でバスターミナルまでの道を聞く。
「バスターミナルまでなら、歩けば50分かかりますよ。」
だめだ!着かない。
「タクシーを、使いなさい。掴まえて、あげましょう。」
フロントさんは、私をホテルの入り口まで連れて行ってくれて、タクシーを呼び止めて行き先を運転手に指示してくれた。
またも、人情に救われた。ありがとう。
タクシーに、乗る。
着く。
バスターミナルは、おんぼろだ。カードなんか使えないという空気が、流れている。
だが、釜山行きのバスは、きれいなものだ。
バスの運転手に、料金を聞く。
「マノチョノォン。」
一万、五千、ウォン。
手元の、財布の中。
さっきタクシーに乗ったため、一万三千ウォンしかない。
足りない!
コンビニ、、、コンビニ、、、
このバスターミナルも、思いっきり僻地だ。
コンビニが、一つしかない。
見慣れたデザインの、ファミマが一つだけ。
入る。
ATMを、操作する。
英語は、あったが―
使えるカードは、アメックスだけ。
手に握り締めているのは、VISAカードだった。
私はがっくりと、うなだれた。
私は店員を捉まえて、「他にコンビニ、ないか?」と英語で聞いたが、店員は英語を全く理解してくれない。
コンビニの韓国語は「편의점」(ピョニジョム、便宜店)なのであるが、こんな単語、この時の私の頭の中には入っていない。
聞くのを、あきらめた。
走り出して、銀行を探す。
あったのは、恨み重なる、私のカードを二度にわたって門前払いを食らわせたあの銀行が、ただ一つ。
道が、閉ざされた。
もう、明日の便には、乗れないのか、、、

Korea!2009/02/21その十三

もう、最後の手段を、使うことにした。
-借りよう。
バスに同乗する誰かから借りて、釜山で返す。釜山ならば、コンビニはいっぱいある。
乗ろうとする人を、捕まえる。
「タンシヌン プサンヘ カムニッカ?」
その人は、首を横に振った。
だめだ。この人は、途中で降りる。
もう一人、若い男性が、来た。
二十九歳の大宇(デウ)社員、Park(パク)君だ。
彼にも、聞く。
彼は、首を横に振った。
バスの運転手は、気が荒い。
「なにしとるか!はよ乗らんかい!もう、出発時刻やっちゅーねん。」
言っていることはわからないが、きっとこんなことを私に言っているに、違いない。
「一万五千ウォン、出せ!」
運転手は、私に強要する。
私は、財布の中に一万三千ウォンしかないことを、示した。
「金、ないやとぉ?帰れ!帰れ!」
言っていることはさっぱり分からないが、間違いなくこう言っているに違いないことが、表情から分かった。
パク君に、急いで英語で、告げる。
「頼みます!二千ウォン、これと交換してください!」
私は、日本円の千円札を一枚、取り出した。
ついに、出発時刻だ。
パク君は、英語があまりうまくない。
押し問答しながらも、二千ウォンを、出してくれた。
運転手は、パク君の二千ウォンと私の一万三千ウォンを、引っ掴むように取り上げた。
プリプリしながらも、運転手はバスを発車させた。
最終便に乗ることに、成功した。
冷や汗が、出たぜ。こんな僻地では、カードで泊まることすら、難しかっただろう。
あの高級ホテルならば泊まることができたろうが、高いだろうし、その上明日の飛行機は朝の便だから、たぶん乗れなかったに違いない。

Korea!2009/02/21その十四

パク君の横に座って、私は事情を説明しようとした。
私は、書いた。
"I got 2,000W from you,so I'll give 1,000yen to you.Go to exchange store and get wong equivalent to what you gave me. Thank you!"
本当は、ウォンの英語表記は"won"なのであるが、私がこのとき書いた文字をそのまま記す。日本語の感覚では、韓国語で「ン」で終わる単語の末尾が"n"なのか"ng"なのかが、とっさに判断できない。
パク君は、「ちょっと待って。」と言いながら、携帯を出す。
携帯で、英語ができる友だちを、呼び出す。
私と、その友だちとで、長々と会話した。
電話のこちらと向こうの二人とも、英語は話せるとはいっても、大したことはない。
なんとか互いの理解に、到達することができた。
私の出した千円札を、両替してほしいと私が思っていると、パク君は思っていたようだ。
だから、両替は難しい、と彼は何度も言っていた。
パク君は、途中で降りるのだから両替所に行って返すことができない、と言いたかったのであろう。
私は、この千円札一枚が今の相場でだいたい一万五千ウォンに相当することを説明して、残余の分がもし出たとしたら、それは助けてくれたお礼だ、と何とか伝えた。
私は、トラブルの経緯を、彼に説明しようとした。
"convenience store"と書いたが、読んでくれなかった。
「だったら、、、」
私は、この言葉を、漢語で書いた。韓国のたいていのコンビニには、英語と共に漢語が看板に書かれている。
-便利店。
漢字(ハンジャ)では、便宜店(ピョニジョム)。漢語と、ほとんど同じ意味だ。
だが、パク君は、この字を読めなかった。
パク君は若いが、私への対応は極めて丁寧であった。その上、教養があると見て取った。だからしかるべき教育を受けているはずだと私は思ったのであるが、その彼が我ら日本人にとっては簡単に思える漢字を、読めない。
以前慶州で会った白皙の青年は、最近の若者は昔よりも漢字が読めると、言っていた。しかし、現状は残念ながら、漢字で筆談ができる状態にはないことが、彼を通じてわかった。本にも、TVにも、漢字は決して出てこないのだ。新聞には固有名詞にだけ部分的にあるものの、たぶん誰も読んでいないのであろう。
結局、「ファミリーマート、セブンイレブンのことだよ」と私が言って、理解してくれた。この二店は、韓国にもいっぱいある。
パク君は、大宇(デウ)に勤めている。大宇の造船所が、巨済島の玉浦(オッポ)にある。
今日の彼は、ご両親のところに帰省する、途上であった。彼のご両親の家は、釜山の手前の、馬山(マサン)にある。
私は、ガイドブックを開いて、馬山の名所を見ようとした。
だが、馬山の項目が、なかった。
「残念!ないね。」
「なんにも、ない街ですよ。」
パク君は、笑った。
私は彼に、日本に来たことがあるかどうか、聞いた。
「ありません。」
彼は、まだ海外旅行の経験が、なかった。
私は、京都近辺の地図を書いて、説明した。
「ここが、京都だ。今、私が住んでいる。これが、琵琶湖。日本で一番大きな、湖だ。これが、大阪。私の、出身地だ。」
私は、京都のことについて、説明した。
「京都でよいのは、春と秋。春ならば、サクラ。秋ならば、紅葉。この季節が、最も美しい。君も機会があれば、来ておくれよ。私が、案内してあげるよ。」
サクラは韓国語で、「벚꽃」という。
チェさんは発音できるが、私にはまだできない。
「韓国語の発音は、難しいよ。」
私はガイドブックをめくって、韓国の餅を指差した。
「떡、ですね。」
パク君は、声をかすれさせて口を大きく開き、発音してみせた。
「これが、日本語で表すと、トックだ。ぜんぜん、違う。日本語は、発音が単純すぎるんだよ。」
韓国語は、やはり難しい。
発音もそうなのだが、語彙の圧倒的多数を占める漢字に対応する読みを、いちいち覚えていかなくてはならない。
もし、彼らが今でも漢字を使っていたならば、彼らの書き記す言葉は、日本人にとって八割方、わかるはすだ。

-私は、貴方の会社を、訪問します。

-저는 當身의 會社를 訪問합니다.

なるたけ漢字を使うように注意すれば、こんなにも似ている。「當身」が「あなた」であることさえ知っていれば、文法はそっくりなほどに、似ているのだ。惜しい。
だが、もうここまで漢字を捨ててしまった以上、彼らが漢字を学び直すことは、残念ながら不可能であろう。北朝鮮では、もう漢字が一切学ばれていないのだ。
パク君の携帯には翻訳マシーンが付いていて、彼が操作して選択した韓国語の文を、日本語に翻訳できる。私とパク君は、それを用いて簡単なやりとりをした。ちなみに私の携帯は1円携帯で、翻訳機能がない。今回の旅行、翻訳機能のある携帯を持参していたら、もうすこし楽だったであろう。しかし、私は、この時パク君と何度かやり取りしたような、携帯のしゃべるアナウンサー言葉で応対するようなコミュニーケションのやり方に、正直言って嫌悪感を持つ。人間と人間とは、自分の口から発する言葉で語り合わなければならない。
この携帯をもう少し進化させて、携帯のカメラを例えば看板などにかざすと読み取って訳文を表示できる、機能を開発すればよい。そうすれば韓国語の文法と日本語の文法は酷似しているから、同音異義語を修正していけば、かなり近い翻訳に到達できるはずだ。今よりも格段に、街が歩きやすくなる。電車やバス停、銀行や店で、迷うことがなくなる。日本のメーカーさん、あるいは韓国のメーカーさん。開発して、ください。

私は、ガイドブックの料理のページを開いて、言った。
「韓国の料理は、うまいよ。一人旅行だから、プルコギは食べなかったけれどね。スンドゥブチゲ、テンジャンチゲ、ヘジャングッ、ソルロンタン、ナッチポックム、ポリパプ、、、」
パク君は、「ポリパプは、まずいですよ。」と、首を振って否定した。
それから、彼は言った。
「日本料理は、うまい。スシが、うまい。」
彼は親指を立てた。
私は、紙に「寿司」の字を書いた。
私は、つけ加えた。
「それから、ラーメン。」
「あ。ラミョンですね。」
パク君は、うなずいた。
私は「拉麺」という、この込み入った文字を、紙の上に書いた。
私は、この国の人たちが漢字を使ってくれないことの淋しさを、このとき字を書いてまぎらわしていたのかもしれない。
バスの道中は、長い。
パク君が、手元で何か、作っていた。
「どうぞ。」
彼は、私に渡してくれた。

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千ウォンを畳んで作ってくれた、ハート。
これを見ただけで、この馬山の一青年が、いかに心の温かい人間であるかが、わかるだろう。

Korea!2009/02/21その十五

私も、何かお返しをしなければ、ならない。
私は、本日二度目に、俳句を詠むことにした。
ノートを開いて、一考。
夜の道を、バスが真っ直ぐに通る。外は、真っ暗であった。


椿恋し
韓日(ハニル)の道に
花を敷け

親愛なるPark君へ 2009.2.21


わざと、難しい漢字を多用した。
漢字は、日本の言葉だからだ。読めなければ、日本が分からない。
パク君ならば、きっとこの句の漢字を読むことを、試みてくれるであろう。
私はそう思って、影島で見た椿の花を思い出して、句を読んだ。
パク君からも、別れのあいさつ文をもらった。
今、訳している最中だが、まだ十分に解読できないでいる。
お金で買ったものではなく、ただ一本のペンで書いたちょっとした文章が、心のこもった交流となるものだ。
パク君は、ご両親の住まう馬山で、バスを降りていった。

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釜山に着いたのは、午後十時。
いやー、よく帰ってこれたなあ。
夜の沙上のバスターミナルが、愛しく思えた。

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このコンビニのATMで、クレジットカードを使い、明日までの資金を引き出した。
この店が一番数が多くて、そして信用できる。

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チャガルチに戻ったのはもう夜遅かったが、店はまだ開いている。
高さんの言葉を確かめるために、目に着いた店に飛び込んだ。
店のおばさんの対応は、ぶっきらぼうなものであった。
メニューの間に、料理の写真が飾られていた。
「イゴスン?」
単に日本的に「これは?」と直訳で聞いただけであるが、完全に通じる。韓国語は、日本語の直訳が通じる言葉なのだ。英語と漢語では、直訳が通じない。
おばさんは、私の問いに、一言だけ答えた。
「カルクッス。」
カルクッスを、頼んだ。
今回の旅行のとどめに、うまかった。
カルクッスとは、要するに細うどんのこと。
エビとアサリの入った、海鮮スープが絶妙の味わいを、出していた。
疲れ切った空きっ腹に、一気に流し込んだ。

Korea!2002/02/22~エピローグその一

雨の振る、朝。
ホテルのキムさんに挨拶をして、空港に向かう。
翌週の韓国は、天気が悪かった。私に韓国をしっかり見て来い、と何ものかが一週間の好天を、特別に用意してくれたかのようであった。

空港まで行くのには、地下鉄「亀浦」駅で降りてから市内バスを使ったが、この市内バスにも金海空港国際線ゲート前に到着した時の、英語アナウンスがなかった。他にスーツケースの乗客がいっぱい降りたから迷いはしなかったものの、これではだめだぞ。今回の旅行の最終日に、この国に言い残したい言葉が、心の中に浮かんだ。

飛行機は、あっという間に、関西空港まで飛んでいく。
KTXで釜山からソウルに行くよりも、ずっと時間が短い。

昼に、関西空港に着いた。
わが祖国の現状は、どうであろうか。


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-どうして、

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-これが、異常であることが、わからないのか!

国際空港の駅に、どうして英語表記がこんなにも、こんなにも、少ないのか!
外国人は、決まったターミナルにだけ行けばよいと、言いたいのか!
じゃあターミナルで待つ日本のバスやタクシーは、英語や漢語や韓国語が、どれだけ通じるというのか!
同じ、病気だ。
韓国と、全く同じ病気に、日本はかかっていた。深く、深く。
私は、現在の日本の停滞の原因を、今はっきりと理解した。

南海電車に、乗る。
駅名案内図は、さきほどのクソJR西日本のものよりは、まだ不十分ながらも、英語表記が揃っていた。
急行電車に、乗る。
車内では、車掌が乗り換え、先発待ちの説明を、微に入り細をうがつように、伝える。
日本語、だけで。
日本人に対して、日本人に対してだけ、シャワーのようなサービスを浴びせ掛ける。それが、日本の会社だ。
車掌はいい気になって(悪いが、今日は仕事にがんばっていると、彼を評価してやらない)、名調子でアナウンスを行なう。英語は、どうせ一言もしゃべれないに、違いない。英語のアナウンスは、国際空港から帰る急行であるにも関わらず、ない。
-本日も、南海電車をご利用いただきまして、ありがとうございました、、、
金を払って、サービスを受けているのだ。
今さらあいさつなど、いらん。
-扉が閉まります。ご注意ください、、、
大きな、お世話だ。
どこの世界に、扉を開けっ放しにして発車する、電車があるか。人をなめるにも、大概にしろ。
こんな車掌のアナウンス、要らない。
おせっかいな注意は論外としても、乗り換えの指示なんぞ、乗客が事前に調べておけばよいのだ。もし急行に乗り損ねたところで、一日も遅れるわけではなかろう。せいぜい、10分程度遅れるだけだ。それは、不注意による自業自得の範囲内だ。
そんなことよりも、自動放送で、次に停まる駅のアナウンスを、各国語で流せ。
どうせ各国語ができない車掌は、黙ってろ。マイクを、持つな。
しかし、そんなことをしたならば、どこかから必ず「サービスが足りない」だの、「温かさが消えた」だのといった、情緒的な批判が飛び出して来る。
そんな、日本人たちよ。
君たちは、世界に向けて、非常識であるというメッセージを、発しているのだぞ。

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大阪の街は、釜山よりもずっと煤けて見えた。
徳川時代初期から昭和戦前まで、三百余年間も繁栄を謳歌し続けて来たこの街は、現在衰退の途上にある。
かつては文化の香り高い都市であったが、今や吉本ぐらいしかない。その吉本も、事実上の拠点は、東京に移ってしまっている。
この街には、私の好きな食い物屋も多いだけに、街の疲れた姿が、痛々しい。

市営地下鉄に、乗る。
車内の、路線図。

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-なぜローマ字でなくて、ひらがななのか!

日本の識字率は、もう100%ではないか。
漢字が読めない日本人が、いまだにいるとでも、思っているのであろうか。
昔、まだ識字率が高くなかった時代に、サービスのためにこんな標記を作ったのであろうが、いまだに、いまだに、続けている。
何も、考えていない証拠だ。
真に漢字が読めず、ひらがなすら読めない、日本以外の民族のことが、頭から見事に抜け落ちている。
腐っている。
ここまで、腐っているのか。
梅田駅で降りて、自らの身を怒りに包みながら、阪急電車に乗り換える。
この電車は、関西で最もファッショナブルな電車であると、思っていた。
だが!
私は、梅田駅の、自動券売機の液晶画面を見た。
英語が、ない。
あの銀行と、同じであった。
その隣にも、隣にも、そのまた隣にも、英語で操作できるボタンが、なかった。
私は、改札横のインフォメーションセンターに、つかつかと歩み寄った。
私は、わざとカタコトの日本語で、駅員に言った。
「券売機、English、ないの?」
私は、券売機の方向を指差して、聞いた。
応対した駅員は、善良そうだ。
その彼が、言った。
「申し訳ございません。ございません。」
私は実は日本人だから、彼の丁寧さを、許さない。
私は、叫んだ。
「ないの!ハッ!」
私は、肩をすくめて言葉を吐き捨て、怒る足で立ち去った。
この会社は、ファッションだけで洋風に見せかけている、会社であった。
ファッションで見せる洋風は、日本人にしか通じない、にせ国際化である。
日本人は、韓国人よりも、ずっとずっと薄情者だ。
もし外国人が日本で迷ったならば、きっと悪い印象を持って、帰るであろう。それが積もり積もって、日本は通り過ぎられる列島となるに、違いない。
私は、このままでは十年のうちに、日本は「かつて」と歴史書で呼ばれる国となる、と確信した。
かつて、一時代を築いた国。
今や、見るべきものは、変な文化と、ヲタクとかいう変態だけがうじゃうじゃいるだけの、変な国。
もう、そう評価され始めている。
戻った春の京都は梅の花の盛りであったが、花の美しさは私を喜ばせてくれなかった。

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