バスに乗らず、歩いて市街地まで、行こうとする。
バス賃がもったいないわけじゃ、ないんだよ。
バスに乗っていたら、空気が分からない。音が、聞こえない。興味のあるものを見かけたとき、道草ができない。
だから、歩くのだ。だが、、、今日の午後は、暑い!
道の途上に、Korean Warの戦功者碑が、建てられていた。
日本人は、この戦争のことを、あまりにも知らなさすぎる。
1950年8月末、北朝鮮軍はこの統営の北にある、固城附近にすら、浸透していた。
残るは、釜山を最後の砦として、北の浦項(ポハン)、西北の大邱(テグ)、西の馬山(マサン)を繋ぐ、釜山円陣のみ。キーン少将が率いる米軍第25師団が、8月に固城から晋州(チンジュ)を目指して反撃するキーン作戦を行なったが、頓挫。9月には北朝鮮軍第6師団と第7師団が攻勢に出て、キーン師団長は後方の馬山市民の、強制疎開命令を出すまでに追い詰められた。
開戦からわずか二ヶ月で、国連軍は釜山円陣で耐えなければならないところまで、追い詰められた。
アメリカの態度からは、北朝鮮軍が北緯三十八度線を越えた場合には外交上の抗議以上のことが行なわれることになるということが、モスクワや北朝鮮の首都である平壌の政策決定者達には伝わらなかった。彼らは、アメリカが一九八〇年代後半の和解的態度から一九九〇年のペルシャ湾における大規模な展開へとその姿勢を変化させたときのサダム・フセインのように驚いたに違いない。モスクワや平壌の共産主義者達は、アメリカの指導的立場にある人々が朝鮮半島をアメリカの防衛境界線外と位置づけた発言を真に受けて、その発言に重きをおいていたのである。
(ヘンリー・A・キッシンジャー『外交』第19章より。岡崎久彦監訳)
1950年、アメリカの半島に対する基本姿勢は、「防衛線の外」であった。
トルーマン大統領は、1949年に統合参謀本部の勧告を受けて、韓国から米軍を撤退させた。東京のマッカーサー将軍は、1949年3月、新聞のインタビューで、「我々の防衛線」を、フィリピン諸島、琉球諸島、日本、アリューシャン列島であると、言明した。こうして彼は暗黙のうちに、韓国が防衛の線外にあることを、ニュアンスした。さらにアチソン国務長官は、1950年1月12日ナショナル・プレスクラブで演説し、朝鮮半島がアメリカの防衛境界の外であり、大陸のいかなる地域を保障する意図もない、とはっきり表明した。
これらの一連の声明が、北朝鮮にサインを与えた。
前年に蒋介石に対して勝利した中共がやったことを、北朝鮮がやったとしても、アメリカは黙認するであろう、、、
こうして、1950年6月25日、北の侵攻が始まった。アメリカは北朝鮮の予想に反して、直ちに国連で決議を取り付けて、国連軍派遣を決定した。しかし、米軍をすでに撤退させていた韓国側は、事前の準備が北朝鮮に比べて、貧弱であった。開戦当初には、北朝鮮軍の繰り出すT34戦車を破壊するだけの、対戦車兵器がなかった。T34を前面に押し出して進む北朝鮮軍に対して、韓国軍とにわかに急派された少数の米軍では、なすすべがなかった。7月13日韓国入りした米第8軍司令官ウォーカー中将は、戦力差の挽回には増援部隊を待つより他に方法がないとの判断に達し、とりあえず到着した米軍に、遅滞行動(敵の進撃を遅らせながら、撤退する行動)を命令した。
日本で学ぶ現代史では、昔なんぞこの戦争は米軍の挑発により始まった、などという嘘が、教えられていた。私が小学生の頃読んだ、マンガの日本史シリーズにも、はっきりとそう書いていた。そのマンガでは、Korean Warは日本にとってまるでひとごとのようで、むしろ戦争特需によって日本経済が一挙に立ち直った喜びを、生き生きと書いていたものだった。
昔の時代から、ずっと。
誰も、隣国を知ろうとしない。だから、私が読んだマンガ(ベストセラーだった、はずだ)のような嘘が、堂々とまかり通っていたのだ。
この戦争について、これ以降のことについては、詳しく書かない。
後はマッカーサーの立てた仁川(インチョン)上陸作戦の成功によって、補給線の延び切った北朝鮮軍が崩壊し、以後、北朝鮮軍は戦いにほとんど影響を及ぼさなくなる。それから休戦まで続いた戦いは、事実上、介入して来た中国人民解放軍と、国連軍との戦いであった。
今も、ただの休戦中である。終戦したのでは、ない。
戦後の日本は、かつての東アジアにまたがった帝国を精算させられて、徳川時代以来の固有の領域に、再び閉じこもった。
列島の外で、戦後の時代に何が行われて来たのかについて、極めて鈍感となった。
日本列島の内において、マッカーサーとGHQは、進歩であった。
そのアメリカは、かつて大日本帝国の版図であった沖縄、台湾、そして韓国において、反共の戦いためになりふり構わなかった。
列島がデモクラシーと平和を謳歌している最中、かつての大日本帝国の版図においては、沖縄はアメリカ軍の占領下であり、韓国と台湾はアメリカに後押しされた独裁政権であった。
日本は、周辺諸国を無視したままで、経済成長を謳歌した。
そうして、六十余年が、過ぎた。
今後の日本は、どうやって生きていく、つもりなのか。
戦後の日本は、いまだ過去の大日本帝国の後遺症に、正面から向き合っていない。
大日本帝国はなかったこととして、これまで頬かむりしたまま、周りを見ることもなく、生きてきた。
いま、日本の眼前に、かつて大日本帝国が植民地化し、独立運動を暴力的に弾圧し、民族性を抹殺することを企み、そして戦争に負けた結果、イギリスのように独立を支援することもなく放り出した、半島がある。
その半島は、米ソの対立がもう歴史となったはずなのに、いまだに冷戦の時代のままに、南北に分断されている。
これで、よいのであるか。
かつて征服した土地を、そしてすでに先進国に到達した南半分を持つ土地を顧みなかったこれまでの六十余年を、これからも続けるつもりなのか。
現在の日本は、行き詰まっている。
大日本帝国が崩壊した後、六十余年間外と交わることもなく繁栄して来た民族のエネルギーは、現在とうとう枯れ果ててしまった。このままではもう先に、何もない。
自分たちの周囲に、自分たちに近い文明があることを、もう一度思い出せ。すでに、かつてとは違って、周囲の諸国はもう先進国ではないか。
かつて征服して、植民地として己の戦争に利用して、その後放っぽり出して逃げた国を、今のままでは相手が信頼してくれるものか。
信頼を得たいならば - そして、得なければ日本の未来はないと、私は考える - 、謝るべきことははっきりと謝らなければならない。日本は、過去の一方的な侵略行為の全てについて、日韓併合時代だけに留まらず、それ以前の帝国主義時代の数々の事件についても、いやさらに遡って四百年前の豊臣秀吉が仕掛けた兇悪な侵略に至るまで、きれいに謝罪するべきだ。日本と韓国がもし二人の人間であるとするならば、そこまで謝罪しなければきっと将来のために協力し合うことができないだろう。過去を詫び、不信を洗い流せ。信頼を得ることは、屈従でも土下座でもない。将来を買うための、投資だと思わなければならない。半島は、すでに先進国なのだ。その国民は、日本人が思っている以上に、文明国民なのだ。この国民には、日本人にはない美徳がある。そして日本人にも、半島の国民が持っていない美徳を持っている。両国の協力は、きっと互いを再び活性化させる妙薬と、なるに違いない。政治の、工夫しだいなのだ。
記念碑を通り過ぎて、さらに歩く。
やっぱり、綺麗な遊歩道が、国道の脇に作りつけられている。
そして、この国の道の特徴として、坂だらけだ。
遠い。
とてつもなく、遠い。
ひょっとして、市外バスターミナルから市街地までは、歩いて行くことなど不可能なほどに、遠いのであろうか。
ずいぶん歩いたのに、市街地どころか、山と海しか、見えない。
山も海も、美しいのにね。それを楽しむ体力が、だんだん尽きて来た。
これは、どう考えても、バスを使わないと到達できないほどに、遠いのであろう。
しくじった、、、