今、図書館から『現代韓国文学選集』(冬樹社)を借りて、韓国の現代詩を読んでいる。
どういうわけか、訳者の名前が書いておらず、編集委員の連名があるだけである。末尾の作家ノートに、高名な金素雲(キム・ソウン、1907-81)氏が訳を行なったと書いているので、少なくとも編集委員の一人である金氏の訳は、選集に入っているはずだ。
「青馬紀念館」から、柳致環を導き出すのには、大変苦労した。
韓国でだけしか知られていない人物、と言っても、過言ではない。「青馬祈念館」を「청마 기념관」とハングルに直して、韓国語のホームページを用いて、検索するより他はない。四苦八苦しながら巨済市のホームページを開いては、エキサイトで翻訳する。そうして、ようやく「青馬祈念館」が巨済市屯徳面にあり、「유치환」という詩人の記念館であることを、知る。「유치환」を、韓国語Wikipediaで、検索する。項目が、あった。他国語では、英語と日本語の項目だけがあった。そうして日本語Wikipediaで、彼の全貌を知ることができた。英語版の説明は簡単すぎて、参考にならない。たぶん日本語の項目は、誰か研究者の方が、書かれたのであろう。
柳致環(ユ・チファン、1908‐67)。
日帝時代を生き、戦後にまで生き通した。詩人であった。教育者であった。
慶尚南道忠武市、太平洞の生まれ。忠武市とは、私が今さっきまでいた、統営市の旧名である。彼と巨済島との関係は、この稿の時点で私がいる、巨済島屯徳面が父親の柳煖秀の出身地であったことに、由来する。
彼の生家は、裕福であった。
それで、父親が、八人の兄弟のうち三人を日本の旧制中学校に留学させた。
柳家の次男である致環は、その一人であった。
東京の、豊山中学校で学んだ。現在とは違って旧制中学校であるので、現在の中学一年生から高校二年生までの期間に当たる、五年の課程である。さらに言えば、旧制中学校は義務教育でなく、その後の旧制高校、そして帝国大学へと進む進路を前提とした、特権的教育機関であった。
しかし彼は、日本の学校を中途の四年で帰国した。父親が事業に失敗して、学資が困難となったためであった。その後は、韓国の学校で学んだ。以降、ごく短期間日本に滞在したことはあったが、韓国や満州ハルビンなどでいろいろな事業に挑戦しながら、戦前を過ごした。
金素雲の援助を受けて、1939年に詩集『青馬詩抄』を出版した。金素雲は釜山出身で、渡日して活躍していた詩人であった。彼は日本文壇に自ら採取した半島の口伝民謡・童謡を紹介して発表、半島の文化を知らぬ日本人たちに衝撃を与えた、詩人にして研究者であった。
戦後はKorean Warに従軍し、随筆や詩を発表すると共に、多くの学校で校長となった。赴任した各学校では、生徒たちに非常に慕われたらしい。1967年、自動車事故により、死去。
私は、手元にある『現代韓国文学選集』に訳された七葉の彼の詩を、読んだ。
残念ながら、私はその訳詩に、感心しなかった。これはもう、私の心が言っているのだから、どうしようもない。
彼の作った多くの詩のうちたった七葉であるし、原語の響きはまた違ったものであるに違いないから、今は彼の作品を批評することは、私にはできない。
Googleで、検索してみる。
「柳致環」で、2060件。
「柳致環 詩集」で、734件。
つまり、日本では、知名度がほとんどゼロだということが、わかる。チェさんには申し訳ないが、私がこの詩人を知らなかったことは、日本人の常識の範囲内なのだ。
帰国して調べると、微妙な問題を、感じ取る。
彼は、「親日派(チニルパ)」の疑惑が、掛けられている。
「親日派」とは、現在の韓国で、最も憤慨を起こさせる対象の一つである。
日帝時代に日本に協力したとみなされる人物は、「親日派」である。
私が見た祈念館の内容と、日本で調べた限りのこの詩人の戦前での活動内容は、食い違っている。
だから、韓国で「親日派」の疑惑がかけられているのであり、あの祈念館の中でだけは、彼は反日の闘士とされていた。
私は、今の時点で、この問題についてここから先に踏み込むことが、できない。
彼らを突き放すのは、簡単だ。
だが、それは必ず、両国の将来のために、ならない。両国を現在の行き詰まりから突破させるのは、両国の政治と経済の同盟しか、ありえない。今の私は、そう信じている。それはできるはずのことだと、私はこの旅行で強く感じた。そして、それを為さなければ、将来あの北朝鮮の建て直しは、きっとできないだろう。現在の韓国の国力では、北朝鮮はあまりに重荷に過ぎる。
だから、重大な問題である。ブログごときで、「親日派」問題を簡単に批評したくない。
その代わり、『現代韓国文学選集』より、戦後韓国の現代詩人たちのうたを、引用しよう。
ここは日本列島九州
東支那海の波打ち寄せる
指宿海岸
黒い砂浜
湧き出る温泉。訪ねる友はおらず
真っ暗がり
静まり返った宇宙、ひりつく思いに
雲が流れる・・・(中略)・・・
ぼくと
ぼく
人間、所詮は独り行く旅。(趙炳華『指宿』より)
韓国の詩は、内情の吐露である。
日本人ならば、指宿温泉の情緒を称えて、人間と自然を一体化させたい欲望を放ち、うたにするだろう。
しかし、韓国詩は、人間の心の叫びを、よしとする。
もとより、私の読んでいるのは、訳である。
詩は原語から別の言語に翻訳されると、別の詩になる。
韓国語の原語で趙炳華の詩を読んだときには、必ず日本語訳とは別の響きが、あるはずだ。
だが、訳だけでも、彼らが自分という存在の叫びに最大の詩心を置いていることは、わかる。
おお、ここに列なして横たわる魂魄たちには
目をつぶる安らぎもなかったに違いない。きのうまできみたちの命を狙い
引き金引いたそのぼくたちの手で
崩れ爛れた肉片と骨を拾い
ここにこうして 日向を選んで
墓も建て、芝もどうやら着せた。
まこと死は、憎しみよりも 愛よりも
いやさらに神秘なもの。(具常『敵軍墓地』より)
日本の歴史は、1945年8月15日で、時計が止まった。
それ以降の日本の戦後には、歴史が存在しない。
ただ、GDPとインフレーションが線的に伸びて、それと共に風景がめまぐるしく移ろって行った、それだけのことだ。1990年代以降には、GDPとインフレすら、平らかになってしまった。
しかし、韓国では、歴史はいまだに、終わっていない。
1945年8月15日の光復は、歴史の終わりではなくて、新しい不条理と悲惨の始まりであった。
1950年6月25日、半島では不条理な戦争が始まり、人が死に、村が焼かれて、その犠牲の結末は、それから59年経ったにも関わらず、いまだに精算されていない。いまだに、民族分断という不条理が、続いている。世界では冷戦が一応終結したにも関わらず、よりによって彼らだけが、まだ。
彼ら韓国人の心象風景の痛みは、叫びによってしか、満たされない。現実が、水に流してくれないのだ。現在の不条理の源に日本の占領があった以上は、これだけを切り離して笑って忘れるわけには、彼らとしてはいかないのであろう。
八月の江(かわ)が手を打ち鳴らす。八月の江が身もだえする。
八月の江が憂い悩む
八月の江が沈潜する。江はきのうの溜息を、泪を、血のしたたりを
そして 死をすらも記憶する。(朴斗鎮『八月の江 - 8/15に寄せて -』より)
上の詩、おそらく原語は、「八月江(봘월강)」であろう。パルウォルガン。いや、むしろ、パウォッガーンと表記した方が、日本人によりよく伝わるのかも、しれない。韓国語の響きは、我らがアイウエオの柔らかな母音を愛するのとは違って、子音の硬質な響きを愛する。
あはれ花びらながれ
をみなごに花びらながれ
をみなごしめやかに語らひあゆみ
うららかの跫音(あしおと)空にながれ
をりふしに瞳をあげて
翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
(三好達治『甃のうへ』より)
日本の詩は、流れて移ろう。上の三好達治の詩が、それを表している。それは、母音の響きがそうさせるのだ。一方、韓国詩は、留まり考える。私が読んだ訳詩からだけでも、それがわかる。
どこかで受信する秋の人は
仕事の手を休めて
いっときボンヤリと想いに耽る。
こおろぎの送信がハタと止めば
天(そら)はぜひなく
青瓷の深淵だ。
(申瞳集『送信』より)
彼らは、夏に憂い、秋に悩み、冬に苦しみ、そして春に逢っては、季節の美とこの世の不条理を対比させて、怒る。
それが、彼らの詩情なのだ。どんな季節においても意味もなく泣きたがる詩心の日本人と、不思議さとしてはそう変わりはしない。彼らの怒りには悪気がないのだから、怒りたければ怒るに任せれば、よいさ。こちらは、泣きたくてしようがないんだから、泣いていればよいんだ。
からたちは
棘の身ながら
からたちの実をつけ私は
詩を病むゆえに
詩をつくる。歳々 年々
年々 歳々
行けども 行けども
人は
そのままの人。きょうも明日も
われは われ
いつもの そのままの われ。むかしも いまも
時計は
時計の音、
めしは
めしの匂い。(柳玲『枳殻は』より)
彼ら韓国人の詩心と、われら日本人の詩心は、異質である。
しかし、両者ともに、詩心があることだけは、確かである。
互いに違うことを分かっていれば、互いを尊重しあうことだって、きっとできるはずなのだ。
韓国の、石と。
日本の、花は。
ともに、美しい。