とぼとぼと歩く道の横に、単線、無電化の線路がある。
線路の上を、貨物列車が通り過ぎて行った。
のどかだねえ。今日は天気が悪いのが、ちょっと残念だ。
バスで、また慶州に戻る。
バス停は国道のど真ん中で、車がものすごいスピードで、駆け抜けていく。
ちょっと、いやだいぶん怖い。
慶州の市外バスターミナルに着くと、雨が本降りになっていた。
傘がないと、もう歩けない。
バスターミナルの売店で、折りたたみ傘を買う。
「オルマ(いくら)?」と聞けば、「チルチョノォン(7000ウォン)。」とおやじが答える。
買った傘は、ずいぶんいい加減な作りだ。
これで日本円で500円ぐらいとは、高すぎる。
ぼったくられたな、と思った。
雨の中、日没まで再び慶州を歩く。
雨にけぶる、大陵苑(テヌンウォン)。
慶州の市街地の中にある、王家の谷だ。
これが春にもなって、晴れた日であれば、さぞかし美しかったに違いないのに。ちょっと、残念だ。
陵墓と陵墓の間に通路が作りつけてあって、敷地をぐるりと取り囲む塀の北門から南門まで、通り抜けることができる。
日本の古墳では、こんなことができない。
天皇陵なんて、あれは徳川時代の国学者が、しかもいい加減な知識をもって認定したまでのものだ。
だから、考古学的に言ってあきらかにおかしい陵墓が天皇陵とされていて、代わりにおそらく天皇陵であろうと思われる大規模な古墳が、ただの陵墓参考地になっている。日本では、そのどちらにも入れない。徳川時代には、ひょいひょい入れたものが。日本は、何かがおかしい。
著名な天馬塚の中にも、入った。
中はチャルヨンクンチであるが、はっきり言って撮る価値など、ない。
出土した黄金冠の本物は、国立慶州博物館にある。ここにあるのはレプリカだから、タダで観れる博物館に行った後には、有料であるここに入る必要は、ない。
まあ、入場料金は、素晴らしい古墳の間を歩くために払ったと、思うことにしよう。
慶州のシンボル、瞻星台(チョムソンデ)。
いにしえの都のよすがは、もう現代にはほとんど何も残っていない。
壮麗であっただろう月城(ウォルソン)の遺跡には、もう何もない。瞻星台の向こうに見える月城の基壇には、木が生えているばかりだ。
おとつい私が行った、国立慶州博物館に作られていた、いにしえの慶州の姿の模型の写真を、示す。
右上にあるのが、月城。
左手前にあるのが、大陵苑。その右に、下の写真にある、陵墓群。
向こうに見える塔が、芬皇寺(ファヌンサ)だ。
復元模型には、「これが正確な姿でないかも、しれません」と断り書きがあったもの、いにしえの慶州のイメージだけは、この模型から掴むことができるだろう。新羅の慶州は、平安京に勝るとも劣らない、壮麗な王都であった。
今、何もかもが、失われてしまった。
石と、土の古墳だけが、こうして残った。
悲しいが、だけれどもこの石と土の国に、ふさわしい末路なのかもしれない。
大陵苑の南、月城の西にも、陵墓の群れがある。
この三つの敷地が、あくまで慶州の一部にすぎないのであるから、都の大きさが分かる。
美しい陵墓のすぐ脇の、猫の額のような敷地がハクサイ畑になっていて、刈り取った後の残り葉がしおれて腐りかけていた。
剽軽(ひょうげ)ているというのか、田舎じみているというのか。