伝統的な韓国家屋が、いくつかあった。
ちょっと失敬して、家の門の瓦を、触ってみた。
ざらり、という冷たい感触が、指に伝わってきた。
-石瓦?
私は、そのときそう思った。
日本に帰国したその日に飲んだ夕映舎氏にそのことを話したら、「石の瓦のわけがないやろ。土の瓦に、決まっている。」と、否定された。
私の、思い過ごしだったのかも、しれない。
だが、韓国の屋根の瓦は、釉(うわぐすり)など掛けてピカピカの日本の瓦とは、ぜんぜん違う。
家並の古さびた風景は、華やぎのないモノクロームの世界だ。
どの家も重厚で、まことに絵になっている。
だが、私はこの古めかしい家並みを見て、思った。
-ここに一輪の花が咲いていれば、この風景は想像を絶する美しさになるだろう。
塀の向こうから、たとえば紅梅の花が、覗き出していれば。
呉竹の青さが、清清しい光を放っていたならば。
だが、華やかなものは、何もない。
台湾のようににぎやかすぎるのも考えものだが、寂しさの中に一点の花を咲かせる、情緒の趣きが韓国の街並みには欲しい。
花好きの日本人の、たわごとさ。民族には、それぞれの美的感覚がある。
有名だという酒店に行って、生酒の名品を、買おうと思った。
名品だけあって、値段がひどく高い。
日本語が通じると聞いていたが、行ってみるとおじいさんしかいなくて、通じない。
どう説明しようか迷っている私に、おじいさんはにっこり笑って、私を奥の方へ入れてくれた。
コップに酒を注いで、試飲させてもらった。
前にチャガルチで飲んだ清酒(チョンジュ)はすっぱくて、清酒(せいしゅ)好きの私をがっかりさせた。
今度は、どうだろうか。
、、、
帰国後、夕映舎氏に、私は言った。
「韓国は食い物は、全部うまい。だが、酒は残念ながら、良いものがないとしか、言いようがない。」
ソジュ(焼酎)は、確かに飲みやすいし、アルコール分も清酒より高く、その上とびきり安い。コストパフォーマンスは、抜群だ。
だが、あれは安酒だ。
思わず魚を伴にしたくなるような、高級な米の酒は、韓国にない。
夕映舎氏に、買って帰った、その酒を飲ませた。
「いや。」
夕映舎氏は、猪口から一口を含んだ後で、私の批評を、否定した。
「日本の古酒も、こんなものやで。あくまで、これは日本の清酒とは違う、別系統の米の酒やと、思ったほうがいい。お前の即断は、誤りや。これをうまいと思う日本人も、きっといるはずや。」
彼が言うように、私の即断なのかもしれない。
私は、結局マッコルリ(濁酒、どぶろく)も、この旅行で試してみなかった。マッコルリを置いている店を、見つけることができなかった。
しかし、これはただのイルボンサラムのおせっかいなのかも知れないが、肉を楽しむ伴としてならば、ワインというとびきり美味い酒が、存在する。
韓国は日本よりもずっと肉好きの国民だから、この際ワイン造りを始めてみたら、どうだろうか。
南の慶尚道や全羅道ならば、ぶどうを作れるはずだ。さらに南の済州島ならば、なおさら作れるだろう。
肉を食べる機会が韓国人よりも少ない日本人よりも、うまいワインを舌で作り上げることが、できるかもしれない。
酒を買って、また市外バスターミナルまで歩いていった。
途中、土産物のパン屋がいくつもあったが、値段を見て通り過ぎた。
韓国は、安いもののほうが、どんなものでも、断然よい。
私は、この頃そんな印象を持つようになってしまった。
市外バスターミナルの横の屋台で、串のホルモン焼きを売っていた。
「ハンゲ、オルマ?(一個、いくら?)」と尋ねれば、店のおばあさんが、威勢良く答えた。
「ハンゲ、サッペグォン!セゲ、チョノォン!」
つまり、一本400ウォン、三本ならば、たったの1000ウォン(70円足らず)。
私は、三本買って、食った。
-うまい!
タレの味が、まことに絶妙であった。これとソジュさえあれば、倒れるまで飲むことができる。
釜山に帰って、二日目と三日目に行った店にまた行って、ナッチポックムを頼んだ。
ナッチポックムとは、「イイダコの混ぜご飯」。
まず、タコと野菜と春雨が入った小鍋を、コンロで火通しする。
煮上がったならば、白いごはんを入れて、よく混ぜる。
出来た料理は、辛さの中に、うまみがある。私は、かっこむように食べた。
値段は、スンドゥブチゲよりも、ちょっとだけ高めだった。
海産物の分だけ、高いのかもしれない。
この店には四品しかメニューがないので、私は結局その三品までも、この旅行で食べてしまった。もう一品は本格的な鍋で、きっと美味いに違いないが、残念ながら、一人前がない。