さて、バス停の終着点まで歩いたものの、太宗台の先にある展望台には、どうやって行けばよいのだろう。
バス停の終着点は、食い物屋が立ち並んでいる。
ちょっと早いが、もう一度食うか。ついでに、行き方を聞こう。
中央洞で会った高さんが、私に勧めていた。
「魚のスープが、うまいぞ。チャガルチに行ったら、試してみるとよい。」
店の看板に、「해장국」と書いてあるのを、読んだ。
-ヘジャングッ。
私は、ヘジャンとは「海醤」のことなんだろう、と解釈した。ならば、海醤スープ。これじゃないか。
私は入って、メニューのヘジャングッを指して、頼んだ。
出て来たのが、これ。
海産物なんか、どこにもない。あれれ?
中身は、濃厚な肉味の味噌汁に、骨つき肉(牛肉と思っていたが、後で調べたら豚肉らしい)とモヤシが入ったもの。空きっ腹だったらうまいに違いないが、まだ昼飯から大して間が空いていなかったので、正直胃にもたれた。
本当は、ヘジャンの字を当てるならば、「解酲」となるのであった。「酲」という難しい字を漢和字典で引いて見たら、「わるよい。ふつかよい。」とあった。
つまり、このスープは、ふつかよい覚ましスープと、いうわけのようだ。英語と日本語のWikipediaを交互に参照したところ、このスープの起源は高麗時代に遡るが、一般人に流行したのは、太平洋戦争直後のソウル鐘路地区のとある店からであるという。
店のおばさんにハングルで書いて、「展望台は、どこですか?」と聞いた。
おばさんは、「食べた後に、教えてあげるよ。」と言って(いるはずだ。何を言っているのかは、わからない)、笑った。
食べ終わって、「オルマ?」と聞いたところ、おばさんは、「ユッチョノォン。」と言った。
だが、一瞬私は、混乱した。
「ユッチョノォン?」
六、千、ウォン。そう、言っているはずだ。肉スープだから、ちょっとばかし高い。それはまあ、いいとして。
おばさんは、左手でパーをしていた。
それから右手の親指を立てて、いわゆる「サムズ・アップ」の仕草をしていた。
私はこのポーズを、「五千ウォンだよ、OK?」と、この瞬間解釈したのであった。
それで、言っていることとポーズに食い違いを感じて、混乱してしまったのであった。
「オチョノォン?、、、アニエヨ、、、ユッチョノォン、、、」
次の瞬間、理解した。
「六」のポーズが、日本人とこのおばさんでは、違っていた。
日本人は、「六」を示すときに、片方の掌でパーを作って、もう片方の手で人差し指を立てる。さらに、片手の人差し指を、もう片手の掌に押し付ければ、強調するポーズとなる。
だが、このおばさんの「六」のポーズは、人差し指の代わりに、親指を立てるものであった。
おばさんだけの、くせなのだろうか。いやいや、これで相手に通じなかったら、するわけがない。たぶん、韓国人の「六」のポーズは、こうなのであろう。
たった十秒ほど続いた、文化摩擦であった。
理解して金を払った後、おばさんは店の外に私を連れて行った。
おばさんは、太宗台のほうを、指差した。
ポーズから、あの入り口に入った、むこうにあると言っていることが、わかる。
そういうわけで、これから太宗台公園の中に、入って行く。
歩かされるなあ。
ひさかたの光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらむ
歩きながら、そんな歌を、つぶやいた。
今日は、暖かい。
すっかり、春が近づいている空気を、感じる。
韓国の道に、花は乏しいけれどね。
山道をぐりぐり進んだ、その果てに、とうとう対馬海峡が開けた。
見えないなあ。
やっぱり今日は、空気が霞んで、対馬島(テマド)は見えない。
二日目に釜山タワーからおぼろげに見えたのが、たぶん対馬島だったはずだから、今回の旅行はあれで見えたということに、自己認定しよう。
あれが、展望台。
だが、今日はどうせ登っても対馬島が見えないから、行く必要はないや。
ところでこの岬の名前になっている太宗(テジョン)とは、新羅の武烈王、金春秋(キム・チュンチュ)のこと。
彼は、さきに慶州でその墓を見学した金庾信将軍とのコンビで、当時百済・高句麗の攻勢に追い詰められた自国の勢いを、超大国である唐との同盟を取り付けることによって、一挙に回復させた。
そのためには独自の国制を放棄して唐に臣従し、暦も官位官服も、唐を模倣した。勝つためにはなりふり構わず、徹底的にやる。太宗は、まさしくカジャの韓国男児であった。カジャ(가자、韓国語で『行こう』)の精神こそが、昔も今も、韓国である。
太宗の判断は、正しかった。半島の世界では強国であった百済であるが、超大国の唐が滅ぼすと決めたからには、もういけなかった。形勢は一変して、太宗の治世中に、百済はあっけなく滅亡した(660年)。
この後に、新羅は唐と連合して、日本軍と合した百済復興軍を白村江(はくすきのえ)で破り(664年)、さらにすすんで唐と共に高句麗をも滅ぼした(668年)。だが唐の本当の狙いは、半島全体の支配であった。唐が新羅を援助した真意は、強敵の高句麗を南から攻めさせる手駒として、新羅をしばらく太らせることであった。戦後、唐は旧百済の領域に兵を置いいたまま退かず、あまつさえさきほど滅ぼしたはずの百済の政権を、自らの軍の支援で復興させようと企んだ。
新羅は、ついに唐と開戦した。
676年、唐の海軍を錦江(クムガン)中流で破り、唐を百済の領域から追い出すことに成功した。こうして独立を保った新羅は、半島最初の統一王朝となった。
新羅の統一史を見ると、半島の宿命を感じる。この半島は、常に四方にある勢力に、囲まれている。半島は、それらの勢力と和し、力を借り、時には戦いながら、独立を保っていかなければならないのだ。
この太宗台は、百済を亡ぼして意気揚揚とした大王が、ここに登ってその絶景を賞した場所であるという。海の向こうにある、かつて人質として囚われていた日本に向かって、ザマーミロの一言でも叩き付けて、高笑いしていたのかもしれない。
この海峡は、韓国名では、南海(ナメ)と呼ぶ。
ここは、日本人にとってむしろ1905年の日本海海戦で連合艦隊が遊弋していった海として、有名である。
だが、詳しく知りたい日本人は、インターネットで調べろ。
それか、『歴史群像シリーズ 日露戦争』(学研)を買って、読め。
日本人にとっては列強の仲間入りをする戦争であった日露戦争も、韓国人にとっては隷従の屈辱への、一里塚だったのだから。私はその内容を知っているが、この稿でベラベラしゃべらん。
太宗の笑い声が聞こえて来るかのような、まさに絶景。
展望台の下は、断崖絶壁。
人が、入り込んでいる。
つまり、ここまで降りることが、できる。
私は、降りなかった。
この写真を撮るときですら、足元が震えた。
柵もない絶壁に、よくこの人たち進んでいくなあ。
これが、カジャの精神なのだろうか。