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Korea!2009/02/19その二

(カテゴリ:韓国旅行記

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まずは慶州市外バスターミナルから、歩いて金庾信将軍の墓に行く。
インフォメーションセンターでもらった地図のとおり、墓への通り道には桜並木が植えられていた。
春にもなれば、さぞかし美しいことでしょうな。

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墓域へ入るこの大極図の描かれた門は、韓国の様式であって、他に同じ慶州の大陵苑(テヌンウォン)でも見られるし、普通の田舎の大屋敷の裏などでも、見ることができる。

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将軍の、墓。
韓国の田舎に行くと、山のふもとにこの形のままで規模を小さくしたお墓を、いくつもいくつも見ることができる。
頑固なまでに新羅時代の古俗を守って、祖先の祭祀(チェサ)を続けるこの国のしぶとさには、時代時代の流行にコロッと転んでは捨てる浮気な日本人として、感嘆するより他はない。

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墓の周囲には、十二支の動物たちが、面白い甲冑姿で陰刻されている。
写真は、今年の干支、丑(うし)さんの、将軍像。
本日時間がなくて、掛陵には行くことができなかったが、おとつい国立慶州博物館で掛陵の十二支像と金庾信墓の十二支像が並べて説明されていたのを見たので、二つが同系統の作品であることを知った。
この彫刻は、確かに河内飛鳥(大阪府羽曳野市)にある杜本(もりもと)神社の「隼人石」と、よく似ている。
以下、『大阪府の歴史散歩』(山川出版社)から、杜本神社について引用する。

地元の伝承では、この地方は聖徳太子が巡幸のみぎり、黒駒をとどめ休息された故事から、"駒が谷"と称したといわれているが、実際は河内国安宿(あすかべ)郡の狛(こま。高麗)村だった公算が大きい。
安宿(飛鳥戸)の語源は朝鮮語のアンスク(安住地)からきているといわれ、アンスクからアシュクと変わり、漢字で表記して安宿になったと考える説が有力である。
小丘の上にある杜本神社は、延喜式内社で、祭神は経津主命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命の夫婦神で、経津の神宝といわれる"日月の刀剣"と土鏡(日月鏡)が保存されている。本殿の両側に隼人石という人身獣面の石碑が一対たっている。これは新羅の王都慶州に存在する"金庾信古墳"の周囲に建てられている十二支神像のひとつに似ているといわれる。附近は渡来系の人びとが居住したらしく、村内に多い"真銅""金銅"の珍しい姓と共に、注目される。

本の説明では分かりづらいが、「アンスク」とは「안숙」のことであろう。手元の辞典では、「安息」の漢字が、当てられている。だが、いっぱんに言えることなのであるが、古代韓国語は、よくわからないのである。世宗大王(セジョンデワン、1397-1450)の時代に現代のハングルのもととなる「訓民正音」(フンミンジョンウム、後世、蔑んで「諺文」とも言われた)が公布されるまでは、漢字以外に記録が残されていない。だから、古代の韓国人がどのような言葉を話していたかどうかは、万葉がなが残されている日本語のように、遡って研究することが難しい。ゆえに、現代韓国語から古代語を類推するのは、残念ながら科学的とはいえない。上代の日本語が現代日本語と似ても似つかぬ別言語であり、千三、四百前のヘプターキー(Heptarchy)時代の英語が現代英語と何から何まで違っている事情を見れば、同じ民族でも使う言葉がいかに時代によって変化するのかという実情が、分かってしまうものだ。

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左が、隼人石の写真。
右が、金庾信将軍墓の十二支像の中から、卯(うさぎ)の像。
彫り方は違うが、デザインは酷似している。
同一のデザインを作る集団に属する彫り師が、海のこちら側と向こう側で作ったと、推理するより他はない。あるいは、新羅から日本に輸入されたのかもしれない。
日本と、半島。二つの国と民族は、古代に遡れば遡るほどに、近かった。

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慶州の都を潤す、兄山江(ヒョンサンガン)。
この国は、水が豊かだね。
慶州は海岸からちょいと入った川そばの盆地に築かれた都で、日本の京都と山水の構図に、似通ったものがある。
平安京は、(平安時代後期には崩れてしまったものの)唐の大長安城を真似た、四角四面の都であった。
しかし、慶州の構造は、おとつい慶州博物館で見た新羅時代の慶州復元模型を見る限り、四角四面ではなかったようだ。
無理なく山水と祖先の陵墓を包み込むように、都市が柔軟に作られていた。
古代は、むしろ日本よりも半島のほうが、中国の猿真似ではなかったのかもしれない。