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Korea!2009/02/19その一

(カテゴリ:韓国旅行記

本日、天気は下り坂。
昨日、釜山に帰る電車の途上で、司馬遼太郎の『街道をゆく 壱岐・対馬の道』を、読みふけっていた。
-対馬島(テマド)を、見てみたいな。
そんなことを、思った。

「たしかに、そうです。あれは巨済島でしょう。」
と、李進熙氏が言った。金達寿氏には見えたかどうか。ただいつもは姿勢のいいこの人が、うつむいて松林の砂を踏んでおり、話題に入って来ない。
「巨済島ですか。」
「位置からいえばそうなります。」
と、李進熙氏が言った。この御前浜からは方角が悪く、見えにくい。ともかくここから巨済島の南端まで西北六十数キロにすぎず、土地の人は晴れた日、ごく日常的な海景の一つとして巨済島の島影を見ているのである。

巨済島(コジェド)は、高麗がモンゴルに屈従した時代、フビライの送った黒的・殷弘の両名の使者が日本への渡海を望んだとき、高麗の政府が日本を見せるために案内したところであった。黒的・殷弘の両名の使者は、冬の荒れる海の向こうに見えた対馬島を見せられて、その渡海の困難を知らされてすごすごとフビライのもとに帰ったという。

晴れた日に、巨済島に行きたいと、思った。
インターネットで天気予報を見ると、今日から明日にかけて、雨模様。晴れるのは、土曜日しかない。
それで、土曜日を巨済島に行く日と、した。
もう一日、慶州に行く必要がある。まだ、全てを見ていない。
そういうわけで、今日はもう一度慶州に行くことにした。雨よ、ほどほどに降ってくれ。

手持ちのウォンが、少なくなってしまった。
それで、クレジットカードでキャッシュを引き出そうと思って、中央洞まで歩いて、銀行に入った。
ATMを操作したが、受け付けてくれない。
銀行の受付をしているおっさんに、英語で聞いてみた。
おっさん、英語がわからない。
日本語は、もっとわからない。
私は、「カード、ハゴシポヨ。No、イムニダ。」と、ATMから出て来たレシートを見せて、何とか説明しようとした。
ようやく、おっさんは窓口に駆けて行って、出納係の人に、韓国語で事情を説明してくれた。
おっさんは、この銀行ではない、近くにある外為を業とする、別の銀行を指示してくれた。
銀行の外まで着いていってくれて、指差した。
「イゴ?」
「ネ!」
おっさんは、笑って私にうなずいた。
おかげで、クレジットカードでキャッシュを引き出すことができた。
しかし。
私の入った銀行は、たぶん釜山では最も支店の多い、大銀行のはずだぞ。
そこで、日本語はおろか、英語すら通じない。
-おっさん、それでええんか?
私は、内心関西弁で、つぶやかざるをえなかった。

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今日は、老圃洞(ノポドン)まで地下鉄で行って、そこからバスで慶州に向かう。
老圃洞駅の手前の駅が梵魚寺駅で、三日前に梵魚寺駅から地下鉄に乗った時、軍服姿の若者たちが車内に大勢乗っていた。
老圃洞は市外バスターミナルの集積地だから、たぶん彼らは韓国各地からの勤務から、郷里の釜山に戻って来たのであろう。あるいは、釜山市内の基地に、向かう中途であったのだろう。
バスの車窓に、冬枯れの田が広がる。
だが、ふと思った。
-この辺の土地の、水はどうしているのだ?
見回せば、川のようなものがない。
濃尾平野のような、用水も掘られていない。
あるのは、水もほとんど流れていない、溝だけだ。
そんなことを思っていると、途上で水たまりが目に入った。
慶州までの途上に、いくつかあった。
ため池を掘っているのに、違いない。
ならば、大阪平野や讃岐平野と、同じ要領だ。
農村の風景は、日韓でよく似ている。しかし、かつての社会の構造は、両国で違っていた。

昔、地主として田園に君臨していた両班(ヤンバン)たちは、現代の韓国人にとって忌まわしい害毒であったのか、それとも追慕すべき理想であったのか。

李氏朝鮮の社会制度は、明王朝を模範としたところから、始まった。ゆえに、官の登用試験である、科挙(クァゴ)があった。
しかし、時代の進展と共に、中国の制度とは微妙に異なったものとなった。
韓国語が漢語とぜんぜん違う言葉であるという事実が、科挙のための言葉を使える身分と、使えない身分との差を作り、それを固定してしまった。
李氏朝鮮王朝の社会は、両班、中人(チュンイン)、常民(サンミン)、賤民(チョンミン)の四身分であった。身分制が機能していたのが、前近代の中国社会と李朝社会の、違いである。

李朝は、中国の文明を輸入した。
しかし、日本であれば室町時代である李朝初期には、まだ半島の民は中国文明の「形」を知らなかった。その「形」を半島の民に教えることを期待されたのが、両班であった。科挙に及第し、ソウルで高官に昇った官には、国王から土地と奴婢(ノビ)が与えられる。そうして、彼らの家は農奴を蓄える地主貴族として、しだいに成長していった。そして、栄えある祖先を持ち、祖先に倣って学業に精を出す伝統を、後世に伝えながら。
両班は、日本の徳川時代における、「士」の身分に相当する。
ただし、日本武士のように、法によって固定された身分ではない。
又引きで申し訳ないが、宮嶋博史氏『両班』(中公新書)に引用された宋俊浩(ソン・ジュノ)氏の言葉を引くと、


明確に言いうることは、(両班)が法制的な手続きを通じて制定された階層でなく、社会慣習を通じて形成された階層であり....

だがしかし、
両班と非両班との限界基準が相対的であり、主観的であったからといって、それが曖昧模糊としたものであったと考えるならば、それは誤りである。実際においては至極明確な基準があった。

言い換えれば、李朝社会において、法により決められてはいないものの、社会ははっきりと「両班の家」を民衆と識別していた。それは、外国語である漢字を知り、外国思想である儒教を学び、そして先祖に科挙に及第した高官あるいは高名な学者を持っている集団、ということであった。たとえるならば、国家と地方の政治と文化を指導する、学者家族の集団とでも言うべきであろうか。両班である資格が外国語と外国思想であったから、とりわけ明確な差が生まれることとなった。
両班以外の民衆が、「農・工・商」を受け持つ。
彼らは、科挙を受ける道を、ほとんど閉ざされていた。
両班と同じ韓国語を話す民であるにも関わらず、なのだ。
科挙に必要な文字である漢字(ハンジャ)を知らず、ゆえに『論語』『孟子』といった外国思想書を読むことができないからであった。両班は、漢字を使えない常民を、蔑むことはなはだしかった。同じ民族なのに、外国語の知識の有無だけが、身分差別の根拠であった。
ただし、後にハングルと呼ばれる諺文(おんもん)は、彼ら民衆のための文字であった。そして、ハングルだけに限定すれば、男子の識字率は低くなかったかもしれないことが、イザベラ・バードが漢江を旅行した際の報告から予感される。

英語版Wikipediaの"Joseon Korea"の項目が説明するには、1750年ごろ、半島の人口は、約千八百万人という。その後、1810年から1850年までの間に、人口は約10%減少し、それから定常化した。
さらにWikipediaの説明に、頼る。
このうち両班が、1800年までに総人口の30%を占めていた。残りが中人、常民、あるいは賤民といった階層を占めていた。李朝の当初は、もっと両班の比率が少なかった。だが、時代が下がるにつれて、その比率が高まっていった。両班は明確な身分であるが、その資格が漢字を読めるかどうかにかかっていることが、時代が下がるにつれて両班の比率を増やす要因の大きな一つであったのではないだろうか。李朝当初に比べてよほどに儒教が大衆化し、外国思想に触れることが国初よりもさほどに希少価値でなくなるにつれて、あの手この手で両班に成り上がろうという機運が社会に生じるのは、当然のなりゆきであったろう。両班の資格は国初に極めて厳格なものであったが、上の宮嶋氏の著作が概説するところによれば、十九世紀には庶子の子孫や諸吏どもまでが両班文化に参入して、自らの族譜(チョッボ)を作って誇示するようになった。そうして、現在では族譜をもった両班の家は、韓国ではどこにでもいる。

李朝末期の社会を旅行した外国の観察者にとって、両班は腐敗した搾取者たちのように、描かれている。彼らは、いっさいの労働を軽蔑する。儒教の君子は頭を使うのが仕事で、農商工業などする必要はないのである。最重要テキストの『孟子』に、はっきり書いてある。

-堯舜の天下を治むるや、豈(あ)にその心を用いるところ無きかな。また耕に用いざるのみ。
(『孟子』滕文公章句上より)

いにしえの聖王、堯舜が偉大であったのは、頭と心を用いて政治をなし、民に倫理を教えたからなのだ。田畑を耕す小事ごときなど、手足を動かすしか能のない、哀れな小人の仕事である。君子の仕事は、別Iにあるのだ。
彼らはそう思想的に信じきっていたからこそ、芸術的なまでに労働をしなかった。飯も作らず、物を手で運ばず、キセルに自分で火すら点けない。李朝の農村では貨幣経済が極めて貧弱であったから、彼らの生活を成り立たせるためには、奉仕するための下僕が、常に周囲に侍る必要があった。そんな生活が、外国人旅行者たちの目には、異様で無様な無為徒食に見えたとしても無理はない。
旅行者が見た李朝末期の両班の実際の統治はといえば、下僕を引き連れて無為に農村を闊歩し、勝手気ままに農村に労役を課して、富を搾り上げていた。このような両班は、旅行記を読んだ限りにおいて、胸のむかつく搾取階級である。彼らが李朝の社会経済の停滞の元凶であるという直感を、確かに私は禁じえない。
なのに、十八世紀半ばに千八百万人も人口がいたというのが、今の私には今一つ理解できない。洛東江の流域が農地に変わったのは、李朝時代なのだ。李朝時代前期、確かに経済は上向いていたのである。開国後の西洋人や日本が見た李朝の停滞の前には、成長の時代もまたあったはずなのだ。李朝末期の両班は遊民であったかもしれないが、王朝が創設された時期には地球上で圧倒的に先進国であった中国の思想と文明を輸入する、受信塔であった時代があったはずだ。上の宮嶋氏の著作が説明するところによれば、李朝前期の両班は、農業経営者として地方の開拓をすすめていた。高名な世宗大王(セジョンデワン)の下命により編纂された『農事直説』(1430)や、民間で編まれた『農家月令』(高尚顔著、1619)などは、中国の農書から刺激を受けて、韓国の風土のために書かれた農業技術書であった。両班は、少なくとも秀吉の侵略までの李朝前期においては、国を文明で改造するための学者であり、農業経営者であった。中国から少し離れた日本人は、かつての中国文明の高みを、いまいち認識していない。

姜在彦(カン・ジェオン)氏の研究書『朝鮮の開花思想』(岩波書店)は、李朝末期の開化派の系譜を明らかにしようと試みた、一大労作である。著作においては、開化派に先行する内発的な改革思想である実学者(シラッチャ)たちの業績が、明らかにされている。


朝鮮儒学の「分流」として実学派が、十九世紀前半期に思想界の「本流」に転回できなかったことは、近代朝鮮が迎えなければならなかった開国とそれにつづく開化期をおくらせ、外勢とのからみあいの中でその近代的発展をより困難にしたといえるであろう。
(『朝鮮の開花思想』pp.59)

国学としての朱子学が李退渓(イ・テゲ、1501-70)・李栗谷(イ・ユルゴッ、1536-84)の両学によって頂点を極めた後、しだいに現実ばなれして虚学化していった。「実学」は、だいたい十八世紀から十九世紀にかけて、虚学化した朱子学を揺さぶり、中国や西洋の技術科学に目を向け、さらには国政改革への提言までを試みようとした。姜在彦の例示する彼らの国政改革案には、両班が実業に従事することの許可奨励(李瀷など)、身分にとらわれない人材登用と、そのための教育の機会均等(洪大容)、国内の流通改革(朴斉家)など、日本の徳川時代における改革思想とほぼ同様の提言が、網羅されていたのだ。
李瀷(イ・イッ、1681-1763)、洪大容(ホン・テヨン、1731-83)、朴趾源(パク・テヨン、1737-1805)、朴斉家(パク・チェガ、1750-1815?)、それに丁若鏞(チョン・ヤッギョン、1762-1836)といった思想家たちが、停滞していたと思われていた李朝後期には、群像としてあった。李朝の「実学」は、ちょうど日本における「実学」(じつがく)の発展期と、時を同じくしていたのだ。彼らの存在があった以上、李朝後期の人間たちが技術や合理性に一切理解を示さなかった鈍物揃いであった、わけがない。

ただ、李朝の国是は、儒教一尊であった。
その上、唯一の公認学問が、朱子学一尊であった。
朱子学は、よほどに魔力を持った、学問であったのだろう。中国宋代から始まり、東アジア諸国の学者たちを魅了してやまなかった。かつては韓国人も、日本人も、この学問の魔力に頭がぼおっとなっていた時代が、確かにあったのだ。

もともと儒教とは、教祖である孔子・孟子の素朴なお説教と、いにしえの宮廷儀式の次第を収めただけの、宗教(?)であった。
高度な哲学をはやくから展開した、仏教や道教に比べて儒教の教義体系は、とても見劣りするどころではなく貧相だった。
それを、一大転換したのが、宋代の儒者たちであった。
彼らは科挙の勉強として自分たちが学んだ儒教の体系を磨き上げて、仏教や道教に匹敵する高度な哲学に、儒教を作り変えた。その集大成が、南宋の朱熹(朱子)であった。
この私とて、朱子学は難解すぎて、その全貌を理解することができない。
ただ、あくまでも印象批評であるが、朱子学の特徴として以下の点を指摘しても、あながち的外れではないかと思う。
一つは、朱子学は、宇宙の全ての現象を一つの原理で説明しようとする、大胆な綜合哲学である。
二つは、朱子学にとって孔子・孟子が後世に残した教えは、絶対無謬であり、反論の余地はない。
三つは、そうした朱子学は極めて難解であって、凡庸な頭脳の持ち主では、その教義に近寄ることすら、難しい。
こういった朱子学が、巨大な魔力をもって、東アジア諸国の秀才の頭脳を、捉えて離さなかった。私は、朱子学はマルクシズムに、その点で似ていたと思う。
李朝の子弟の頭脳は、朱子学に500年間も、捉えられた。
実学者たちは、国学としての朱子学を結局打ち破れないままに、敗北してしまった。
一八〇一年の辛酉教獄では、天主教(キリスト教)と共に西学に傾斜した分子が邪学として弾圧を受け、死罪、獄死、流刑が行なわれた。こうして、丁若鏞らの属する南人派は政界から失脚し、本学すなわち朱子学の保守派が勝利した。以降、李朝は西洋排斥の空気が支配する、十九世紀前半の勢道政治(セドチョンチ)の時代へと突入していく。
李朝の権力闘争は激烈なもので、権力闘争は思想上の対立によって行なわれた。敗北した側には死罪、遠方への流罪、一族の権力からの追放が行なわれ、執拗であった。佐幕派の薩摩藩と倒幕攘夷派の長州藩が坂本龍馬のあっせんによってコロッと仲直りするような、昨日の思想を今日捨てる式のお手軽な政治は、李朝に見られなかった。

姜在彦氏の上の引用は、せっかく李朝には内発的な改革思想が日本同様にあったにも関わらず、政治として身を結ぶことができなかった歴史を嘆いたものだ。
十九世紀末の開化派はややもすれば日本の走狗である「親日派」と貶められて、十九世紀末李朝の諸改革は、外圧による他律的な改革にすぎなかったと評価されがちである。姜在彦氏の書はその通説に対して、李朝固有の改革思想の伝統があったことを強調して、李朝の改革の担い手たちには、外圧を受けながらも改革して独立を保つ道を模索しようとしていた、自律的側面があった点を忘れてはならないと、訴えているのである。姜在彦氏の主張に従えば、韓国版の明治維新は、諸外国の外圧と、なかんずく日本による併合政策によって、進む道を歪められてしまったと評価するべきであろう。

韓国人に、ビジネスの才能がなかったわけでは断じてない。
それは、現在の韓国を見れば、すぐにわかる。
ただ、彼らは儒教一尊によって、長い間自らを縛ってしまった。それで日本に比べて大きく出遅れて、結果として隣の日本に「併合」された。イデオロギーの害毒は、国民の力すら歪めてしまうものなのだ。おそらく、現在の北朝鮮の人々も、今でも潜在的には南の人々と遜色ないビジネスの能力を持っているに、違いない。単に、政治が押し留めているだけであるに、違いない。