自業自得でひどい目に会った、翌日。
気がつくと、ホテルで寝ていた。
まだ暗い時間に意識を戻して、ホテルの鍵を探したが、ない。
なくしたんだな、と思った。
朝。
ホテルの社長と交替で、夜の番をしている金(キム)さんが、ドアを開けた。
部屋の鍵を、渡してくれた。
キムさんは、歳70であるにも関わらず、ホテルの前で倒れ伏した私を、この三階の部屋まで、登らせてくださったのだ。
私は、ひたすら謝りに、謝った。
キムさんと、社長が出社してくる午前10時まで、コーヒーを飲みながら雑談した。
キムさんは、日本語がほとんどできない。
私は、韓国語が全くできない。
キムさんは、日本語は難しい、とおっしゃられて、日本語練習帳を私に見せた。
このホテルは日本人が大勢泊まるから、日本語が必要なのだ。
練習長は、全てひらがなであった。
残念ながら、たとえひらがなで日本語を知ったとしても、日本では生活が難しい。
私はこの後の旅行でキムさんに頼みごとをしたり、お詫びの品を贈ったりしたとき、全て辞書で調べたハングルによる筆談を用いた。
キムさんは、私に気を使ってTVのチャンネルを、日本のNHKに変えた。
だが、韓国人は、この放送が全くわからないに、違いない。
私は、辞書を引き引き、画面に映り出される漢字の意味を、キムさんに説明した。
韓国のTVは、私にとって内容が全くわからない。
だいたい何をしているかは、わかる。朝のワイドショー番組で、おっさんが演歌を一節うなって、パーソナリティーたちが、「お上手、お上手!」と、拍手している。やっている番組の質は、日本とほとんど同じだ。だが、文字は読めない。
台湾でも私はTVを見たが、台湾の番組は、言葉が分からなくても文字を読めば、何を放送しているのかの概略を、読み取ることができる。
「去蔣!政府企圖抹掉中正的地名。」
と、字幕にあれば、これは政府が蒋介石(蒋中正)の名前を地名から抹消しようと企んでいるというニュースなのだな、と理解できる。だから、台北で見たニュース番組を観て、私は大笑いしていた。ほとんど解読できる新聞やインターネットの情報と併せて観れば、台湾のニュースを現地で知るのは、簡単なことだ。
残念ながら、韓国のTVでは、私は笑えなかった。新聞も、インターネットの韓国語サイトも、この旅行中に参照しなかった。
こうして本日の行動は、朝も遅くなってから。
体が、重い。
外に出たら、昨日の雨模様から一転して、きれいに晴れ渡っていた。
晴れた日の釜山の冬は、寒い。
料金チャージ式の地下鉄パス「ハナロパス」を買って、乗ったはよいものの、、、
あ?乗る方向、間違えたか?
焦って、向かい側のホームに行こうとしたら、、、
行けない。
ここの地下鉄は、反対側のホームに行くことが、できないようだ。つまり、上り列車と下り列車の改札が、完全に分離されている。
ちょっとひどいなあ、と思った。
これでは、うっかり乗り過ごしたり、間違った方のホームに駆け込んだりしたら、切符分がまるまる損になってしまう。
私のようなマヌケな人間に優しくない、システムであった。
あ、デジカメは昨日の衝撃によって見事に壊れてしまったので、出社して来たホテルの社長(日本語ができる)に相談したところ、わざわざチャガルチの地下街まで着いて行ってくれて、安く買うことができた。有難や。
東莱邑城(トンネウプソン)に行こうと思って、地下鉄明倫洞駅で、降りた。
駅前で、写真の白黒の鳥を、見かけた。
この鳥は、いっぱいいる。
慶州でも見かけたし、巨済島でも見かけた。
後に知り合ったチェさんに、鳥の名前を教えてもらった。
帰ってから、うっかり記録しもらしてしまったかと、後悔した。
しかし、私はそれをノートではなくて、統営の市街図に書き込んでいた。見つかって、よかった。
-까치。
ちょっと、難しい発音だ。カタカナであえて書き記せば、「カチ」となる。
だが、「カ」の発音が、日本語と微妙に違う。あえて言えば、「カ」を発音する直前に、「ン」をわずかに加える。つまり、「ンカチ」を、「ン」を弱く発音すれば、近くなるだろう。チェさんの発音したこの鳥の名前は、澄んだ響きをしていた。
日本語訳は、「カササギ」。
平凡社世界大百科事典の、「カササギ」の項目から、引用する。
スズメ目カラス科の鳥。別名カチガラス。ユーラシア大陸の中緯度地帯のほぼ全域,北アフリカ,北アメリカの西部などに広く分布する。中国,朝鮮半島にはたくさん生息しているが,日本には17世紀に朝鮮から人為的に移植され,それ以来,九州の筑紫平野で繁殖している。ほとんど移動はしない。国の天然記念物。全長約45cm。頭,胸,背,雨覆,尾などは金属光沢のある黒色で,肩羽,初 列風切の大部分,腹,腰の中央は白い。くちばしと脚は黒色。筑紫平野の田園地域にのみ分布し,農耕地内や屋敷林の高木上に小枝を集めて,側部に出入口のある大きな巣をつくり,繁殖する。1腹の卵数は5~8個,抱卵,育雛(いくすう)は雌雄とも行う。食性は雑食で,果実や種子などの植物質,昆虫,カエル,カタツムリなどの動物質の両方をよく食べる。
さらに、
朝鮮をはじめとする東アジア北部ではカササギは吉鳥とされる。カラスの鳴声が陰気なのに比べてカササギの声は軽くすがすがしいと感じられている。家のそばでカササギがなくと,朝鮮ではだれか親しい人が訪れる吉報だとされる。高麗時代の女性の歌辞〈済危宝〉には〈かささぎが垣根に鳴き,蜘蛛が寝床の上に糸をひきつつ降りてくるから,課役にいって家を留守にしていた夫が帰る良いしらせ〉と歌っている。カササギの異名カチガラスは,朝鮮語のカチ Kkach‘i(カササギ)に由来するものであろう。韓国では国鳥に指定されている。
英名は、"Korean Magpie"。
韓国の国鳥であり、この国の文化の中に、深くこの白黒色の鳥は、埋め込まれている。
日本名の異名「カチガラス」は、ほぼ間違いなく韓国語からの、輸入であろう。ちなみに日本語Wikipediaには、カササギは、秀吉の半島侵略戦の際に、九州の大名が持ち帰ったものだとされる、と書かれていた。もしそうであれば、このカラスよりも明るい声で鳴く鳥にも、因縁が染み付いている。韓国では、国鳥。日本では、隣国を侵略した、土産物。
漢字は、ファッションとしてならば、こんな風にマンションの名前などに、時々見かける。
だが、残念ながらたぶん、この国では漢字はもう、我々の英語やフランス語なんかと同じ、ファッションでしかない。実用性が、ない。
東莱邑城を、目指す。
秀吉の半島侵略戦の緒戦で、日本軍の小西行長・宗義智らの率いる先発隊一万八千七百余人は、一五九二(文禄元)年旧暦四月、釜山に上陸。行き掛けの駄賃とばかりに釜山城を葬った後、直ちに当時のこの辺りの府城であった東莱に殺到した。
東莱を守る都護府史の宋象賢(ソン・サンヒョン)は、敵の大軍にもひるむことなく、城に立て篭もって防戦した。
二日後の四月十四日、城は陥ちた。
鉄砲の威力が、絶大であった。
李朝の陸軍は、鉄砲の力によって、日本軍に負けた。
海戦では李舜臣将軍が、大砲を用いた亀甲船(コブッソン)によって日本水軍を完膚なきまでに叩きのめしたにも関わらず、陸戦において李朝軍は、鉄砲を採用することに失敗した。日本軍の勇猛が緒戦の大勝をもたらしたというよりも、たまたま日本が広く採用していた新兵器が、李朝軍の肝を冷やしてしまったと言った方が、おそらく戦史の評価として正しい。
その東莱邑城を、今日は目指そうと思った。すでに昼前で、今日は遠出ができない。
だが、歩けども、歩けども、たどり着かない。
釜山の道は、坂道だらけだ。二日酔いの体に、坂道がこたえた。
道の途上に、観光地図があった。
ハングルで読めないが、写真を見れば史跡の位置のあらましが分かる。
城までの道は、延々と続く山道だった。
徒歩では行くまでに、相当時間がかかるだろう。
本日は梵魚寺(ポモサ)にも行きたいと思っていたので、こりゃあだめだと思って、行くのをやめにした。
写真は、東莱郷校(トンネヒャンギョ)。東莱邑城への道の、途上にあった。
説明板の英語を、読む。日本語もあるが、挑発的なまでに短く、何の参考にもならない。
郷校。儒教の神殿にして、学校である。これは、高麗(コリョ)時代に導入された、地方の教育機関の一つのタイプであり、李氏朝鮮の末期まで継続した。ここの郷校がいつ作られたのかは正確な記録がないが、推察するに、1392年 - 王朝初代である太祖(テジョ)の、統治初年 - に政府が国中の大都市すべてに郷校を建設すべきことを決定した後の、李氏朝鮮時代初期の頃であろう。郷校の通常の構成は、儒教の聖人及び哲人を祀った大聖殿(テソンジョン)、講義を行なう明倫堂(ミョンニュンダン)、それに生徒のための寄宿所である東斎(トンジェ)と西斎(ソジェ)であった。他に、たとえば庫などの付属的建築物もあった。東莱郷校の二階立ての門は、攀化楼(パンワル)と呼ばれる。この名は、ひとが聖人の跡を慕って徳を積むことの大事さと、それに王への忠勤の大事さを、意味したものである。この神殿にして学校が日本の侵略時代(1592-98)に焼失した後、1605年に東莱のMagistrate、Hong Jun(ホン・チュン)によって再建された。その後、何度か場所を変えて、現在の郷校は、1813年に東莱のMagistrate、Hong Suman(ホン・スマン)によって、建てられたものである。十三代王、純祖(スンジョ)の治世のことであった。
このとき撮影した写真から字が明らかであるものと、私の李朝と儒教の知識によって判読できるものだけを、漢字化しておいた。英文の"Magistrate"が下で述べる守令の一職である府使(東莱府使)に当るのかどうか判断しかねるために、そのままにしておいた。
東莱は、今でこそ釜山の郊外に組み込まれているが、もともとここいらの土地の中心地であった。
東莱府は、上記の郷校が置かれていたような行政都市であると共に、日本軍との戦いがあったような、邑城(ウプソン)であった。
血なまぐさい日韓の歴史の地であるが、明るい外交史の舞台でもあった。
徳川時代に前後十二回行なわれた朝鮮通信史は、この東莱府の担当するところであった。東莱府は現在の龍頭山にあった対馬藩倭館を管理して、対馬藩を通じて日本との外交事務を担当する任務に当った。朝鮮通信使は、この府の管轄である釜山浦から、日本の対馬に向けて出港したのであった。
私は帰国後、李進煕(リ・ジンヒ)氏の『江戸時代の朝鮮通信史』(講談社学術文庫)を読んで、徳川幕府と李朝との国交がどのようであったのかを、知ることができた。これは、名著である。かつての両国の人士たちの、温かい思いやりのこもった交流の軌跡を、ぜひとも読んで欲しい。
この東莱府のような地方の行政拠点には、中央から各種の守令(スリョン)が任命されて、赴任した。
守令は、土地とのつながりもなく、短期間で他の土地に転任させられる。守令たちは、中央集権制度の常として、首都の出先機関であった。日本のような世襲の大名が存在する余地は、李朝にない。
李朝の行政組織は、明朝などの中華帝国の制度とだいたい同じ、中央集権制であった。そして、日本の徳川時代とは、国の体制が大きく異なる。
この半島に、中国型の中央集権王国が、最適だったのであろうか。
現在の韓国は、近代の激しい社会の流動化の結果として、非常に均質な国民となっている。それが可能となったぐらいの、面積しかない。南北併せれば、日本の本州に比べてごくわずかに小さい程度である。
こんなコンパクトな国家には、中央集権制が、最適だったのであろうか。日本の歴史の例と参照したとき、よくわからなくなる。
中央集権制だから、政治の全てがソウルの宮廷の中で、争われた。
国内の改革も、政変も、宮廷が動くかどうか次第であった。よって、宮廷では激烈な権力闘争が繰り返し行なわれ、エネルギーを浪費した上に結局改革を逃してしまった。
李朝はその上、身分制度であった。
限られた階層しか、政治に参入することができなかった。権力と権威は、全て学者であり地主である貴族の両班(ヤンバン)のものであり続けた。渋沢家のような富農も、三井家や鴻池家のような商人も、李朝末期には現れなかった。
私は歴史学者でないので、これ以上の評価はしない。
だが、両班は、末期に至るとはなはだしく腐敗していた。集団として、無為徒食の遊民と化していた。
五百年続いた李朝の制度は、十九世紀末になると、かちかちに干からびていた。水を与えて再びふやかすには、おそらくかなりの時間がかかったに、違いない。
だが、再び水を吸って立ち直るには、十九世紀末期の国際社会は、あまりにも苛酷で、時間を許さなかった。
すぐ隣に、短期間で明治維新を成功させて、意気軒昂とした日本があった。
日本は、革命の輸出とばかりに、金玉均(キム・オッキュン)ら開化派人士の留学を迎え入れ、彼らを援助した。
その日本が、もし真心から相手を説得したいと願うならば、相手に礼を尽さなければならないという、人間たるものの基本を、どのぐらい分かっていただろうか。
帝国主義たけなわの十九世紀末の時代に悠長な空想論だと、批判はあるかもしれない。だが、日本は時間をかけて、李朝の硬直化した宮廷政治を温めながら一歩退く自重の道も、もしかしたら取り得たのかもしれない。
しかし、歴史は無残であった。
第一次日中戦争(日清戦争)は、李朝を巡る日中の綱引きであった。日本が退けば清が半島を支配するだけのことであったから、日本がこれに対抗したことは、歴史上やむをえなかった点もあった。
しかし、清に完勝した後の日本は、かつては少なくとも野心の裏側に持っていたはずの、李朝の改革への期待感を、忘れ去ってしまったのではないだろうか。日本国内の世論は、もはや三国干渉への復讐、ロシアへの討伐一色となってしまった。第一次日中戦争後の甲午改革が挫折した後は、半島はロシアの侵入を払いのけるべき日本の勢力圏として、明治政府の方針は確定した。そこに住む人々の意向を、この時代の日本人は、どれだけ関心を持っていたであろうか。
そうして日露戦争に勝利し、もう世界の列強となった日本は、自分の勢力圏として列強に認められた半島を、すんなり「併合」してしまった。「併合」する必要もなかったのに、「併合」してしまった。
日韓併合を、台湾領有と同一の次元に置いてはならない。台湾は、あくまでも中国の一省であった。その島の民は主に沿岸の福建省から移民してきたもので、漢民族の移民の歴史は、たかだか明朝末期から遡ることができない。
だが韓国の併合は、日本と深く共有する長い歴史を持った一民族を、まるごと隷属の下に置いたのである。日帝三十六年の支配が今に至るまで憎悪の歴史であり続けている事情は、彼らの心情を考えたとき、日本人の私は手を触れると火傷しそうになる。
かなり、筆の走りで書いている。それだけ、私は両国を愛しているからだ。
あまりにも、不幸であった。もう少し両国にとって良い道はなかったのかどうかと、考え込んでしまう。
コンビニで、おにぎりとカップラーメンを買った。
面白いことに、韓国のたいていのコンビニでは、中に食事できるテーブルと椅子が、用意してある。お湯も、ある。ラーメンの食べ残しを捨てる、ゴミ箱もある。
ラーメンは、わざと辛そうなやつを、買った。
買って、食べた。
なあに、なんてことないな。
十秒後。
自分が間違っていたことを、理解した。
スープは飲むこともできず、ゴミ箱に捨てた。