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Korea!2009/02/16その二

(カテゴリ:韓国旅行記

バスに乗って、梵魚寺に行った。
寺までの道を、バスが山登りしていく。
高所恐怖症の私は、道脇に松しか植えられていない道のカーブをバスがくねくねと通って行くのを車窓から見るだけで、気分が悪くなった。

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梵魚寺。
境内の松の木が、何とも美しい。
松は、まさしく韓国の木だ。
この寺も、ずいぶんな山の中にある。
秀吉の半島侵攻の際に、この寺は焼失してしまったという。ゆえに、最も古い建物は、17世紀のものだ。
疑問が、ふと沸いてしまう。
-こんな山の中の寺を、なんで日本軍はわざわざ焼いたのか?
あの慶州の仏国寺ですら、日本侵攻時に、焼かれている。
あの戦争のとき、仏寺は同時に山城として、押さえられてあったのだろうか。
私の想像では、そのぐらいしか、思いつかない。
彼らは必死になって抵抗したのであるから、人が住んでいる山の上ならば、寺だろうが何だろうが敵を圧しとどめる拠点として、活用したに違いない。
この辺りは緒戦の段階で李朝の行政組織が崩壊し、長らく占領されていた。


釜山(プサン)と漢陽(ハンヤン)とを結ぶ兵站線がたち切られ、総司令部の軍糧が確保できない状態となった。じつは釜山には三万石の軍糧が陸揚げされており、釜山と漢陽の間に二十二ヵ所の拠点が設けられ、兵四、五万が配置されていたにもかかわらず、兵站線さえ確保できなかったのである。
(李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』、講談社学術文庫より)

李朝軍は崩壊したが、各地で義兵(ウィビョン)が組織されて、蜂起する。
一九五二(文禄元)年四月の釜山上陸からたった二十日で遠い北の漢陽(現:ソウル)まで占領してしまった、日本軍。しかし、翌年の二月になると、上の李進熙氏の書から引用した叙述のとおりの、ありさまであった。この梵魚寺や仏国寺なども、きっと義兵討伐の結果として、あるいは城として活用しているうちに冬の乾燥で失火して、焼け落ちてしまった、、、
帰国後、李進煕氏の著作を読んで、もうひとつの可能性を、思いついた。
-日本軍は、書籍を略奪に来たのかもしれない。
李進煕氏が例をもって示すとおり、侵略軍の諸大名は、李朝から書籍、金属活字、印刷器具の類を、略奪して回った。宇喜多秀家は、書籍の略奪にとりわけ熱心であったと、李進煕氏は書いている。宇喜多、安国寺恵瓊が持ち帰った書籍は関が原以降徳川家に没収され、現在も大量の李朝書籍が日本の各地に残されている。おかげで「十五、十六世紀の朝鮮印刷史の研究は日本でのみ可能だといわれる」(李進煕『江戸時代の朝鮮通信史』)。
これから後に行った海印寺に高麗大蔵経があるように、寺院ならば書籍が汗牛充棟に山積みされているだろうと、大名どもが舌なめずりしたことは、十分想像できるのではないか。
外国の珍しいものを、侵略のついでに略奪する。
野蛮そのものでは、ないか。
抵抗の結果だったのか、略奪だったのか、どちらにせよ日本の非はまぬかれない。
私は、境内で頭を下げた。

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夕方、チャガルチに戻り、近くの国際市場(クッチェシジャン)に向かう。
ホテルで教えてもらった店の、スンドゥブチゲ。
これは、うまかった!
値段が、涙が出るほどに安い。二人前頼んでも、日本の定食より安い。
そして、味わいが深い。ごはんと一緒に食って、感激した。
当然、辛かったが。
その後、有名だという冷麺の店にも、行ってみた。
こちらは、余り感激しなかった。
席に座るとやかんを持ってきてくれて、お茶だなと思って湯のみに入れて飲むと、鶏スープだった。それだけが、ちょっと面白かった。韓国では、緑茶が日本ほど飲まれていない。ペットボトルのお茶は、いろいろな草木の煎じ茶が多い。李朝は、高麗時代に盛況であった仏教を国家草創の時期に一掃して、山奥に閉じ込めてしまった。そしてその際に、仏教文化とつながりの深い緑茶を、生活から捨て去ってしまった。緑茶が文化に組み込まれていない点だけは、韓国は日本と違い、日本は中国・台湾と茶文化を共有している。
だが、全体的な印象として、韓国の味は、日本の味に近いものを感じる。
辛いことだけを省いてしまえば、ここの人たちは、「ウマミ」というものが料理に絶対必要だ、「ウマミ」がなければそれを料理とは言わない、ということを、知っているように思える。
だから、私の口に合わない料理もいくつかあるが、吐き出したくなるような「物体」に、幸いにもいまだ出会っていない。
香港や台湾で私が遭遇した、「料理」ならぬ「物体」としか言いようのない、悲しいものに。

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龍頭山公園(ヨンドサンコンウォン)に、登った。
ここは、もともと対馬藩の倭館があったところなのだが、そんな説明はこの公園に、ない。
この公園は、あくまで釜山タワーと、救国の名将李舜臣将軍像のための、公園だ。
それにしても、半島と貿易のよしみを通じるために、わざわざ姓を惟宗(これむね)から韓国っぽい一字姓の宗(そう)に変えた対馬藩主は、秀吉の誇大妄想によって大迷惑をこうむったものだ。


対馬は、「嬶児(あかご)の乳を絶候ごとく」になったと、後に雨森芳洲が形容している。こうなるであろうことを宗義智(そうよしとも)は戦争のはじまる前から予知していたが、戦争を通じて、対馬の生きる道は朝鮮との平和外交と貿易の隆盛しかないことを、いま一度痛感したにちがいない。彼は日本軍が撤退を完了して一ヵ月後の一五九八年十二月、使節を釜山(プサン)におくり、翌年三月と六月にも使いをやって和平交渉のきっかけをつかもうとするが、朝鮮側は使いをことごとく牢にいれてしまう。
(李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』、講談社学術文庫より)

秀吉の半島侵略は、ただの耄碌ゆえの思い着きではなかったに、違いない。
もともと信長が、日本統一の後に世界征服を、構想していたと思われる。
秀吉は、信長死後の織田家に取って代わった後、信長の構想をそっくりそのまま受け継いだ。
「唐入り」と称した海外侵略戦は、おそらく秀吉が天下盗りを進めている最中から、彼のプログラムに入っていたと、思われる。
そのため、本気でつぶそうと思えばできたはずの対家康戦を、天下統一を早めるために、外交で手打ちした。
そして、後に勇猛な薩摩武者を大陸戦に投入するために、島津氏を寛大に許した。
秀吉は、軍人としては、凄腕の才能を持っていた。
だが、勝手違う外国とどのように付き合うべきかを知らなかった点で、悲しいまでに日本人であった。日本人だから、外交を知らない。世界の中で生きる道を、知らない。占領した半島でどうして義兵がこんなにも蜂起するのか、彼はたぶん死ぬまで理解できなかったのであろう。残念ながら、日本の戦の常識は、外国で通用しなかった。
日本は、秀吉死後、半島撤退の二年後に、関ヶ原。
李進煕氏の簡潔な説明を、いま一度引用する。

日本の状況も大きく変わっていた。一六〇〇年九月の関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が義智にたいし、和平交渉に全力をあげるよう命じたのである。それは、「日本朝鮮和交の事、古来の道なり。しかるを太閤一乱の後その道絶えぬ。通行はたがいに両国の為なり。まず対馬より内々書をつかわして尋ね試み、合点すべき意あらば、公儀よりの命とすべし(『通航一覧』)というものであった。
(李進熙『江戸時代の朝鮮通信使』、講談社学術文庫より)

義智は、家康の意を受けて拉致者の引き渡しを行い、謝罪の使いを李朝に出した。当たり前のことだが、李朝はなかなか疑って乗ってこない。しかし、一六〇三年に家康は征夷大将軍に就き、豊臣家から権力が交代されたことが、明らかにされた。その間に李朝側でも帰国者によって日本に対する情報が増えて、宗氏からの和平を請う使者もあり、さらに拉致者を続々と引き渡したことも心証を良くした。宰相李徳馨は、「探賊使」として日本に使者を派遣することを、提議する。名前から見て、不信感が表れている。しかしそれでも、一六〇四年(慶長九年)四月、僧惟政(ユジョン)と孫文彧(ソン・ムンウッ)が、対馬を経由して京都に向かう。将軍を秀忠に譲って大御所となった家康は、わざわざ駿府から両名の来日を喜んで、伏見城に出向いて二代将軍と共に会見したのであった。

外交とは、相互の利益のためであって、かつ相互の信頼を作らなければならない。
外交下手の日本も、この時ばかりは短期間で李朝との外交修復に、成功した。
一つは、家康が李朝の末代までの仇である豊臣家を、政権からひきずり降ろしたこと。そして当の家康は、秀吉の侵略戦争に一切関与していなかったこと。
一つは、李朝からの探賊史を、家康が自ら出向いて会見したことで、誠意を示したこと。
もう一つは、李朝にとって北辺の満州族への対応が喫緊の課題となり、南の日本との関係改善が、必要であったこと。
これらの要因が重なって、よい結果をもたらした。
一六〇七年、呂祐吉(リョ・ウギル)を正使として、李朝より「回答兼刷還使」が、江戸に至る。
一六〇九年、国交回復を祝う日本側の使節三百余名が、釜山浦に到着。しかし、李朝はこの使節を首都に迎えず、釜山浦にて丁重に接待した。それは、秀吉軍が十七年前に釜山浦から一挙に首都を襲撃した前例を警戒しての、ことであった。この時、いまだ豊臣家は、大坂に残っていた。結局、これが前例となって、江戸とソウルの間に互いの使節が往来する相互交流は、幕府の終焉までとうとう行なわれなかった(一度だけ、日本の使節がソウルに赴くことが許されたことがあった。一六二九年のことである。後の清朝である後金が李朝に侵略し、李朝と講和した直後、幕府は国王仁祖に謁見して北方情勢を直接確認させてほしいと強く願い出て、認められた。幕府の国防政策上、どうしてもこの新興帝国の事情と隣国の外交方針について知っておかなければならかなったのは、当然であったろう)。相互の外交関係は残念ながら不十分なものであったが、徳川幕府が受け取った朝鮮通信使、前後十二回の研究は、上記の李進煕氏の著作が明らかとするところである。

公園もまた、山の上。
本当に、山ばかりだ。平地なんか、ほとんどない。

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釜山タワーの上から、釜山の港を見た。
写真ではよく分からないが、海の向こうにうっすらと島影らしき姿が、見える。

-対馬島(テマド)だろうか?
展望台の眼下に広がる風景について、説明がないだろうかと探したが、ない。
ここもそうなのだが、いっぱんに名所での日本語の案内は、ないか、あっても韓国語と英語の説明に比べて、挑発的なまでに短い。
私は英語が読めるから説明を知ることができるものの、ちょっと寂しい。

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タワーの下に、世界地図があった。
どうでもよい。
実に、どうでもよいことなのだが、韓国の地図の上には、朝鮮民主主義人民共和国という国は、存在しない。
ピョンヤンは、首都ではなくて、あくまでも地方都市にすぎない。
地下鉄に乗っていると、軍服姿の若者を、大勢見かける。
ファッションではなく義務として迷彩服を着用している若者たちの存在と共に、このことだけは日本人にとって、共有できるはずがない残酷な現実だ。
地図の上のリアンクール・ロックスなどは、この際日本側が笑って許してやってもよいじゃないか。
それで、両国がもっと仲良くなれるならば?
、、、ただの上機嫌で、言ったまでの与太話だ。