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Korea!2009/02/17その三

(カテゴリ:韓国旅行記

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統一殿で、バスを待つ。
日本人みたいな顔をした学生ぐらいの若者と、二人で待っていた。というよりも、韓国人の顔は全てどこかで見たような顔ばかりであって、日本人離れした顔は、街を歩いていても、バスや地下鉄に乗っていても、まずお目にかからない(西洋人は、釜山ではごくまれにしか見かけない。)
私がどうやってバスに乗り降りするべきか、バス停のハングル表示の運行表を見ながら苦労して解読しようとしていたら、学生っぽい若者が、私に声を掛けた。
「ヨギヘ、、、、スムニッカ?」
聞き取れないし、たとえ聞き取れたとしても、単語を知らないのでわからない。私は、乏しい韓国語の知識を動員して、運行表を指し指し、「この『仏国寺駅』に行きたいのです。」と彼に言った。
彼の言葉が、変わった。
「日本人ですか?」
私は、答えた。
「そうです。日本人です。」
若者は、じつにきれいな日本語を話すことができた。
彼もまた、同じバスに乗る予定であった。それで、待っている間とバスに乗り込んでから別れるまで、わずかの時間であったが会話を交わした。
「私は学生で、慶州の生まれです。大学はソウルに行っているが、今は冬休みなので実家に帰ってきたんです。私の実家は、向こうの方です。」
彼は、バス停から南の方角を指した。そこには一望の冬枯れた水田が、広がっていた。
白皙の青年で、いかにもインテリそうだ。東大生か慶応生だと日本人に言っても、きっと信じてしまうに違いないほどに、日本語がうまい。
「日本語、うまいね。私が完全に分かるよ。」
彼は「まだまだ全然勉強できていない」と謙遜した後で、どうして日本語を操れるのか、その理由の一端を言った。
「私は法学の研究をしているので、漢字を勉強しなければならない。韓国では法学の研究者だけは、漢字を学ぶ必要があるのです。それで、日本語も学ぶことができる。」
つまり、ハングルオンリーで日常生活を通している韓国人であるが、漢語(中国語)由来の抽象的な言葉を誤解なく法文として書き記すためには、どうしても漢字を使わないとならない、ということであるに違いない。
これは、よく分かる。
日本語がもしひらがなオンリーとなったならば、法文は全く読めなくなってしまう。韓国語も、日本語も、同音異義語が非常に多いのだ。
今の韓国人は、中学生から高校生まで、一応漢字の学習を受けている。だから、漢字学習が禁止すらされていた一昔前の世代に比べれば、今の若者にはまだ漢字を読める人間の数が多い。彼は、そう言っていた。
漢字が読めなければ、韓国人にとって日本語はあまりにも難しい言葉となってしまう。
彼のように専攻として必要だったために、難しい漢字までも詳しく学ばざるを得ない人間は、たぶん今でもあまり多くないに違いない。
私は次の日に地下鉄の改札口で日本人へのガイドをボランティアでやっている、日本語の勉強に取り組んでいるおばさんと、しばらく話をした。
彼女の日本語は、きれいなものであった。
しかし、おばさんは嘆いていた。
「日本語の漢字が、難しい。まだ、簡単な文字ぐらいしか、覚えていない。それに、一つの漢字で、いくつも読み方があるよ。私の姓は『文』(ムン)なのだけれど、これで『ぶん』、『もん』、『ふみ』、『あや』の四つも読み方があるよ。」
おばさんに言われて、そうだろうなあ、と思った。
この日同行した青年の彼が言うには、日本語は韓国語と作りが似ている、という。
私も、少し学習しただけで、その通りだと思った。
そして、彼が言うには、日本語の発音は、韓国人にとって難しくないそうだ。
私にとって、少なくとも韓国語の発音は、非常に難しい。
だからひょっとしたら、韓国の人たちにとって、日本語はしゃべる方がむしろ読み書きよりも容易な言葉なのかもしれない。韓国語も日本語も、語彙の圧倒的多数は、中国からの輸入語あるいはそれを基礎にして近代に創作された、漢字から成る造語だ。
だから、文法が酷似していて、その上語彙が重なっているからには、発音さえできればしゃべる道に近づけるのかもしれない。
その代わり、私は彼に言った。
「日本人は、香港とか台湾に行けば、言葉を知らなくても文字を見ればいっぱつで意味を理解できる場合が多い。それは、漢字が頭に叩き込まれているからだ。日本語は、漢字がなければ書いても何を言っているのかわからないから、捨てられないのだよ。」
ちょっと悲しい文化だと、思った。
日本人は、ハングルの壁があるために、韓国語が読めない。
韓国人は、漢字の壁があるために、日本語が読めない。
文法と語彙は、互いに非常に似通っているにも、関わらずだ。
同行した青年の彼は、日本に五回行ったことがあるという。
東京に三回、京都・大阪に二回だとか。
一方の私はこれが初めての韓国だと言った後、彼は私に聞いた。
「韓国は、どうでした?」
私は、その時思っていた、最大の印象を答えた。
私は、手に持っていた登山ステッキで、目の前のまぶしく冬の陽に照らされた道をざっと指して、言った。
「道が、きれいだ。私は釜山の市街地からこの慶州まで歩いたけれど、道端にゴミが落ちているのを、ほとんど見かけたことがない。あなたたちはこんなもの何とも思っていないかも知れないが、これは世界にもまれに見る美徳なのですよ。道にゴミを捨てたり、唾や痰を吐き捨てたりすることが悪いことだと分かっているから、こんなに道がきれいなのです。」
私は、かつて香港と台北に行ったときの印象を、話した。
もとより私は、彼らのことを偉大な住民だと思っている。
しかし、この韓国の美しい道に比べて、あまりにも公道徳が足りない。
台北の西門街の汚らしさは、日韓の精神と、残念ながら何かが違っていた。
だから、私は言った。
「中国人の悪口を言いたいとは、思わない。だけれども、彼らは道を汚すことを、あまり悪いことだと思っていないようだ。でもこの国は、そうではないことが、道を見て分かったよ。だが日本の道は、昔きれいだったのに、今やどんどん汚くなっている。残念だ。」

青年と同行してバスに乗って、わざわざ私のために降り先を運転手に告げて、彼は降りて行った。
去る彼に、私は合掌して、感謝した。
バスは、走って行く。
どうやら私を、仏国寺に連れて行くように、彼は告げたようだ。
本当は『仏国寺駅前』で降りて、そこから乗り換えて掛陵(クェヌン)に行こうと思っていたのだが、まあいいさ。
行き違いも、多少の縁だ。
私は、世界遺産であるらしい、仏国寺に向けてバスに揺られて行った。
仏国寺そのものには行ったが、写真を撮っていない。
これまで京都で寺社仏閣を散々見てきた私の目に、残念ながら仏国寺の造形は、感動を起こさなかった。
これも秀吉の半島侵攻時代に消失した寺で、秀吉さえいなければもっと素晴らしい遺跡が残っていたと非難されれば、反論のしようもないが。

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世界遺産は写していないが、脇寺の石積みを写した。
韓国は、石の美だ。
石が、何とも美しい。
この寺は撮影禁止で、私がうっかり寺院の中を撮ってしまったら、寺内を管理しているおばさんから押しとどめられた。
私は寺の左脇にあった石積みがどうしても撮りたいと思ったので、辞書を引き引き「この石積みも撮影禁止ですか?」と紙にハングルで書いて、おばさんに渡した。
結果、撮影禁止なのは、如来像を信仰する、中の仏殿だけであった。
おそらく、信仰の場所は神聖なので、撮ってはいけないということなのだろう。
仏寺では、この国の人は日本人よりもずっと熱心に祈っている。特に、女性が祈っている。ひょっとして仏教は、女性の宗教なのかもしれない。

仏国寺を後にして、バスに乗る。日没には、まだ少し時間がある。
バスの中ではラジオ(?)の放送が、流れている。
台北の街と、違うところ。
台北では、街中でもテレビでも、日本語のポップスや、漢語に翻訳した演歌が、次々に耳に入って来る。
だが、韓国では、日本語の歌を、街中で決して聞くことがない。
K-Pops(こんな言葉があるのかどうか、知らない)の音作りは、日本のものと音楽的にもほとんど同水準のように、耳で聞いて思える。違いは、韓国語で歌っていることだけだ。
この国は、台湾よりも大国なのだ。
大国だから、自国内の文物で、自足できるのだ。だから、歌も隣国から輸入しない。
だがそれは、制約になるぞ。すでに、なっているぞ。
私は、そう思った。日本人についても痛烈に言えることを、この国にもあてはめずにはいられない。

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「博物館」(パンモルグァン)でバスを降りて、慶州国立博物館に入った。
慶州の各遺跡に置いている説明板にある日本語の説明は、釜山のものよりも詳しくて、英語の説明と遜色がなかった。
だが、新羅の見事な文物を収めるこの博物館の内部に入ると、また日本語が消えた。
早く両国の国民が、当然の前提として隣国の説明を併記する時代が来ることを、望む。
写真は、統一新羅時代の土偶。
この造形に、大いなる味わいを感じた。
新羅は黄金の国と呼ばれ、この博物館にも展示されている豪華絢爛な金冠を始めとして、黄金の装飾品が数多く出土している。
それらの金細工の細かさには、作り手の一種の執念を感じた。
金属加工の技術そのものは、すでに中国の漢代以前に、完成している。
春秋戦国時代には、蝋で取った型を用いて、青銅の鋳物で恐ろしいまでに細やかな器が、作られていた。かつて日本の国立博物館で展示された『曾侯乙墓』出土品の、精工無比な春秋時代末期の青銅器を見て、いったい誰が戦慄せずにいられようか。
漢代の中山靖王墓から出土した玉衣は、玉(ぎょく)の板片にごく小さな穴をうがって、そこに細い金の糸を通して連ねていた。金の糸は、絹の糸のように細く伸ばされていた。
だから、新羅時代ならば、中国から技術さえ輸入すれば、この博物館で展示されていたような細やかな金属細工を作ることは、可能なことだった。
注目すべきは、だから技術ではなくて、細かいデザインを愛好する、その意志である。
新羅の金冠や銅馬具(同じデザインの馬具が、応神天皇陵からも出土している)のフラクタル図形のような細かさは、繊細なものに心を惹かれる新羅人の趣味を、表しているに違いない。
その一方で、上の写真のような、人物を思いっきりデフォルメして活写した、その造形。
中国の文物にはない、パワーを感じる。中国は六朝から隋唐時代になるとよほどに文物が洗練されて来るが、かえって古代の文物が持っていたような呪術的な生命力を、失ってしまったように思える。その辺境で文明を輸入した新羅は、しかしいまだに中国とは違った美をこしらえるパワーを、持っていたのではないか。

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展示されていた、新羅時代の壷。
デフォルメされた動物の群れに混じって、この見事なまでに土でひねり出された、女の尻の形。
ここまできっちりと見たいものを一挙に作って見せた観察眼は、中国の文物に決して見られない。
ギリシャの人物彫刻とは違う系統の、人間を描写する目が、新羅人にはあった。現代日本人のマンガを描く目に、きっと通じるものが韓国にはあった。
もっとも、この尻の女性の顔は、目と口を三本の線で描いただけの、超デフォルメであったが。

慶州から帰って、昨日スンドゥブチゲを食べた店にもう一度行って、テンジャンチゲを頼んだ。料金は、同じ。
テンジャンチゲもまた、うまかった。味噌汁であり、味噌汁でなし。しかし、味わいがあることだけは、同じだった。
山歩きで疲れきった体に、付け出しのキムチがうまい。
韓国料理は、激しく体を動かした後に食べるのがよい。
肉体労働を小人の業として卑しむ儒教の君子たちが、本当に現在の韓国料理を開発したのであろうか?私は、ごはんをチゲに浸しながら、ふと疑問に思った。

コメント (2)

やあ、無事でなにより。
いろいろと得がたい経験をされているようで、実にうらやましい限りです。
こちらは、相変わらず雑務に追われる毎日です。
君が無事に帰ってきた際に飲むのが楽しみです。

冬枯れの韓国の田んぼは、本当に日本とそっくりの風景ですね。気候的には、秋田か宮城くらいの感じだろうか?

あと、米はジャポニカだったかな?

鈴元仁:

米は、ジャポニカ米だよ。
韓国は、中国と違って太古の昔から、ジャポニカなのだ。
だから、米の味わい方、料理の仕方が、日本と基礎の部分で共通していると思う。

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