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korea!2009/03/10

(カテゴリ:東北アジア研究

雨森芳洲の『交隣提醒』を、読んでいる。
これは、全訳して日本人に読ませるべき古典だと、思う。
雨森芳洲(1668 - 1755)は儒者で朝鮮語を会得して、その技能をもって徳川時代の対馬藩に招かれて、真文役として李朝の釜山東莱府と往来し、両国の外交事務に生涯を捧げた。
彼の著作を読むと、昔から半島と関係を持ち、かの国の民には慣れているはずの対馬藩士ですら、隣国の常識に往々にして無知であったことが、見て取れる。何かにつけて日本の常識を持ち出して隣国を嘲る武士たちを諌めて反省を促す厳しくも切々と語る調子が、両国民を知り尽した芳洲の、両国の友好を願う心からの祈りを、鮮やかに描き出している。

古文書なのですらすらと訳すことが、難しい。
興味深いと思った箇所だけ、試しに訳出しよう。


日本では、歴々の車夫が寒天にも尻をまくり、槍持ちとか挟箱(きょうばこ)持ちなどは、顔にヒゲを描いて足拍子なぞ取ります。定めし、朝鮮人の心にも男意気立派だと写るだろうと、思うでしょう。ところが、朝鮮人の心にとっては、尻をまくるなんぞは無礼と見なし、顔にヒゲを描くなんぞは異様に見えるし、足拍子なぞ取るのは単に疲れるだけで無駄なことをしていると、内心で笑っているのです。また、朝鮮人の心には、身内の喪において務めとして哭泣(こっきゅう。霊前で大泣きすること)することは、日本人が見たらきっと感動するに違いないと考えているのですが、実は日本人は嘲笑しているのです。このように、日本と朝鮮とでは食い違いがあることを、お察しなさいますように。

ふんどし一丁でオケツをからげた姿は、日本人にとっては男意気だ(最近はそうでもないが、、、)。また、風呂で裸の付き合いも、結構なことだ。しかし半島の常識では、野蛮な習俗でしかない。一方半島の人は、親類の喪に服したとき、大声を挙げて泣きわめく。これは儒教に定められている葬礼にのっとったもので、大声で泣き悲しめば、周囲の人は遺族がどれだけ故人を大事にしていたかがよく感じ取られて、もらい泣きするのが人情だと、彼らは思っているのである。しかし、金日成の喪に服したピョンヤン市民の身をよじらせて号泣する映像を見て、たぶんほとんどの日本人が不気味に思って嘲笑したように、彼らの喪礼が日本人を感動させることは、たぶんない。

朝鮮人は日本人と言葉の上でも相争ったりしないようにしているのですが、それを彼らの主意だと早合点するがゆえに、彼らは毎度に自国のことを謙遜している一方で、日本人はかえって自国のことを常に自慢ばかりしています。たとえば、酒の一事などにしても、「日本の酒は、三国一ですぞ。だから朝鮮の皆様も、そのように思われるでしょう?」などと誇ります。朝鮮人が、「なるほど、そうですな。」と返答すれば、やっぱりそうであったかと得心します。ところが彼らは内心では、「了見の狭い奴だ!」と嘲って、何の評価もしていないのです。日本の酒が三国一だと朝鮮人が思っているのならば、会合があったりした際に、日本酒が飲みたいと申し出るはずです。ところが、そんなことはありません。それは、日本人の口には日本酒がよいのであって、朝鮮人には朝鮮酒、唐(中国)人には唐酒、紅毛(オランダ)人には阿利吉(アラキ。蒸留酒)がよいのです。これは、自然の道理です。以前、訳官たちの会合で、真意を申していただきたいと彼らに促した際に、我ら朝鮮人にとっては食べ慣れているものがよいのです、と言われました。また、日本酒は確かに結構であるが、胃につかえます。多く飲むには、朝鮮酒がよいです、とも言われました。お国(対馬藩)のうちに酒豪がいたとしても、京酒(つまり、清酒)を好まずかえってお国の薄にごり酒を好む者がいるのと、同様の心持ちなのです。

うまいまずいの思い込みは、主観的なもの。そして、民族の文化に、包まれているものだ。
彼らが清酒(せいしゅ)を好まなくても、それは仕様がない。日本人の私が清酒(チョンジュ)を全く受け付けないのと、同じなのだ。肝要は、互いが違うことを認め合って、嘘をつかないことだ。上の芳洲の観察から300年後の現在、攻守所が変わって韓国人が自国の文化を日本人に誇って、日本人が「なるほど、そうですな。」と心ならずもうなずいているような、気がする。しかし、日本人にとって、それはかえって不誠実ではないだろうか?裏で嘲らず、これはまずい、これは面白くない、と愛をもって言い返す勇気が、日本人に欲しいものだ。そして、私にも。