「三、東西の長所を打って一丸とした日本の文化を、そのまま何の労苦もなく、韓国に取り入れるのは極めて有利であるが、それには、日本の言葉を知るのが捷径で、教科書の如きも、日本仮名の所を諺文に改めると、直ぐにそのまま韓国のものとなる。」
一九〇四年、韓国政府の学部参与官として学制改正に着手した幣原坦の「五つの方針」の一、「漸次日本語を普及せしめる」である。姜在彦『朝鮮の開化思想』から引用した(pp.354)。
韓国語を少し学習すれば理解できるように、日本語と韓国語は語彙と文法が、酷似している。
この事実を発見した日本人が、小躍りして幣原のように結論付けることは、最もありえることである。
一九〇四年八月の日韓協約以降の日本人は、幣原のごとき錯覚に反省を加えることなく、日本人≧半島人の図式を頭から信じきった。世界五列強の一に成り上がった日本の勢威が、その錯覚を通らせてしまった。
もとより、日本語と韓国語は、別の言語である。
スペイン語とイタリア語のような、真の兄弟言語ではない。外部からの文化的影響によって結果的に酷似することなった、同窓生といってよい言語である。日本語の母音の響き、花の色を愛でる感性、情に流される情緒性。韓国語の子音の響き、石と水の簡素を愛する感性、主張を凛として保つ固執性。何もかも、違う。
一九〇四年以降四〇年余続けた日本の勝手な思い込みによる暴挙的併合政策は、一〇〇年後の現在においても、日本人の心中で反省されることもなく、保たれている。何という、怠惰な精神であろうか?