内田はつぎのように書いている。「著者が斯くの如く日韓併合を急いだ所以は、支那革命の機運既に熟し、数年を待たずして勃発すべき形勢にあるを以って、支那革命に先立ち合邦せざるに於いては、韓国の人心支那革命の影響を被り、如何なる変化を生ずべきか測るべからざるものあるのみならず、満蒙独立の経綸も行ふ可からざることとなるべき憂ひがあった。」 (姜在彦『朝鮮の開化思想』pp.382)
又引きが続くが、読書ノートなので原典を探らず引用する。
上は、国粋主義団体黒竜会の創設者、内田良平(1874-1937)が、1932年に出した『日本之亜細亜』からの引用である。内田は、韓国の合併促進団体一進会と提携し、日韓併合に奔走した策士であった。
なぜ日露戦争後に日本が日韓「併合」を - 日本が「併合」の言葉を用いた理由は、「韓国ガ全然廃滅ニ帰シテ帝国ノ領土ノ一部」とする本意であるにも関わらず、過激な表現を避けただけであった(上書pp.421) - 急いだのかの理由は、内田の回想の言葉が、最もよくそれを表している。日本は韓国を帝国主義戦争の果実として断固確保するスケベ心を丸出しにしたのみならず、すでに「併合」時点で後の時代の満蒙侵略が、国家のビジョンとして見えていたのである。そのための足がかりとしての、コリア半島領有であった。
司馬遼太郎は昭和戦前の日本を「鬼胎」として日本史からの逸脱であったと見たが、あれが「鬼胎」であったのならば、内田のビジョンを実行に移した伊藤博文や山県有朋といった、明治国家の元勲たちがすでに日本史の「鬼胎」であったということになる。残念ながら、司馬遼氏の明治・昭和史観は、重大な修正を必要とすると、私は評価せざるをえない。日韓併合以降の日本は、まず半島を策源地として工業化し、進んで中華民国を分割占領する国策に、ほぼ一貫していた。満州事変以降の日本は、それまでの日本史からの逸脱でも何でもない。伊藤が、山県が、敷いた路線の上であった。戦前に学生であり一庶民であった司馬遼氏は大日本帝国によって散々な目に合わされたが、彼にのしかかった大日本帝国という存在自体が、明治からの着実な積み上げの結果であった。東北アジアの文明から生まれ出て、にわかに十九世紀の西洋帝国主義の礼儀作法を学んで東洋の猿真似国家となった大日本帝国じたいが、「鬼胎」であった。そう評価しては、いけないのであろうか?
鮮人が最近数年間、所謂国家の岌業(きゅうぎょう。大きな事業)に際会するや、其開化の迅速なること、恐くは明治二十年間に吸収したる文明を、鮮人は僅々数年間に会得せるもの如く、現今の鮮人を六、七年前の鮮人と比するに全然形貌を一変し、京城市街の面目が毫も旧慣を止めざるに至りたる変化よりも、遙かに速かなるものあることは之を公言するに躊躇せず、、、輓近鮮人思想の急変を見ては、真に寒心に堪えざるものありと存す。蓋し鮮人を統ぶるの方策は、秋霜烈日一毫も仮借する処なく、先ず其初めは討伐にあり、討伐して而して後に威圧あり、威圧して而して後に綏撫あり、綏撫して而して後に鮮土初めて平安なるべし。
朝鮮総督府警視国友尚謙の『不逞事件ニ依ッテ観タル朝鮮人』からの引用である。なお、読みやすいようにカタカナをひらがなに直した。
国友が「寒心に堪えず」と言っているように、半島人は日本人が侮っていたほど、魯鈍な民ではなかった。単に、李朝五百年の積弊が、民衆の力を抑圧していただけであった。焦った国友は、そして日本当局は、ただ討伐、威圧を持って望んだ。日本の半島支配は、その当初から失敗していた。
日本は、十五年前に棚ぼたで台湾を領有して、ここを土匪の住まう土地のように討伐と威圧をもって制圧し、かなりの成功を収めた。日本の韓国支配は、明らかに台湾での経験を半島に当てはめたものであったに、違いない。しかし、半島は台湾とは、全く違った世界であった。台湾の住民に蔓延していた阿片中毒の弊も、アナーキーな村同士の私闘(械闘という)も、韓国には存在しなかった。韓国は、出遅れはしたが日本と潜在的に同水準の文明を、持っていたのであった。
大勢より察するに、今日は既に暴徒蜂起(義兵運動)の時期を経過せり。勿論再び蜂起することなきを保し難しと雖も、予の察する所に於て将来の危険は、人民の文明に進むに随って起るべき無政府主義、社会主義等に類する危険なりとす・・・
一九一〇年七月に警務総長を兼任した韓国駐箚憲兵隊司令官明石元次郎(1864-1919)の、就任早々の訓示であるという。
明石は、いっぱんに日本では、日露戦争時にストックホルムにあって第五列を利用し、ロシア帝国内に騒擾をもたらしてロシアの挫折に手を貸した英雄として、描かれる。
しかし、戦争の後に彼がその辣腕を買われて、韓国併合時点の警務総長として半島人への弾圧を指揮した事実は、日本人のとんと知るところではない。
明石は、安重根(アン・チュンクン)の従弟で独立運動を画策していたという(事実は不明)安明根(アン・ミョンクン)を、カトリック教会の密告をネタにして逮捕・拷問し、それを皮切りとして半島において愛国啓蒙運動の活動家一六〇人余を一網打尽にして、拷問・起訴・徒刑に処した。
この一九一〇年十二月の「安岳事件」は、一年後の一九一一年に、民族振興を目的に結成された秘密結社「新民会」を対象に一大弾圧を加えた、「百五人事件」のさきがけとなる日本武断当局の行動であった。すなわち、一九一〇年末に企画されていたという(事実は不明)寺内朝鮮総督暗殺未遂の嫌疑をもとにして、一九一一年九月の平安北道在住の李範允なる青年を逮捕・拷問した後、翌年三月にかけて六〇〇余名の逮捕が断行された。拷問による死亡者四名、発狂者三名を出した後、一二八名が起訴、うち一〇五名が有罪判決を受けて刑に処された。ゆえに、百五人事件という。明石や、国友は、日本の機能的な警察力を活用して、半島人の地下独立運動に鉄槌を加えたのである。
「新民会」は秘密結社であったが、その活動は(もとより秘密結社だから不明であろうが、)テロリズムというよりは愛国教育事業の振興や、民族産業の育成にあったと想われる。そういった半島人の自律的活動力までを、日本当局は敵視して、窒息させようとした。日本は、併合当初から、半島人の活動力を恐れていたのである。これでも、「半島の植民地化には恩恵があった」などと、日本人は胸を張って言う勇気があるか。
こんな野蛮を隣国にしなければならなかった「明治という国家」は、司馬遼が追慕するようなよいとこずくめの結果を、後世のわが日本民族に残したのであろうか。
日露戦争の英雄、明石元次郎は、戦争後も生きて、仕事に精を出していたのである。そして、彼が忠勤した大日本帝国は、「坂の上の雲」を通り過ぎた後、打ち負かしたロシアに成り変わって、凶暴な民族の牢獄と化していったのであった。