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Korea!2009/03/20

(カテゴリ:東北アジア研究

本日、夕映舎氏と祇園のコーヒー屋で、談怒。
談笑と書くよりも、韓国を語るときには、こう書きたい。
私が、「秀吉については、これを悪人として歴史を再定義しなければならない」と言った言葉を、夕映舎氏は斥けた。
「一方的な謝罪なんざ、やってたまるか。秀吉は、日本史の誇りの一つや。それをまるまる否定するなど、日本を否定することや。伊藤博文も、吉田松陰も同じ。日本史にとっては、大事な英雄や。フランスがナポレオンを否定したり、中国がフビライを否定するか?もっと、客観的な歴史的評価を双方で持てるところに導いていくのが、互いが誇りを持って認め合うことやないのか?」
私は、これまでそれができなかったから、まずこちらから頭を下げて、動き出させる必要があるのではないか、と反論した。
「たとえば、ドイツのビリー・ブラントが謝罪したように、、、ドイツでナチスを肯定する言葉を、自ら封殺したように。」
夕映舎氏は、言い返す。
「ドイツは、ナチスだけに罪をなすりつけることができる、歴史やった。日本史は、そうやない。誰にでも罪があるように、なってしまう。どこまでも遡って、収拾がつかない。」
この部分は、微妙である。ありていに言えば、ナチスだけに罪が本当にあったのかどうかは、歴史が評価するべき問題である。切り返して言えば、ドイツ史より責任の所在があいまいな日本史であっても、あえて誰かを最終的な責任者として断罪し、象徴的に過去を反省させる歴史評価の道を取ることも、できるはずなのだ。
しかし、夕映舎氏は、言った。
「そうなったら、天皇になる。」
これは、急所である。私たちの論議は、それ以上先に進めなかった。
この急所を回避せざるをえないために、これまでの政治は日韓を、さらに日本が侵略した諸国とを和解させることに、失敗したと言えるのであるか。
だが、このままでは、将来もまた日本は周辺諸国から、孤立したままだ。そしてそれは、日本の没落への道を、きっと開いていく。
夕映舎氏は、私に言った。
「政治と同じ言葉を、使ってはいかん。同じ言い合いの、繰り返しや。だが民の意見は、もっと別のところにあるはずや。そこから、搦め手で盛り上げて行く。それが、お前のするべきことではないか?」
彼は、秀吉を祀った神社なども、必ず韓国人に見てもらうべきだと、主張した。
秀吉を英雄として祀るのが日本史である以上は、隠してはならない。見てもらわなければ、こちらの誇りを保つことができない。譲歩するのは、我らが日本海を東海(トンヘ)と言わされる道へと、繋がって行く。
確かに、そうなのだ。
釜山の龍頭山(ヨンドサン)は、かつて対馬藩倭館があった土地なのだが、徳川時代の友好外交の拠点であったにも関わらず、韓国の歴史から抹殺されている。現在龍頭山に行ったとしても、ここがかつての倭館であった説明を、見つけることができない。彼らは日韓史のポジティブな面を隠している点が、確かにある。
しかし、日本もまた、安土桃山時代の日本製の陶磁器が明朝や李朝の優品に比べ物にならない粗末品であり、それが徳川時代初期に突然質が上がったのは李朝から拉致して返さなかった陶工たちの技術のたまものであったという事実、日本は確かに鉄砲の採用では隣国に先んじていたが、大砲の製造技術では明朝や李朝に大きく見劣りしていたという事実、さらには李朝の亀甲船(コブッソン)と日本水軍の和船では、原子力空母と日露戦争の戦艦三笠の差にたとえてよいぐらいの、テクノロジーの質というべき戦力差があった事実などを、戦国ロマンを過大評価する癖によって見逃している。日本は北朝鮮の拉致問題を悪魔の所業のように糾弾し、確かに現代社会においては非難されてしかるべきであるが、日本もかつて半島から拉致して返さなかった人々がいた日韓史を拉致の糾弾者たちが知らないならば、それは一種の犯罪である。

双方ともに、歴史を正しく認識していない。
これを歩み寄らせることは、確かに相互が誇りを保ったままで、冷静に相手を評価できる道になるに、違いない ― 極めて、難しいが。

彼は、私に任意団体を設立し、国際関係のための非営利の事業の器を、作るべきことを薦めた。
その言葉、ありがたく受け取ることにしよう。

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WinXPは、コントロールパネルを操作することによって、韓国語入力機能を追加することができる。
これで、ハングルをワープロ打ちができるようになった。八千万人の使う言葉だ。覚えて、損はあるまい。

コメント (2)

なんだか、交換日記のようになってしまって申し訳ないが、それでもやっぱりコメントを残しておくのが礼儀かと思います。

私たちの議論、そして、君の主張が拠って立つところについては、ほぼ出尽くした感があるように思います。

あと必要なことは、実践ではないかと。いろいろな人に出会い、いろいろな出来事に遭遇する。その積み重ねしか、ありませんね。

答えは、決してひとつではないのです。そんな単純な問題ではありません。しかし、人それぞれが、それぞれの思いを高めあい、理解しあうことで、全体としての機運を盛り上げていくことは可能でしょう。そのための器が必要です。

君は疑いなく優れた見識をもった人間だし、それをもって周りの人々を導いていく役割があるのだろうと思う。でも、だからって、決して上からモノを言うようになっては、いかんよ。ま、友人であるからこその苦言と思って、軽く聞き流すがヨロシ。

鈴元仁:

ありがとう。
私の性は狷介(きむずかしや)で、このブログの現在は、心中に沸き起こった情を書かずにいられないときに、書き残しているのだ。後で反省することも、ある。そうして反省したら、また書き残している。

君の言うとおりだ。
私は、人々が実情どう思っているのかを、聞き取らなければならない。今私の考えに必要なのは、観念論を脱却することなのだよ。
道は、見えているようだ。
怠惰な、私であるが。

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