京都市内で、韓国人を連れて行くための、Best&Worst Places(?)。
第一カテゴリー 日本では神格化、韓国では悪人
・豊国神社(東山区、秀吉が神として祀られている)
・高台寺(東山区、秀吉の正妻の寺)
・方広寺(東山区、秀吉が建てた寺)
・本圀寺(山科区、清正が帰依した寺)
・伏見桃山城(伏見区、秀吉が建てた城)
・明治天皇・皇后陵(伏見区、日韓併合時点の天皇)
清正(チョンジョン)はただの指令官であり、悪の張本人は秀吉(スギル)その人なのだが、韓国での伝承では両方とも極悪人となっているので、現状では致し方なかろう。
第二カテゴリー 日本では微笑ましいエピソード、韓国では侵略者の政治的エピソード
・北野天満宮(上京区、秀吉の茶会)
・醍醐寺(伏見区、秀吉の花見)
・円山公園(園内の洋館、長楽館は、伊藤博文の命名)
博文が韓国でどのような評価をされているか、今さら言うまでもなかろう。
第三カテゴリー 日本人はあまり知らない、韓国関係の歴史上人物
・知恩院(東山区、家康が帰依した寺)
・金戒光明寺(左京区、家康の保護を受けた寺。儒者山崎闇斎の墓もある)
・二条城(中京区、家康が建てた城)
・平安神宮(左京区、祭神の桓武天皇の母が、韓国系)
家康(キガン)は秀吉の家を成敗し、李朝と友好を回復した偉人である。角倉了以に命じて高瀬川を開削し、京都が流通の拠点となる基礎を築いた。家康は、京都のまち作りにおいても、桓武天皇、秀吉、北垣国道と並ぶ功績を打ち立てたのだ。韓国人には、あまり知られていないかもしれないけれど。
桓武天皇の母、高野新笠の出生には異説もあるのだが、まあ通説に従おう。
・相国寺(上京区、大儒者李退渓(イ・テゲ)の業績を日本に初めて紹介した、藤原惺窩が学んだ寺)
・建仁寺(東山区、藤原惺窩から朱子学を学んだ林羅山が学んだ寺)
徳川時代の儒教は、はじめ李朝朱子学を模倣するところから始まったことは、日本人として覚えておきたいものだ。時代が進むにつれて、伊藤仁斎、荻生徂徠、太宰春台らの独創的儒者が、日本にも現れ出てくる。伊藤、荻生らの名前と業績は、李朝の学者たちもまた知るところであった。朱子学から逸脱した彼らの業績への評価は、複雑なものであったようだが。
ただし藤原惺窩は李朝の儒者に面会したとき、「明と朝鮮が結んで日本を征服してほしい」と望みを述べたという、売国的思想家でもある。日本人として、そこだけはわきまえておきたい。
李進煕氏が引用する、朝鮮通信史に対する幕府の接待料理覚書が、たいへん面白い。
それによると、肉と魚は、基本的にオーケー。エビ、タコ、ハマグリでもよい。一番の好物は、牛肉。
生魚すなわち刺身も、オーケー。
だが、塩魚は、あまり好きでない。
野菜、海藻、油揚げ、全てオーケー。
果物は、全部オーケー。
にゅうめん、そば、オーケー。
和菓子は、たいていオーケー。
酒は、古酒。焼酎。酒類は、たいていオーケー。
もちろん、個人により好みはある。
料理は、「あつき物を嫌、大概ぬるき物を好」むとか。
以前夕映舎氏が、慶州の高級酒を「日本の古酒のようだ」と批評したが、なんと幕府もまた、彼らの好物の酒として、筆頭に古酒を挙げているでは、ないか。
この書を読むと、いかに徳川幕府が、朝鮮通信使の接待に丹念に心をくばり、彼らの好物を徹底的に調べ上げていたかが、分かる。日本のサービス業の精神が早くも十八世紀の時点で満開していたことが、ありありと見て取ることができる。そして、幕府が持っていたおもてなしの心を忘れ去ってしまったのが、明治政府の外交であった。
『海游録』を著した申維翰(シン・ユハン)は、1719年通信使の製述官であったが、彼は日本で味わった味についても、書き残している。
-諸白を、上品となす。
諸白とは、要するに日本酒のこと。いっぱんに、李朝の使者は、日本酒のうまさを絶賛している。
他に、梅酒、桑酒、忍冬(すいかずら)酒などのリキュール類も、味がよいとしている。
とか言いながら、一行が道中で一番好んだのは、道中で作った白酒、つまりマッコルリだったりする。
本国からも持参していて、それは焼酎(ソジュ)と秋露酒(チュロジュ)であった。秋露酒とは、どんなものかまだわからない。
思うに、彼らにとって日本酒は、「うまいけれど、飽きる」味なのかもしれないな。
通信使たちの酒の記録を見て、そんな印象を持った。
他に、マクワウリやスイカが、甘くて味がよいと言っている。
申維翰は、食物については、
-粕漬をもって美食とす。
と、言っている。サワラの西京漬けみたいなやつだ。私も、好物である。
また、鰹節に興味を示している。鯨の肉については、柔らかくて油っこくて珍味と思えないと、評価が低い。また、すき焼きにも注目している。