これが、初投稿です。
私は、西洋芸術が好きです。
以前、京都の国立美術館で、ムンクの版画を見たときに、衝撃を受けた。
自分自身や身近な女を、ここまで生体解剖するように、描いてよいのか。
鬼気迫る、生命としての人間の力を、彼の版画からありありと感じた。
東洋の絵画は数千年の歴史があるが、いまだかつてムンクの境地に達したことは、ない。これまでの歴史で創り上げられて来た個々の芸術作品の水準から見れば、東洋の芸術は西洋芸術に、はるかに及ばない。私は、そう批評せざるを得ない。
では、東洋の(私は、あえて「日本の」と、言いたくはない。私は、自分の経験から、中国文化圏にも、韓国にも、日本の創作風土と似通った底流が静かに流れているであろうことを感じ取っているからだ)創作姿勢において、優れた点とはなんだろうか。もしそれがあるならば、これからの時代の人間の創作活動に、ヒントを与えるものが、あるだろうか。
ぐだぐだ生煮えの理論を書き記すよりも、私の実践を紹介したほうが、よかろう。
私は、さる4月5日午後から6日朝にかけて、京都円山の「吉水」で遊んだ。
その間、同行の友人と、俳句を詠み続けた。
巷の花見の情景に触れるごとに、「いっせーのー」で、詠んだのだ。
まことに、爽快な試みであった。
季語を入れて、なるたけ五七五のリズムを、守るように心がける。
縛りはこれだけだから、沸くように言葉を出すことができた。
後で私が写真、散文と漢詩を継ぎ足して、一文にした。
http://suzumoto.s217.xrea.com/2009/04/post_213.html
これは、よい試みであった。
これからも、同人を誘って、やろうと思う。
今回試してみたのは俳句であったが、日本の創作活動には、上の五七五を発句人が詠んで、それに対して下の七七を次の同人が詠んでいく、連歌の形式もある。連歌となれば、これは全ての句が協同製作となる。
面白くない この世の中を 面白く
私の示唆に対して、同行の友人が例として出した、上の句である。
もとより、高杉晋作の句であるが、歩いている際に思い出した言葉であるので、原句とは異なっている。
私は、とっさに下の句を付けた。
おもろないのは おまえの顔だ
ははは。
これもまた、一景だ。
連歌をするには、一人だけでもある程度教養を持った人がいた方が、面白くなると思う。そして、その人は、広い心を持たなければならない。同人が発する言葉を、先入主なしで評価して、全員の創作を高める心がけが。
俳句や連歌は、各人がきっちりと個性を出しながら、全員の創作でよいものを作ることができる力がある。西洋の芸術も、時代を遡れば無名人が車座になって創作していた時代があったはずなのだが、いつしか時代とともにいじけて萎びていった。西洋では、個人が所有権を持った作品を創作して、市場にて貨幣に評価するという原理が、絶対化した。
私は西洋芸術を素直に大芸術である(あった)と認めるがゆえに、個人が所有権を持って市場に立ち向かう西洋芸術の原理が、偉大なものをかつて生み出したことから、目を背けることができない。しかし、その原理が、これからの時代にも、通用するかどうかと問われれば、分からない。分からないが、いまだに出版会社と音楽会社は、個人・所有権・市場の原理で、動いている。それは、このブログサイトでも散々言われているように、未来がないのかもしれない。少なくとも私個人の経験から言えば、俳句や連歌による協同創作には、確かに可能性があると感じる。だが俳句や短歌の世界ですら、一人で作って投稿する態度が、今の日本人には蔓延しているのが、残念な現状なのだ。
私は、このネットの探索を続けている最中であるが、いまだに心中の疑念が尽きないでいる。
これは、鎖国集団なのではないか。
日本人の惰性的観念が無反省であることの如実な現れとして、投稿者が注目している対象の地域は、
日本-みんなの国、本源的欲求(他人とつながり、他人のために働き、他人に認められたい欲求)を満たすべき場
欧米-反面教師、個人原理によってこれまで成功して、今や個人原理を突破しようとする人類史からみて、脱落しようとしている文化圏
中国-ただの野蛮な発展途上国、「みんな」の社会である日本を汚し脅かす、敵
こういった構図に、おおむね括られると思われる。
あえて乱暴にまとめたが、私は投稿者が東北アジアに対してほとんど何のポジティブな意見も印象も持っていない世界に踏み入って、読むたんびに不足感を覚えてならない。
現在の日本人の平均的な脳中にあるのは、日本しかない。
ちょっとものを分かろうとして努力する者は、欧米と中国に思いを馳せようとする-たいていは、ネガティブな対象として。
そして、韓国、台湾については、はなから意識にすら上らない。
「内向き症候群」である。
これが、「内向き症候群」である。
日本人の鎖国根性を、無反省なままに肯定して、明るい未来を語ってよいのですか。
私は、まだこのネットに、信頼が置けない。
日本人の現実への認識が、おおむねまっとうであるゆえに、なおさら参加者の集団認識が描く未来像に、危険を感じる。