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日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(1)-類ネットへの投稿

(カテゴリ:東北アジア研究

この投稿は、私の主張の枠組みを、分かっていただきたいと思い、書きしたためました。
おそらく、ここに集っている皆様のご主張とは、毛色が違います。しかし、私は外部からここに立ち寄った者として、この稿ではあえてトリックスターとして、冷や水を浴びせる役割に徹したいと思います。

私は、この類塾ネットをごく最近知りました。
そうして、興味のある箇所から、順々に読んでいます。
読めば読むほどに、私の心中に、二つの理解が高まって来ます。
一つは、「共認」というスタンスで開かれた議論を積み重ねていくこのコミュニティーの討論の結果として構築されつつある現代日本社会の現状認識に関して、確かに私の言いたかったことと一致している、ということです。私は、現在TV、新聞、週刊誌を見捨てています。最も必要なはずの情報を、何も取り上げないからです。それらのメディアよりも、SNSなどで知り合って、礼を尽くして幸運にも仲良くなれた方々と会話することによって得られる様々な情報の方が、はるかに貴重なものを得られます。このコミュニティーにおいても、この私が一角を占めることが、許されんことを。

しかし、このコミュニティーの内容を読み進むにつれて、私の中にはもう一つの理解が、深まるばかりです。
私は、このコミュニティーの「共認」している未来像に、全く共感できません。
なぜか。
現状の、このコミュニティーは、「共認」は試みていても、「共存」について、何も考えていないように、見受けられるからです。
私がただいま用いた「共存」とは、「共生」「共棲」という言葉を用いても、よいかもしれません。
生物学の用語で、比喩的に語ります。
生物学ならば、「共生」あるいは「共棲」は、異なる種の間で優勝劣敗原則が働くのとは違って、それぞれの種がそれぞれの適応したテリトリーで生活しながら、エコシステム総体として調和した循環系を成立させている状態、と申すべきでありましょう。
これを、いま私は人類に対して、比喩します。
人類は、もとより全てが、同じホモ・サピエンス・サピエンスです。
どの人種間でも生殖が可能であり、生まれてすぐにある社会環境に置かれれば、その個体は育った社会環境の一員となります。民族的に日本人であっても、幼少の頃より大陸中国で育てられれば、完全に中国人となります。その逆も、そうです。いちいち事例を挙げるまでも、ありません。
そのように民族間、文化間で種が異なるはずがないのが事実ですが、いざ人類の社会を見ると、異なる民族間、文化間で融通無碍に交流交通がなされているようには、とても見えません。

文化は、人間の第二の皮膚といってよいものです。
人類は、文化が異なると、相互に直感で理解し合える範囲が、ぐっと狭まります。
言葉が、最大の壁です。いま日本人の平均値を取ったとき、文字情報を通じて他人を理解することができる範囲は、純粋に日本列島に留まります。漢語(中国語)の文章はいまやネット世界で最大勢力ですが、漢語ならば日本人はある程度読むことができます。私個人の経験から申し上げれば、私は漢語を知らない状態から始まって、読んでみようと思い立ったとき、二週間でほぼ解読できることに成功しました。文章が読めたからといって漢語文化圏の人々を理解できるかどうかは別問題ですが、少なくとも日本人は試みることに対する壁は、それほど大きなものではありません。
その他の文化圏については、平均的日本人は、ほとんど理解できません。
隣国の韓国は、現在漢字(ハンジャ)を、事実上放棄しています。ネット上にも、出版物にも、漢字は出てきません。当地の人々は、もう漢字がほとんど読めなくなっています。ハングルオンリーで読み書きしているのですが、よって日本人には、一字たりとも読めません。
世界で最も広範囲に使われている言語である英語もまた、日本人は読めません。
これまでどんなに政府が英語学習を推進する掛け声を掛けたとしても、ここ数十年で日本人の英語力が平均値として向上したという証拠を、私は知りません。理由は、明白です。日本列島に住んでいれば、英語なぞ必要ないからです。日本語は歴史のある自己完結した言語なので、外国語を必要としないのです。
こうして日本人は言語の壁があって、外国を知ることが難しくなっています。
唯一わりかし容易な努力をもって知ることができるはずの漢語文化圏についてさえ、真の理解というよりは偏見、誤解、見落とし、針小棒大がまかり通っているように、見えます。
どうして、こんな現状なのでしょうか。