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日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(2)-類ネットへの投稿

(カテゴリ:東北アジア研究

我らが国の日本が属している東北アジア文化圏を西ヨーロッパ文化圏と比較したとき、重大な相違点があります。

西暦476年、西ローマ帝国が滅亡した後、エルベ川以西の西ヨーロッパにおいては、統一権力が消滅しました。一時的に再統一を果たしたカール大帝の帝国が短期間で空しくなった後には、西ヨーロッパはまったくバラバラの地域になってしまいました。
このとき、宗教とラテン語によって、文化的な連携を地域間で育て上げる役割を担ったのが、他ならぬローマカトリック教会でした。
以降、ルネサンスまでの中世を通じて、聖職者、学生、そして巡礼者たちの国際的移動は、頻繁でした。パリ大学が外国人に満ち溢れ、サンチャゴ・デ・コンポステラへの巡礼がまるでわが国のお伊勢参りのように西ヨーロッパ各国からの観光客でにぎわい、教皇のお膝元のローマでは巡礼者、傭兵、商人、はたまたならず者たちといった異邦人がごった返していた事実は、西ヨーロッパ文化圏というものが、たとえ近代に至って国民国家が成立したとしても、文化の根本では融通無碍な交流が正常であったし、国民国家の皮をめくってしまえば共通の文化圏を容易に再発見できる地域であったことを、示しています。

いっぽう、わが日本が属している、東北アジア文化圏。
この文化圏の、国家としての基本スタイルは、紀元前3世紀末の秦帝国が打ち立てた中華帝国システムです。
始皇帝の事業により始まった秦帝国のシステムは、よく知られているように、郡県制を採用した中央集権制です。
すなわち、征服した版図の全てに対して、首都から送りつけた官僚を送り込み、皇帝の手足として、上意下達の組織を作り上げる。
地方に赴任した官僚が自立してしまわないように、皇帝の目と耳である監察官(秦代には、御史と呼んだ)を派遣して勤務評定を行い、かつ厳格な法刑を全国一律に公布して、違背者には父母・祖父母・兄弟・子・孫までを殺す族誅(ぞくちゅう)を極刑とした体刑をもって、非情の運営を行う。これが、法家思想家の韓非に学んで始皇帝に丞相として仕えた、李斯の採用したシステムでした。
秦帝国のシステムは、後を襲った漢帝国によって全面的に受け継がれ、中華帝国の行政組織は、以降2000余年にわたって変化しなかったといっても、過言ではありません。
後世の重大な追加は、漢代に始まった儒教の国教化と、隋唐代に始まり宋代に完成した科挙の制度です。この稿では詳しく書きませんが、儒教の国教化は皇帝と官吏による統治に正当性を与えて、イデオロギーの補強に成功しました。科挙は、超難関であるが(原則)誰にでも開かれた、政府高官への受験制度でした。この受験制度を全国一律に開いたことによって、各地の父兄の側から、子弟を政府へ送り込むために猛勉強をさせることに熱中させることに、成功しました。中華帝国の政府高官とは、日本の官僚とは違います。それは金儲けの手段であり、一族の誰かが政府高官になれば、周囲に巨大な余沢が得られるものでした。

こうした中華帝国システムは、広域な版図を中央集権的に統治するために、極めて有効なものであったことが、後世の長い長い歴史によって、証明されることとなりました。そして、このシステムが、文化の遅れた周辺諸国にも、移植されたのです。すなわち、朝鮮半島、日本、ヴェトナムです。

今、この稿で焦点としたいと思っているのは日本とそれを取り巻く東北アジアなので、日本の歴史とほとんど相互影響を及ぼすことのなかったヴェトナムは、いったん脇に置くことにします。
日本にとって最も相互影響を及ぼした隣国とは、朝鮮半島の諸王朝と、中華帝国に他なりません。
この三地域が、揃って中華帝国の中央集権システムを、採用しました。
朝鮮半島は最も忠実に(といいながらも、かなり本場とは違った点がありました)中華帝国のシステムを導入しました。中央集権制度、儒教、科挙の三点セットは、李氏朝鮮王朝500年の間、しっかりと根を下ろしていました。
日本は、ご存知のとおり、七世紀の大化の改新以降、隋唐にならって中華帝国のシステムを導入しました。教科書で、律令(りつりょう)制度と呼ばれているやつです。ただし、李氏朝鮮のように、システムの導入が貫徹しませんでした。科挙は行われず、中央の朝廷は藤原氏ばかりが高官を独占し、地方官である国司もまた世襲になってしまいました。平安時代は、中華帝国の原則から見れば、ひどく腐敗堕落した体制でした。
日本は、結局中華帝国のシステムを、放棄しました。
源頼朝の文治革命以降、日本は地方分権的な領主システムを、独自に構築していきました。
それ以降、日本社会は隣国と毛色の違った社会となったのですが、そのために日本社会は隣国とつながりをもたず、孤立した社会となってしまいました。そして、隣国の中華帝国と朝鮮半島は秦帝国以来の中央集権システムを堅持したために、システムの外部への関心が極度に小さくなってしまいました。こうして、東北アジアの三国は、それぞれが内に閉じこもったテリトリーを持って、互いにほとんど没交渉な国際関係を、作り上げてしまったのです。文化的には、共通のものを多く抱えているにも、関わらず。書物の上では、ずっと後世に至るまで、隣国の学問芸術に対する関心が強かったにも、関わらず。

日本が含まれる東北アジア社会は、こういった過去の歴史的経過を、現代にひきずっています。
日本、韓国、中国は、互いの国が、互いの事情をよく知りません。
三国の政治は、それぞれで協調が取れず、めいめいが勝手な方向を向いて動いています。
この三国は、文化圏の外にある欧米やインドよりも、じつはずっと共有しているものがあります。
三国ともに、儒教を体で知っています。長幼の序は、西洋人には理解しがたい感覚です。礼儀を重んじる倫理観は、西洋では二十世紀に極度に衰えましたが、東北アジアでは残っています。
また、漢字を共有しています。韓国は、ごく薄く。日本と中国は、濃厚に。
私は、自分の足で21世紀以降に香港、台湾、韓国を回って、これらの地域が日本の文化と明らかに異なりながらも、共有するものが西洋よりもずっと多いことを痛感して、帰って来ました。
その詳細は私のブログ内で語っていますので、ここで書くことはしません。とにかく、私の主張の根本にあるものは、この目と耳と足を通じて知った、三国の文化の実態です。三国は、長い歴史において政府レベルでも民間レベルでも西ヨーロッパとは比較にならないぐらい没交渉であったにも関わらず、それでも手を打って感嘆するほどに多くのものを共有していると、私は思っています。
この三国が現状のように互いに孤立しているのは、政治・経済・社会の将来のために、大変な損失です。私は、大きな展望として、そのことを疑いません。ゆえに、わが日本もまた属している東北アジア文化圏が過去の歴史から背負い込んで来た、互いの国で孤立しがちなメンタリティーを、なんとかして21世紀のうちに打破できないものかと、思案を続けています。