« 日本人よ。東北アジア文化圏に、目を向けたまえ(3)-類ネットへの投稿 | メイン | 跡田直澄『NPOの経済学』を読む(2) »

跡田直澄『NPOの経済学』を読む

(カテゴリ:東北アジア研究
同一のマーケットで、一般企業と対等に競い合うようなNPOは、ビジネスセンスをもたなくてはならない。さらに、NPOの維持と拡充という目的のためには「自前の稼ぎ(営業収入)」、「補助金・助成金」そして「寄付」という三つの要素が欠かせない。理想をいえば、この三つがいわば三位一体となってこそ、NPOは長く存続できるのだ。(pp.43)

このように、本著では開陳されている。
しかし、そうであろうか。
私は、今の日本を見回したとき、正直申して補助金・助成金を三本足の一つとして前提にするNPOビジネスは、きわめて危険であると見る。
この財政状況、この腐れきった政治状況で、中央・地方の政府の資金を、信用してよいのか。
私は、もと役人であるから、政府が信用できないという直感を、持っている。
もし理解ある役人がたまたま担当の部署にいたとしても、そんな人は遠からず全く関係のない部署に、配置転換される。そうして、腰掛けにしか考えていない後任者が、やって来るのだ。それが、役所の掟なのだ。この掟が、根本から変わっているようには、私には見えない。
役所は、もらえるものはもらっとけ程度に、話半分で付き合ったほうがよい。
決して、ビジネスの柱として、期待してはならない。

だから、私は思う。
NPOというビジネスモデルが根本に据えるべき、三本柱は-

・自前の稼ぎ(営業収入)
・寄付金
・参加者の、自発的活動

この三つでは、ないだろうか。
Wikipediaは、定期的にドネーションを募って、多額を得ることに成功している。
それは、あの財団の事業が、全ての人に役に立っていることが、明らかに分かるからだ。
私だって、大きな恩恵を受けている。
ただ(が理想的だ。)でサービスを提供して、しかも参加者に巨大な恩恵を与えている。
ならば、mixiのようなソーシャルネットワークサービスと、Wikipediaはどう違うのであろうか。
答えは、一つ。
mixiは、開かれているが、公益性がない。
自分が参加していることが、コミュニティー全体の水準を高めていることに対する、実感が沸かない。
ゆえに、公のために寄付してくれと言われたって、「はあ?」という回答となる。
いっぽう、Wikipediaは、自分の参加が公に開かれて、利用されていることに対する実感が沸く。
私が直感するに、この両者の差の部分に、きっとNPOのための秘訣があるに違いない。

その直感が、私が第三の柱として想定したい、「参加者の、自発的活動」と連動している。
現代人は、無償の苦役を望まない。
たとえば、ボランティアの参加者に、とびきりの低賃金で長時間介護サーヴィスを割り振るようなNPOビジネスは、きっと破綻する。
そんな苦役としてのボランティアに期待する者は、甘ちゃんだ。
そうではなくて、余暇を割り振っても参加したくなるような仕組みを、提供する。
そうすれば、経済学用語でいう「効用(utility)」を活動によって得られるわけだから、参加者は「労働者」と「消費者」の合い間に立つ、あやふやな存在となる。
参加者をその状況に誘致することができれば、参加報酬はとびきり安いか、あるいは無料でも可能となるであろう。
介護サービスでも、工夫すればきっとできる。
私が考えている、外国人へのサービスならば、なおさらだ。
この国には、金を払っても語学を学びたい人間が、わんさかいる。
外国をよく知らないが、外国に興味があって、余暇を割いて接触したいと思っている人間もまた、わんさかいる。
参加した者が、"fun"を得る仕組みさえ作れば、必ずビジネスになるに、違いない。
頼るべきは、政府じゃないよ。
目の前を歩く、人々だ。
日本人は、知識過剰なのだ。いろいろ知っているが、それを活用して"fun"を得る術を、とんと知らない。
巨大な、鉱脈がありそうじゃないか?
そして、その楽しんで参加している活動が、公益につながっているという実感を持つことが、できたならば-
私は、NPOの活動を、国家の外交活動と結び付ける要素がないかどうか、思案している最中である。
自分の参加が、日本国と外国を動かすという実感を、この国の民は必ずや欲している。
そしてそれは、不可能ではないのではないか?



食事は若年だろうと高齢であろうと、人である限り毎日摂取もので、そこでは必ずお金が必要となる。食のサービスは高い経済効果が期待できる数少ない分野の一つといえるのだ。(pp.97)

著作では、NPOが入りやすいニッチとして、「安全な食材」「低カロリー」を求めるのが相場であるという高齢者への配食サービスを、例として挙げている。

食に本当に興味があって、やりたい人は、試みればよいだろう。

しかし、私は、NPOをやるとしても、絶対に食に手を着けない。

危なすぎる。
日本人の、食に対する神経質さは、近年毎月のように起こる騒動を見れば、明らかだ。
その潔癖さは、はっきり言って、病気である。
集団的病人に対してサーヴィスを行うのは、私は危険と見る。
ゆえに、私は食に手を出したくない。そこまで、思い入れが残念ながら持てないのだ。
日本人は、騒音や美観破壊行為に対しては「なんで?」と叫びたくなるほどに、鷹揚である。
そのくせ、食に関しては、風評で決め付けたり、知りもしない外国の食事に対して、平気で偏見を持って拒否している。この傾向に棹差すことは、荒波を渡るようなものだ。