« 韓洪九『韓国現代史』 | メイン | 韓洪九『韓国現代史』(3) »

韓洪九『韓国現代史』(2)

(カテゴリ:東北アジア研究
民間人虐殺の事実と同じくらい酷いのは、全国津々浦々で一〇〇万人余りの犠牲者が発生したにもかかわらず、われわれがこの虐殺に対して知らないふりをするか、本当に知らないまま半世紀をすごしてきた点です。同じ空のもと、このような酷い出来事が埋もれたままになっている事実に背を向け、あるいはまったく知らずに、われわれは食べて飲んで寝るという日常生活をしてきました。数十万人の死に五〇年間も背を向けてきた韓国社会の構成員全員が、虐殺それ自体ではなくとも虐殺隠蔽の協力者になったことで、人間としての道理をはたすことはできなかったのです。虐殺の嵐が広く全土を覆ったこの地で、被害者も加害者も、遺族はもちろんのこと、韓国社会のすべての構成員は皆まともな人間ではあり得なかったのです。虐殺とはまさにこのような問題であり、われわれが再びこの地で虐殺が起きないように努力しなければならない理由もそこにあるのです。(pp129)

済州島(チェジュド)の四・三事件、麗水(ヨス)・順天(スンチョン)事件、保導連盟員や獄中左翼の当局による虐殺、KoreanWar勃発直後に起こった米軍による老斤里(ノグンリ)虐殺事件、、、
戦後の韓国史を、著者は「熱いフライパンから出たら、火のなかだった」(pp140)という言葉で表す。熱いフライパンとは、日本による支配。火の中とは、その後に起こった虐殺、戦争、独裁の連続の歴史である。

「義を見てせざるは、勇なきなり」(論語・為政篇)という、言葉がある。

これまでの歴史で隠蔽という悲惨を受けて来た残虐な過去を、あえて明るみに出して戦後史を問い直す。
それは、人間の権利を愛し、多くの遺族に同情の意を持つ者ならば、当然湧き上がる正義感であろう。著者もまた、そうである。だから、韓国人と韓国政府に対して、過去を隠蔽するな、問い直せと、本書は呼びかけているのである。
日本では、戦前からうやむやのままに引き継がれた戦後体制への問い直しの運動は、六十年安保の敗北とともに、国民レベルでは消滅した。その後の学生による反体制運動もまた、七十年代にはほとんど鎮火してしまった。忘却によって日本人が得られたものは、高度成長の結果としての日本史上未曾有の物質的繁栄であった。
韓国もまた、高度成長を経験した。今や、先進国レベルの生活水準に、近づいている。
それとともに、80年代まではいまだ盛んであった市民・学生の異議申し立ての運動もまた、沈静化しているのであろうか。現在の韓国では自分の口に入る牛肉輸入問題については狂熱的となるものの、韓国史の問い直しについて燃え上がるような気運があるようには、どうも見えない。

韓国人も、日本人同様に、過去を忘れ去る時代が来るのだろうか。
それとも、身を切るような作業となるに違いない自国の恥ずべき歴史への斬り込みに躊躇した結果、批判しやすい対象として親日派や日本社会への批判の動きを、ますます強めていくのであろうか。
後者よりは、前者の方が日本人にとってまだしも憂鬱でないことは、明らかだ。
本書の著者の訴えはまことにもっともであるが、現実の韓国社会に呼びかけが通じるかどうかは、私にはわからない。

ところで、ささいなこと。
本書の中で、「弱者や少数者の人権を尊重しなければならないというのは、孔子の言葉でもあります」(pp145)と書かれてある。
いったい、これは孔子の何の言葉について、言及しているのであろうか。
確かに孔子や、それを受け継いだ孟子の思想には、社会的弱者を為政者はまっさきに保護しなければならない、という仁政思想がある。「鰥寡孤独」、すなわち男女のやもめと身よりなき老人と親なき孤児は、仁政者がまず政治により保護する対象なのである(『孟子』梁恵王章句下)。
しかし、「少数者の人権を尊重する」と著者が言及するとき、いったい孔子・孟子のどこの思想のことを、言っているのであろうか?
孔子は、「異端を攻(おさ)むるは、これ害あるのみ」(『論語』為政篇)と言っている。また、「民は由(よ)らしむべし、知らしむべからず」(同、泰伯篇)と言っている。
孔子の後継者である孟子は、絶対自由至上主義というべき思想家である楊朱、四民平等主義である農家、兼愛思想による社会改造を標榜する墨家などの論客を、儒教のドグマに対立する異端として、片っ端から叩きのめした。そこには、異なった思想であっても尊重するなどといった姿勢は、ほんのかけらすらも見られない。

もし、著者が「少数者の人権を尊重する」と言うときに、近代社会的な各人の自由を尊重すべしという人権思想のことを想定しているのであれば、孔子や孟子の思想が、自由主義的な要素があるはずがない。儒教とは、決まったドグマが存在していて、それからの逸脱を厳しく排斥する思想なのだ。たとえそのドグマが、主観的には善意に満ち溢れた仁政思想であっても。

孔子や孟子を自由主義的人権思想家などと、考えることは私にはできない。筆者は歴史学者であるのに、少し疑問に思う、本書における孔子評価である。