私が読んでいるのは平凡社から発行された訳書であるが、原著の『大韓民国史-壇君から金斗漢まで』は、2003年2月7日にハンギョレ新聞社から出版されて、ベストセラーとなったということだ。ただし、3万5000部でベストセラーと、監訳者は言っている。日本の常識から言えば、ずいぶんに少ない。この著作が、大衆的にどれだけ評判を獲得したのかは、よくわからない。本書は、韓国で猛威を揮っているネチズンの言動にまで、影響を及ぼしえたのか?そもそも、韓国のネチズンたちは、本書のようなしっかりした歴史書を、どれだけ読んでいるのだろうか?
韓国に来て、あるいは韓国に来る前に移住労働者らが最初に覚える韓国語は、「テリジマセヨ・ヨッカジマセヨ・ウリドサラミエヨ(ぶたないでください。怒鳴らないでください。私たちだって人間なんです)」だといいます。さらに「ウォルグブン・ウェー・アンチュウォヨ(給料は、どうしてもらえないのですか)」のような会話を、実際に彼らの使う韓国語教材に載せざるを得ないことが、単一民族国家韓国の現状なのです。(pp.74)
檀君神話を批判的に書いた一章の中から、引用した。
檀君祖父様(タングンハラボジ)は、紀元前2333年に即位したとされる、韓民族の始祖である。彼らが全て壇君祖父様を始祖としているという神話が、彼らの中に日常レベルで存在している。
その、単一民族であるという自己イメージが強い彼らは、余所者に対してどれだけ寛容であるか?
上の引用が、どれだけ真実を写しているのかは、知らない。
しかし、「때리지마세요、욕하지마세요、우리도 사람이에요」「월급은 왜 안줘요?」という言葉は、ただごとではない。もしこれが実態ならば、彼らは国際社会に生きる資格は、いまだない。韓国人が、ロシアや中東で活躍し、アメリカで大きなコロニーを作っているにも関わらず、国内でこんなありさまでよいのか。
同じである。日本と、全く同じ病気が、かの国をむしばんでいるに、違いない。
解放直後には、日帝残滓の清算が必ずなされるべきだという民族的合意が確かに存在しました。朝鮮民族の歴史が、日帝残滓の清算ができなかったからねじれてしまったのか、それとも民族史の展開過程がねじれてしまったために日帝残滓が生き残って再生産されたのかについては、見方によって意見が分かれるかもしれません。しかし、韓国社会に親日派が生き残ったことは明らかなことです。しかも、単に生き残っただけでなく、自分たちの恥ずべき過去を徹底的に隠蔽できる権力を握って、たくさんの民間人虐殺の墓の上に生き残っています。(pp.104)
韓洪九氏は、現代韓国における、「日帝残滓」「親日残滓」の清算について、「韓国社会で生じたすべての問題を親日派のせいにするのは行きすぎだと言わざるをえません」(pp108)と評しているものの、かといって親日残滓の清算が韓国に不必要であるなどというスタンスでは、全くない。「親日病はしかるべきときに完全な治療ができなかったために重くなり続けました、、、親日派は権力を握り、親日という恥ずべき過去への反省が行われないままに徹底的に隠蔽されました。」(pp107)
韓国では、建国時点で親日残滓が完全清算されず、権力の中枢に居残り、独裁政権を打ち立てて民衆を虐殺した。あまつさえ、李承晩を追放した後に独裁者のイスに座った朴正煕は、かつての通名が高木正雄であり、陸軍士官学校を卒業して陸軍少尉に昇った過去があった。彼は李承晩政権の反日政策を180度転換させ、日本と国交を回復し、日本資本の導入による経済成長時代をスタートさせた。彼の国内政策のモデルは、「池田内閣の所得倍増政策であったともいわれる」(崔吉城『親日と反日の文化人類学』pp68)。
崔吉城氏の指摘と、韓洪九氏のスタンスが、平仄を合わせている。
日帝問題、親日派問題とは、じつは国内問題なのだ。
自らの国の過去と、現在の権力の正当性を問い直すとき、「清算」がなされなかったし、今もなされずに大手を振ってまかり通っている、という筋道の論理が取られる。
だから、韓国では、良心をもって体制を批判しようと試みると、「日帝残滓」「親日残滓」を叩きのめす、というスタンスとなってしまう。
ヨーロッパで、ナチスの亡霊を叩く風潮が、いまだにある。
現ローマ法王がかつてヒトラーユーゲントに加入していた事実が報道されて、いっとき大騒ぎとなったことがあった。結局のところドイツ人の子供であるかぎり、当時を生きていれば強制加入なのであったから、冷静に議論されて落ち着いたのであるが。
そのナチスの亡霊叩きと、親日残滓叩きは、どこに相違点があるか。
違いは、ヨーロッパにおいてはナチス・ドイツと現在のドイツ連邦共和国とは別の存在であるということが共通認識として確立されているのに対して、韓国では過去の日本と現在の日本が、ややもすればはっきりと区別されていない点にある。
彼らは、現在の日本に対してもまた、警戒する。
靖国問題や、在日韓国・朝鮮人に対する迫害など、警戒されてしかるべき点もまた存在することを、私は否定しない。
しかし、現在の日本の文化にまで不信の目を向ける姿勢は、どうしたことであろうか。
韓国マクドナルドのパッケージには、世界各国の言葉で"I'm lovin' it"のキャッチフレーズが書かれているにも関わらず、いちばん重要な隣国であるはずの日本語が、ない。
国内問題として「親日残滓」を糾弾することは、姿勢としては分かる。(具体的にそれがレッテルを貼られた人々への集団的リンチとなっていないかどうかが、心配である。)
しかし、現在の日本国に目を向けようとしない彼らは、大きな損失をこうむっているのではないか?
日本人にとって韓国・台湾・中国の文化ほど、わかりやすい文化はない。
同じように、韓国人にとって、日本文化ほど、わかりやすい文化はないはずなのだ。
もっと互いの国が、隣国をよく見てほしいものだ。私は、それを願う。