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大阪・生野・コリアンタウン

(カテゴリ:東北アジア研究

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大阪環状線から300メートルほど東側に沿って、バス通りがある。
正式名称は市道上新庄生野線であるが、地元民には「疎開道路」と、呼ばれている。
この道の由来は、戦時中のことにさかのぼる。
当時、この近辺は工場の密集地であった。
現在ビル街のOBPとなっている土地には、かつて陸軍の大阪砲兵工廠があった。
周辺雇用まで含めれば二十万人にもなったと言われる、巨大な軍需工場であった。
大阪は、軍需を支える工業都市として、連合軍の爆撃対象となることは、必至であった。
政府は、生野区の土地の一筋を南北に縦割りして、そこに住んでいた住民を強制的に「疎開」させた。
空襲の火災が延焼することを防ぐために、がらりと空き地を、こしらえたのであった。
それでも、空襲による被害は、防ぐことはできなかった。
戦後、強制的に作られた空き地は、道路となった。
「疎開道路」の、始まりである。
大阪にKorean Peopleが現在もたくさん住んでいる理由は、戦前の大阪の工業の発達と、切り離すことができない。

その「疎開通り」から入って、御幸森神社に始まって平野川で終わる、商店街。


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大阪市生野区、町名でいえば桃谷三丁目から五丁目。
正式名称、御幸通商店街。
これが通称、コリアンタウン。

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店先には、韓国語が並ぶ。
韓国の食材が、売られている。
おなじみのキムチ、チジミ。
店頭売りの、ホルモン。
ナムルの材料の、大豆もやしにゼンマイ。
肉を食べるときに欠かせない野菜の、サンチュにゴマの葉。
塊でざっくりと置かれた、豚の肉。


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チマチョゴリを売る、服屋。
最近の現象として、韓流スターのグッズを売る、音楽店。
いかにも韓国の風情にあふれているが、決して韓国ではない。
韓国に行けば、店先にはハングルしかない。漢字も、ひらがなも、決して見ることができない。
この街には、漢字もひらがなも、混在している。
だから、ここは日本のコリアンタウンであることが、わかる。

この地域にKorean Peopleがやって来たのは、経済が原因だ。

6月14日、ワンコリアフェスティヴァルの催しを、当初からかれこれ25年間続けて来ておられるチョン会長じきじきの説明で、コリアンタウンのミニツアーに参加した。昼間コリアンタウン内にある韓国料理店で、フェスティヴァルスタッフの集会をこなした後での、有志によるミニツアーだ。


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コリアンタウンの東端、平野川にかかる御幸橋から、ミニツアーは始められた。
「平野川はしょっちゅう、氾濫した。それで、浚渫(しゅんせつ)工事を行うために人足が、集められました。そこに集まって来たのが、この土地にKoreanがやってきた、始まりでした。」

背後の歴史は、今あえて、ぼやかしておく。

「しかし、本当に数が増えたのは、工場に働く労働者としてでした。」
ワンコリアの大事業を大阪から進めておられる、チョン会長は、続けた。

「昔、大阪は東洋のマンチェスターと呼ばれて、東洋最大の工業都市でした。そうして、低賃金で働かされるKoreanが、いっぱいこの辺の零細工場の仕事場に、吸い寄せられた。1920年代、30年代にこうして労働者として大阪にやって来た人々の中には、家庭を持ち、子供を持つ者もあった。戦時中、強制連行によって連れて来られた人々は、戦争が終結すると、たいていは帰って行った。それは、家庭が向こうにあったからです。でも、もうここに家庭を持ってしまった人々は、帰るに帰れない。そうして、日本に残ったんです。」


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もう今では工場も少なくなってしまったが、昭和の時代にはじつにこの辺りは、町工場が密集していた。
「70年代ごろには、この川はものすごく汚れていました。とにかく臭くて、、、これではいかんと、府と市が川をさらえて、ようやくこうして近づけるようになりました。」
現在、アジアの工業地帯は中国に移り、中国では工業排水が環境の悪化を深刻なものにさせている。
かつての日本が、現在の中国の姿であった。
どうして大阪にKoreanが住むようになったのかのいきさつは、昔の経済の姿に遡らなければ、わからない。
私の隣にいた、ワンコリア委員会でウェブサイト運営を担当している若者に、私は言った。
「まだ、泳ぐまではだめだな。魚も鳥も、戻っていないし。」
に聞いた。
彼は、真剣な顔をして、私に聞いた。
「鳥が、戻りますかね?」
私は、不真面目にもビールの入った頭で、答えた。
「戻るさ。どぶ川だって、ここまできれいになった。人が努力すれば、鳥だって戻る。緑だって、川のそばにまた、繁るようになるさ。でもそうするためには、人の努力が必要だ。」
ビールの入った頭での言葉だったが、私は本当にそう信じている。


会長の話に、戻る。
「もともと御幸通商店街は、日本人の商店街だった。Koreanは、商店街の一つ後ろの裏路地に、板を置いて商売をしていた。日本人とKoreanでは売る物も違うから、分かれていた。それが、戦争によって焼け野原となり、表通りの商店街の店主が逃げて、帰ってこなかった。かつて裏路地で商売をしていたKoreanは、表通りの店を借り、買って、表に出た。そうして、今の御幸通商店街は、Korean6割、日本人4割となっています。」

戦前に日本にやって来た半島の人々の出身地は、圧倒的多数が慶尚道か、あるいは現在の済州道であると、聞いたことがある。

ネットからの乏しい資料を拾い出すと、大阪商船(現・大阪商船三井)が大阪釜山線
を開いたのが、明治23年。以降、大阪商船は大阪仁川線、朝鮮沿岸線を就航させた。
大阪と済州島を結ぶ「君が代丸」は、大正12(1923)年に始まった。

こういった海のルートを通って、戦前には主に半島南部の人々が、日本にやって来た。

とりわけ、大阪には「君が代丸」ほかの定期航路を通じて、多数の済州島出身の人々が、仕事を求めてやって来たと聞いている。
そういえば、鶴橋から御幸通商店街を歩くと、済州島名物のトルハルバンが、ところどころに店の看板として飾られているのを、見かける。
トルハルバンとは、済州島の方言で、「石じいさん」という意味。
由来はよく分からないが、石で作られた島の守り神のようなものだ。済州島の主邑である済州邑(チェジュウプ)の四隅に、配置されていた。
それが、今は済州島のシンボルとして、海外にまでその存在が知れ渡っている。コリアンタウンにも、説明書きが添えられて、商店街の守り神として鎮座ましましていた。
(下の写真は、コリアンタウンの隣にある鶴橋本通商店街の『アリラン食堂』の店頭の、トルハルバン。)


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この御幸通商店街がコリアンタウンという名称になったのは、チョン会長によると、20年前のことだという。

「当初は、日本人の側からすごい反対があった。でも、商店街は、それから日に日にさびれていった。それが、コリアンタウンの名前で、全国から注目されることになりました。今や、日本人の商店主も、協力してくれているんですよ。」
チョン会長の言葉には、この二十年間に起こったことへの、希望があった。


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東大阪朝鮮第四初級学校。
会長の、母校でもある。
日本人の小学校である、御幸森小学校の、目と鼻の先にある。
「最大時には、日本全国で3万5000人の在日生徒がいた。でも今や、7000人。さらに、どんどん減っている。時代の、流れです。」


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このパネルは、(年度は失念したが)ワンコリアフェスティヴァルの際に、美術担当の方の手でライブの場で書き上げられたものだ。
「だから、絵の具が左右に、流れているんです。横に向けて、描かれたんで。」


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御幸森神社が、ツアーの最後の場所であった。

現在は、神社の説明に、「百済」「新羅」「高句麗」の文字が、ある。
「でも、これも最近のことです。昔は、このような説明もまた、許されなかった。」

私は、今年慶州の国立博物館に行った。
そこに展示されている透かし彫りの馬の鞍金具を見て、応神天皇陵から出土した作品とデザインがまったく同じだ、と思った。
1500年ほど昔にさかのぼれば、半島の製品がそのまま日本でも珍重され、その逆もたぶん同じであっただろうことが、容易に想像がつく。
新羅でもまた、勾玉(まがたま)がアクセサリーとして流行していた。
新羅の遺跡からは、ペルシャなど西方の文物が、いろいろ出土する。
日本の正倉院からペルシャの製品(あるいは、西方の製品を唐の職人がアレンジした製品)と、同時代性を感じる。

チョン会長は、神社の杜の前で、力説された。
「百済、新羅、高句麗の三国から、日本にいっぱい人がやって来ました-」

彼らのことを、帰化人と言う。
近年、渡来人と呼ばれるようになった。
私は、そのどちらにも政治的意図を感じて、好きな言葉ではない。
私は、単に半島からの移民、と呼びたい。

「昔、日本人が唐人と会話するためには、通訳が必要でした。でも、新羅人や百済人には、必要ありませんでした。普通に、互いの言葉がわかる時代だったのです。現在の日本語と朝鮮語は、発音がぜんぜん違います。しかし、昔の日本語は、今よりもっと発音が複雑でした。半島と接触を失うにつれて、発音が単純になっていったのです。かつての日本人は、半島人の発音を理解できて、両国の言葉はもっと近かったのです。」


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(クリックすると、拡大します。)


今、ツアーの人々が立っている土地は、古代の難波津(なにわつ)。
この御幸森神社も、もとは仁徳天皇(5世紀)と半島人との係わり合いの中で営まれた、神域であった。

古代の大阪平野は、現在の大阪城から天王寺にまで続く上町台地だけが陸地で、あとは水の底だった。
半島から海を伝ってやって来た人々は、上町台地に上陸してここに集落を築いた。
仁徳天皇の時代、難波津では土木工事が、盛んに行われた。
難波の堀江(なにわのほりえ、運河)、茨田堤(まんだのつつみ、堤防)、猪甘津の小橋(いかいつのおばし、橋)といった開発が仁徳天皇の治世時に行われたことが、『日本書紀』などに記録されている。仁徳天皇は難波に宮城を定め、周辺の土地を開拓することに、熱心であった(日本書紀に、「難波高津宮(なにわたかつのみや)」。現在発掘されている難波宮の地にあったのかどうかは、結論が出ていない)。この天皇の事業のために働いたのが、この土地に移住して来た、半島の民であった。彼らは、当時まだ日本人が持っていなかった、様々な技術水準に優れていた。

かつて、百済郡(くだらぐん)と呼ばれる地名が、今の天王寺区の辺りにあった。
現在では、百済駅(くだらえき)という貨物駅が、関西本線の東部市場駅の横に隣接して存在している。
これらの地名は全て、かつて百済(ペッチェ)人のコロニーと、関わりがあった。

「百済が滅んだ後、同盟国の日本に多くの人が亡命して来ました。その人たちは、すぐに博士や高官に取り立てられました。その当時は、何の抵抗感もなかったのです。」

半島からの移民たちは、この上町台地にまず足がかりを築き、それから周辺の河内国や山城国に向けて、おいおい移住していったに違いない。
京都府南部の山城国は後世に平安京が置かれた土地であるが、ここをまず開いた秦氏(はたうじ)は、半島からやって来た集団であった。
京都は、盆地の真ん中に、鴨川が流れている。
真ん中に川の流れる盆地に、都を築くという地形の選定。
これが、半島と同じであることに気が付くだろうか?
新羅の都である慶州(キョンジュ)は、盆地の中央を兄山江(ヒョンサンガン)が、南北に流れている。
百済の都であった扶余(プヨ)もまた、同様であった。白馬江(ペンマガン)が、内陸盆地の都を、貫いている。
これが、平安京の地勢とそっくりなことに気が付けば、両国の発想になにか通じるものがあったのではないかと、思わずにはいられない。
平安京に都を移したのは、桓武天皇(8世紀)。
この天皇の母親である高野新笠(たかののにいがさ)は、百済移民の子孫であった。
出自の関係もあったのであろうか、桓武天皇の周囲には、百済人の影響がつきまとっている。
天皇の周囲にいた半島からの移民たちが、都の選定場所について何かしらかの影響を与えたことが、十分に想像できないだろうか?

会長は、最後に言った。
「国が隔てられるようになったのは、ずっと後の時代なのです。今や、互いに戦争を繰り返して来たヨーロッパが、EUを作って共同体となっています。世界は、変わりました。東アジアも、これまでのいがみ合うのが当たり前だった歴史から、前に進まなければならないのです。」


わずか1時間足らずの、ツアーであった。
夏の日差しが、暑い。
韓国も、今はもう暑いんだろうなあ。
最後に、コリアンタウンの色を、印象として言ってみたい。

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Koreanの色は、緑。
私が、旅行で感じた、とおりだ。


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彼らは、Chineseが好む黄色を、あまり好まない。
日本人がめでたいと感じる赤色にも、敏感であるように見えない。
この緑への好みは、どこから来たんだろうか?


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、、、陵墓の芝の、緑なのだろうか?

それとも、川面の水の、色なのだろうか。

そんなことを、思ったりする。

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ワンコリアフェスティバル http://hana.wwonekorea.com/

コメント (2)

dd:

嘘をつくな。

渡来人が現在の韓国人であるかどうかの証拠を出せ。

韓国に神社があるのか。

こうやって、歴史を捏造するな。

現在の韓国・北朝鮮人はよりモンゴル系であろうが。

最近のDNAに学術調査によると日本人と朝鮮人の人種的距離は決して近くない。

べるもっと・じん。:

ddさん。

DNAとか云々言う前に、『日本書紀』をお読みなさい。

どうして、この古文献に半島の記述がこんなに溢れているのか、その理由をいちど考えてご覧なさい。

半島に神社がないから、日本と半島は没交渉だという主張は、ナンセンスです。

現在見られる神社信仰の形態は、ずっと後世に成立したものです。もともとは、素朴な山神信仰や祖先信仰でした。

後に日本は独自の信仰体系を作り上げていって現在の形となり、かたや半島は儒教に完全に染め上げられて、現在の姿となったのです。それは、古代の姿と同じではありません。

私は文化的なつながりを言いたいのであって、DNAを言いたいのではない。半島には北方の血が色濃く入っているのは、地理的歴史的にごく当然です。げんに、現在の北朝鮮に祖先の土地を持つ半島人には、背が高い人が多い。これは、満州人や華北人と共通の特徴です。反対に、南の半島人は、背があまり高くない。これは、日本人と共通の特徴です。
半島の歴史的位置から、日本人と血の構成が違っているのは、当たり前のことです。それなのに全く違う文化だと時代を遡れば遡る程言い切れないところに、私はかつての日本と半島との間の濃い関係を、捉えています。

冷静な口調を欠いたずいぶん乱暴なコメントなので答えずにいようかと思いましたが、形だけは示しました。

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