一 抜かずの長剣(1)
淮陰の城市(まち)に、妙な立て札が立った。こう読めた。
淮陰の城市(まち)に、妙な立て札が立った。こう読めた。
韓信は、このように言った。
「この、長剣は― 捨てるわけにはいかない。だが、抜くこともしない。この剣は、士の象徴だ。だから、俺はこれを持ち続ける。」
こののらくら者が、自分をまたも士と言った。しかしさきほどよりは真剣な顔をしている。これは面白くなるぞ、と、周囲の見物人は屠肉屋仲間とのらくら者との対決に、目を見張った。
このころ、広大な中国大陸が、またたく間に統一された。
その分裂に、秦王政は突然とどめを指した。
李斯は言った。
時代背景の説明はひとまずこれぐらいにして、淮陰の城市の現場に戻ることにしよう。
淮陰の城下の、淮水の河岸に着いた。
「江海が百谷の王となって大水を湛えるのは、水が低きに流れるからです。」
「自分をそぎ落とした?天下と一体?― どういう意味です?わからないなあ。」
初夏なので日は長かったが、すでに光の勢いは傾いていた。湖面のようにゆるやかで広い淮水の上には、夕刻の近づきを告げる涼しい風が吹き始めていた。
韓信はそのまま河岸に突っ立っていた。まだ近くにいた項伯と言われていた男が、彼に声をかけた。
夕暮れの城内であった。
韓信の一応の実家は、林家とは別の里にある、彼の遠縁の家であった。南昌の亭長のところには数ヶ月も滞在していたので、本当に久しぶりであった。結局長い間無益に過ごしてしまった彼であったが、もはやそれもいつものことであった。
淮水・泗水の流れる華中の大平原は、昔から水運が発達している。
怒りに燃えた盗賊の一団が、城市の中央を縦断する通りをこちらに駆けて来る。その数は、十数人。いやもっと多い。韓信は、血相を変えて叫んだ。
城門の向こうに、答えがあった。そこには、この辺りの地区担当の亭長配下の、求盗(きゅうとう。捕吏)の一団が待ち構えていた。韓信たちを追って一斉に城門から入り込んだ盗賊たちは、全員門をくぐったや否や、城門が閉められた大きな音にはっとした。謀られたと気づいたときには、もう遅かった。この支城は、ずいぶん前に廃城となっていて、彼らはその中に閉じ込められたのである。結局、盗賊団はことごとく求盗に絡め取られたのであった。
韓信の前に現れた老人の名前を、明らかにしておこう。この門番に身をやつした人物は、人呼んで黄石公(こうせきこう)と言う。この名前が本名なのか、通り名なのかは、本当のところはよくわからない。しかし、この物語では、その姓が黄であったとしておく。師として敬って、黄生(こうせい)とも呼ばれる。
夜。韓信は、南郭の韓簫子の屋敷の門をくぐった。望楼まで付いた大きな屋敷だが、淮陰で韓簫子の周囲にいた任侠の一行の姿は見えない。ごく普通の商家の構えであった。
家人に来訪を告げると、通された。さすがに裕福なようで、邸内は燭台がいくつも灯されて、ずいぶんと明るい。もっとも、これは後で知ったことなのだが、これらの燭台は一斉に消すことができるような仕掛けがしてあって、侵入者があると直ちに闇と化す工夫がされているというのであるが。この大きな商家は、そのときには侵入者にとって迷路となるように周到に作られているのである。
韓簫子の言うところによると、郡守は新任で、顔見せのために郡内最大の城市の彭城に周辺各地の代表者たちを招待したという。会場は、彭城の城内の県庁だという。
「ずいぶん派手にやるみたいですね、、、何かあるのかもな。」
「何かって、何が?」
「さあ?― 」
年齢は、三十過ぎから四十前の間といったところであろうか。身長は、人並みだ。人並み以上の韓信よりも、頭一つ低い。鼻が高くて、頬骨が張っている。目元が厳しい。しかし、狐狼の目つきではない。むしろ計算高いやり手の賈人の目をしている。笑う時には相手を安心させる顔に変える術をわきまえていそうだ。剽悍な顔かと思えば、どことなく愛嬌がある。まあ一目見れば、決して人に忘れさせないような、くどい種類の男前であった。
韓信は、ずけずけと質問した。
そのとき、韓信の後ろから、もう一人が劉邦に声をかけた。
「他郷でいつもの調子でいるのはよくないですね、義兄 ―」
韓信は、堂上にいた。昨日服屋で借りてきた似合わぬ礼装をして、長身の身を南長の亭長の後ろで突っ立てていた。人物としての中身はない亭長であるが、人付き合いだけは堂に入っている。その後ろに随従して、主人に合わせて拱手の拝礼をしたり、酒を入れた壷を持って爵(しゃく。コップ)に注いで渡したり、昨日までに腐るほど書かされた木簡(もっかん)の名刺を随時主人に渡したりしていた。だが、亭長は自分のことなど一回も客に紹介してくれなかった。
(まだ怒ってるのか、、、仕様のない人だ。)
韓信は内心舌を出したが、あくまで外面は精いっぱい殊勝に随従の役を努めていた。
城市の門に至った信陵君は、整列する戦車隊を後ろにして、候生にあいさつした。
「先生、それがしはこれより、信義のために単独で戦いに参ります。」
しかし、それを聞いた老門番の答えは、そっけなかった。
「そうですか。せいぜいご努力を。老臣は、お供できかねます。」
劉邦と張耳は、型通りの挨拶を交わした後、座った。張耳はそのまま宴席の皿が出ている方向に座り直り、その斜め後ろに劉邦が控える。あくまでも主催者は郡守なので、立ち話は脇で控えめに行なわれた。劉邦の後ろには、樊噲と韓信が従っていた。張耳の横の席は、彼の盟友で義弟の陳餘がいた。陳餘は魏の大梁の人で、張耳には年少の頃から父のように付き従ってきた。だから劉邦にとっては彼もまた兄貴分に当たる。
「― ところで、重要な話とは?」
「長兄― この会合は、姦策ですよ。」
「なに?」
「長兄と陳兄を捕らえよとの詔が、新任の郡守の元に下達されているもようです。きっとこの新任の郡守は、その特命を受けて赴任してきたに違いありません。県庁以下を動かして大々的に行なうよりも、真意を伏せたままで宴会にかこつけて長兄たちを誘い込もうと企んだんです。ここで、長兄たちを捕まえるつもりですよ。」
「むむむ、、、しかし、どうしてわかった。」
「郡役所にも、それがしの仲間がおりますので、、、へへへ。役所の上層の機密など、それがしにとってはあってなきがごとし、というわけで。」
柷(しゅく)の木槌の鈍い音が、トン!と打ち響いた。柷とは、古楽で演奏の開始を告げるための楽器で、四角い木製の箱の形をしている。この箱の内側を、木槌で叩いて音を出す。あくまで合図用の楽器であるので、高らかな音は出ない。
歌には、その精神というものがある。下手は、言葉をなぞるだけである。しかし上手は、歌に込められた精神を心で理解して、その精神と一体になって芸を作る。だが、更にその上の芸というものがある。歌の精神を踏み台として、その素材から自分自身の世界を作ってしまう芸である。それができるのは、真の芸術の霊感を持つ者しかいない。虞美人の舞の世界は、まさしくその境地であった。素材は古くからの歌であるのに、誰もこの世界を見せたことがなかった。
奥の方から、一瞬我に返った男の声が、響き渡った。
「おらん?おらんぞ!、、、どこに行った?」
しかし、そのような声は気にもとめず、虞美人の舞は最高潮に進んでいった。美は決して見捨てられることはない。どこかにいるはずの理想の相手、それがなんであなたを見捨てようか?― 天界にも地界にも麗しき世界を見つけることができなかった詩の主人公を、巫(みこ)の靈氛(れいふん)がそのように託宣して慰めるのであった。
今日の一件で、秦の役人への印象は地元の人間たちにとってますます悪くなってしまった。
虞美人を乗せた公用馬車は、県庁を離れて城市の西郭に向っていた。そこは遊郭のある地帯であったが、彼女は別格として某所に屋敷が用意されている。
ただ一人残された彼女は、県の高官のところに引き取られた。
(彭城に来た私が行くところは、裏の世界しかなかった―)
虞美人は、嫌な時代の回想をようやく終えた。
城市の西郭前にある、遊郭街である。その向こうに城の酉門(いもん。西門)がある。虞美人の邸宅には、遊郭街を抜けて酉門前を北に曲がらなくてはならない。だがその前で、郡兵とおぼしき一団が見張りをしていた、厩司御が進めないのは、無理もない。
少年は、正解を言った後、言葉をあわてて継いだ。
少年と虞美人とが乗った黒毛の駿馬は、辻を曲がって再び城の酉門を見通す通りに出た。向こうには兵の集団がいて、通りを封鎖していた。その向こうに、城門がある。
今夜は、よく晴れている。この初夏の季節は、変わりやすい。暖かい雨と爽やかな晴天とが、交互にやってくる時期だ。そしてまもなく、梅雨(ばいう)の季節となる。空は陰り、視界の全てを煙らせる、しのつく雨の季節がやってくるだろう。
あの時、項羽は金縛りのようであった。虞美人はあのことをした後、しかし体までは彼に与えなかった。そのまま、寝入ってしまった。項羽は、仰向けになって鼓動を高まらせながら、横で静かに寝息を立てる彼女の方角を見ることもできず、そのままの姿勢であり続けた。そうして、朝となった。
「もう、私は行かなければなりません。叔父に下相に戻るように言われておりますので―」
項羽は、虞美人に言った。彼女は言った。
「叔父上と今はいっしょにいるんだったね。じゃあ、しようがないね。」
だが項羽は、即座に付け加えた。
「でも、、、でも、また来ます!」
しかし項羽のこの言葉に、虞美人は頭(かぶり)を振った
「― いい男になって戻ってくるなら、いいよ。」
こうやって、一応は男の甘えを封じた彼女であった。これも、女の計算であった。しかし、項羽は素直に受け止めた。
「― 必ず、なります!、、、じゃあ、、、じゃあ、、、私は、、、これで。」
と言って、項羽は馬に飛び乗った。相変わらず、巨体に似合わぬ驚くべき身軽さであった。項羽は、もう一度振り返って彼女を見た後、馬を門に向けた。門番が、門を開けた。その向こうに、城門からたどり着いた兵がたむろしていた。兵たちは、あっと声を挙げた。項羽は、悠然と彼らの方に突進して行き、ひらりと馬を一旋させて兵を躱(かわ)し、そのまま駆けて行った。そして、あっという間に城外に消えた。
「まるで虎豹のようだな、、、」
韓信は、去っていった少年の素晴らしい動作に感心して、言った。
虞美人は、彼に向き直って、聞いた。
「ところで、あなたはここで何してたの?」
彼は、彼女の方を向かずに、ぶっきらぼうに答えた。
「― 待っていたんです!」
虞美人は、ケタケタと笑った。
だが、彼の名誉のために擁護しておくと、未遂であった。結局、何だかんだと自分に理屈を付けながら妓女といるうちに、酒だけ飲んで夜が明けてしまったのであった。虞美人は、上機嫌で彼に言った。
「ここに来た分は、全部ただにしてあげるよ。昨日の分と笄の分を合わせて、そのぐらいはしてあげなけりゃね!」
韓信もまた、ほどなくして彭城を出た。
背の高い韓信の視線から見れば、彼女は見下ろすように下にいる。彼は、その視線から彼女に言った。
韓信は、下邳に再びやってきた。