一 河北の暴風(1)
定陶の戦で大敗した楚は、必死の防戦態勢を取った。
定陶の戦で大敗した楚は、必死の防戦態勢を取った。
章邯に鉅鹿を包囲されて、趙の命運は窮地に陥っていた。
今、彭城に再び戻った項羽が、自らの時を過す場所は一つしかなかった。
呂馬童は、殴り飛ばされた項羽に対して、罵倒の声を張り上げた。
乾いた雪が、静かに舞っていた。
かくして、楚の総力を挙げた卿子冠軍が、北へ向けて進発することとなった。
沛公が沛に戻ったのは、妻の実家の呂家に行くためであった。
沛公は、今回の遠征に際しても、妻子を呂家の者と共に沛に残すことにした。
この頃、張良子房は韓王国再興のために奔走していた。
結局、韓は何らの攻勢を行なうこともできず、その上これまでに取った城市まで失ってしまった。
韓信は、項羽の配下で郎中という職にあった。郎中とは、宮中の宿直役である。現在は戦時であるので、将の近くにいて諸事を取り扱ったり時に参謀の役目を果たしたりしていた。
「なにっ!」
怒る項羽に対して、宋義は言った。
章邯は、鉅鹿に籠る趙王と右丞相の張耳を、引き続き強烈に包囲し続けていた。
会戦の結果は、絵に描いたような全滅であった。
この頃の、沛公の動きである。
彭越は、陳勝の蜂起からずっと情勢をうかがってきたことを話し、この時期になって挙兵することになった次第を、語っていった。
沛公は、彭越と共に昌邑の秦軍を攻めた。
韓信は、北の趙戦線で陳餘が大敗したことを聞いて、趙の崩壊が近いことを予感した。
その晩、斉の使者のところに、急ぎの伝令があった。
かつて呉中で郡守の殷通を斬った時の、再現であった。
楚軍は、ついに進んだ。
天才の作戦は、時に無謀と紙一重である。
そのとき、韓信が立って一喝した。
大軍の、渡河であった。
『史記』項羽本紀は、このとき項羽が兵に携行させた兵糧は三日分のみであったと伝えている。
冬の朝が、明けようとしていた。
甬道への攻撃は、翌日も続けられた。
章邯は、楚軍が突如として現れたという報を棘原で聞いた。
弩(いしゆみ)は、中国文明が発明した古代の恐るべき新兵器であった。
戦場の様相は、刻刻と変化していく。
円陣を組んだ江東軍は、今日を死に場所と戦った。
駆け付けたのは、当陽君黥布の軍であった。
呂馬童が向かった先に見えたのは、蘇角将軍の陣。
章邯の秦軍は、鉅鹿の包囲を断念して、南の棘原に撤退した。
鉅鹿の城内で、項羽は趙王歇からも勇戦を称えられた。実権は張耳と陳餘の手にあるとはいえ、彼もまた趙国の君主として籠城を続けていた身であった。
北で、項羽は驚くべき戦いを行なっていた。
しかし、中国は広大である。
確かに、狂生の身なりは儒者であった。
沛公は、外から大声で怒鳴った男について、彼の正体が儒者であることを聞いた。
「陳留です。」
酈生は、沛公の問いに答えた。
酈生は、陳留の県令に会見して、懇々と説得した。
こうして、酈生兄弟の活躍によって、陳留はあっけなく陥落した。
結果は、あっけないほどに易い勝利であった。
秦帝国は、ようやく憂慮すべき事態が近づいて来た。
進んで来たのは、一見すると通常の秦兵であった。
楚軍は、辛うじて今回の戦を守り切ることに、成功した。
もし項羽がいなければ、突如現れた新しい秦軍の陣形と、恐るべき強さを見せた騅馬の騎兵によって大敗していたことであろう。
司馬欣が言うには、かつて項梁が楚の滅亡後に潜伏していた時期の、ことであるという。
司馬欣は、章邯に言った。
蒯通の予想どおり、章邯はすでに崩れ始めていた。
騎士は、倒れ伏した呂馬童に向けて、馬首を巡らせた。
楚軍に、章邯将軍からの使者がやって来たとの情報が伝わった。
項羽は、騎士に言った。
二世皇帝三年七月、秦将章邯は、殷墟で項羽と会見した。
沛公軍は、南陽郡攻略に取り掛かった。
沛公軍は、胡陽という地で秦軍を攻めた。
武関に対峙する山々が、楚軍の旗で埋め尽くされた。
沛公の武関侵入前後の出来事について、『史記』の秦始皇本紀と高祖本紀の両者には食い違いがある。
弑逆の日は、始まった。
回廊を逃げる胡亥を、閻楽たちは剣を光らせて追い掛けた。
かくして、胡亥は自殺した。
子嬰は、あまりの売国の策に、腰を抜かしそうになった。
二世皇帝三年の、秋以降の事件の推移を確認しておこう。
韓信は、楚軍で軍紀が守られなくなり始めていることに、憂色を強めていた。
このころ項羽は、全軍の総指揮として後方を進んでいた。
自分の幕舎に戻った項羽は、一人で席に座って、長く嘆息した。
項羽は、闇の中で一人になった。
夜、韓信は楚軍に向けて馬を走らせていた。
新安では、殺戮の労働が始まっていた。
歩いて行く小楽に追い付いた韓信は、後ろから彼の肩を掴まえた。
新安の虐殺を、やむをえない軍事行動であったと見るべきか。それとも、無意味な勝者の暴力であったと批判するべきか。
沛公軍が駐屯した覇上は、驪山の西の麓にあって南から関中平原に入る口であった。
降伏を受け入れた沛公の一行は、咸陽城に向けて進んでいた。
沛公とその一行は、咸陽宮にいた。
沛公は、張良に言い返した。
目を覚ました沛公は、将兵に一切の掠奪を禁じた。
沛公は、言った。
張良子房は、韓軍の将として覇上にいた。
范増の進言は、正しかった。
第一章 開巻の章
第二章 伏龍の章
第三章 皇帝の章
第四章 動乱の章
終章~太平の章
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