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一 河北の暴風(1)

(カテゴリ:楚滅秦の章

定陶の戦で大敗した楚は、必死の防戦態勢を取った。

項羽軍は、彭城の西に陣を取った。
沛公軍は、碭(とう)に南下して敵を防いだ。
そして、呂臣の軍が彭城の東に陣を取った。
范増や韓信が直ちに動いて、兵を素早く配置し直した。そのため、敗軍の混乱は避けられた。しかしながら、強大な秦軍が南下しては来ないかと、全ての者が戦々恐々であった。
しかし、秦軍は来なかった。
秦軍は、楚を直ちに亡ぼすことを選択しなかった。いまだに楚軍に混乱が見えないのを見て取った章邯は、やはり楚を勢いで急襲することの愚を悟った。秦軍は、北へ去っていった。
定陶の敗戦は、しかし楚王国の体制そのものを変化させた。
これまで懐王は南の盱眙(くい)に都していたが、武信君項梁の戦死を受けて、急遽北の彭城に移った。やむないことであった。懐王は君主として祭り上げられていたとはいえ、楚の事実上の指導者は、項梁であった。その指導者が急死したことによって、楚には中心となる人物がいなくなった。そこで、祭り上げられた王とはいえ、楚の組織を維持するために懐王が前面に出ざるを得なくなった。懐王は彭城に遷都して、楚の各軍を配下に置くこととなった。項羽、沛公、呂臣の各軍は、いずれも彭城の指揮下となった。当陽君と称していた黥布や、蒲将軍もまた兵を立て直して彭城の守備に当った。
韓信は、郎中として再び項羽の配下に付いた。彼は、あわただしい軍の動きの中で、陣営と彭城との間を往来するのに忙しかった。
韓信は、軍務について連絡を取るために、懐王の宮城に赴いていた。呂臣の父呂青が令尹(れいいん)に就いていたので、彼と会見するのが目的であった。
懐王の宮城は、彭城のもと県庁が流用されていた。昔韓信が劉邦や張耳と会い、虞美人の舞いを見た場所であった。それから数年の年月が経っていたが、韓信はまるで百年も過ぎてしまったかのような心地がした。
だが宮殿の奥で、韓信は思わぬ光景を見た。
令尹の呂青と、懐王が共にいた。
だがその横にいたのは、あの宋義であった。
宋義は、懐王となごやかに談笑していた。懐王は宋義にいろいろと下問しては、宋義の答えを親しく聞いていた。まるで、王の側近のごとき様子であった。
(あいつ、、、いつの間に楚に帰っていたのだ、、、)
韓信は、あきれるより他はなかった。

北へ去った章邯の秦軍が、目指す次の敵は趙であった。
秦軍は直ちに河水(黄河)を渡り、都の邯鄲を襲った。暴風のような、迅速の用兵であった。
これまで二流の兵と戦ってきた趙は、秦の最精鋭の奇襲を食らってひとたまりもなかった。
「― どうして、こんなに早いのだ!」
張耳と陳餘は、目を回した。章邯が項梁を破ってから、まだほとんど指で数えられる日数しか経っていないではないか。常識外れの、早さであった。
これが、章邯の用兵であった。
「孫子兵法に曰く、

― 攻めて必ず取る者は、その守らざる所を攻むればなり(虚実篇) ―
敵が準備せざるうちに不意の奇襲を行なえば、当初から圧倒的優勢に立つことができる。初動の一撃が、勝利の形を作るのだ。」
彼は、最も牽強な兵馬を選抜して、真っ先に邯鄲に向かわせた。先鋒軍の指揮は、自らが行なった。糧秣は、途中の城市や邑から容赦なく掠め取った。後に残る民はやがて餓えて死ぬであろうが、彼は勝利のために一切気にも留めなかった。
邯鄲は、わずかの間に破られた。
張耳は、趙王を伴って逃げた。行き着く先は、鉅鹿(きょろく)であった。近くにある城市で籠城に耐えられるだけの規模があるのは、ここしかなかった。
陳餘は、北に逃げた。反撃の兵を、集めるためであった。
二世皇帝二年後九月、秦軍は鉅鹿を囲んだ。趙王と張耳は、城市の中に閉じ込められた。
このときから、秦軍はおそるべき攻囲戦を開始した。
『史記』張耳陳餘列伝には、包囲する秦軍が取った行動について、
― 章邯ハ鉅鹿ノ南、棘原ニ軍シ、甬道ヲ筑(きず)イテ河ニ属シ、王離ニ餉(おく)ル。

と記載されている。すなわち、鉅鹿を包囲する王離の軍に対して、河水(黄河)から甬道を築いて食糧を送ったというのである。甬道とは、防禦のために両脇に壁を立てて覆った道である。河水の上流には、中原で最も大きな倉(そう。食糧庫)である敖倉(ごうそう)がある。おそらくこの倉から食糧を川で運んで、甬道を伝って包囲軍に食わせたのであろう。それにしても、常識外れの規模の攻城戦であった。この記述が本当ならば、この一戦に用いた土木工事や補給の物量は、日本の豊臣秀吉が行なった城攻めの規模など問題にならないほどに上回っている。おそらくその作業に駆り出されたであろう人民の苦痛は、あまりにも凄絶なものであったことだろう。
王離は、章邯を助けるために、新たに本国から増派されてきた将軍であった。彼は王翦将軍の孫であり、血筋ゆえに本国ではその将才への期待が非常に高かった。
彼は、章邯に苦言を呈した。
「― 一城の包囲戦にしてはあまりに、大仰すぎます。こんなにまで、しなくても、、、」
章邯は、王離という人物をこの戦で初めて知った。崇敬する王翦将軍の孫であるとは聞いていたが、章邯の彼に対する評価はすでに冷めたものとなっていた。
章邯は、答えた。
「兵とは、勝たなければならない。勝つためには、利用できる状況は全て利用し尽くさなくてはならぬのだ。よいか―」
章邯は、初学者に教えてやるように、語り始めた。
「敖倉は、数十万の兵を数年間食わせることができる、巨大な食糧庫だ。我らは、これを手中に収めている。味方にあって敵に無い者を使わないのは、兵を知る将とはいえない。敖倉から糧食を供給することによって、我らは鉅鹿の包囲戦を休みなく続けることができる。やがて敵は後詰の援兵を繰り出して来るであろうが、長年の戦によって窮乏している趙国には、徴発できる糧食の余裕などほとんどない。よって、包囲戦を続ければ続けるほど、敵は干上がっていくのだ。その上―」
章邯は、陣中から延々と砂塵の向こうまで見える甬道を指して、続けた。
「その上、こうして住民を駆り立てて甬道作りを行なわせている。もはや、趙の人民には自分を生かすだけの貯えすら、尽きるであろう。どうして、他国の兵を養うことができるだろうか?やがて、鉅鹿は陥ちて、趙は亡ぶ。趙が亡んだ後には、敵は疲弊して戦を続ける余力すらなくなるだろう― この鉅鹿の包囲戦は、奴らを餓え亡ぼさせるための、誘いの用兵なのだ。」
ここに、章邯の目論見があった。秦以外の者どもを、ことごとく干し殺す。この一戦で、章邯は敵の兵と民を根枯れさせることを、望んでいた。
王離は、言った。
「しかし、それでは趙の民は皆死んでしまうより、他はありません、、、」
だが章邯は、答えた。
「― 趙人は、秦朝に叛いた大逆者どもである。大逆者が全て死の罰を受けるのは、当然のことだ。」
章邯にとっては、趙の民がどうなろうが、それはもうどうでもよいことであった。
(この男は、兵法のためだけに生きているのか、、、)
王離は、彼の冷徹さに震え上がった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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