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二十七 覇王の別れ(2)

(カテゴリ:垓下の章

駆ける平原は、まぶしい朝の陽に、彩られていた。昨日の戦場にあった雲は、今朝はどこかに消え去っていた。

項王は、空の色を見て、つぶやいた。
「また、日の光を見ることができた、、、それが、嬉しい。」
いまだ、追いすがる敵を振り切って、駆けている最中であった。それにも関わらず、彼は今の時を、喜んだ。
「― あなたを止めることなど、誰にもできないさ。」
虞美人が、彼の腕の中で言った。
彼女は、項王が城から打って出たとき、ずっと項王の懐のうちにあった。
二人して駆け出し、彼女の項王は、ついに敵を突き破った。
虞美人は、彼の何一つ衰えない力を見て、喜んだ。
「進むのよ、項羽。どこまでも、あなたの進めるところまで、、、!」
虞美人の言葉に、項王は馬を走らせながら、微笑んでうなずいた。

項王と騎兵たちは、垓下から逃れた後、南に向けて進んだ。
突破戦を試みた結果、この方角に向かっていた。
敵軍は、項王を必死に追い駆けていた。
項王は、彼らを追い付かせなかった。
だがどうやって、その先に流れる淮水を、渡ることができたのだろうか。
おそらく項王は、秦が帝国の道路として整備した、馳道(ちどう)を伝って進んだのであろう。馳道ならば渡河の船も用意されて、戦時には軍道となったであろう。
とにかく、項王は大河を渡り切った。
日が暮れる頃に、項王は、淮水の対岸にあった。
敵軍が船を再び集めて渡河できるのは、早くても明日となるだろう。これで、追っ手からしばしの時を、稼ぐことができる。
だが、このとき彼に付いて来ることができたのは、わずか百騎ばかりに減っていた。
項王は、残された手勢を、彼のもとに集めた。
今日の恐るべき戦いを経て、誰もがすっかり血と泥で、汚れ切っていた。
「しばし、ここで休め―」
項王は、命じた。
冬空の下、騎兵たちは寄り合って、項王の周りに小さな陣を作った。
誰から、ようやく近くの邑(むら)から、わずかな食糧を調達して来た。
彼らは火を起こし、川から水を汲んで、一時の休息を取った。
兵たちの中央に、項王が座していた。
彼もまた、顔から靴先まで、すっかり今日の戦の跡で汚れていた。
横に、虞美人がいた。
彼女もまた、頬と髪が煤けて、真っ黒になってしまっていた。
「不思議なものだ。そこまで汚れているのに、お前はいっそう美しい―」
項王は、火に照らされた彼女の表情を見て、笑いながら言った。
虞美人は、言った。
「本当の美しさは、化粧をはぎ取ったとき、始めて分かるのさ― 今のあなたたちは、誰よりも美しい。美しい私が言うんだから、間違いない。」
彼女はそう言って、項王に従う男たちを見回し、全員に向けて笑った。
男たちは、彼女の笑顔に励まされて、皆が嬉しくなった。
全員で、大いに笑った。
男も女も、見上げた一行であった。
それから兵たちは、敵から離れている間に、仮眠を取った。
静かな、夜であった。
馬たちも、休んでいた。
だが、項王と虞美人の二人だけは、起きていた。
冬の星空が、二人を包んでいた。
寒さすら、気にならなかった。
項王は、言った。
「― 虞美人。」
虞美人は、答えた。
「― はい。」
項王は、言った。
「私は、この後消えて行くしか、道はない。敵は、やがて必ず、私の首を取らずにはいられない。だがその前に、お前と二人でここまで逃げることができたのは、幸いであったよ。」
虞美人は、もし彼女が項王の足手まといとなるのならば、いっそ垓下城で死を選ぶことを、彼に主張した。
だが項王は、彼女からそう言われたとき、静かに首を横に振った。
項王は、彼女を決して離そうとしなかった。
それで、彼女を連れ立って、こうして敵の包囲陣を突破して見せた。
今、包囲からは逃れることができたが、しかし項王のこの先には、何もない。
死が、待っているばかりであった。
項王は、虞美人を正面から見つめて、肩を抱いた。
彼は、言った。
「虞美人― どうやら、お前と連れ立っていられるのは、ここまでだ。私は、これから存分に戦って、漢軍に私の存在を見せ付けてやろうと思う。しかし、、、しかし、お前と共に、私は戦うことができない。」
項王の声は、優しかった。
子供のようだと思っていたが、今の彼は、もうすっかり英雄と呼んでも、ふさわしかった。
虞美人は、項王の目を見た。
彼の二重の瞳は、戦場にいるときには狼の目となるが、彼女を見つめるときには、澄んだ泉を湛えているかのように、美しかった。
彼女は、涙を流し始めた。
彼女は、項王の意を悟った。
項王は、言った。
「お前を逃がすことができたことを確かめなければ、私は心が残って、存分に戦えない。だがもう、ここでお前を、行かせることができる―」
虞美人は、泣きながら、不満をぶつけた。
「― ひどいなあ。私に、生き残れと?」
項王は、言った。
「私には、子孫など要らぬ。だが、私がこの世にいたことだけは、誰かが伝えて欲しい。お前には、私という人間が生きていたことを、どうか人の世に語り伝えておくれ、、、私がお前に望むのは、それだけだ。」
彼は、虞美人の肩を撫ぜながら、優しい声で語った。
虞美人は、彼に言葉を返すことができずに、静かに泣き続けた。


覇王、愛姫ト別ル。


だが、この物語においてだけは、男と女の心中など、真っ平だ。
美しくも、ない。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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