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二十四 項王敗る(2)

(カテゴリ:垓下の章

項王は、戦場で騅を駆けさせた。

「漢軍、何のことはある!、、、私は、負けぬ。負けぬのだ!」
彼は、駆け回り斬りまくって、押し寄せる敵を打ち砕き、自分の兵卒を奮い立たせようとした。
「― 漢王、出会え!」
項王は、戟で血の円弧を描きながら、呼ばわった。
さすがに、猛虎を討つことは、誰にもできない。
諸侯の兵卒たちは、項王と騅に近寄ることすら、できなかった。
弩兵が揃って、項王を射撃した。
項王と騅は、神技のように猛射をかわしながら、大喝した。
「韓信!、、、お前が、今日の大将であろう!出よ。私と、勝負しろ!」
項王は、弩兵の整列に飛び込み、騅の蹄をもって、踏み砕いた。
弩兵は、たちまちに散り去って行った。
項王は、これまでの戦と何ら変わりなく、敵を敵とも思わず、蹴散らした。
しかし、情勢は、彼の予想とは全く違ったものとなっていた。
項荘が、馬を走らせて、項王の側に寄せた。
彼は、項王に注進した。
「大王、、、我が軍は、大敗です!、、、我らは、包囲されています!」
項荘は、無念の意をもって、項王に告げた。
項王は、言った。
「いまだ大敗など、どうして分かるのか!戦は、まだ終わっていない。この私が、勝利を取り返す!」
見回すと、彼の残された最後の鉄騎たちが、続々と彼の周囲に集まっていた。
包囲を恐れて、大王を何としても守り抜くために、集まって来たのであった。
それほどまでに、もはや項王の情勢は、追い詰められていた。
項王は、いきり立った。
「私は、負けぬ!」
項王は、彼を守ろうとする周囲の輪から、単騎で駆け出した。
「漢王!韓信!、、、どこだ!」
項王は、大音声をもって、敵将を探して、吠えた。
騅が、激しく鳴いた。
項王は、にわかに視線を、うち乗る愛馬に落とした。
弩兵の射た矢が、馬の後背に、一本厳しく突き刺さっていた。
騅の動きが、痛みで鈍った。
その隙を狙って、次の矢が、飛び込んで来た。
項王は、戟を一振りして、矢を払い落とした。
だが、敵の弩兵の集中は、止まらない。
全ての方向から、射られた矢が次々と飛来した。
二本目の矢が、騅の首に突き刺さった。
項王ですら、矢の一本を、頬にかすめてしまった。
彼は、頬から流れる自分の血の匂いを、嗅いだ。
「うう、、、!」
項王は、情勢が全く自分に不利なことを、ついに感じ取った。
彼は、騅を包囲の輪の中から、急いで退かせた。
騅は、苦しみながら、主人と共に退却した。
鉄騎たちが、再び彼を取り巻いて、守った。
項王の勇猛も、今日はここまでであった。
退くより他に、なす術がない。
だが、退いたところで、もう彼と楚軍に、明日はない。

韓信は、勝負の付いた戦場の只中で、彼一人だけ静かに、留まっていた。
灌嬰が、彼のところに駆け寄って来た。
彼もまた、斉の一軍を率いて、今日の戦場にあった。
灌嬰は、韓信に言った。
「項王は、我が手勢の中で、孤立しています、、、これより、項王を討ち取ってご覧に入れましょう!」
灌嬰の声は、自信に満ちて、明るかった。
韓信は、彼の言葉に微笑んで、しかし言った。
「これで討ち取れるようならば、項王は覇王ではなかったであろう―」
それは、彼の本心からの、項王への畏敬であった。
韓信は、共に楚軍にあった頃から、漢将として項王と対戦した頃まで、彼の偉大さを見に染みて知っていた。
今日、彼は、項王に勝った。
しかし、あの覇王が、このまま戦場であっさりと倒れるとは、彼にはとても思えなかった。
戦場は、間もなく日が暮れようとしていた。
韓信は、灌嬰に言った。
「灌嬰。彼を、決して侮ってはならない。日暮れまでに項王を討ち取れなかったならば、お前は垓下城を、厳重に包囲せよ。たとえ彼一人だけが残ったとしても、我らは諸侯軍の全てをもって、これに当らなければならない。それが、覇王の力なのだ。」
灌嬰は、何と大仰なことか、と思った。
しかし韓信は、本気であった。
(今日、私が項王に勝ったのは、時代が求めたことであった。私は、戦を終わらせたいという、時代の求めに応じて、今日の戦に勝利した。しかし―)
彼は、戦場の怒号渦巻く喧騒を、このとき他人事のように眺めていた。
戦場は、彼の描いた絵のとおりに、展開していた。
それは、ただの一仕事を終えたに、すぎない。
彼は、独語した。
(私は項王に、遠く及ばない。項王という人間は、巨大であった。この天下が、受け容られない程に。)
彼は、目の前の勝利に、感慨も見せなかった。
むしろ、あの項王がいったいどのような最期を迎えるのであろうかと思いを馳せて、そして同じぐらいに、将として懸念した。

          

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