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二十八 いざ、示さん(4)

(カテゴリ:垓下の章

夜となり、視界が尽きたときが、包囲を脱出する機会であった。

項王の従騎たちは、生き残った者から、夜陰に紛れて走り去った。
「― よく、生き残っていたものだ!」
項荘は、東に逃れる道の途上で、再び合流した仲間を確かめては、互いに呆れ返った。
あの大軍の攻撃を一日中受けて、彼らはまだ生きていた。
不思議としか、形容のしようがなかった。
走るうちに、追い付く者の数が一人、一人と増えていった。
「お前も、、、!」
「お前もか!」
彼らは、生存者を確かめるごとに、目を丸くして驚いた。
彼らのうち、二十人以上が、包囲を破ることができた。
全員、馬も甲(よろい)も血と傷だらけで、さながら悪鬼のようであった。
それでも、彼らは生き残ったことを喜び、笑い合った。
項軍は、やはり無敵であった。
それを、彼らは十分すぎるほどに、証明して見せた。
「、、、だが、大王は?」
駆けて行くうちに、しかし笑いは尽きて行った。
項王と、項王と共に進んだ一隊が、まだやって来なかった。
彼らは、馬を停めて、主君を待った。
しかし、時が経っても、項王は駆けて来なかった。
「― まさか!」
ついに、誰かが言った。
「あの大王が、討たれるはずがない!」
項荘が、怒って否定した。
彼らは、覇王を信じた。
覇王は、無敵のはずだ。
項荘たちは、待つことにたまらず、戦場に向けて引き返した。
「大王、、、!」
彼らは、気が気でなく、駆け戻った。
だが、それも杞憂であった。
前方から、馬蹄の音が聞こえて来た。
先頭を駆ける馬の姿は、夜陰の中でも明らかに識別できた。
項王が、騅に乗って、戻って来た。
彼の後ろには、項荘たちよりもさらに深く傷にまみれた騎兵たちが、従っていた。
項王は、一笑して言った。
「こ奴らが、敵に囲まれていたのでな。囲みを蹴散らすのは簡単だったが、少し遅れてしまったよ。」
彼もまた、全身が敵兵の血で、染め尽くされていた。
敵をかわして逃げるつもりであったが、結局ずいぶん多くの兵馬を、斬ってしまった。
「甲も馬も、血だらけだ、、、川の水が、恋しいな。」
項王は、まるで遊びを終えた子供のように、莞爾(にこり)とした。
彼の従騎たちは、主君の子供のような微笑を受けて、少年のように笑い合った。
項王と従騎は、こうして敵の包囲を突破して見せた。
これぞ、覇王の武勇であった。
再び集まった主従は、生き残った数を調べた。
一、、、二、、、三、、、
残った数は、二十六人。
「― 無念。両騎が、討ち死に!」
項荘が、悔やんだ。
「数千の敵軍を、突破したのだ。致し方、ない。」
項王は、今日の戦を総括した。
今日の戦こそが、項王の戦であった。
彼は、韓信のように、兵法を知らない。
彼は、漢王のように、陰謀ができない。
兵法も陰謀も持たない彼は、常識ならば戦に勝てる、わけがない。
だが、彼の独特な点は、彼が一箇の非常識であったところであった。
非常識で、前代未聞であるからこそ、武勇で戦に勝つことができた。そして、天に挑戦して、天下を掴むことすらできたのだ。
彼は、今日の戦で、彼の生き方を、貫いた。
項王という一箇の生命の姿を、示し切った。
項王と従騎たちは、馬を留めて、円陣を組んだ。
すでに高く昇った月が、主従を照らしていた。
従騎たちは、項王の前に、ひざまずいて感服の意を示した。
項王は、彼らの中心にあって、独り立っていた。
彼は、聞いた。

― 何如(どうだ)?

項荘らは、ひれ伏して答えた。

― 大王の、言の如し。

それから、皆で大笑した。
我らの武勇を、見るがよい。
君たちに、できるか?

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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