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二十九 烏江にて(1)

(カテゴリ:垓下の章

こうして、項王の一行はついに、江水(長江)のほとりにたどり着いた。

八年前、叔父の項梁と共に、そして江東の若者たちと共に渉った、大いなる流れであった。
八年を経て、いま彼らは再び、戻って来た。
わずかに生き残った従騎たちは、彼らの母なる川を再び目の前に見て、言葉も出なかった。
皆、馬を降りて、膝を屈した。
膝を屈して、泣いた。
項王と共に戦い続け、死ぬ前にこの流れを再び見ることができたのは、若者たちの中で、彼らだけであった。
項王だけは、騅から降りた後も、立ったままで川の流れる向こう側を、眺めていた。
「相も変わらず、大きな川だ。天と地は、果てしもない。」
彼は、川の水面に揺れる波を数えて、つぶやいた。
項荘が、彼の横に立った。
「ついに、包囲を破って、烏江に着きました。これから、どうなさいますか。」
彼は、項王に聞いた。
渡るならば、今しかない。
すぐに、追っ手の大群が、押し寄せて来るだろう。
項荘は、言った。
「烏江の亭長は、江東人です。我らの一人が、いま船を出すために、亭長と掛け合っているところです。義侠心の篤い江東の民ならば、きっと大王を容れてくれるに、違いありません―」
だが、項王は、川を眺めたまま、答えなかった。
しばらく、して―
一艘の結構に大振りな船が、項王たちの目の前に、遡(さかのぼ)って来た。
烏江の亭長の、持ち船であった。
横付けされた船から、亭長その人が、降り出て来た。
亭長は、項王の姿を見掛けて、丁重に拝礼した。
「、、、大王!」
亭長は、やはり義侠の江東人であった。
彼は、項王の配下から説得を受けると、一切の罪を呑み込んで、項王を救うことを請け負った。
亭長は、言った。
「この船でお渡りになれば、後続の漢兵には船がありません。なぜならば、この臣が、船を全て対岸に渡してしまうからです。大王、どうか急ぎ、渡りたまえ。江東は狭小といえども千里四方の地、その数十万の民は、大王を決して見捨てません。大王は、江東から再起することが、できるでしょう。さ、急がれよ。漢兵は、もう間近に迫っております!」
彼は、項王に船に乗るように、催促した。
彼と従騎たちは、項王の行動を待った。
これを、渡れば―
まだ、生き残れるかもしれない―
――――
だが項王は、立ち尽くしていた。
彼は、わずかに歩んで、愛馬の側に進んだ。
彼は、騅の首を、優しく撫ぜた。
それから項王は、言葉を噛み締めるように、言った。
「― 私は、結局人殺しだけが、才能だ、、、」
そう言って、彼は自分の袍(うちかけ)を引き破って、騅の体にこびり付いた血の塊を、拭い取ってやった。
彼の愛馬は、至る所から血を流して、すでに衰弱し切っていた。
項王は、包囲されてからの戦で、彼に無理をさせすぎた。体は傷付き、脚爪は破れて、もう騅はこれ以上駆けることが、できなかった。
項王は、手を動かしながら、ぽつりぽつりと言葉を継いだ。
「もう、この騅も、戦場を走ることができない。走らせれば、死ぬだろう。それに私は、かつて江東から八千人の若者たちを連れて、天下に旅立った。今、再び江東を目の前にして、皆死んでしまった。たとえ江東の父兄が私を憐れんで王としてくれたとしても、いったい私は江東で、何をするというのか。彼らの憐れみに対して、私はきっと、皆を殺すことしか、できはしない、、、」
項王は、皆の方を向いて、寂しく笑った。
皆が、項王の言葉に、神妙になった。
項王は、言った。
「今さら、江東の父兄たちのところには、戻れないよ。私は、覇王だ。逃げるわけには、いかない。」
彼の覇業は、ここまでであった。
彼は、よく戦い、彼の存在を、これまで十分に見せ付けた。
もう、彼の夢は、終わったのだ。同情を受けて隠れるよりも、最後まで覇王であり続けたい。項王は、そう思った。
項王は、うなだれる亭長に、言った。
「亭長。済まぬが、この残された者どもを、江東に送り届けておくれ。せめて、彼らだけでも、郷里に帰るがよい―」
亭長は、項王の頼みを聞いて、彼に問うた。
「ならば大王、あなたは、これから―?」
項王は、言った。
「私はこれから、この息が絶えるまで、戦って戦い抜くつもりだ。それだけだ。」
そう言って、項王は莞爾(にこり)とした。
彼の従騎たちは、項王の言葉に、ただ泣くばかりであった。
項王は、亭長に続けて言った。
「もう一つ、頼まれてくれないか?」
今は亭長も、泣いていた。
彼は、涙声で、項王の頼み事を聞いた。
項王は、言った。
「この騅は、中国に一頭しかいない、異国産の名馬だ。これを譲り受けてから、これまで五年。こいつが駆ければ、他の馬が付いて行くことなど、決してできなかった。千里を駆ける馬とは、たとえ話ではない。この騅が、そうなのだ。だが今はもう、走る役目を果たせない。それでも、私はこれを殺すのに、忍びない、、、」
彼は、虞美人を、生き延びさせた。
そして、騅もまた、殺したくなかった。
彼は、自分にとって最も大事なものが、後の世にまで生きていて欲しいと、願った。
項王は、少年のように笑って、亭長に言った。
「この馬もまた、江東に連れて帰ってやっておくれ。きっと、強い子を産むだろう、、、どうか、生き延びさせてやっておくれ!」
亭長は、涙に濡れながら、彼の頼みを引き受けた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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