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十八 天命尽きて(2)

(カテゴリ:国士無双の章

斉に在住している間、酈生は、気付かずにおられなかった。

田横は、彼が聞き知っていた評判どおりの智者でも、豪傑でもなかった。
彼が大事にしているのは、自分の取り巻きばかりであった。酈生は、以前に困窮した庶人の生活を送っていたために、田横という人物の評判のからくりが、かえってよく見えてしまった。
田横は、声の出せない人民を踏みにじって顧みない、偽善者にすぎなかった。
この世で上に立つ人は、おしなべてかくの如きなので、あろうか。
君主に期待するなどという自分の考え方は、見当違いの妄想に、過ぎないのだろうか。
酈生は、田横に言った。
「全て、あなたの虚言でございましたか。」
田横は、顕わな軽蔑の顔をして、言った。
「虚言?、、、策略と、言え!一国の君主が、策略なしで生き残れるか。お前ごときの知るところでは、ないわ!」
しかし酈生は、彼に言った。
「心に義を持たず、策略など使われるから、このような結果となるのです。今からでも、遅くない。善に立ち返って、漢軍に降伏されませい― あなたが国を失っても、民は残る。それで、十分ではありませんか!」
だが田横にとって、酈生の言葉は、学者の空言に聞こえた。
彼の栄光のために、学者どもは美辞麗句をいくらでも、吐くがよい。しかし、彼が栄光を失ったならば、何のための美辞麗句か?、、、田横にとっては、それが政治であった。
とうとう彼は、言い放った。
「― 俺が国を失って、民などどうでもよいわ、、、」
彼の目は、怒りと、屈辱感と、その屈辱感を心で撥ね返したいがゆえの軽蔑感をたぎらせていた。
凄まじく陰険な視線は、もう正面から見るに耐えなかった。
もはや田横は、一族と共に、この斉都から逃げなければならない。韓信ひとりに、斉はやられてしまった。だから彼は韓信を、殺したかった。実際に彼は韓信を殺すことを、企んだ。だが、策略は全て裏目に出て、田横は韓信の無敵を思い知ることとなった。
田横は、酈生に言った。
「我が一族を転ばした漢の罪は、重い。覚悟は、出来ているだろうな―」
酈生は、言った。
「この漢使を、殺すというのですか。」
田横は、言った。
「当たり前だ。」
酈生は、言った。
「この私を殺したところで、あなたやあなたの一族にとって、何も良いことはありません。怒りに任せて使者を殺すなどは、君主として最も愚劣な道ではありませんか、、、あなたは、恥の上に恥を上塗りなさるのか?」
田横は、毒を含んだ声で、言った。
「― 命乞いか!」
酈生は、言った。
「命乞いでは、ない。相国のあなたに、忠告しているのだ。私は、儒家である。国を司る者たちの行いを正すのが、我が使命なのだ。」
だが、田横はもう酈生を許すことが、できなかった。
彼の正体を見た以上は、生かしてはおけない。
田横は、虚像を保って生きていた。その虚像を守ることは、彼にとって真実よりも、重かった。
酈生は、田横にいま一度、忠告した。
「もう一度申します。改められよ。」
しかし、田横は突っぱねた。
「改める必要など、ない!」
酈生は、言った。
「過つのは、人間誰でも避けられません。しかし改めないのは、真の愚者の証拠です。あなたは、愚者として終わるのか。私は、あなたのためにそれを哀しむ。」
酈生の言葉には、人を説得する調子が、切々と込められていた。
説得の話術は、彼が唯一世の中で役に立てることができる、利点であった。
酈生は、死の宣告を受けながら、彼の本領を余さず発揮した。
彼の語る一語一語には、人の肺腑をえぐる真剣さがあった。
これで動かない心など、ありえようか。
しかし、田横の心は酈生に語られて動揺し、ますます醜悪の底に落ちて行った。
田横は、叫んだ。
「― 俺は、賢者だ!豪傑だ!」
酈生は、静かに否定した。
「いいえ。あなたは、賢者でも豪傑でもない。己を、知れ。」
田横は、ついに狂乱の体となって、絶叫した。
「烹(に)殺せ――っ!」
酈生への処断は、決まった。

広野君酈生食其は、歳を重ねるまで高陽の郷里で、無名であった。戦国の風雲の中で漢王を見出して、仕えた。以来漢のために、諸国への使者を任じられて、各国を経巡って働いた。彼もまた、漢を支えた功臣の一人であった。
今、獄吏に左右を挟まれて、酈生は刑場に歩かされようとしていた。
田横は、処刑の現場に立ち会おうとすら、しなかった。
君子としての彼は、刑死を見るのに忍びない。それが、彼の配下への、建前であった。
だが本当のところはといえば、彼はとても酈生を直視することが、できなかった。
彼は、酈生から逃げるように、去って行った。
酈生は、死を前にして、独語した。
「― 心を盡(つ)くせば、天命を知る。身を脩(おさ)めて、尽きるを待て。」
彼は、儒家の信条を、口に出した。
「これが、天命であるか。」
酈生は、うなだれた。彼とても、死は恐ろしい。
だが彼は、最後にでも楽天的であろうと、心を震い立たせた。
「だが、私は郷里で朽ち果てる身のはずであった。こんな愚才が、この世で何かを為すことが、できた。それだけでも、ありがたいではないか?― 天命も、また良し。」
彼は、静かに瞑目した。

          

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第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
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