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十九 狗それとも虎(1)

(カテゴリ:国士無双の章

― 韓信、平原津を越えて、斉に進む!
この報は、全ての陣営に、霹靂(へきれき)のごとく落ちた。

このとき趙にあった漢の本軍は、項王に奪われた滎陽、成皋を取り戻すために、南進を企んでいた。
漢王は、斉の事件を聞き、直ちに陳平、張良の両軍師を呼んだ。
漢王は、二人に聞いた。
「曹参、灌嬰までが引きずられて進むとは、どういうことだ!」
彼の声は、怒気に満ちていた。
陳平が、主君の怒る声に、恐れた様子で言上した。
「韓相国は、進んで楚を討つという名目を、総軍に掲げたのです。それは、漢軍の目的と合致しています。両将は、ゆえに韓相国に反対しなかったのでありましょう。」
陳平にとっては、予測された範囲内の、出来事であった。
韓信率いる漢軍は、歴(れき)の斉軍を破り、すでに斉都の臨淄(りんし)まで陥落させようとしていた。
斉王田廣は、相国田横もろともに、斉都から逃れた。
漢の使者酈生は、漢の違約を責める斉によって、烹(に)殺されてしまった。
陳平は、平伏しながら、心中でつぶやいた。
(― だが、これらのことは、全て事前に想定された範囲内だ。予想された、結果にすぎない。)
陳平は、怒る漢王をたしなめるつもりで、言上した。
「君命に背いた韓相国の罪は、重大です。しかし、かれが斉を平らげることは、漢にとって悪いことでは、ありません。この上は、相国を漢の手の内に留めておくことが、肝要です。彼の罪を許し、漢のために斉平定を、進めさせよ。」
陳平は、いまだに楽観的な見通しを、持っていた。
しかし、漢王は違った。
彼は、両軍師に言った。
「― 俺は、項王より先に、韓信を討ちたいぐらいだ。」
聞いた陳平は、肝を冷やした。
張良子房が、口を挟んだ。
「大王。」
漢王は、張良と目を合わせた。
兇悪な視線を向ける漢王に対して、張良は何も言わずに、目で否定し、首を横に振った。
漢王は、目の色を変えることもなく、ふん!と鼻を鳴らした。
彼は、言った。
「分かっているわい、、、今、奴を討っても、敵を増やすだけだ。」
漢王は、いま自分の命令を振り切って進んだ韓信が、巨大な存在となってしまうであろうことを、予感した。
(まさかあの阿哥(にいちゃん)に、俺の命令を破る、気概があったとはな、、、)
漢王は、彼が思ったよりも韓信が狗(いぬ)ではなかったことに、意外な感を持った。
だが、狗でないならば、厄介であった。虎となるかも、しれない。
「おい、小才子。」
漢王は、陳平に言った。
陳平は、声を掛けられて、ますます深く平伏した。
漢王は、彼に言った。
「首だけは、そのまま繋げ置いてやる。俺の天下取りのために、今後とも働け。」
陳平は、恐れてかしこまるばかりであった。
次に、漢王は張良に言った。
「、、、子房よ。」
張良は、声を掛けられて、かしこまった。
漢王は、聞いた。
「― これから、俺が為すべきことは?」
張良は、答えた。
「河を渡って、滎陽、成皋を取り戻し、項王に備えて広武山に移る。予定のとおりに、動きたまえ。韓信が斉を取った事実は、大王のために必ず有利に働きます。有利に働かせるためには、大王は項王と対峙するべき目的を、見失ってはなりません。」
漢王は、受け入れた。
「よいだろう。」
彼は、起ってしまった事態を、何としてでも自分の有利に、持って行かなければならないと思った。
彼は、独語した。
「役に立つ狗は、御し難い、、、」
そう言って、漢王は、舌を打ち鳴らした。
張良は、何も答えなかった。
漢王は、軍師たちを下がらせ、次に隴西都尉を呼んだ。
隴西都尉酈商が、御前に現れた。
斉で烹(に)殺された酈生は、彼の兄であった。
漢王は、声を掛けた。
「― 隴西都尉。」
酈商は、答えた。
「は。」
漢王は、言った。
「すまんことを、した。」
彼の兄は、漢王の策略によって、死んでしまったようなものであった。
策略の主が謝罪するのは、いかにも偽善であった。
だが、敵と死闘を続ける君主である以上は、策略の渦中で配下を死に追いやることも、致し方のないことであった。
酈商は、答えた。
「我が兄は、天下に殉じたのです。是非も、ありません。」
漢王は、聞いた。
「俺が、憎いか。それとも韓信が、憎いか。」
酈商は、答えた。
「広野君を殺したのは、田横です。彼を、怨まなければなりません。」
酈商は、漢王の事情を、よく見抜いていた。
漢王は、彼に聞いた。
「彼には、遺児がいたな。」
酈商は、答えた。
「まだ、年端もいきませんが、確かに。」
漢王は、言った。
「― いずれ、成長したら爵位をくれてやろう。」
そう言い残して、漢王は席を立った。
策略の多い彼であったが、このときだけは、彼は衷心から死んだ先生のために、言っていた。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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