«« ”二十五 四面楚歌(3)” | メインページ | ”二十六 垓下に歌う(2) ”»»


二十六 垓下に歌う(1)

(カテゴリ:垓下の章

夜半となって、垓下城の中で、にわかに火が灯った。

夜となってからこれまで、城内には何の動きも、観察することができなかった。だが、今、城内で最も目立つ高閣の最上階に、明々と灯が点けられたのが、包囲する軍から見ることができた。灯された建物の中では、いくつもの人の影が、動いていた。おそらく城中に残された者たちが、今あの高閣に、集まり始めているのであろう。
漢王は、城内の灯を確かめてから、中の動きを、じっと見守っていた。
彼は、言った。
「― 覚悟したか、項王。」
彼は、予感した。
これから、項王の最期が始まるだろう。
漢王は、城の四周から項王に向けて、彼から贈られた楚歌を、聞かせてやった。
天下の全てが漢王の手に落ちたことを、項王は知ったであろう。
漢王は、項王に勝った。
長い戦の、終わりであった。
「お前の方が、人間として俺よりもずっと格上だった。この世はつまらん奴が、長く生き残ってしまう、、、」
漢王は、長い息を吐いて、嘆じた。
彼の横に、夏候嬰がいた。
夏候嬰もまた、しみじみと嘆じて、言った。
「こんな時代は、もう二度とやって来ないでしょうな、、、」
漢王は、彼の言葉に対して、返した。
「来て、たまるか。この国の人間が、皆死んじまう。」
彼の言葉は、去り行く覇王に対する慨嘆を、もはや後に置き去ろうとしていた。
「、、、俺が、正しいのだ。」
漢王はそう言って、軽くふん、と鼻を鳴らした。
これから覇王となる彼は、敗者に対して、非情とならなければならない。
漢王たちが言葉を交わしていた、同じ頃。
韓信もまた、自分の陣営から、城の灯を眺めていた。
彼は、思った。
「― 漢王の言う通り、この楚歌は項王の心を、撃ったのか。」
攻城戦ならば、すでに終わっている。
城は完全に包囲されて、糧食は無く、後は速やかに落城するより道はない。
後は項王の、最期を待つばかりであった。
「項王は、すでに覚悟したであろう、、、だが。」
韓信は、思いを馳せた。
彼のことだ。きっと城内で、果てたりはしない。
撃って出て、切り結んで果てるか。
ならば、どれほどの勇姿を、死に際に見せるつもりなのか―?
韓信は、そのようなことを考えた後で、はっと我に返った。
「いかん、、、何を期待しているのか!」
韓信は、心中で項王の勇姿を思わず期待してしまったことを、あわてて戒めた。
「灌嬰、灌嬰に、伝えよ!」
彼は、軍吏に命じて、包囲する灌嬰に、伝えさせた。
「項王が、撃って出るぞ、、、備えろ!」
韓信は、包囲の兵に向けて、最大限の警戒を指令した。

城中の高楼では、一座の宴席が、張られていた。
城中に残った最後の酒食が集められて、全ての残った将兵に分け与えられた。
宴席は、ありったけの油が灯されて、一座は昼のように明るくなった。
「十分な楽隊が揃えられぬのが、残念だ― 外の歌に、負けてしまう。」
一座の中心に立った、項王が言った。
すでに、甲(よろい)を着けた、軍装であった。
彼の真の姿は、やはり戦場の装束に尽きる。
項王は、いま甲の上に、虞美人からかつて縫って贈られた、陽中の烏(からす)の袍(うちかけ)を、纏っていた。
焼かれても太陽の中を飛ばんとする聖鳥は、しょせん地上では生きられない。
項王は、神話上の聖鳥と同じように、地上から追放されようとしていた。
だが、彼は飛ぶ。
飛んで、飛んで、尽きるのだ。
項王の周囲には、最後に残った楚の将兵たちが、群がり集まっていた。
いとこの項荘も、最後に残った一人であった。
項荘は、項王に言った。
「音曲など、この場にどうして必要ありましょう。ただ、この座の者の人声があれば、それでよい。」
項氏の一族で、この場に残っているのは、彼ただ一人であった。
他の項氏一族の年長者たちは、季父(おじ)の項伯をはじめとして、全てが逃げ去ってしまった。
彼らは漢王の助命の約束に釣られて、覇王に殉じることを避けた。
情けない、大人たちであった。
だが、もう今は、何も言うまい。
項荘は、笑って項王に言った。
「何やら、外の歌までも、遠のいたように聞こえます。敵までも、大王を待っているようです。」
じじつ、包囲する諸侯軍の者たちは、皆がこれから城内で起こる成り行きを見守って、次第に注意を取られて行った。結果、歌う声は鎮まり、どんどん鎮まっていった。
項王もまた笑って、言った。
「もう大風の歌は、聞き飽きた。これから、新しい歌を聞かせようではないか。これは、私の歌だ― 垓下の、歌だ。」
項荘は、言った。
「大王。歌いたまえ。ここで、垓下の歌を示したまえ。我らのみならず、ここで攻防する、全ての者たちにも聞かせるために―!」
虞美人が、項王の脇にいた。
彼女は、吊るされた小さな一個の鐘(かね)の前に、座していた。
用意できた楽器は、これだけであった。
しかし、これで十分であった。
虞美人は、鐘を軽く叩いた。
澄んだ高い音が、しみ渡るように、響いた。
項王は、剣を抜いた。
「剣舞もまた、我流だ。私は、正式に学ばなかった。」
彼は、少年時代に、いまは亡き叔父の項梁から剣の作法を教えられて、嫌になって放り出したことを、思い出した。
あの頃から、彼は型に押し込められることが、嫌いであった。
だが項王に、型はいらない。
型など要らぬほどに、彼は前代未聞であった。
項王は、剣をかざして、すらりと円を描いた。
舞いながら、彼の垓下の歌を、歌い始めた。

          

各章アーカイブ

           
第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



終章~太平の章