一 策士の策(1)
漢二年、東西の戦線はしばらく膠着した。
漢二年、東西の戦線はしばらく膠着した。
黥布は、真の姓名を英布という。
項王の使者が、六に到着した。
九江王は、項王の使者を宮城で盛大に歓待した。
陳平らが滎陽に戻った後を追って、漢にとっての朗報が舞い込んだ。
酈生は西魏王に使いして、持ち前の弁論術で説きに説いた。
韓信は、関中に入って左丞相に任じられた。兵権と共に、自らの計画で物資を動員する権限が漢王より与えられたのであった。
陣営の動きは、一挙に慌しくなった。
西魏王の征討が、始まった。
漢軍の渡る河関の対岸には、韓信の得た情報のとおり西魏王軍が陣を張っていた。
夜は明けて、河水(黄河)の水は晨(あした)の空を映し始めた。
漢王から韓信に下された下命は、以下のごときであった。
河水(黄河)中流の地域は、古来より中州(ちゅうしゅう)または中原(ちゅうげん)と呼ばれている。
一人の群雄が、滎陽を守る漢王のもとに落ち延びて来た。
漢と盟約関係に入った黥布は、自領を取り戻すために動き始めた。
漢王は、滎陽の要塞の中ですこぶる上機嫌であった。
項王の雷鳴のごとき咆哮に打たれて、兵卒たちは声も発さず彼の命に応じて動いた。
項王は、待ち構えていた。
一つだけ、断っておかなければならない。
韓信は、張耳・張敖の父子を伴って素早く兵を起こした。
代軍を一蹴することに成功して、次の韓信の狙いは趙本国であった。
このころ趙王歇は、鉅鹿の南にある襄國(じょうこく)に都を置いていた。しかし、趙国の政治の権を握っているのは誰かと言えば、それはまぎれもなく陳餘であった。陳餘は歇を担ぎ挙げて張耳を趙より追い出し、歇を後の王に据え付けた。自らは代王を名乗りながら、趙王のもとに留まって国の行く末を一手に左右していたのである。
趙軍は、韓信を迎え撃つ体制に入った。
陣営に戻った李左車は、一人楽しまなかった。
井陘の隘路は、長くて狭い。
漢軍は、太行の山道を進みに進んだ。
夜半、漢軍の陣営から密かに出立の用意をする、一団の兵馬があった。
夜は、いまだ明けなかった。
朝の空気は、ますます明るさを増していった。間もなく、戦場に陽が射し始める。
怒涛のように押し寄せる趙軍の軍靴の下に、韓信の軍はひとたまりもなく踏みしだかれた。
一揉みに潰さんと気構えた趙軍であったが、戦況は陳餘の甘い予想通りにはいかなかった。
背水の陣を敷く漢軍は、あと一刻を持ち応えることが、果たして出来たかどうか。
韓信は、彼の配下からしきりに問われた。
韓信は、漢軍を率いて趙平定の仕上げに取り掛かった。
もと趙の広武君、李左車が韓信のもとに連れられて来た。
韓信が趙国に入ってから、しばらく経ったある日。
彼は、李左車を伴って趙の領内の視察に出かけた。
趙の戦は終わったが、中国の天下全てを見渡せば、その勝敗はいまだに定まることがない。
韓信は新たに趙王に昇った張耳を連れ立って、修武に向けて陣を動かした。
最近の韓信は、怪しい。
荀子、曰く。
修武での滞陣は、一月(ひとつき)を越えた。
黒燕は、韓信に言った。
ここまで、韓信について書いてきた。
張良は、漢王に言った。
滎陽を攻める、項王軍の陣営。
和睦の提案が付き返された漢軍は、いよいよ重大な局面に陥った。
やがて、項軍の中に奇っ怪な噂が、流れ始めた。
項王軍の、激烈な攻撃が始まった。
姦策などに、惑わされまいと、亜父は思った。
もう、亜父は前線に立つことは、できなかった。
亜父范増は去ったが、楚軍の滎陽城への攻撃は、いささかも衰えない。
今夜の作戦の内容は、以下のごとくであった。
日が落ちて、遠くの情景がよく見渡せなくなった頃に、滎陽城の東門が開いた。
河水(黄河)の南では、にわかに戦線が動き出した。
漢王は、関中に戻ったのもつかの間、再び兵を集めて繰り出した。
最近の戦線の動きは、河北の趙でも、当然のごとく話題となった。
夜。
韓信は、自室で独りであった。
漢王は、項王を侮っていたのであろうか。
兵という凶器を操って、戦という殺し合いの場で結果を出せるかどうかという、武将としての才能について、漢王は項王に遠く及ばなかった。
第一章 開巻の章
第二章 伏龍の章
第三章 皇帝の章
第四章 動乱の章
終章~太平の章
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