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六 虚実の攻防(3)

(カテゴリ:背水の章

漢王は、滎陽の要塞の中ですこぶる上機嫌であった。

今日も、鶏の炙(あぶ)り肉などを頬張りながら、陳平と話していた。
「― もう、勝ちは見えたな。」
糧秣にすら不足する項王軍に比して、漢軍の食は豊富であった。敖倉に貯えられている食は、あと三年戦い続けてもまだ足りる。すでに黥布は淮南で項王に叛き、彭越は項王軍の背後に出没して補給を断っている。楚漢の戦がこの滎陽での攻防に限定されているうちに、楚は疲れ果て、漢は勢力範囲を広げていった。
漢王は、骨の間に残った肉までしゃぶり尽くしながら、陳平に言った。
「あいつは、俺と決戦したがっているだろうな。だが、俺はもうあの子と関わるわけにはいかない。戦の時代は、終わるのさ。俺には、この国で地べたに生きている民の、声なき声が聞こえる、、、俺は、沛の農民の子だからな。」
漢王は、綺麗に食い終わった鶏の骨を、片手でぴんと弾いた。
陳平が、そつ無く上体をずらして、飛んで来た骨の直撃を避けた。
漢王は、陳平を笑った。
「俺には、夢など何もない。ただ、明日もまた食って寝て女を抱ける日が来ることだけを、考えて生きてきた。そうしているうちに、いつの間にか君主になってしまった。君主になった以上は、向かってくる敵を倒さないと明日に生きられない。それがまた、俺を大きくしてしまっただけだ、、、俺に組み敷かれるこの世の人間とは、じつに愚か者ばかりだよ。」
漢王の笑い声は、乾いていった。
陳平は、笑いもせずに漢王に言った。
「まだ、戦は終わっていません。項王は、まだ死んでおりませんよ。」
漢王は、わかったわかったと、軽くうなずいた。
「それでも、もうあいつには打つ手がない。なぜならばあいつに勝ち目があるとすれば、この俺を引きずり出して、首を刎ねること以外にありえないからだ、、、だが、俺はこの滎陽から出ることはない。」
伝奏役の郎(ろう)が現れて、漢王に謁見を願い出て来た臣の名前を告げた。
「おお、、、子房か。通せ通せ。」
やって来たのは、張良子房であった。
彼は、床から出るくらいに体調のましな日には、漢王と陳平のもとに赴くことができた。陳平は、重要な策を発案したときには張良に意見を聞きたがった。漢の陣中で陳平の策を適確に批評できる能力がある人物は、結局のところ張良しかいなかった。それで、彼が最近のように十日の間も顔を出せずにいると、陳平は不満で仕様がなかった。
張良は、漢王に拝礼した。
「この頃臓腑の具合がはかばかしくあらず、長らく謁見できずにいたことをご容赦ください。本日は体調も快方に転じたゆえ、最近の戦況に懸念を感じて、参上つかまつりました。」
彼の顔色で快方に向かっていると言うのならば、瀕死の病人は明日にでも野外で酒宴を楽しむことができるであろう。
漢王は、軍師を憐れんで言った。
「子房!、、、その体でお前が出向いて来るほどに、何の懸念があるというのか?」
張良は、言った。
「大王は、敵を侮っておられます。」
漢王は、軍師の言に眉をひそめた。
「侮る?、、、侮ってなど、おらぬわい。侮れない項羽だから、こうして動かずに奴が力尽きるのを待っているのだ。持久の策は、当っている。遠からず、戦は終わるのだ。」
張良は、首を振った。
「大王は、やはり侮っておられる。戦は、まだ終わりません。項王の力は、いささかも衰えておりません。大王は、韓信に命じて残余の国を全て亡ぼさせよ。やがて項王が力を盛り返したとしても、天下の状勢がもはや逆転できぬところまで、韓信を進めて戦わせるのです。」
張良の言葉に、今度は陳平が眉をひそめた。
(軍師と韓信は、ともに黄石公の下で学んだ学友、、、軍師は、彼のことをいまだに信頼しているのか?)
陳平は、韓信をこれ以上勝ち進ませることに反対であった。
(韓信は、黥布よりもずっと恐ろしい。あの男は、最も能力がある上に、まるで欲がない。奴は、利用しようという人間にとって、担ぎ上げるための絶好の対象になりうる。奴に漢から遠く離れた地で栄光を与えるのは、危険すぎる―)
陳平は、漢のために韓信の勝利なくして項王を倒さなければならないと、心中で踏んでいた。ゆえに陳平は、韓信の力を天下平定の一翼として用いるべきだという張良の主張だけは、受け容れることができなかった。
陳平は、張良に言った。
「軍師!韓信を進ませるには、及びますまい。この滎陽の前線で、項王はもはや打つ手を失っています。」
だが張良は、陳平に反論した。
「そうであろうか?、、、君がもっとも、あの男を侮っている。」
陳平は、声を高くした。
「軍師。そのような、言い方は―」
そのとき。
伝奏役の郎が、城外での異変をもたらして飛び込んで来た。
漢王たちは、急いで城外が見渡せる楼閣の上にまで、駆け付けた。
「あれは、、、?」
眼下の光景を見た一同は、不審がった。
項王の軍が、城下に展開していた。
だが、通常の攻勢とは、少し様子が異なっていた。
兵卒たちに囲まれて、数百人の男女の集団があった。
いずれも、武器も甲(よろい)も一切着けていない。全くの、平民であった。
項王は、騅に跨って兵卒を率いていた。銀色の毛の名馬にうち乗ったその勇姿は、遠くからでも完全に見分けることができた。
項王は、亜父范増から、一つの情報を聞いていた。
「漢軍の守りの固さは、これまでの彼らの水準をはるかに越えております。彼らに味方する防戦の工匠が、滎陽城の守りを司っていると判明しました。その者どもを崩せば、滎陽を陥とすことも可能となるでしょう。」
漢軍を守っているのは、鄧陵子の同士である墨家の工匠たちであった。
項王は、亜父の言葉を聞いて、策を立てた。
「奴らの、心を討つ―」
項王は、眼前の要塞を一睨みした。
それから、城内にまで聞こえる大音声で、兵卒たちに命じた。
「― 始めろ!」

          

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第一章 開巻の章


           
第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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