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二十八 いざ、示さん(1)

(カテゴリ:垓下の章

項王と彼の騎兵たちは、再び立ち上がった。

ここで、彼は残された騎兵を、半分に分けた。
その一方に対して、項王は告げた。
「すまぬが、彼女を守って、もう一度彭城に戻っておくれ。」
項王は、彼らに虞美人を託して、彼女と別れることに決めた。
騎兵たちは、項王との別れを惜しみながらも、主君の下命を確かに果たさんと、固く誓った。
項王は、虞美人に向き直って、彼女に言った。
「彭城は、お前の戻るべき所だ。やがて戦が終われば、あの城市もまた、復興することであろう。」
そう言って、彼女に明るく笑った。
「あなたと初めて彭城で会って以来、これまでずいぶん色々とやったからね。もう誰も、私たちのことは、忘れられないさ。」
虞美人もまた、今はもう、明るく笑ってみせた。
「ああ、忘れられない―」
項王は、彼女の肩を抱いて、言った。
「私が、忘れさせないよ―」
虞美人はそう言って、彼に強くうなずいた。
しばらく、二人は無言で、見つめあった。
やがて再び、夜が明ける。
陽が昇るまで、待つわけにはいかなった。
項王は、虞美人と、ここで別れることになった。
虞美人は、馬の背に丁重に乗せられて、騎兵の半分と共に、立ち去ろうとした。
項王と共にする側には、項荘を始めとして、江東の鉄騎の生き残りたちがいた。
項荘が、聞いた。
「これより、どちらへ行かれるか?」
項王は、天を仰いだ。
しばし、目を閉じた。
それから、彼は答えた。
「― 南へ。」
特に、理由などない。
あえて言えば、ここから南に向かう先の江東は、かつて彼の叔父の項梁と共に、挙兵した所であった。
項荘は、言った。
「南の、江東へ。進めば、烏江(うこう)の渡河点まで、辿り着きましょう。そこまで、駆け抜けますか?」
項王は、一笑した。
「よし、そうしよう。」
江東以来付き従ってきた彼の者どもと、覇業を始めた土地を再び目指すのも、またよし。
項王は、思い切った。
彼は、騅の馬腹を、一叩きした。
騅は、首を上げて叫び、力強く土を蹴った。
彼の愛馬もまた、いまだその気力を、衰えさせることがなかった。
項王は、配下に向けて、叫んだ。
「― 行くぞ!」
鉄騎どもが、応じた。
「― おおよ!」
勢いよく叫び合った一行は、一斉に馬を駆けさせた。
「、、、虞美人!、、、」
項王の、彼女に掛けた最後の言葉が、後ろに向けて響いた。
だが、馬の駆ける勢いは速く、その後は風に消されて、聞き取れなかった。
やがて、一行は、蒙塵の中に消えて行った。
残された一行もまた、直ちに立ち去ろうとした。
漢軍がやって来る前に、ここを離れなければならない。
虞美人は、馬の背に乗って揺られながら、つぶやいた。
「― 項羽。あなたは、永遠だよ!」
彼女は、その言葉を、何度も何度も、繰り返した。
涙が流れて、流れて、止まらなかった。

虞美人と別れた項王は、残された騎兵たちと共に、再び駆けた。
陰陵という土地のあたりで、一行は道に迷ってしまった。
項王は、道にあった一人の農夫に、聞いた。
「老人。烏江への道は、どちらだ?」
農夫は、黙って左の方角を、指した。
項王の一行は、農夫の指す側に伸びる道を、一路進んでいった。
農夫は、項王に道を教えた後、そのまま何もすることがなかった。
彼は、道の脇に腰を下ろした。
空を眺めて、変化する雲の形を見て、今日の一日を過ごそうと思った。
「また、雨が降るか―」
農夫は、再び彼方の空を覆いはじめた雲を見て、独語した。
「それとも、雪か、、、?」
日中は、過ぎ去っていった。
また、馬蹄の音が、遠くから聞こえて来た。
やがて近づくと、先ほどよりももっと大きな音になった。
現れたのは、項王を追いかける、騎兵の大集団であった。
灌嬰配下の騎将で、楊喜という者が、集団を指揮していた。
楊喜は、道の脇に座っている農夫を見掛けて、彼に問い掛けた。
「農夫。お前、項王を見掛けなかったか?見たか否か、答えろ!」
農夫は、言葉で答えなかった。
ただ、こくりこくりと、騎兵の将の質問に、うなずいた。
楊喜は、農夫を怒鳴りつけた。
「奴は、どの道を進んだのか?、、、正直に言え!」
農夫は、黙ってまた、左を指した。
楊喜は、左に続く道を見て、さらに聞いた。
「この道は、どこに続くのか?」
農夫は、ようやく口を開いて、ぽつりと言った。
「― 大澤に。そこで、行き止まり。」
楊喜は、農夫の言葉を聞いて、馬上から飛び上がるように喜んだ。
「よおし!大澤中で、奴を包囲できるぞ、、、進め!進めっ!」
彼に叱咤されて、騎兵の軍団は、音を鳴らして進んでいった。
農夫は、一人残された。
彼は、独りでつぶやいた。
「追う奴らと、追われる奴らが、空の雲の下で、一騒ぎか。騒ぐのは結構だが、我らのために、早く終わらせておくれよ―」
それから、何事もなかったかのように、自分の家へ戻っていった。

          

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第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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