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二十三 垓下へ(1)

(カテゴリ:垓下の章

項王は、この頃、率いる軍の糧食が尽きてしまったことを、知らされた。

「糧食、、、?」
彼は、軍吏の恐る恐るの報告に、首をかしげた。
彼は、これまで、前線でひたすら兵を叱咤して戦い続けることに、専念して来た。
兵馬を食わせる仕事などは、彼に従う者たちが、手配するべきことであった。項王は、自ら敵の前に進んで、敵を打ち砕く。それが、覇王の仕事というべきものであった。
だが、いま前線の彼の軍には、ついに食うべきものが、届かなくなってしまった。
「― なぜだ!」
項王は、知らぬ間に足を踏まれたかのような苛立ちを見せて、問い質した。
軍吏たちは、項王の怒りに、震えてひれ伏すばかりであった。
「我らは前線にいるため、しかとは分かりません。ですが、補給が届くべき各地の城市からの連絡が、ここ数日途絶えております。おそらく、敵の手に陥ちたものと、思われます、、、」
項王は、にわかに信じられなかった。
楚の現状について聞こうと、彼は季父(おじ)の項伯を探した。
「おじ上、おじ上、、、!」
彼は陣営を探し回ったが、項伯の姿は、とうとう見つからなかった。
項伯は、すでに項王の側から、逃げ出していた。
項王は、自分の軍と共に、前線に取り残されてしまった。
彼は、激しい怒りにうち震えたが、食が尽きたという事実を変えることはできない。もはや、漢王を攻める戦を、続けることができなかった。
翌日、項王は、食を求めて、総軍を退却させて行った。
やがて、判明した。
淮水両岸に攻め込んで来た斉軍に向けて差し向けた、項声、薛公、郯公(たんこう)の率いる軍は、敵将灌嬰のために、無残な敗北を喫した。項王は、軍を食わせるべき後背の土地を、失ってしまった。
食のない楚軍は、道々に残された城市を掠めながら、彷徨(さまよ)うより他はなかった。
民は、項王を恨み、兵卒は、疲れ果て、いかに項王の恐怖があったとしても、楚軍の解体を止めることが、難しくなった。
項王の軍は、退却の末に、ようやく霊壁(れいへき)の南にある城に、たどり着いた。
垓下城という、小さな城であった。
城の中にある糧食の貯えなどは、兵卒を食わせるためには、ほとんど足りない。ここに長く留まることなど、全く不可能であった。
項王は、打開する道を、渇望した。
ここから北に行けば、彭城の都がある。
彭城には、まだ彼のための軍と、糧食が残っているはずだ。
項王は、決意した。
「― 彭城に、向かおう!」
彭城は、彼のための都であった。
秦を亡ぼし、西楚覇王を号して以来、彼はここを都として来た。
彭城は、項王にとって、彼の見果てぬ夢を始めるべき、都であった。
「あの都に、戻るのだ。彭城から、もう一度私は、始めるのだ、、、!」
項王は、疲れ切った兵卒を叱咤して、進ませた。
覇王は、進む。
今日も、騅にうち跨(またが)って、全軍の先頭に立って、進んで行った。
彼の腕の中には、今日も虞美人が寄り添っていた。
項王は、虞美人に言った。
「私たちが初めて出会ったのも、彭城であった。以来、これまで、いろいろ楽しいことがあった。悲しいことは、今さら思い出したくない。私は夢を追い駆けて、追い駆けた果てに、倒れるのだ― それで、良いだろう?」
項王は、微笑んだ。
虞美人は、言った。
「倒れるなんて、言うことをやめなさい― まるで、覇王らしくない。」
項王は、うなずいた。
「お前の、言う通りだ。もうすぐ、私たちの都に戻る、、、彭城は、私とお前の、夢の都だ。」
項王の言葉に、虞美人は返した。
「、、、もう少し長く、夢を見たかった。」
項王は、不審な顔をした。
「虞美人。お前こそ、どうして弱気になる。もう少し長く、などと?」
虞美人は、項王にわずかに微笑んだ後、馬の進む方向を向いて、指差した。
「ご覧なさい、項羽。私たちの都が、燃えている―」
虞美人は、項王にわずかに微笑んだ。
それから、馬の進む方向を向いて、指差した。
視界の向こうに、赤々とした大火が、立ち上っていた。
「、、、!」
項王は、絶句した。
灌嬰の軍が、敗れた楚軍を追って、もうここまで至っていた。
灌嬰は、韓信の計に従って、彭城を火攻めにした。
焼き討ちされた都の将兵は、なすすべもなく散り散りに散って、散り果ててしまった。
彭城は、陥ちた。
かつて秦の咸陽を灰にした項王は、いま自分の都もまた焼け落ちて行く様子を、見ることとなった。。
もう項王は、彼の都に帰ることが、できない。
彼の彭城もまた、灰と化していく。
「燃える、、、」
項王は、乾いた空気にますます燃え盛る彭城の火炎を、眺めていた。
「燃え落ちて、行く。夢の都に、するべきであった。ここから、私は世界へ羽ばたいて行きたかった。だが、その都が、燃え落ちてしまう、、、!」
項王の目から、涙があふれ出た。
涙の雫が、腕の中の虞美人の掌に、落ちた。
「悲しいことは、どうして忘れられないんだろう。人は、悲しむために、生きているのではないはずなのに、、、」
虞美人は、泣き続ける項王を、ひたすらに慰めた。
騅が、命じたわけでもないのに、馬首を返した。
項王は、愛馬を駆って、一散にもと来た道を、引き返していった。
もう、彼に戻る場所は、失われてしまった。

          

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第二章 伏龍の章


           
第三章 皇帝の章


           
第四章 動乱の章


           
第五章 楚滅秦の章


           
第六章 死生の章


           
第七章 楚漢の章


           
第八章 背水の章


           
第九章 国士無双の章


           
第十章 垓下の章



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